人類の生活は、最初、狩猟と採集から始まりました。
やがて、狩りの場所が確保されるようになると、生活に一つのサイクルが生まれ、それは牧畜へと発展していきました。しかし、牧畜は広大な土地を必要とするため、集積した文化は発達しませんでした。
一方、採集文化でも、採集の場所が確保されるようになり、循環する生活ができるようになると、採集文化はやがて、栽培、そして稲作文化へと発展していきました。稲作文化は、狭い場所で成り立つので、集積した文化が成立しました。
稲作によって増加した生産力の中身は食料で、当時は食料による生存が人間の欲望の中心でした。
これが農業革命で、日本では弥生時代にこの農業の生産革命が始まりました。そして、これが、日本が国家として統合してゆく出発点になりました。
当時の動力は、水車、牛馬、人力、そして太陽エネルギーのようなものだけでしたから、生産力の増加には限界がありました。
ところが、ヨーロッパで動力としての水蒸気が利用されるようになると、内燃機関の発達と呼応して機械工業が発達していきました。
この機械工業によって大きく増加した生産力の中身は、衣料品などの消費財でした。つまり、この当時の人間の欲望は、食料を求めての生存の欲望から、便利で快適な生活を求めての生活の欲望に変わっていったのです。
この消費財への欲望が、更に、耐久消費財の欲望や生産財への欲望へと発展していきます。このころから人間の欲望の中身は、単なる便利さや快適さだけではなく、他人よりも優位に立ち、他人を支配することに変化していきました。そして、この欲望が、企業、国家、金融、軍事へと組織化されていったのが現代までの歴史です。
ところが、現在、エネルギーの分野でフリーエネルギー革命が起きようとしています。エネルギーがフリーで豊富に手に入るようになると、富によって他人を支配するという仕組みが無意味なものになってきます。
すると、そのあとに登場する人間の欲望は、生存でも便利でも快適でも優位でも支配でもなく、自分自身の向上になっていくと思います。自己向上という財産に対する生産力が飛躍的に増加する、これが今後予想される教育革命の中身です。
しかし、今はまだ、この教育革命と正反対の状況が見られます。例えば、細分化する個別指導、複雑化するメディア教材、そしてそれらを利用したテストの成績のための教育です。現代は、テストや学歴という外面的なものから、自己の向上という内面的なものへ人間の欲望が進化する一歩手前の時代なのです。
一方、このような人類の生産革命と並行して進んできたのが、人類の精神革命です。
直立歩行と道具の使用によって大脳を発達させた人類は、右脳の感覚を共有する時代から、左脳の言葉による伝達の時代へと進化していきました。言葉による伝達は、当初音声による伝達、つまり話す力聞く力が中心でしたが、やがて文字による伝達が生まれ、それが印刷の時代、学校と出版の時代へと進化していきました。そして、現代は、インターネットとブログの時代になり、文字による伝達、つまり読む力と書く力が求められる時代になっています。
この精神革命における最後の到達点で人間が求めているものは、もっと知りたい、そして考えたい、更に考えたことをみんなに伝えたいという欲望で、この精神革命の到達点が、生産革命における自己向上の欲望へと結びつこうとしているのが現代です。
現在は、教育における生産革命の萌芽状態にあり、新しい生産のためのツールが登場するのが待たれている時代なのだと思います。
言葉の森の教材作りを考えるとき、当面の受験に合格するための教材にももちろん力を入れていきますが、それ以上に、自己を向上させる教材ということを念頭に置いていきたいと思っています。
今回も、またかなり大きい話になってしまいましたが。(^^ゞ
子供の成長にとって、父親と母親の役割は、それぞれ違う形で重要です。
父親は主に躾を担当し、母親は主に愛情を担当します。もちろん、どちらにも両方の役割が必要ですが、敢えて役割を分担すればそのようになるということです。もちろん、逆の家庭もあるとは思いますが(笑)。
教室で、時々次のような子がいます。先生に何かを言われても、すぐに返事をしない。「これをして」と先生が言っても、平気で「いやだ」「やらない」などと言う。一度で言うことを聞かずに、何度か言われて初めて言うことを聞く。
