ユダヤ民族は、聖書を暗唱するという勉強法で知られていますが、その暗唱の勉強するときにコツがあります。それは、体を前後に揺らしながら暗唱するのです。
体を前後に揺らしながら暗唱した方が能率がよいということは、私の経験からもそういえると思います。
暗唱するときに、じっと椅子に座ったまま静かにやっているよりも、部屋の中をぐるぐる歩き回りながら声を出した方が、ずっとスムーズに文章を覚えることができます。
ですから、家庭で子供たちが暗唱の練習をするときに、お父さんやお母さんは、机の前に座って真面目に動かずに暗唱するなやり方ではなく、体を揺らしたり歩き回ったりしながら暗唱するやり方をすすめてあげるといいと思います。
では、なぜ体を動かしながら暗唱した方が頭に入りやすいのでしょうか。
話は変わりますが、生まれたばかりの子猫を自分では動けないような状態にして、人間が抱き抱えていろいろなものを見せるという心理学の実験が行われたことがあります。
人間があちこちに運んでいろいろなものを見せるのですから、感覚器官ということだけに関して言えば、猫はそれらのものを見ているはずです。ところが、自分で動くという行動なしに、目だけで見たものは、その後猫が成長したときに視覚として認識できなかったようなのです。
見るという感覚器官は、見ることを目的として育つのではなく、その猫が生きるという行動の手段として見ることによって初めて育つのだといえます。
また、話は変わりますが、幼児期にテレビやCDやDVDによって絶えず言語の流れる環境にさらされた子は、言語能力が正常に成長しないようです。
言語というものも、それ自体を目的として聞いたり読んだりするから能力が育つのではなく、自分が生きるという行動の手段として読んだり聞いたりすることによって初めて正しく発達するのです。
こう考えると、体を動かしながら暗唱したほうがよいということも納得できます。
動きながら暗唱することによって、暗唱が単に暗唱自体を目的としているのではなく、対話や討論のような自分が生きるという行動の手段として暗唱しているという身体感覚を持つことができるようになるからです。この身体の感覚が脳に働きかけるので、脳が自然に能率よく文章を覚えるようになるのです。
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まず、書く力です。
作文や小論文の試験で課題が難しくなると、書く力のある子と、書く力のあまりない子との差がはっきり出てきます。
そこで、受験の作文では、その学年の子供にとってはかなり難しいと思われるような課題が出されることが多いのです。
書く力のある子は、書きようがないように見える課題であっても、必ず何かしら書いていきます。しかし、書く力のない子は、すぐに、難しい、わからない、書けないなどと考えてしまいます。
これは、普段の作文の練習でも出てきます。
作文を上手に書くかどうかという以前に、どんな課題でも何かしら書いていくという実力をつけることが大事です。
次に、読む力です。
読む力があるかどうかは、読解問題のテストなどをしなくても話をしていればわかります。
難しい話でもじっと聞いている子と、少し長い話になると飽きて上の空になってしまう子とがいます。
作文の書き方で、似た例などを説明するときに、読む力のある子は、先生の話をじっと聞いていて、その話をうまく作文の中に消化して書いていきます。こういう子が、読む力のある子です。文章を読む力があるということは、文章を聞く力があるということだからです。
こういう子供は、学校の成績が今はあまり芳しくなくても、心配する必要はありません。いざ受験が近くなって本気で取り組むようになると、どんどん力をつけていくことができるからです。
読む力や考える力があるということと、学校の成績がよいかどうかということは、多少違います。今の学校は、考える力のある子にとっては興味の持ちにくい機械的な勉強も多いからです。
数学者の岡潔(おかきよし)さんは、中学生のころ、数学の問題を考えるのは好きでしたが、授業の数学の勉強はほとんどしなかったそうです。勉強しないと、当然よい成績は取れないので、試験の前になるとその単元の問題と解答を全部丸暗記したそうです。学校の勉強は丸暗記で処理しておき、本当に自分の好きな考える勉強だけをしていたのです。丸暗記というのもすごいですが(笑)。
こういうタイプの生徒は、今の社会生活には適応しにくいと思いますが、ある意味で、本人にとっては人生は楽しいと思います。そして、本当はみんながそのような勉強をができることが将来の理想的な教育の姿なのだと思います。
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子供にとって読み聞かせは、国語力をつける上で大きな役割があります。
ところが、兄弟がいて下の子がまだ小さい場合、母親はその下の子にかかりきりになり、上の子の読み聞かせまで十分に手が回らないということが起きてきます。
