言葉の森では、国語力、読解力をつける勉強を進めながら作文指導を行っています。
言葉の森以外の作文通信講座は、作文・記述力・表現力という言葉にとらわれているためか、書く指導を行うとすぐに、書いたものを直す指導をしてしまいます。これは、学校の先生も、塾の先生も同じです。作文指導というと、作文を赤ペンで直すものだというふうに多くの人が考えているのです。中には、赤ペンで作文を直すだけでなく、その直した箇所をもとに再度子供に書き直させる指導を行っているところもあります。
この「作文を直す指導」で上手になる子はまずいません。逆に、教える人が熱心に直す指導をすればするほど、子供は作文が書けなくなり、苦手になっていきます。熱心に教えることで、かえって子供たちの作文力が伸びなくなっているのです。
確かに、熱心な赤ペン添削を見ると、親も子供も最初のうちはいい指導を受けたような気がします。しかし、赤ペンで指摘されたことを一度で直せるようなことはほとんどありません。何度も同じことを言われているうちに、子供は次第にくたびれてきます。親は、なぜ言われたことができないのかと子供に不満を言うようになります。一方、教える先生の方は、ますます熱心に欠点を直そうとしていきます。
赤ペンの添削を何年受けても上手にならないのは、植物で言えば、根が育っていないのに、枝や葉の剪定(せんてい)だけで形をよくしようと刈り込んでいるだけだからです。大事なことは、根を育てることです。そうすると、枝や葉も茂るようになり、刈り込みをしなくても立派な樹木に成長していくのです。
今、社会人で文章が上手に書ける人は、作文の書き方を教えてもらった人ではありません。本をよく読み、自分でよく考えた人です。この本を読み、自分で考えるということが、根を育てるということです。
言葉の森の作文指導では、作文を書くだけでなく、読む力をつける指導を並行して行っています。例えば、課題の長文を読んで感想文を書いたり、暗唱用の長文を読んで長文を覚えたり、国語の問題集を読書がわりに読む練習をしたり、さまざまな読む学習を取り入れています。
言葉の森以外の作文通信講座では、作文を教えるときに、作文力・記述力・表現力の観点からしか指導していません。その一方で読む勉強は、国語の問題を解くような形で作文とは切り離された勉強として行っています。
言葉の森では、読む学習と書く学習を結びつけて行っているので、ゆとりのある作文指導ができます。だから、
欠点を直す作文指導ではなく、いいところをたくさん褒める作文指導でありながら、だれでも作文の力を伸ばしていくことでできます。
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言葉の森の作文指導の特徴は、
ただ作文を書かせるだけではなく、思考力を育てる作文の指導を行っていることです。
作文の勉強というのは、書き出すのに大きな精神的エネルギーを必要とすると言われています。しかし、身近な話を書くだけであれば、作文を書くのは、それほど苦労することではありません。例えば、小学校低学年の子が初めのころによく書く題名である「今日のこと」などは、実際にあったことをそのまま書いていくだけですから、だれでもどんどん書いていきます。
しかし、これが、書く題名を指定されるようになると、急に難しくなります。例えば、先ほどの「いたずらをしたこと」「初めてできたこと」などという題名が与えられた場合です。子供たちの中には、「いたずらしたこと、ない」「初めてできたこと、ない」などという子が必ずいます。自分の過去の経験を思い出して再構成するというのは思考力を必要とするので、そういう思考に慣れていない子は、すぐに、「書くことがない」とあきらめてしまうのです。
こういうときに、先生や親が、「こんなことない? あんなことない?」といくら聞いても、考えることをあきらめた子は、いつまでも、「それもない。これもない」と言い続けます。これは、
作文を書く力がないのではなく、考える力がないのです。
こういうときの指導のコツは、近くにいるお父さんやお母さんが(通学教室であれば先生が)、子供と話をしながら構成図という用紙をどんどん埋めていくことです。
