先日、でき太くんの算数クラブの人が教室に来て、いろいろ話を聞かせてくれました。(以下わかりやすく、でき太くん)
http://www.dekita.co.jp/
私は、学習塾の関係の人とはこれまであまり知り合いがなく、塾での勉強の実際の姿というものを知らなかったので、とても参考になりました。
でき太くんの話を聞くと、言葉の森がこれまで作文の学習で行ってきたことと理念的な共通点がきわめて多くあり、正直驚きました。
いちばん納得したのは、「教え込まない教育」ということです。
でき太くんの話では、これまでの教育は、先生や親が教えることで、子供が自ら学ぶ力を阻害していたということでした。
ふりかえってみると、私自身も子供のころから人に教わることが嫌いで、自学自習で自分のペースで勉強していくのが好きでした。
自分の子供が小学生のときも、算数などで子供から何かを聞かれたら教えるが、できるだけ教え込まないようにしていました。教えるということはおもしろいことですが、教えられるということはつまらないことだとわかっていたからです。
教えないということは、この場合、長い時間をかけては教えないということです。子供に聞かれたことに対してできるだけ簡単に説明すると、子供はその場ではわかったような気がします。しかし、またすぐ同じことがわからなくなり聞いてきます。そこで、またできるだけ簡単に説明します。その際、「さっき教えたばかりだろう」などということは決して言いません。何度でも同じことを同じように明るく簡単に説明しました。
自分自身が、一度で聞いて理解するタイプではなく、何度も聞いて次第に理解するというタイプだったので、子供もそうだろうと思っていたのです。そのかわり、難しいことでも、易しいことと同じように回数さえ繰り返せば誰でも理解できると思っていました。しかし、これはある意味で、生物すべてに共通する学び方の原理なのかもしれません。
機械は、一度教えればすぐにその動作を正確に行います。だから、柔軟性もないし創造性もありません。人間を含めた生物は、一度教えてもすぐに忘れます。何度も何度も教えられる中で、次第にその動作がその教えられた回数のウェイト付けを伴いながら蓄積されていきます。
つまり、あらゆることをすべて同じように正確に理解するのではなく、あるものごとはすぐに忘れ、あるものごとはアバウトに理解し、あるものごとは正確に理解する、という理解の仕方に濃さの違いがあるのです。
もし、人間がすべての物事を機械と同じように一度で即座に理解するようになると、その人は社会生活をうまく送れない可能性があります。勉強のよくできる子には、実は、多かれ少なかれそういう傾向があります。何でも同じような一律の重要性で正確に理解して行動するので、悪いことをしているわけではないのに、なぜか周囲とぎくしゃくしてしまうことがあります。だから、勉強はほどほどにできないぐらいがちょうどいいのです。いいのか(笑)。
さて、私の子供が中学生のときの勉強法も同じで、子供は塾に行かず自宅で勉強をしていましたが、その勉強法は、本人が自分で数学の問題集を解き、自分で答え合せをして、間違えたものについては自分で解法を読んで理解して、解法を見てもわからないものだけ私に聞くというものでした。ところが、父親である私も、聞かれて即答できるわけではありませんから、解法を見ながら一緒に考えるというやり方でした。しかし、解法がくわしく書かれている問題集であれば子供が自分で理解できるので、教える人というのはほとんど必要ないと思いました。
算数・数学の勉強というのは、特に、先生が生徒に教えたがる勉強です。しかし、それを先生が教えるのではなく、子供が自力で学べるようにしたのが、でき太くんの教材の優れた点だと思います。このやり方であれば、楽しく自主的に勉強してしかも実力がつく、ということがよくわかりました。
今の教育は、教える教育なので、子供にとってはおもしろくありません。私も、子供のころ、学校でイスにすわって先生の話を聞くだけの勉強が嫌でたまらなかったのでよくわかります。小学校高学年のころの教科書は、挿し絵や図表のあるところには全ページ落書きを書いていました。落書きだけが、授業で唯一楽しいことだったのです。真似しないでね。
人間は、自分で学ぶことがいちばん楽しく、人に教えてもらうことがいちばんつまらないことなのだと思います。これは日常生活の会話でも同じで、楽しいのは自分が話すことで、つまらないのは人の話を聞くことです。カラオケでも同じです。人の歌を聴くのが好きというのは、ただ歌の下手な人だけです。私は、下手でも歌う方が好きですが(笑)。
