デカルトの分析哲学は、個の哲学であり、有の哲学でした。それは、物が個として有るというところから出発していました。
例えば、石を投げたとすると、その石は物として有り、その物を分析すると、質量と速度と方向に分けることができるとします。有る物を分析して、分析しきれなくなるまで分けていったところに、抽象的概念や定理があります。抽象的概念はデジタル的なものなので、数値として取り扱うことができます。こうして、ニュートンの物理学をはじめとする科学の世界は、分析哲学の土台となったのです。
この科学は、物理学にとどまらず、社会科学や、政治、経済、産業にも発展していきました。ルソーの社会契約論、産業革命、進化論、植民地主義などは、もとをたどればこの「有の哲学」にもとづいて生まれてきたものです。
ヨーロッパ諸国が植民地を拡大したとき、ヨーロッパ以外の地域では、その「有の哲学」に対抗できる知的枠組みを持っていませんでした。そのため、植民地主義はきわめて短期間に世界中に広がりました。
有色人種の国の中で、ただひとつ日本だけは、かろうじて和魂洋才として「有の哲学」を自分の文化の中に移植しました。それまでおだやかに全く別の知的文化的枠組みで暮らしていた日本は、欧米の野蛮な植民地主義に対抗するために、自らも野蛮なヨーロッパ文化の仲間入りをせざるをえなかったのです。
しかし、日本はもともと野蛮には向いていませんでした。和魂洋才の才の部分はヨーロッパの科学技術として消化吸収することができましたが、魂の部分は日本の文化に取り込むことができませんでした。それは、自分と相手を対立するものと見て、相手を単なる対象物として扱う文化です。
例えば、奴隷の文化や、肉食の文化や、策略の文化は、日本人にはなじまないものでした。肉食は、その後、明治政府の政策によって広がりましたが、日本人の多くは、今も食用のために動物を殺すことに抵抗を持っています。また、ペット犬などでも耳を切ったり尻尾を切ったりする文化は、もともと日本犬にはありませんでした。それは、日本が「有の文化」とは対極にある自他同一視の共感の文化、思いやりの文化を持っていたからです。それを「有の文化」と対比する意味で、「無の文化」と呼べる思います。
有の文化を象徴する言葉が、デカルトの「我思う故に我あり」だとすると、無の文化を象徴する言葉は、鴨長明の方丈記にある「(人の世は)水の泡にぞ似たりける」です。これは、インドの空の哲学、中国の老子の無為の哲学と共通するアジアの世界観で、更には、アメリカインディアンや南米のインディオの世界観とも共通するものの見方でした。
一本道で、デカルトが「我思う故に我あり」と言いながら歩いてくるところを、反対側から鴨長明が「水の泡にぞ似たりける」と言いながら歩いてきて、二人がぶつかりそうになったとき、先によけるのは長明の方でしょう(笑)。そして、その一本道に食べ物と棍棒があり、二人とも空腹であったとき、先に棍棒を手に取るのはデカルトの方だったでしょう(デカルトさんごめんね(^^ゞ)。これが、ヨーロッパが、世界中の有色人種を支配した構図だったのです。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。知のパラダイム(15)
国語力は、あらゆる勉強の基礎です。英語を勉強するにも、数学を勉強するにも、最初にあるのは国語的な力です。そして、国語力の必要性は、最初にあるだけでなく、勉強が高度になるにつれてますます大きくなっていきます。
例えば、大学入試の英語力は、かなりの部分が国語力です。なぜかというと、大学入試に出てくるような英語の問題文は、問題文自体に考えさせる内容を含んでいるからです。このため、国語的な読み取る力のある人は、それだけ問題文を容易に理解します。英語の問題は、難しくなればなるほど、英語で書かれた国語の問題という性格を持つようになっていくのです。
また、数学の勉強を志す人に、大学の先生などがこぞって言うのは、国語力のある生徒に来てほしいということです。これは、日本だけの現象ではなく、実は世界的な話です。物理学者でありながらノーベル化学賞を受賞したアラン・ヒーガー氏は、大学生のときに自分の進路を決めかめて、当時の物理学の教官に、「物理学者になるには、どんな資質が必要なのですか」と聞いたそうです。教官の答えは、「英語(つまり国語)がよくできることだよ」だったそうです。理科系の勉強をするにも、一流になるためには国語力が欠かせないのです。
しかし、この国語力は、どのようにしてつくのかということが実はわかっていません。多くの人は、塾に行けば国語の成績が上がると考えていますが、そのようなことはありません。塾は、英語や数学や理科や社会など、知識によって成績が上がる教科の勉強には向いていますが、国語のような考える力を必要とする教科の勉強には対応していません。ただ全教科カバーしていないと塾らしくないので、国語の授業もあるという程度なのです。
