森リンの利点は、一つには作文の進歩というわかりにくいものを数値化したことです。
もう一つは、高速大量に作文の採点ができるようになったことです。
例えば、1000人の生徒の1200字程度の作文の採点を頼まれたとします。もしこれを人間が行うとすれば、1人の作文を2分で読むとしても30時間以上かかります。しかも、それらの作文に点数をつけるとなると、読んでいるうちに点数が甘くなったり辛くなったりしてきます。
更に、この採点を複数の人間が分担するとなると、甘い採点の人と辛い採点の人との差がでてきます。それらを調整して一応客観的な点数を出したとしても、同じ作文を同じように別の日に採点すれば、また違った点数が出てくるはずです。
ところが、森リンで採点を行えば、ゆっくり採点しても1人の採点にかかる時間は数秒です。文字どおりあっという間に採点が終了します。採点の妥当性を見るために、人間があとからその作文を読んで作品と森リンの点数の対応をチェックしてもいいと思います。
これがどういうところで役に立つかというと、学校教育の中で作文の時間を大幅に増やすことができるということです。
現在の作文教育の最大の問題は、書く機会がないことです。森リンで採点をすれば、中学生、高校生でも毎日1時間作文を書くというような授業が可能になります。
よく、字の間違いや書き方のおかしいところも自動採点ソフトでチェックしてくれるのかという質問があります。
実は、アメリカのソフトはその方向に進んでいるようです。それは、アメリカが多数の移民を前提にして、最低限の英語力の底上げを図ることを教育の主な目的としているからです。
森リンにも、そういう間違いチェックの機能を取り入れることはできますが、それは教育の本来のあり方ではありません。
正しい表記は、優れた文章を、暗唱や暗写などの方法で徹底して読むことによって身につけるというのが本道です。
そういう教育本来の仕事をしないまま、ただ間違い探しのテストをして点数をつけ、肝心の勉強の中身は個人の努力に任せるというスタイルが今の教育にはあると思います。
森リンは、下手な作文のどこが下手かという評価をするために作ったのではなくありません。そういうやり方であれば、中学生や高校生や大学生を何年間も継続して指導することはできません。間違いを直すというような指導ではレベルが低すぎるので、みんながすぐに退屈するようになるからです。
森リンは、下手な作文の下手なところを見つけるためではなく、うまい作文をよりうまくするためにどうしたらいいかというもっと前向きな評価のために作ったのです。(つづく)
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森リンの開発の動機は、作文に対する客観的な評価を行いたいということでした。
現在の言葉の森の指導でも、項目指導という客観的な評価のできる勉強の仕方を中心にしています。しかし、項目指導では、表現の形を中心とした評価になり、中身についての評価まではできません。
例えば、「たとえ」という項目でも、個性的なたとえを使える子と、ありきたりのたとえしか使えない子がいます。「怒った」だったら、「鬼のように怒った」、「寒かった」だったら、「南極のように寒かった」という表現です。それはそれでいいのですが、やはり少し物足りない感じがします。
個性的なたとえを使える子は、たとえ以外のほかの文章も、自分なりに考えた表現を使って書きます。ありきたりのたとえしか書かない子は、たとえ以外のほかの文章も、やはりありきたりの表現になることが多いのです。
そして、個性的な表現を使う子は、内容も個性的であり、平凡な表現を使う子は、内容も平凡なものになりがちです。遠足に行った話でも、「遠足に行きました。とても楽しかったです。また行きたいと思いました。」というような表現が次々と出てくる作文です。これももちろん全く書けないよりははるかにいいのですが、やはり物足りない感じがします。
ところが、小学校低中学の作文では、この個性と平凡の差は人間が見てもはっきりしていますが、小学校高学年や中学生、高校生の作文になると、個性と平凡の表現の差は、人間の目ではわかりにくくなります。
実際に二つの文章を読むと、一方は漠然と中身が濃いような感じがし、他方は漠然と中身が薄いような感じがします。しかし、それは漠然とした印象で、どこがその箇所なのかということは言えません。