しかし、そこで、人の話を聞いたり人の歌を聴いたりするのが好きという人は、実はかなり人間的にできた人です。子供は、そんなにできているわけではありませんから、先生の話を聞いて何かを教わるよりも、私語で喋っている方が楽しいのです。しかし、いちばん楽しいのは、自分自身で学んでいるときです。
ところが、ほとんどの学校や塾で行われているのは、このつまらない教えられる勉強で、それをテストや競争や賞罰によって煽るという勉強法です。その結果、現在の日本では、学習塾が盛んになればなるほど、子供の全体的な学力が低下するという現象が起きているのです。
でき太くんのような明確な教育の理念と方法を持った教室が増えると、これからの日本は、大きく変わると思いました。
でき太くんの教材を見させてもらうことによって、算数・数学と国語・作文の勉強の違いと共通点もよくわかりました。このことは、また別の機会に書きたいと思います。
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昨日届いた「言葉の森新聞」に「でき太くんの算数クラブ」に関する記事を見つけて驚きました。子供にも見せましたところ、「どうして言葉の森にでき太先生が…?」と不思議そうにしていました。
現在小5の娘は1年生から言葉の森にお世話になっていますが、もうひとつ「でき太くんの算数クラブ」も同じ期間受講しています。二つの通信教育には、なんとなくですが似たような理念を感じていたものですから、今回の記事を拝見してうれしく思います。
3年生のころは作文を重荷に感じていた時もあったようですが、毎回ほめて下さる先生や、無理せず長い目で見て下さるシステムのおかげで、ほとんどお休みせずに続けてこられています。豊富な読書量や暗唱能力、すぐに手を動かして(最近はキーボードですが)書き始められる表現力などは、この先も大きな財産になってくれると感じています。たとえ中身が大した作品ではなくとも(笑)、続けていくうちにゆっくり成長すると信じてこれからも見守っていきたいと思います。
> おそさ母様
コメントありがとうございます。
そうだったのですか。それは偶然というか何というか、不思議なめぐり合わせでしたね(笑)。
早速、でき太くんの先生にもお知らせしておきます。
でき太くんの教材は、とてもよく考えられているので、言葉の森も教材ももっと使いやすいものに工夫したいと思っています。
小5のお子さんに、これからもがんばってね、とよろしくお伝えください。ヽ(`▽´)/
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私は、自分のブログではあまり長い文章は書かずに、ほとんど四行詩という形式で書いています。なぜかというと、長く書くのが面倒なのと、読む人がいた場合もやはり長い文章を読むのは面倒だと思うからです。
しかし、子供たちの作文の場合、文章の実力という点では、字数の長さと内容のよさとの間には高い相関があります。
受験作文で、短時間に長く書くことを要求されることが多いのは、短い時間で長く書ける子には、上手な子が多いからです。もちろん、上手な子がすべて長く書くわけではありませんが、全体の傾向で言うと長さと上手は関連があります。
短時間で長く書く子が上手だというのは、だれでも漠然と感じていることのようで、小学校低学年の子に一斉に作文を書かせると、字数の競争になることがあります。そして、「○○ちゃんは○枚書いたんだって。すごいね」などということが子供たちの間で話題になります。ところが、字数がとびぬけて長い子の中には、「、」や「。」もなく、ひらがなばかりという子もかなりいます(笑)。
小学生だけでなく、大人になっても、長く書くことがいいことだと思っている人がいます。しかし、文章は、人に読んでもらい理解してもらうことが大事なのであって、時間をかけて長く書くことが大事なのではありません。
では、理解されやすい文章を短く簡潔に書くには、どうしたらいいのでしょうか。
一つは、ぶっつけ本番で考えながら書くのではなく、全体の構成を念頭に入れてから書くということです。長い文章を書く場合は、構成図で考えを整理してから書くということも必要になるでしょう。
もう一つは、やはり大人の文章では、読み手にわかる範囲でできるだけ簡潔に書くことが大事だと常に考えておくことです。
「葉隠」に、「武士は、十言で言うことを一言で済ませるものだ」という内容の言葉があります。短く簡潔に書くというのは、日本文化の美学でもあるのです。