これは、学校の勉強を考えてもわかります。英語や数学などの教科の勉強は、その教科書をしっかりマスターすればそれだけで成績を上げることができます。しかし、国語については、教科書を一冊マスターして果たして成績が上がるでしょうか。国語の成績のよい子も、悪い子も、みんな同じように国語の教科書を読んでいます。勉強の仕方に違いは何もないのに、成績だけが違うのです。
このように、国語の勉強は、力をつけるあてのない勉強です。かといって、国語の勉強は、家庭でもやりようがありません。国語の勉強として普通考えることは、漢字の書き取りです。確かに、漢字の書き取りは時間をかけて勉強すればだれでも成績が上がります。しかし、それは漢字の成績が上がるだけで、読解力や記述力の成績が上がるわけではありません。国語の勉強としてもうひとつ考えつくことは、国語の問題集を解くことです。問題を解くという勉強は、一見勉強らしい雰囲気があります。しかし、問題集を解いて国語の成績が上がるということはありません。それぐらいなら、学校でも塾でも、みんな国語の成績が上がっているはずです。問題集を解いても成績が上がらないというのが、国語の勉強が、他の英語や数学の勉強と違うところなのです。
では、国語の勉強はどのようにしたらいいのでしょうか。ここで、言葉の森の作文の勉強が生きてきます。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。国語力読解力(155)
人類における最初の知のパラダイムは、「知によって世界を作り変えることができる」というパラダイムとして始まりました。
それまでの人類は、知恵はありましたが、その知恵は自然環境に適応するためだけの知恵でした。寒いから服を着る。暑いから木陰に入るというような状況に直接対応するための知恵でした。
しかし、あるとき、この知恵によって世界を変革できるという考えを持つ人が現れます。この知によって、それまでの掘っ立て小屋というひとりの人間が実感できるサイズの建築物から、より大きく複雑な個人の実感だけでは作ることのできない建築が作られるようになりました。これは、建築技術に主に集中的に表れましたが、軍事や政治の分野にも、人間の実感を超えたより大きな人数を統御する技術として発達しました。
この「知によって世界を構成することができる」という知が、最初のパラダイムで、これは、人間が徒歩で移動できるスピードではあったものの、瞬く間に世界中に広がりました。同じ知力を持つ人間でありながら、知で世界を構成できるというパラダイムを持つ人間と、実感の世界で生きる人間とでは、文明人と野蛮人というきわめて大きな違いがあったのです。
このパラダイムに接触した野蛮人は、すぐに自分もそのパラダイムを受け入れて文明人になりました。こうして、人間は世界中で、動物のように自然の中で生きる生活から、人間として社会の枠組みの中で生きる生活へと進化していったのです。
この「知によって世界を構成できる」という考え方は、ある一組の主体と客体を前提としていました。それは、人間という主体と自然という客体であり、更に範囲を狭く絞れば、味方という主体と敵という客体であり、更に狭くすれば、自分という主体と他人という客体でした。
この考え方を論理的につきつめたのが、青年時代のデカルトです。デカルトは、青年時代のあるとき、何日間も何もすることがない状況に置かれました。そこで、仕方なく、自分が普段その青年らしい純粋さで疑問に思っていた「自分とは何か」という問題を考え始めたのです。
若いデカルトが、自分の少ない人生経験は頼りにせずに、ただ論理的に、ということはただその当時あった知的パラダイムだけを指針にして考えた結論は、「我思う故に我あり」という「最初に個がある」という考えでした。最初に個がある。だから、他がある。しかし、個も更に本当の個に向かってどこまでも細分化されるし、他もまた次々と細かい他に分けてどこまでも細分化できる。これが、のちに分析主義哲学とい呼ばれる考え方でした。
このデカルトの哲学は、若さ故の純粋さという魅力を持っていましたが、釈迦や孔子に代表されるアジアの哲学が持っていた老人の知恵をその哲学の中に組み込んではいませんでした。これが、その後のヨーロッパの発展と支配、アジアの停滞と隷属という関係を生み出しました。しかし、そのヨーロッパの発展は、二度の世界大戦と無数の小戦争、環境破壊と経済危機という若さの持つ暴走と裏腹の関係にあったのでです。(つづく)
話が何だか大きくなってしまいましたが……。(^^ゞ
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。知のパラダイム(15)