相対語感しか持たない人は、ひとまとまりの物語や学問を、言葉によって理解することはできますが、同じように再現することはなかなかできません。絶対語感を持つ人は、物語や学問を一度聞いただけで理解し、しかもそのまま再現することができます。
しかし、だからといって、相対語感の人が学力的に劣るわけではありません。学問をするうえで理解に時間がかかるというハンディがあるだけですから、そのハンディは努力によって克服することができます。また、理解に時間がかかるということは、逆に言えば創造性を発揮する余地があるということです。しかし、理解力が優れているということは、人間が社会生活や学問生活を行っていくうえでやはりきわめて有利なことなのです。
もちろん、この相対語感と絶対語感の差異は、はっきりと分けられるものではありません。相対語感はだれもが共通に持っていますが、絶対語感は乳幼児期の環境によって、持ち方の度合いに差が出てきます。
絶対語感を成長させる要因は、乳幼児期に親が同じ物語を何度も聞かせてあげることです。これが、添い寝と語り聞かせの文化によって、日本の社会に受け継がれてきました。この理解力の土台があったために、日本は、過去何度か、国民全体の大きな方向転換を比較的容易になしとげることができたのです。
ところで、こういう絶対語感によって優れた理解力が育つだけでは、ただ頭のいい子ができるだけです。そういう頭のいい子がいくら集まっても、社会に新しい創造は生まれません。理解力が優れているということは、創造性を発揮する必要をあまり感じないということだからです。頭のよさとアイデアの斬新さには、反比例する面もあるのです。
理解力を育てるには、同じ文章の語り聞かせや読み聞かせが必要でした。子供が自分で文章を読めるようになれば、ここに、同じ文章の音読や暗唱や読書も入ります。一方、創造性を育てるには、対話と表現が必要です。既にあるものを聞いたり読んだりするのではなく、まだないものを新たに作り出すというのが対話と表現だからです。
この点で、日本にはやはり、他の国にはあまり見られない大衆的な、短歌、俳句、日記、手紙という表現の文化がありました。江戸時代における手紙のやりとりの頻繁さは、当時日本を訪れたヨーロッパ人を驚かせました。また、戦時中、日本と戦ったアメリカ軍をやはり驚かせたのは、日本の兵士の多くが手帳に日記や詩を書いていたことでした。欧米では、そのようなことをするのは社会の上層にいるエリートだけで、大衆が日常的に文章を書くということは考えられなかったのです。
明治維新を遂行した日本人は、欧米の文化を単に理解して受け入れるだけでなく、そこに日本的な創造を付け加えることを忘れませんでした。どのように異質なものが来ても、和魂洋才の精神で消化することができたのは、日本にこのような創造的表現の大衆文化があったからです。
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2011年の新しい世界には、いくつかの難問が待ち受けています。
経済破綻、自然災害、戦争勃発、疫病発生、環境破壊などがいつでも起こり得る可能性があります。
しかし、それと同時に、全く新しい明るい未来の社会が築かれる可能性も広がっています。
今、私たちが行わなければならないことは、第一に、アメリカと中国への従属を排し、日本の独立を守り、全世界との平和共存を堅持することです。
第二に、テレビ・新聞という管理されたマスコミの情報から距離を置き、インターネット・出版という公開された多様な情報へ目を向けることです。
そして、第三に、高齢化・少子化の世界的な先端を行く日本が、移民受け入れでも単なる衰退でもない、新たな発展を行うための新しい内需を創造することです。
言葉の森も、この歴史的大転換の時代に、子供たちの教育に更に貢献できるようにがんばっていきたいと思います。
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絶対音感を育てる方法は、音を単音やメロディーとして聴くのではなく、和音として聴くことを繰り返すのだそうです。単音やメロディーとして聴いた音は、音と実体、又は音とメロディーの流れを把握する力を育てます。しかし、この方法では絶対音感は育ちません。