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世界に新しい病気が登場すると、免疫がないので、急速に悪化し広範に広がる場合があります。しかし、やがて自然に免疫ができて、同じ病原菌やウィルスに接しても、症状が軽く済みあまり広がらないようになります。これは、人間や生物が自然に備えている力です。
口蹄疫なども、ほうっておけば自然に収束したと言われています。牛が家畜として飼われるようになる以前にも口蹄疫は何度も発生したはずですが、それで牛が地上から全滅したわけではないからです。その前に、牛を食べるというようなかわいそうなことをやめる方がいいかもしれませんが。とは言っても、先日、私もバーベキューパーティーをしましたが。
インフルエンザも、人工的なワクチンには、不純物が含まれていたり、免疫が短期間しかもたなかったり、そのわりには高額であったりするなど多くのマイナス面があります。人間が自分の力で自然に獲得した免疫には、副作用もなく、無料で、しかも一生もつという長所があります。
だから、ワクチンによる免疫の方が有効だと歴史的に確認された、結核、ポリオ、狂犬病のようなもの以外の、最近の鳥インフルエンザや子宮頸がんなどのワクチンについては、できるだけ見合わせた方がいいのです。それは、まだわからない副作用が必ずあるだろうからです。
さて、目を子供たちをめぐる社会に転じてみると、新しい娯楽が登場すると、急速に広がる場合があります。例えば、テレビ、ゲーム、インターネット、ケータイなどです。病気の場合は、病原菌やウィルスに対する免疫ですが、この場合は娯楽の魅力に対する免疫がないということです。
この新しく登場した娯楽に対する対策として、禁止ということも考えられます。例えば、現在いろいろな麻薬が禁止されているのは、たとえ麻薬の魅力に対する免疫ができたとしても、そこにいたるまでの害の方が大きいと思われているからです。同じように、子供が小さいときは、テレビやゲームには触れさせないというのもひとつの対策です。
しかし、いちばんいいのは、免疫を早く作れるようにコントロールしながら接するということです。禁止というのは無理があるので、必ずどこかで破綻します。インターネットのアクセス制限なども、技術的には簡単にできるように見えますが、そのうちに制限するための時間やコストの方が大きくなって結局徹底できなくなります。
といっても、すぐにそううまくコントロールできるようになるわけではありません。大人でも、つい食べすぎたり、飲みすぎたり、娯楽にこりすぎたり、誘惑に負けたりして、自分の弱さに後悔するというのは年中あることです。私もです(笑)。まして、子供はそうです。
しかし、そういう後悔を経て、人間は初めて少しずつ自分の弱さをコントロールできるようになります。それが精神の免疫です。
ここで大事なことは三つあります。
第一は、ルールを決めることです。時間や場所という外的な条件を決めることによって、コントロールしやすくするということです。
第二は、そのルールで決めた範囲では、心から楽しむようにすることです。しぶしぶ認めたり、遠慮しながらやらせたりするのではなく、心から満足できるように取り組ませるということです。
第三は、よりよい人生を送るという観点から、折に触れて日常生活をふりかえることです。それは、子供と人生について話をすることです。しかし、それは親が子供に言い聞かせるようなものではなく、子供としみじみ、しかし明るく語り合うという感じのものです。人間の精神に免疫を作るには、この真摯(しんし)に話し合うということがいちばん大事なことのように思います。
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先日、「構成図が書けない」と、小学校3年生の子のお母さんから相談がありました。構成図が書けないので、作文が負担になっているかもしれないというのです。
作文の勉強は楽しく書くのが最優先なので、こういう場合は構成図を書かなくてかまいません。しかし、それは次善の策です。いちばんいいのは、楽しく構成図を書けるようにすることです。
構成図は、書ける子と書けない子がある程度分かれる傾向にあります。書ける子はすぐに書けるし、書けない子はなかなか書けません。
それは、主に考え方の違いによるものです。構成図という名前から、作文の設計図を書くつもりで真面目に考えると、筆がなかなか進みません。