このときの方法は、下の子に読み聞かせる文章を、同じように一緒に上の子にも読み聞かせるというやり方です。
母親が読んであげるのですから、本の内容は多少難しいものでも構いません。子供にとってわかりにくいところは、親が適当にアレンジして、上の子にも下の子にも同じように楽しめる形にして読んでいけばいいのです。
子供が小学生になると、本は自分で読むものだといって、親が子供への読み聞かせをやめてしまう場合がときどきあります。しかし、子供は、それほど簡単に自分で読む力を身につけるわけではありません。長い読み聞かせの時期と並行して、少しずつ自分で読む楽しさを覚えていくのです。
読み聞かせをすると、それに甘えて自分で読む力が育たないなどという人がいますが、それは全く反対です。読み聞かせをすることによって耳から文章を理解する力がつくので、自分で本を読む力も育っていくのです。
自分から進んで読書しない子の場合、興味のある本ということで、漫画や攻略本のようなものを読ませるのも一つの方法です。ゲームの攻略本は、難しい漢字にふりがながついているので、自然に読む力が育ちます。漫画も同様で、漫画の中の会話がそれなりによく練られているものであれば、漫画を読むことは決してマイナスにはなりません。ただし、漫画が読解力のプラスになるのは、小学校低学年の間までです。
これは学習漫画も同様で、絵の助けを借りて読むような本は、知識は身につくかもしれませんが、読解力を育てることにはなりません。
読む力をつけるためには、毎日必ず家庭で読む時間を確保することです。その読書タイムのときは、子供だけでなく、家族全員で本を読むようにしてもよいと思います。それぞれの子供の読む実力を見ながら、1日10ページ以上とか50ページ以上とか決めて、毎日読む時間を確保していきます。
読む本は、漫画や絵本や学習漫画や雑誌のようなものでなければ、自分の好きな本を何でもよいとします。大事なことは、本の選び方よりも、毎日読むという習慣をつけていくことです。
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海外に暮らしていた人が日本語の作文の学習をするとき、語彙力はそれなりに豊富なのに、簡単な「てにをは」のような助詞の使い方に不自然なところがあるというような場合があります。
「てにをは」の感覚は、子供時代に接した日本語に左右されるので、言葉の上で間違いを指摘したからといってすぐにそれが理解できて、正しく書けるようになるわけでありません。
この場合、シュリーマンの行った作文の勉強法が役立つと思います。
外国語の学習でいちばん難しいのは、読むことや聞くことや話すことではなく、文章を書くことです。シュリーマンは、外国語で文章を書く練習をするために、自分の書いた文章をその言語をネイティブに使っている人に添削してもらい、その添削された文章を丸ごと暗唱するという練習をしたそうです。
ここで、言葉の森が行っている長文暗唱の練習法が役に立ちます。
自分の書いた文章を正しく添削してもらい、それを丸ごと暗唱するという勉強をしていけば、読む力をつける中で作文力をつけるというやり方よりも、もっと早く効果的に書く力がついていくと思います。
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■これまでのあらすじ
世界には、二つの文化があります。一つは、ヨーロッパの哲学に見られるように、「自分という個別的な物が最初に有り、その対象となる個別的な物の集合としての外界が有り、物と物とが任意に関係を結ぶ」という世界観です。これを「有の哲学」と呼び、この哲学に基づいて形成された文化を「有の文化」と呼びます。
もう一つは、インド、中国、日本などの古代の哲学に見られるように、「自分という個別的な物はもともと無く、有ると見られている物は、その物以外の外界(つまりその物にとっての無)から結ばれている関係である」という世界観です。だから、すべての物はもともと無いと同時に永遠に有るとも言えるし、すべての個はそのまま全体であるとも言えるという考え方です。この逆説的な論理を、日本人の多くは感覚的に理解します。
二つの文化の違いをわかりやすく言い換えれば、有の文化を、エゴイズムの文化、物の文化、自己主張の文化と呼ぶことができます。これに対して、無の文化は、思いやりの文化、一体化の文化、共感の文化と呼ぶことができます。
現代は、有の文化が世界を支配しています。先進国で無の文化を持ち続けている国は日本だけですが、その日本の無の文化もまた、世界の有の文化に脅かされています。
日本には、無の文化を守り、世界の有の文化を無の文化の中に包み込み、平和で創造的な地球を作る役割があります。
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教育もまた、有の文化の論理から抜け出て、無の文化のもとに再構成する必要があります。では、教育における有の文化に対置する無の文化とは何でしょうか。