ところが、和音というひとつの確固とした響きを持ったものを繰り返し聴いていると、その和音を構成している単音が絶対音感として把握されるようになります。つまり、単音は、それと分かちがたく結びついた全体の世界を先に感じ取ることによって、絶対的な座標を持つようになるのです。
このようにして、絶対音感を持つと、ある曲を数回聴いただけで、それを同じように演奏できるようになります。相対音感しか持たない大多数の人は、ある曲を聴いてそれを同じように歌うことはできますが、同じようにすぐ演奏することはできません。
図式的に言うと、相対音感は、曲というものを、左から右へと流れる横の音のつながりとして把握する力です。これは、だれもが自然に持っています。絶対音感は、曲を構成する音を、横のつながりとしてだけでなく、縦の座標として把握する力です。左右との相対的な位置としての音ではなく、その音自体が座標上の位置を持っているのです。
これと似たことが言葉にもあてはまります。普通の生活では、言葉は状況との関連で語られます。寒いから「寒い」という言葉を発し、おなかがすいたから「おなかがすいた」という言葉を発します。この状況と結びついた言葉を聞くことによって相対語感が育ちます。ここで言う相対とは、言葉が状況に対応しているということです。この相対語感が、一般に言われる言語能力です。
子供は成長するにつれて、相対語感として身につけた言語能力によって、より広い世界を理解するようになります。言葉は単に状況と対応しているだけではなく、言葉と言葉の組み合わせによって構成された、より大きな体系を理解する手段にもなっています。これが学問のような体系を理解する言葉です。人間は、相対語感を組み合わせて、より大きな体系を理解します。
乳幼児に物語を聞かせるとき、言葉は状況との関連ではなく、物語という大きな世界を構成する要素として語られます。同じ物語を繰り返し聞いていると、子供は、物語というひとまとまりの世界があるのだということを感じ取ります。自分を取り巻く環境は、ただ暑かったり寒かったりするという現象的なものだけではなく、その背後にひとまとまりのストーリーや体系として構成されているものだということを感じ取るのです。
物語という全体の世界が先にあり、その全体の世界を感じる中で、全体と分かちがたく結びついた構成要素としての言葉を繰り返し聞いていると、言葉に対する絶対的な座標が育ちます。これが絶対語感です。絶対的な語感が育つと、ある新しいひとまとまりの物語や学問体系を聞いたときに、それをすぐに理解しそのまま同じように再現することができるようになります。南方熊楠(みなかた くまぐす)や塙保己一(はなわ ほきいち)に見られる超人的な理解力は、この突出したひとつの例だったのです。(つづく)
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日本人の学習力を支えてきたものは、幼児期の教育文化です。それは、添い寝と語り聞かせの文化です。母子が密着して感情のやりとりをする中で、昔話などを聞かせてきた文化が、日本人の学習力の土台を作ってきました。
しかし、現代の社会では、その文化が少しずつ失われてきています。その一方でテレビなどの機械による音声が乳幼児の成長に影響を及ぼしています。このため、他の国々より一足先にテレビ大国になった日本において、感情把握に支障を感じる子供たちが増えてきたのです。
0-2歳のテレビをシャットアウトするとともに、語り聞かせの文化を復活し、短いお話を反復して聞かせることによって、日本人の学習力は再びすぐに復活するでしょう。
言語能力は、幼児期までの語りかけによって身につきます。親が子供に何かを話しかけるとき、その言葉はそのときの状況と関連しており、多くの場合、あとに何らかの結果が続きます。幼児は、言葉を聞くときに、その言葉を自分の中で模倣し表現します。そして、自分の表現した言葉と結果が結びつくことによって、状況を言葉で表現できるということを学ぶのです。
しかし、ここで形成される言語感覚は、相対言語感覚とでも呼べるものです。幼児は、言葉によって現実が表現されることを学びます。寒いという言葉には、寒いという現実が対応し、おなかがすいたという言葉には、おなかがすいたという現実が対応します。