そうではなく、思いついたことをただ列挙するつもりで書いていきます。だから、作文の中身と関係があまりないと思われることもどんどん書いてきます。
何しろあまり止まらずに書いていき、もし書くことに詰まったら、これまで書いた別のところから枝を伸ばして書いていきます。
関係なさそうなこともどんどん書くというのは、言い換えると、テーマとは直接結びつかないかもしれない似た話も書いていいということです。
課題フォルダの10.1週にヒントの絵がかいてありますが、これだけではわかりにくい場合は、お母さんやお父さんが手ほどきをしてあげるといいと思います。
子供が、「構成図がなかなか書けない」と言ったときは、お母さんが横にすわり、構成図を一緒に埋めていきます。その場合、できるだけ気軽に、よい意味でいい加減に書いていくことが大事です。その方が、子供も気楽に書けるようになるからです。
親が子供のころ自分でやったことのないものは、どうしてもアドバイスが観念的になりがちです。ですから、構成図を書く練習は、最初はお母さんやお父さんの練習も兼ねて一緒にやっていくといいのです。
このようにして2、3回一緒に書くと、大体の子は書き方の容量がわかり、自分で書いていけるようになります。
下記のページに、構成図の書き方の例が書いてありますので、参考にしてください。
https://www.mori7.com/as/974.html
なお、構成図が考えを深めることに役立つのは、主として作文のジャンルが説明文や意見文になったときです。小学校4年生までの事実中心の生活作文では、構成図を書くことに特に大きな意義があるのではなく、高学年になったときの準備としてやっているという位置づけです。
しかし、小学校3、4年生でも、作文の字数がなかなかはかどらない場合、構成図を埋める練習をすることによって、作文がより楽に長く書けるようになります。
構成図は、気軽に書くことが大事です。なかなか書けない場合は、周りからあまり、「ああせい、こうせい」ということは言わずに、お母さんが一緒に手伝って実際に書いてみるということでやっていってください。
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前回、「競争を超えて」というタイトルで書きました。では、競争に代わるものは何でしょうか。それは、心をこめることだと思います。
子供の教育で、競争や賞罰に頼るのは子育ての下手な人です。競争や賞罰を全くなくすことはできませんが、その割合を極力少なくしていかなければなりません。
人間は、アメとムチで簡単に動かせるものではありません。そして、人間の意識はここ十数年の間にますます進化しています。競争や賞罰は、次第に効果が出なくなっているのです。
人間がアメとムチの使い分けで動くと思う親や先生は、自分自身が同じようにアメとムチで動くかどうか考えてみればわかると思います。そういうレベルの低いコントロールには、従う人がどんどん少なくなっているのです。
これは、人間どうしの関係だけでなく、国と国との関係でも言えます。昔は、武力と経済力で他国を支配することができました。これからは、急速にそういうことができなくなっています。
では、競争や賞罰に代わって何が大事になっているかというと、それは心です。子供の教育に関して言うと、子供をコントロールする力は、強力なムチでも魅力あるアメでもなく、親や先生の心からの○○なのです。この○○の中に、賞賛、信頼、叱責などいろいろな言葉を入れることができますが、要するに、心から子供に接するということです。
褒める場合でも、言葉の上だけで褒めるのではなく、また賞をつけて褒めるのでもなく、心から褒めるということです。叱る場合でも、口先だけで叱るのではなく、また「○○をしないと□□をさせない」というような罰を与えて叱るのでもなく、心から叱ることです。
先日、小学校高学年の男の子のお母さんから相談の電話がありました。その子供自身は作文がよく書ける子ですが、ときどき母と子の間でいざこざがあるようです。そのときの相談の内容は、「作文をなかなか書き出さない」「作文を書かないと、好きなサッカーをやめさせると言っているが言うことを聞かない」「子供は、もっといい賞品が出ないとやる気にならないなどと屁理屈を言っている」ということでした。もう、そのままです(笑)。
親が口先で子供をやる気にさせるつもりで、「○○しないと□□させない」「○○したら□□させてあげる」などと言うので、子供はかえって、親のその見えすいたコントロールに反発してしまうのです。もちろん、子供自身はそういうことを自覚していません。しかし、敏感な子はそれを感じてしまうのです。
