今回の東日本大震災に伴う福島原発の事故によって、日本全国の原発にすべて同じ危険性があることが明らかになりました。例えば、明日、静岡県に同程度の地震が起これば、浜岡原発が同じように暴走することを誰も止めることができません。
また地震ではなく、ひとりのテロリストが爆発物をしかけるだけでも原発事故は容易に引き起こせることがわかりました。日本の原発は、そのような危険性に対しては全く無防備に運転されています。
問題は、地震の規模や津波の高さが想定外だったということではありません。根本的に人間が制御できない技術を、人間の住んでいる場所で行っているところに問題があるのです。
福島原発が起こした事故の教訓から学べることは、全国の原発をただちに廃棄しなければならないということです。今は、悠長な論議をしている場合ではありません。明日、地震が起きるかもしれないから、今日、停止しなければならないのです。
この緊急の時に、国が動かないのであれば、原発のある地方自治体が自治体の権限で原発をただちに停止させる必要があります。その停止に伴うさまざまな問題があるとしても、それは、停止してから論議することです。自然災害は、人間の話し合いが終わるまで待っていてはくれません。
原発の事故から日本人の生命を守る第一の責任と権限を持つ人は、日本の首相です。しかし、第一の責任のある人がまだ動いていないとすれば、第二の責任のある人は、それぞれの原発のある場所の県知事や市町村長です。住民の生存に責任を負う行動がただちにとれるのは、権限を持つひとりの個人です。
政治の役割は、全体の利益を考え、先を読んで行動することです。福島原発の反省と後始末をやるよりもまず先に、同じ事故が起きることから日本国民を守らなければなりません。
大事なのは順序です。今ただちに、ありとあらゆる法律を駆使して、政治の実力行使によって原発を停止させ、それからゆっくりとこれからの日本のエネルギー政策についての論議をしていきましょう。
創造の喜びがある作文とは、発表する喜びのある作文です。すると、その作文の新たな定義に対応して、作文の形態も従来のものとは異なった面を持つようになってきます。これまでの作文は、原稿用紙にきれいに清書するだけでした。しかし、これからの作文はそこにさまざまな表現手段を組み合わせ、総合的な知的芸術作品として作られるようになってきます。
例えば、作品の長さは、朗読して2、3分で読める800字から1200字程度になるでしょう。youtubeの動画を想像してもらうとわかりやすいと思いますが、背景に画像が流れます。それはその作文の内容にふさわしい写真やアニメです。そして、やはりその作文の内容にふさわしいバックグラウンドミュージックが流れます。
小学校低学年までの子供は、作文の中身だけその子供が書き、画像や音楽は両親が協力して作ってあげるという形になることが多いと思います。しかし、発表の動機は創造の喜びですから、小学校中学年からは、子供たちが自分で作文も画像も音楽も選ぶようになるでしょう。そして、中学生や高校生の作文になると、作文の内容自体に価値があるものも作られてきます。
作文の価値というと、一般には、「飼っていたジュウシマツのピーちゃんが逃げちゃった」というような心情的、文学的なものを連想する人が多いと思います。しかし、中学生や高校生になると、説明文や意見文で社会的に価値のある創造も行えるようになってきます。なぜかというと、ここにやはり作文を書く人間の身体性というものがかかわってくるからです。
環境問題や資源エネルギー問題のように広範な知識を必要とする分野については、その分野にそれなりに通暁(つうぎょう)した人が提案したものでなければ社会的な価値を持つことは難しいでしょう。しかし、人間は、たとえ小中学生であっても、その個人だけがよく知っているある狭い分野については、誰にも負けない知識をを身体化しています。例えば、小学生の子供にとって、自分の家と家族と、学校への行き帰りの道と、親しい友達と、遊び場の地理と歴史は、誰よりも深く熟知しているはずです。すると、そこに、誰にも負けない知識の量をもとに、その子だけが提案できる世界を創造する条件ができるのです。
このようにして、内容的にも表現的にも高く評価できる作文が生まれれば、それらの作文をもとに毎年、あるいは毎月大規模な作文発表会や作文コンクールが各地で開催されるようになります。
私の描く具体的なイメージは次のようなものです。
例えば、港南台では、毎月10日に小学校○年生の作文発表会が南公園で開かれます。特に、4月の発表会は、年間コンクールと重なるので、盛大に行われます。その日は朝から、多くの人が南公園にゴザを広げ、ちょうど桜の花見も兼ねながら思い思いのグループで小宴会を始めます。やがて、コンクールが始まります。「お、次は○○さんちの健ちゃんだ」などという声で見てみると、ステージにyoutubeのような画面が大写しになり、音楽が公園に広がります。健ちゃんは、この日に備えてもうすっかり自分の作文を暗唱しているので、余裕の表情で出てきます。そして、自分の作文を朗読しながら、観客に手を振るようなパフォーマンスも見せてみんなを笑いに誘います。
朗読の最中、健ちゃんの家族のシートに、近所の人が遊びに来ます。「いやあ、このサンドイッチおいしいですねえ」とか「ところで、健ちゃんもおもしろい作文を書きますねえ」などと言いながら、みんなで談笑します。やがて、子供たちの発表が終わると、発表した全作品にそれぞれの内容に合わせたユニークな賞が授与されます。このユニークな賞の作り方は、そのときの審査員の腕の見せどころです。このようにして、地域ぐるみ家族ぐるみで、子供たちが小さいときから、知的に創造する喜びを共有する社会が生まれていくのです。
この作文コンクールは、国又は地方自治体が全面的にバックアップしているので、すべての作品に信じられないほど豪華な賞品と賞金が出ます。しかし、この豪華な賞品と賞金は、文化の山頂に注ぐ呼び水にすぎません。この呼び水によって、文化の山腹と裾野に豊かな緑が生い茂り、作文の発表に伴うさまざまな産業が生まれています。その産業の中にはもちろん作文教室も含まれますが(笑)、映像も、音楽も、また知識を吸収するための読書も、また、良書を紹介するサービスなどもあります。このように作文の発表会を通して多くの文化産業が成り立っているので、結局は呼び水以上の大きな経済効果が生まれ、そこから生まれる利益によって、国や地方自治体もますます豊かになっていきます。
未来の社会では、作文の学習を知的な創造産業の中核として、その周辺に多くの知的、身体的な創造産業が生まれ、それらの創造産業を支える向上産業も更に発展していきます。このような社会では、子供も大人も老人も、することがなくて退屈だからテレビでも見るか、というような時間の過ごし方をしません。テレビは、見るものではなく、自分の作品を表現するひとつの手段になっているからです。
このように、知的で、芸術的で、豊かで、創造的で、向上心に溢れた、明るい笑いと共感に満ちた社会を日本に誕生させるのが、この混迷の時代を生きる私たちの役割です。そして、それは、日本人がただそう決心しさえすれば、明日からでもすぐに可能なことなのです。(おわり)