ここまでは、普通に成長する過程でもだれでもが身につけるものです。しかし、ここに、更に、物語のようなある程度の長さを持った文章を繰り返し聞かせられるとどうなるでしょうか。
乳幼児は、全身全霊で自分を取り巻く環境に適応しようとして生きています。もしオオカミに育てられれば、オオカミの親が感じたり表現したりすることを、同じように自分も感じ表現できるように成長するでしょう。
この時期に、お話を繰り返し聞かせられると、子供は、世界が文章によって再現できるひとまとまりの体系を持ったものとして存在していることを感じ取ります。言葉は、単に実体や状況を表すだけのものではなく、文章というひとつのまとまった世界を表すものだということを知るのです。
ここで生まれる理解力は、単なる言葉の理解力とは異なっています。(つづく)
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幼児は、産まれたときから、その周囲の世界に適応するために生きることを始めます。適応とは、自分の身体と感覚を周囲の環境に結びつけることです。
人間の社会で生きていくためには、言葉というものが、身体の危険や安全や快や不快につながっていることを原初的な絶対感覚として身につける必要があります。人間が人間らしく成長するためには、単なる色や音や匂いではなく、何よりも言葉という音声が世界の理解と結びついていることを学ぶ必要があるのです。
ところが、0歳から2歳のころに、テレビやビデオの音声が頻繁に聞こえてくる環境にいると、言葉というものを自分の感情から分離させて聞き取る能力を身につけます。
例えば、天気のいい日に、親が幼児に、「今日はいい天気だね」と語りかければ、幼児は、その意味をまだ理解する時期に達していなくても、明るい窓辺の気持ちいい情景と「今日はいい天気だ」という文を感覚的に結びつけます。しかし、その日の天気にかかわらず、テレビのドラマの音声が、「今日はいい天気だ」などと話す音声が聞こえてくれば、幼児は、言葉を自分の感覚や感情とは別のものとして受け取る能力を身につけます。
このようにして、テレビの普及と、狭い住宅事情と、惰性で見るテレビという環境が、幼児を人間的な感情に乏しい子供にしてしまうのです。だから、乳幼児のいる家庭は、テレビを見るとしても、家族全員が音声をヘッドホンで聞くというような配慮が必要になります。
では、幼児には静かな環境がいいのかというと、単純にそういうことではありません。
欧米の子育ては、母子の分離が早い時期から行われることに特徴があります。そのため、子供は小さい時期から、親と離れてひとりで寝起きする習慣を身につけます。実は、これは子供の成長にとって大きなマイナスになっています。
昔から、日本人の学力が優秀だということがよく言われていました。日本は、明治維新と戦後の復興という二つの奇跡をなしとげました。その動因となったものは、国民の大多数が新しい情勢を理解し、そこにきわめて短期間に適応したことです。
この短期間の広範な全国民的な理解の普及が日本文化の特質で、それを支えていたものが、日本人の優れた理解力でした。
この理解力を生み出したものは、学校教育ではありません。日本の学校教育は、もともと欧米の学校教育を模倣したもので、そこに欧米の制度よりも優れた面はなかったからです。
それなのに、なぜ国民の大多数に優れた理解力と学習力があったかというと、その秘密は日本文化にあったのです。(つづく)
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いつもお世話になっています。
小2ももの(通信木曜小西先生)の母です。
先日送っていただいた、新しい原稿用紙が、今回から、400字詰原稿用紙になっていました。今まで240字詰でしたが、これでよろしいのでしょうか?
選択できるのであれば、うちとしては、以前の240字の方がまだ良いのではないかとおもいますが。いかがでしょうか?
それは失礼しました。手違いで400字詰のものが送られたのだと思います。
1月4日に贈りなおしますのでお待ちください。
続きは?どこ?