子供が親と同じような低いレベルに反応する子であれば、うまくいくかもしれません。ところが、子供の方が親よりも純粋なので、親に反発してしまうのです。だから、これは子供の問題ではなく親の問題です。
では、親は何をしたらいいのでしょうか。それは、親自身が自己を向上させることです。
親が、自分は多忙や疲労を理由に安逸な生活を送り、子供にだけ勉強をさせようとするから、アメとムチという発想しか出てこないのです。親がまず自分の人生をしっかり生きることが大事で、そこで初めて子供に対しても、心からの言葉をかけることができるようになるのです。
では、親が自己を向上させるというのは、どうしたらできるのでしょうか。人生の目標は人によって違うので、一概に言うことはできませんが、共通するのは読書をすることだと思います。子供と同じになってしまいましたが(笑)。
要するに、働くでも、学ぶでも、遊ぶでも、親が気迫のある生き方をしていれば、言う言葉にも自然に心がこもり、子供も自然に親の言うことを聞くようになるのです。
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競争が楽しいときもあります。私(森川林)が高校生のころ、中間テストや期末テストがあると、教科ごとに成績順位の上位10名ぐらいの名前があちこちの廊下に張り出されました。
みんなで、それを見ながら、「やっぱり○○はすごいな」「あ、おまえも○位じゃん」などと楽しく話していました。それは、競争というぎらぎらしたものでは全然なく、楽しい日常会話の延長で、ときどき発表される面白い話題という感じでした。
競争が楽しいというのは、こういうコミュニケーションを通して競争をしている場合です。抽象的な順位や偏差値だけで、「次は○位を目指すぞ」というようなことに、人間はあまり魅力を感じないのだと思います。成績や順位は、事後的に自分をチェックするには役立ちますが、それが事前の目標になることはあまりないのです。
しかし、年齢的に競争に燃えやすい時期はあるようです。小学5年生から中学2年生のころは、なぜか人と競うということに強い関心を持つ時期のようです。しかし、中学3年生以降になると、勉強の動機は、競争や賞罰のようなものから、自分自身の向上へと移っていきます。勉強は自分のためにやるものであって、自分で納得できるということが大事だとだれでも自然に思ってくるのです。それが、人間の本来の姿だと思います。
けれども、そういう自然な意欲を勉強に対して持つためには、小学4年生までの低中学年の時期に、競争意識を煽らないことが大切です。子供が、他人との競争で意欲を持ちそうになったときは、親は逆にそれを抑えるぐらいにした方がいいのです。
競争と似ているものに、賞罰があります。この賞罰も、一見子供の意欲を掻き立てるもののように見えます。よく、点数がよかったら、何ポイントがたまって、それが賞品になるという仕組みがあります。言葉の森の賞品システムも、このような形ですが、実は、こういう賞をあまり勉強の目標にしない方がいいのです。
賞を意欲の源泉にしようとすると、子供の意識の中に、賞に結びつかないものはやらなくてもいいという感覚が出てきます。勉強というものは、自己の向上と社会の貢献のために行うものですが、それが、自分が得をするかどいうかという狭い基準で考えるようになってしまうのです。
今の社会は、競争や賞罰がどうしても前面に出てきがちです。それは、大人の社会自体がそういう仕組みになっているからです。しかし、それは人間の精神的なレベルが低い過去の時代の仕組みです。未来の社会に生きる子供たちは、競争や賞罰ではなく、もっと大きなものに向かって勉強する気持ちを育てていく必要があるのです。
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古い勉強法と新しい勉強法のいちばんの違いは、意欲の持たせ方にあります。
言葉の森では、子供たちが、自分の書いた作文がどういう位置にあるのかわかるようにするため、字数のグラフや、森リンの点数を表示しています。作文とは、先生の主観的な評価になる面が強いので、できるだけ客観的な指標も作るようにして、勉強の目標にしているのです。
しかし、これは、競争を煽るためにしているのではありません。今の社会では、競争を煽るような形で励ますと、子供たちは、かなり燃えます。しかし、これは、その場の一時的なゲームのようなもので、コンスタントに競争で意欲を掻き立たせることはできません。