第一は、受験のための教育ではなく、実力のための教育を行うことです。
第二は、得点のための教育ではなく、文化的な価値観を持った教育を行うことです。
第三は、学校や塾という外部に全面的に委託した教育ではなく、家庭での自学自習を中心とした教育を行うことです。
第四は、他人との競争に勝つための教育ではなく、自分自身の独立を目指すための教育を行うことです。
競争に関して言えば、有の文化から無の文化に切り替えることによって、競争の性質も変わります。
有の文化のもとでの競争は、自分の利益のために他人を蹴落とす競争でした。しかし、日本の文化になじんだ人は、このような競争に心からは没頭することができません。よく親や先生が子供に向かって、「勉強するのは、あなた自身のため」であり、「勉強しないと損をするのは結局自分自身だ」という説得をすることがあります。しかし、この説得は、子供にも言っている本人にも、あまり心に響いてきません。有の文化の価値観に基づいた競争は、無の文化を持つ日本人にはぴんと来ないのです。
無の文化における競争は、自分の利益のための競争ではなく、自分の周囲の集団や社会に貢献するための競争です。
例えば、年末の紅白歌合戦が視聴率の高い長寿番組となっているのは、それが参加する個人の優劣を競う競争ではなく、個人が属する赤組と白組という集団に貢献するための競争となっているからです。
勉強における競争も、この紅白歌合戦のような競争に組み立てることができます。赤組と白組で、どちらがいい成績をとれるかを競争すれば、それぞれの組の子供たちは、できる子はさらにがんばり、できない子はみんなが協力してできるようにさせるためにがんばるでしょう。
しかし、このような無の文化は、取り組む人の姿勢によっては、容易に有の文化の競争に転化する可能性を秘めています。例えば、もし一方の組のリーダーが、競争に勝つために、自分の組のできない子を排除し、相手の組のできる子を陥れようとするならば、その対抗上、他方の組も同じような対応を考えていくでしょう。集団に貢献するための競争が、集団の力に個人を隷属させる競争になる可能性もあるのです。
これが、世界中で、無の文化がことごとく消滅していった理由です。無の文化を持つ100人の中に、1人の有の文化が入るだけなら、それは集団に対する一つ知的刺激になるでしょう。しかし、これが、2人、3人と増えていくと、途中で全体が一挙に有の文化に転化するのです。
日本が思いやりと共感の社会を形成してきたのは、日本の社会に海外からのエゴイズムの文化が大量に流入してこなかったからです。
しかし、これまでは、海洋に隔てられることによって守られてきた日本の文化を、これからは政治の力で守らなければなりません。例えば、農産物の自由化、海外からの移民の受け入れ、外国人への参政権の付与などは、原則として停止するぐらいのゆるやかな速度で徐々に進めていく必要があるでしょう。
日本の社会を、平和な未来の地球の最後のモデルとして守るためには、野獣どうしの力の均衡や、力による秩序から距離を置き、有の文化の持つ策略や武力を、強力な無の文化のテクノロジーで包み込んでいく必要があります。
それは、地球人の課題であるとともに、未来に出会うはずの平和な宇宙人たちとの協力の前提でもあるのです。(おわり)
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小5の1.4週の読解問題の8番で、設問に出ている「処世訓」という言葉が、長文の中にありませんでした。
これは、長文を短く編集しなおす過程で、その設問の対象となっている部分を消してしまったためだと思います。(^^ゞ
8番の問題は、全員◎にしておきます。
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言葉の森は、もともと大学生の作文指導の教室からスタートしました。その後、高校生の小論文指導や、中学生、小学生の作文指導へと指導を発展させてきました。
ですから、小学生の作文指導をする際にも、中学高校へと勉強進めていく土台となるような勉強の仕方をしています。この小1から高3までの指導の一貫性が、言葉の森の作文指導の特徴です。
学校や塾で小学生の作文指導ををするときは、その学年で上手な作文を書くことが目標にしてなりがちです。そのため、小学校4年生ぐらいになると、文章を書くことが好きな子は、その学年としてはほぼ完璧な作文を書くことができるようになります。どのようなテーマでも、自分なりに個性的な実例と印象的な表現で書き進めていくことができるので、保護者や先生は、これで作文の指導は一段落したと思いがちです。
しかし、言葉の森の作文指導は、小学生のころに上手な作文を書くことで終わりになるわけではありません。言葉の森では、小学校5、6年生から説明文・感想文の指導に移っていきます。