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作文における自己との対話とは何でしょうか。
作文はひとりで書く作業です。だから、どういう方向に話が展開するかわかりません。お喋りの場合は、相手との掛け合いで話が進んでいきますが、作文はそれを自分ひとりの力で進めていかなければなりません。
このときに必要なのは、全体のあらすじです。自分が書こうとしているものに熟知している場合は、文章は滞りなく進んでいきます。例えば、経験した事実をそのまま書くような文章の場合です。
しかし、自分の書こうとしているものに未確定の部分がある場合は、文章は考えながら書いていくことになります。この考えながら書いていくときに頼りになるのが、自分が直前に書いた文との対話です。多くの場合、文章を書く人は、全体のおおまかなあらすじを頭に入れながら、個々の文は、その直前に書いた文と関連させながら書いていきます。
この自分の書いた直前の文との対話を、もっとすっきりと対話中心にしたものが構成図を書くという方法です。自分が書こうと思うものに未確定の要素が多ければ多いほど、構成図であらかじめ考えを深めるという対話が必要になってくるのです。
しかし、対話の土台になっているものは予備知識です。知識の少ない人どうしがいくら話を交わしても、そこから新しいものはなかなか生まれないでしょう。読む力をつけて知識の土台を広げていくことが、作文を書くための重要な前提であることは言うまでもありません。
さて、国語力のセルフ・ラーニングということで、語り聞かせ・読み聞かせ、音読・暗唱、読書・問題集読書、作文・構成図などがあると書きました。
この中で最も大事なものは、幼児期における語り聞かせ、読み聞かせです。
子供がその国の言語を自然に覚えて使えるようになるのは、親が子供に語りかけることを繰り返すからです。この語りかけの反復によって、子供は、世界を文として理解する能力を絶対感覚として身につけます。
幼児期に身につける絶対感覚には、このほかに、音楽の感覚、運動の感覚、抽象的な概念としての数の感覚、図の感覚などがありますが、最も重要なものは言語感覚です。それは、人間が生活する世界の大部分は、言語による意味づけが行われているからです。
周囲の大人による語りかけで、幼児は文を身につけます。ここで大事なのは、個々の単語を身につけるよりも先に文を身につけるということです。なぜかというと、単語は、ある実体を言語で表すという抽象的なものですが、文は、それによって何らかの意図ある行動や結果が付随する人間的なものだからです。
ある語りかけのあとに、ある行動が続くというのが、人間と人間の関係です。機械に物を覚えさせるには、例えば、リンゴの実体を見せて、リンゴという言葉に対応させるようにすればいいのですが(光学文字読み取り装置のような感じで)、人間はそういうわけにはいきません。「リンゴ、食べる?」(あなたはリンゴを食べますか)という文のあとに、リンゴをもらい、それを食べて味わうという身体的な結果が付随することによって、子供は、「リンゴを食べる」という文を身につける中で、「リンゴ」と「食べる」という単語も身につけます。
このように考えると、人間の語りかけではない、機械の語りかけ、例えばテレビをつけっぱなしにして幼児に聞かせることが大きな弊害を持つことがわかります。(つづく)
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作文を書くというのは、勉強の中で最も苦しい勉強だと思います。何が苦しいかというと、始めるときのエネルギーがほかの勉強に比べると何倍も必要だからです。特に、学年が上がって、考える力がついてくると、作文を書くことは更に苦しい勉強になります。
夏休みの宿題で、感想文を書く課題が最後まで残ってしまうことが多いのはこのためです。文章を書くというのは、なかなか気軽に始められないのです。
特に、学年が小5から中2のころにかけては、考える力がついてくるにもかかわらず、その考えに伴う語彙力がまだ不十分なので、書くことがいっそう苦痛になるようです。小4までは楽しい生活作文、中3からは考える小論文ということで、それなりに苦しい勉強ではあっても作文を書くことは軌道に乗りますが、ちょうどその中間の時期がいちばん大変なのです。
この作文を書く勉強を支えるのも、コミュニケーションです。
第一は、作文を書く前の取材です。そのテーマに沿った話を自分の身近な家族から聞くことによって、作文の材料が増えます。特に、小学校高学年のころは、課題に合った自分の体験実例が見つけにくい時期です。
例えば、小学校高学年になると、国語の問題に日本文化の特徴というようなテーマがよく出てきます。子供は、その文章を読んで内容を理解することができますが、その内容の裏づけとなるような経験や知識はまだありません。そういうときに、両親がそのテーマに関連した自身の経験や知識を話してあげると、それが擬似的に自分の経験や知識のように使えるようになるのです。