ところが、子供が競争に意欲を持つと、親はついその路線で更に競争させようとしてしまうことがあるのです。
競争が常に勝ち続けるものであれば、競争による意欲というものもある程度は続くかもしれません。しかし、競争はもともと相手がいるものです。相手も自分と同じように努力する人間であるのに、自分だけが毎回勝ち続けて、相手が負け続けるということはありません。競争の場では、互いに勝ったり負けたりしながら進んでいくのが普通です。
この競争で勝ったり負けたりすることが、互いのコミュニケーションを深めるものであれば、それは子供たちの意欲に結びつきます。しかし、それは競争による意欲というよりも、触れ合いの喜びによる意欲のようなものです。
競争で勝つことや競争で負けないことを意欲の源泉にしようとすると、破綻が来るのは早いのです。
以前、森リン大賞で上位になった小学校中学年の子が、すごくやる気を出して、次はもっと上位を目指すとがんばったことがあります。ここで、本当は親が止めないといけないのです。「上位になったのはすごいけど、別に人に勝つのがえらいんじゃないんだから、自分らしくしっかり書いていればいいんだよ」と言ってあげることが大切なのです。
ところが、子供が競争に意欲をもって取り組もうとすると、親はつい、「よし、じゃあ、次はもっと上位を目指してがんばろう」と合わせてしまいがちです。この場合も、親が子供をがんばらせたのはいいのですが、競争の場というものは、みんなも同じようにがんばっているので、自分だけ毎月順位が上がっていくなどということはありえません。結局、その子は、順位がなかなか上がらないことから、かえってやる気を失ってしまったのです。
競争は、人間にとって真の喜びではありません。競争が持続的な喜びになるのは、その競争に友達との楽しい触れ合いという要素があるときです。
小学生の子供たちが作文を書くときに、意欲に結びつくのは競争による刺激ではなく、身近な人の関心です。お父さんやお母さんが、その子の作文を読んであげ、その作文のいいところをできるだけ見つけて声をかけてあげることが最も確実で持続する意欲になります。
競争ではなく、触れ合いや関心というものが、新しい勉強法の一つの大きな要素になっているのです。
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日曜日に、天野敦之(あまのあつし)さんの
「宇宙とつながる働き方 経済を回復させるたった一つの方法」を読みました。天野さんは、一橋大学を出て証券会社などに勤務したあと、現在公認会計士事務所を開いている人です。
この本に書かれていることは、これからは個人の利益追求ではなく、全体とのつながりを取り戻すことが大切だということでした。私はこの本を読んで、経営の最先端で仕事をしてい人からこういう提言がなされる時代になったのだと、世の中の流れの大きな変化のようなものを感じました。
ちょうど、同じ日に読んだ本が、佐藤優(さとうまさる)さんの
「日本国家の神髄」でした。これは、戦前に出ていた「国体の大義」を、佐藤さんの考えを盛り込みながら解説した本です。この本に書かれていることは、日本文化の伝統の最も根本にあるのは、欧米の孤立した個人主義とは正反対のものだということでした。
現代の経営書と戦前の思想書が、不思議にも共通した問題意識で書かれていたのです。(こういう発見があるのが
「パラレル読書」のいいところです。)
現在の日本社会のさまざまな制度を形作っているものは、ばらばらの個人の対立する利害を調整するという欧米文化を反映したものです。日本には、もともと社会全体をひとつの家族のように見なし、互いの思いやりと察し合いで社会を運営しているという伝統がありました。これからは、そういう日本のよさを再構築する時代なのだと思います。
さて、現在の教育も、欧米流の孤立した個人という考えに立脚したものとして運営されています。その表れが、競争に勝つための勉強、点数を上げるための勉強、報酬を得るための勉強という考え方です。この考え方に基づいて子供たちに意欲を持たせようとするのが古い勉強法です。
新しい勉強法は、次のような考え方に基づいています。競争に勝つためではなく社会に貢献するための勉強、点数を上げるためではなく自己を向上させるための勉強、報酬を得るためではなく創造を楽しむための勉強です。
そして、この新しい勉強法が最も求められているのが作文の勉強なのだと思います。
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