中学生で本格的に意見文・感想文の練習が始まると、小学生のころまで上手に書けていた子供たちが、途端にうまく書けなくなり、多くの子が作文に苦手意識を持つようになります。
小学校高学年や中学生の課題は、テーマが抽象的になってくるので、そういう抽象的な課題を考えるための語彙力がまだ育っていない時期は、作文が一時的に下手になるのです。
しかし、中学生で意見文の練習を始めた子は、たとえ途中でやめることになっても、構成的に作文を書く方法を理解しているので、高校入試や大学入試の作文小論文試験の際に、それまでに勉強したことを生かすことができます。
抽象的な課題の作文力の土台となる語彙力が備わってくるのは、中学3年生のころからです。中学3年生になると、自我が成長し、勉強も自覚的に行えるようになるので、作文の力も安定してきます。中学3年生で作文が上手に書ける子は、そのまま高校生になっても大学生になっても、その文章力の基本を維持することができます。
高校生以上の作文の勉強は、考える力をさらに深めていくという形で上手になっていく勉強です。ですから、中学生高校生の作文の上達は、難しい文章を読んだり考えたりする時間がどれだけあるかということと比例しています。
作文の力は、読む力と比例しているので、読む力が向上してくると、ある時期から突然、作文が上手になるということがあります。
これまでの例では、小学校4、5年生のころまではいつもふざけていい加減なことばかり書いていた子が、好きな本のジャンルができ、それらの本を読んでいるうちに、小学校6年生から突然作文が上手になり、中学高校とめきめき学力を上げていったということがありました。
また、小学生のころから成績はよく真面目に勉強はしているものの、作文はごく普通に書けるという程度だった中学1年生が、自然科学系の部活でやはり好きなジャンルの本を読むようになると、高校生の後半からぐんぐん作文が上手になっていったという例もありました。
作文の勉強は、書き方を教えてすぐに効果が出る面ももちろんありますが、本当の実力は、読む力をつける中で少しずつ蓄積されて行き、ある日突然開花するものです。
作文の勉強をする上で大事なことは、今の学年で上手に書くことばかりでなく、先の学年に進んだときに質の違う上手な作文を書けるようになるという展望を持って勉強を進めていくことです。
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小学校5年生の子供のお母さんから、「いつも同じような書き出しの工夫しかしないのですが」という相談がありました。
書き出しの工夫には、会話、色、音、情景などいろいろな方法がありますが、子供にとっていちばん簡単なのは会話の書き出しです。そこで多くの子供は、書き出しを簡単な会話から始めて、そのあとに「いつ、どこで、何をしました。」という形で書いていきます。
ところが、文章の書き出しの部分と結びの部分は、作文の中で最も目立つ場所なので、大人がその子の作文を何度も見ると、書き出しの仕方がワンパターンであるように感じてしまうのだと思います。
しかし、ここで大事なことは、書き出しの工夫のようなテクニックは、生活作文を書いている小学校時代の作文で主に生かせる書き方であるということです。
子供たちが中学、高校に進んでいくにつれて、作文の勉強の中心は、実例に広がりを持たせること、意見を自分なりに考えて書いていくこと、という方向に進んでいきます。
ですから、書き出しの工夫に変化がないからと言って、そこをさらに上手に書かせようとするよりも、書き出しの工夫はほどほどにして、それよりも先の学習目標である実例と意見を充実させていくことを勉強の目標にしていく方がいいのです。
また、書き出しの工夫が同じようなパターンになりやすいのは、語彙が不足していることが原因であることもよくあります。書き出しのテクニックを知らないから同じような書き方になってしまうのではなく、語彙力が乏しいために、同じ工夫をしても変化を持たせられない場合があるのです。
したがって、同じようにパターン化された書き出しから脱却するためには、読書や暗唱によって語彙をふやしていく必要があります。
ところが、読む力をつける学習は、それが作文という形で効果が表れるまでにかなり時間がかかります。目に見える効果は忘れたころにやってくると考えて、気長に取り組んでいくことが大事です。
さて、生活作文のときは、事実中心の文章なので書き出しの工夫がしやすいのですが、説明文や意見文の場合も、もう少し発展した形で書き出しの工夫を生かすことができます。
特に、堅い論説文のような場合に、情景の書き出しをうまく使うと効果的な書き方ができます。さらに、「書き出しの結び」という方法で書き出しのキーワードを結びの意見と結びつけると、論説文でも印象的なまとめ方ができます。しかし、もちろんその場合でも、文章の中心は、広がりのある実例と、自分なりに考えた意見です。
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