この取材の大切さは、小学校低中学年でも同じです。例えば、小学校中学年の身近な課題「がんばったこと」「うれしかったこと」なども、子供が自分の体験で書くだけでは、そこに深みは出てきません。単純に、がんばったことやうれしかったことを書くだけですから、どの子も似たような話になります。しかし、ここで、両親や祖父母に取材をすると、もっと味のある話を聞くことができます。そして、子供にとっては、本で読んだりテレビで見たりしたことよりも、自分の身近な家族から聞いた話の方が、子供自身の擬似的な体験として消化しやすいのです。
第二は、作文を書いたあとのコミュニケーションです。作文を書くのが好きな子と嫌いな子の差は、書いたあとの評価の差によるものです。子供の書いた文章には、必ずどこかしら欠陥があります。内容がものたりなかったり、誤字があったり、表現が不十分だったりするところがあります。
作文を書く方は、自分なりに完成したものを書いているつもりですが、それを読んだ大人が、ここもおかしい、あそこもおかしい、と欠点を指摘し始めると、子供はその後書く意欲を持てなくなります。これは、少し想像してみればわかります。例えば、絵が苦手な人に、「さあ、自由にかいてごらん。かいたあとたくさん欠点を教えてあげるから」と言われたら、だれも絵をかく気にはなれないでしょう。歌が苦手な人に、「さあ、自由に歌っていいよ。そのあとどこが下手なのか教えてあげるから」という場合も同じです。そういう欠点を喜ぶのは、ある程度自信がついて、自分が前向きに努力したいと思っているときだけです。しかし、そういう向上心がある人でさえ、欠点ばかりを指摘していると、どんどんできなくなっていくのです。
作文を書いたあとのコミュニケーションは、書いた内容について楽しく話すことです。書き方について注意するのではなく、書かれた内容について話題にしてあげることが、子供の書く意欲に結びつきます。
作文を書いたあとのコミュニケーションには、作文の発表会や文集のようなものも含まれます。発表会や文集も、それぞれの作文のよいところを見ることが大事で、他の作品との比較をすることは最小限にとどめておくべきです。
第三は、作文を書く前の自分自身との対話です。
「ミラーニューロンの発見」という本によると、だれでも、他人とおしゃべりをする方が、自分ひとりで講演をしたり、他人の講演を聞くことよりもずっと楽にできるそうです。これは、人間の脳に、他人を模倣し共感する仕組みがあるからです。(つづく)
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国語のセルフ・ラーニングは、経験と知識の裾野を広げる学習です。高学年になって国語の問題の出来が悪くなったときに、その前の学年に戻って国語の問題を解いても力はつきません。その高学年に応じた知識と経験の裾野を広げることが力をつける方法になるのです。(前回までの記事)
したがって、実際に経験する、話を聞く、本を読む、知識を得るという裾野を広げる学習が、国語におけるセルフ・ラーニングになります。
しかし、それは単に漢字や単語や熟語を身につけるというレベルではなく、文章によって表されたその状況の、感じ方、考え方、受け取り方、認識の仕方、つまり状況理解の仕方を身につけるというような裾野の広げ方なのです。つまり、国語的な理解の裾野とは、単語や熟語などの裾野ではなく、より長い文脈を持った裾野なのです。
国語力を育てるセレフ・ラーニングは、状況理解の仕方の裾野を広げることで、その最も自然な形は、年齢が上がることによって知識と経験が増えるということです。
しかし、算数のセルフ・ラーニングが、学んだことによって理解が進み、わからなかったことがわかるようになるという直接的な喜びがあるのに対して、国語におけるセルフラーニングは、裾野を広げたことが理解に直接結びつくという関係にないために、学ぶこと自体に喜びを見いだしにくいという特徴があります。
そこで、国語の裾野を広げるセルフ・ラーニングの学習には、そのセルフ・ラーニングを支えるものとしてコミュニケーションが必要になってくるのです。
国語におけるセルフ・ラーニングにどのようなものがあるかというと、第一に、幼児期における語り聞かせや読み聞かせです。
第二に、学齢期における音読や暗唱という繰り返し読む学習です。
第三に、読書や問題集読書のような幅広く読む学習です。
第四に、作文という書く学習です。
子供が、語り聞かせや読み聞かせを喜ぶのは、そこに親とのコミュニケーションがあるからです。だから、語り聞かせや読み聞かせは、楽しい雰囲気で進めることが大事です。
音読や暗唱は、毎日の習慣になれば自然にできますが、それでも同じことを続けるというのは子供にとっては退屈なことです。そこで、その音読や暗唱を聞いて励ましてあげる身近な人が必要になります。これが、コミュニケーションです。
読書は、読む力のないうちは、読んでいることを励ますことが必要になりますが、ある程度の読書力がついてくると、子供が自分で進んで読むようになります。しかし、問題集読書のような難しい文章の読書は、やはり身近な人がその内容を聞いて励ましてあげることが必要になります。
そして、セルフ・ラーニングが最も難しいのが、作文を書く練習です。(つづく)
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