ですから、小学校高学年以上の文章では、上手な作文と上手でない作文の評価は漠然とした印象では言えるが、それを指導に生かすことができないという事情があったのです。指導するとしても、上手な作文を見せて、「みんなも、こういうふうに書いてみよう」というのがせいぜいでした。
ところが、それが、森リンにかけると、はっきりとした数値としての差になって出てきます。
子供たちの作文の森リンの点数のグラフを数年間にわたって見てみると、個々の作品の出来不出来による点数の上限はあるものの、どの子も平均して1年間で数ポイントずつ点数が上昇しています。これは、それだけその子が新しい語彙を吸収し、それを作文に生かせるようになったということです。
もちろん、一方には、森リンの点数がほとんど変化しない子もいます。これは、学校に通って勉強は進んでいても、本当の意味での学力が向上していないということになると思います。
このように、森リンは、作文の評価という微妙な分野をはっきりと客観的な数値として表せる方法になっています。(つづく)
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森リンは、作文小論文の自動採点ソフトとして2004年11月26日に特許を出願し取得しました(特許第4584158号)。
それまでの作文小論文の自動採点ソフトは、平均的な文章の平均値からどれだけ離れていないかということを評価の基準としていました。
その結果、うまくない文章はすぐにわかりますが、それがそのまま、うまくない文章の度合いが低いものほどうまい、とは言えないところに問題がありました。ややこしい書き方ですが。(^^ゞ
これは、美人コンテストのようなものを考えるとわかりやすいと思います。
人間の平均的な顔の数値を求めて、その平均値から外れていれば、確かに変な顔だということはわかります。しかし、最も平均値から外れていない顔が最も美しいかというとそうとは言えません。
従来の作文小論文ソフトがどうしてそういう発想で評価の基準を決めたかというと、プログラムを作る人が、うまいということの基準を決めることができなかったからです。
文章のうまさというものには、主観的な面があります。そこで、客観的な、誰もが納得するような基準として平均値を評価の尺度にしたのです
これに対して、森リンは文章のうまさという基準を先に考えました。それは、言葉の森が、これまでの作文指導の中で、上手な文章の蓄積というものを持っていたからです。
言葉の森の考える文章のうまさの基準は、まず第一に語彙が多様であるということです。
第二は、しかし、バランスがとれているということです。
そして、第三は、論説文として理路整然としているということです。
この三つは、それぞれ相反する面があります。
語彙が多様になりすぎると、バランスがとれなくなり、冗長な文章となってしまいます。
また、一般に易しい言葉だけでなく、難しい言葉もある方がいい文章とはいえますが、あまり難しい語彙がありすぎると重い文章になってしまいます。
理路整然としている文章はわかりやすい文章ですが、その度合いが過ぎると硬い文章になってしまいます。
また、森リンの評価は論説的な文章を対象としているので、小学校中学年までの事実中心の生活作文では評価がずれる面があります。更に、字数が短いと、森の点数の誤差が大きくなるので、1200字程度の長さは必要になります。
言葉の森で毎月発表している森リン大賞は、言葉の森の生徒が毎月の清書で書いた作文の中から森リンの上位の人を掲載しています。
ここには人間の評価は何も加えていませんが、上位の作品を見るとかなり妥当性があります。人間が評価して上位の作品を選んでもあまり変わりないと思います。
それなのに、採点にかかる時間は、人間の百倍ぐらい速いのです。
ところで、厳密にいうと森リンで評価しているのは、その作文の上手さというよりも、その作文に表れた、書いた人の作文力の評価です。だから、森リンの点数は、その人の学力と比例している面があります。
森リンの点数を上げるためには、小学生の場合は読書で、中学生や高校生の場合は問題集読書のような難しい読書で使える語彙をふやしていくことが大切です。
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