いずれもかわいい子供たちですが、やっていることがにくたらしいのです(笑)。しかし、これらは、すべて子供たちの問題ではなく、家庭でこれまで子供たちがそういう態度をとっていても、親がそれをそのままにしてきたという問題なのです。
しかし、子供ですから直すのも簡単です。教室で一度厳しく注意すると、次からはちゃんとできるようになります。
子供と犬を比較するのは問題がありますが、吠えるなと言っても吠える犬、噛むなと言っても噛む犬、待てと言っても待たない犬、おいでと言っても来ない犬などは、もともとの犬の性質による面もありますが、大部分は人間の躾の仕方によるものです。
躾の最も決定的な場面は、褒めて直すところではなく、叱って直すところにあります。確かに、いつでも優しく褒めるというのも難しいことですが、もっと難しいのは、肝心なときに、しっかり短く厳しく叱るということです。
本当は、優しく褒めるだけでいい子に育てばいいのですが、人間の先祖はもともとサルですから(という理由は変かもしれませんが)、たまには叱らないと、やはりいい子にはならないのです。
肝心なときに叱ることができれば、普段は、子供も親も楽しい関係を保つことができます。しかし、それが、多くの家庭では、逆になっています。つまり、肝心なところで叱っていないから、いつも小言を言うような接し方をして、子供も親も一緒にいるとくたびれるということになるのです。
肝心なときに叱っていない最大の理由は、主に父親が叱りなれていないということにあると思います。そして、父親が叱りなれていない原因は、それまでに子供を叱る経験があまりなかったことによるものです。
では、叱る経験を増やすためにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには、まず小学校低学年のころから、家庭での絶対に守るルールを一つ決めておくことです。例えば、朝起きたらあいさつをする、玄関の靴をそろえて脱ぐ、席を立ったらイスをしまう、家の仕事を手伝うなどです。実行しやすいものをどれかひとつ決めておき、そのことに関してだけは絶対に妥協せず厳しく守るということにします。
ただし、これは、両親がともに実行できるものでないと徹底しません。お母さんが子供に、「玄関の靴をそろえるのよ」と言っても、お父さんが平気で脱ぎ散らかしていては子供に徹底できません。子供は、何回か叱ればできるようになりますが、大人は何回注意しても直りません。それは互いに人生の価値観が違うのですから仕方ないとあきらめて、両親がともに無理なく実行できるルールを家庭でのルールとして決めておくことです。
そして、家庭でこのようにルールを決めておき、子供がそれを実行できていないときに厳しく叱るようにします。そのときに厳しく叱る役割は、やはり父親の方が向いています。そのときに、母親は、「そんな強く叱らなくても」などとは言わないことです。これは、叱り叱られる練習をしていることだからです。そのかわり、母親はあとで優しくフォローしてあげればいいのです。間違っても、父親が子供を叱っているときに、母親も一緒になって子供を叱らないことです。
このように、家庭の中で、やれば当然できるというルールを決め、できていないときは厳しく叱るということにして、それを年齢に応じて少しずつ変えていきます。
よく中学生や高校生で、母親に乱暴な言葉づかいをする子がいると思います。例えば、母親が何か注意すると、「うるせえなあ。わかったよ」などと言う子です。いるでしょ(笑)。そういうときは、即座に間髪入れずに、「何だ。その言い方は! ちゃんと言い直せ」と叱らなければなりません。
そういう叱り方ができないとしたら、それは、小学校のころから親が厳しく注意をしたことがあまりなかったからです。しかし、小学校のころに厳しく叱って育てていない子に、中学生になって厳しく叱るというのはまずできません。叱り方も、親が試行錯誤の中で少しずつ身につけていくものだからです。
ところで、「厳しく叱る」というと、多くの人は「かわいそう」という感じを持つと思いますが、そういう叱り方ではありません。厳しく叱っている最中でも、親は心の中では全然怒っているわけではありません。だから、叱ったすぐあとに、さらりと冗談を言って笑わせるようなこともときどきするといいのです。
そういう厳しいが明るい叱り方をするというのも、やはり試行錯誤の積み重ねの中でできるようになることだと思います。