「えーと、『ぼくは、いたずらはしたことがありません。」と。それから、何? 『ぼくの学校の友達には、いたずらな子がいます。』でいいかな。『その子は、授業中によくいたずら書きをしています。』と。『この前は、教科書の中の人の顔にメガネとひげをかいていました。』と。それから、何書くかなあ」
などと、話をしながら構成図を埋めていくと、途中から必ずその子ども自身が、「そうじゃなくて、こうだよ」と話してきます。その話も盛り込んで構成図を書いていくと、早ければ10分もかからずに、構成図が全部埋まります。
それから、「じゃあ、これで書いてごらん」と言えば、だれでも題名課題の作文が書けます。このようにして、少しずつ自分で考えて書く力をつけていくのです。
考える力のない子に、ただ作文用紙とにらめっこをさせているだけでは、作文力はつきません。どんな方法でもいいから、まず書き出させることが大事なのです。
ところが、事実中心の作文の場合は、構成図を埋めるようなアドバイスで、どの子も作文を書き出すことができますが、説明文や意見文、さらに感想文になると、思考力が更に要求されるので、構成図だけでは書かせることができなくなります。子供自身が、もとになる文章を読んで自分なりに理解していなければ、アドバイスそのものができません。考える力がないと、作文を書き出すことができないのです。
しかし、もし、このように考える力を伸ばすための指導を行わずに、上手に書く指導をするだけであれば、小学生時代は、作文に書く材料さえあれば、かなり上手な作文を書くことができます。内容がよくてたとえなどの表現が効果的に使えれば、それだけでコンクールに入選するような作文が書けます。
言葉の森の小学生の子供たちは、感想文コンクールや作文コンクールによく入選します。しかし、コンクールに入選する子供たちは、自分で応募して入選しているだけで、言葉の森では、そういうことには力を入れていません。コンクールの入選は本人の自信につながるので、それ自体はよいことですが、もっと大事なのは将来に役立つ考える作文を書く力をつけることだと考えているからです。
言葉の森では、表現を工夫して作文を書くこと以外に、複数の実例を組み合わせて構成を立体的にして書く練習や、自分の意見とは反対の意見にも理解を示しながら考えを深めて書く練習や、自分の体験を通した実例ばかりでなく社会的な知識を通した実例を書く練習をします。だから、課題が難しくなると、実力のある子でも、なかなか上手に書くことができません。
しかし、このことによって、
高校生になっても、大学生になっても通用する考える作文を書く力が身についていくのです。
他の作文通信講座とは違う言葉の森の作文指導 |
他の作文通信講座 | 言葉の森 |
小学生の間だけの指導 | ○小学生から中学生、高校生まで指導 |
顔の見えない赤ペン添削 | ○担任の先生による親しみのある指導 |
教材が送られてくるだけ | ○担当の先生が毎週電話で説明 |
隔週制や締切なしで習慣がつかない | ○毎週決まった時間の電話で習慣がつく |
低中学年は、短文作成や穴うめ形式の易しい教材なので提出率が高い | ○低中学年から、作文や感想文などの難しい教材だが提出率が高い |
高学年で受験用の難しい課題になると書けなくなる | ○高学年の難しい課題でも低学年からの高い提出率が続く |
有名な先生が教材を監修 | ○講師全員が教材作成に参加 |
大事なのは、低中学年で楽しく書くことではなく、低中学年の楽しい作文を高学年の難しい作文に結びつけることです。
参考:作文通信教育のD社と言葉の森の比較
2011年4月現在 |
| D社 | 言葉の森 |
提出回数 | 月2回 | 月4回 |
月謝 | 5,300円 | 8,200円 |
小1の字数 | 50-200字 | 100-200字 |
小2の字数 | 70-200字 | 200-400字 |
小3の字数 | 100-400字 | 300-600字 |
小4の字数 | 100-400字 | 400-800字 |
小5の字数 | 200-600字 | 500-1,000字 |
小6の字数 | 400-600字 | 600-1,200字 |
課題提出率 | 80% | 91.6% |
提出回数も約2倍、字数も約2倍なのに、言葉の森の方が提出率が10%以上も高くなっています。
言葉の森の生徒が、ほとんど毎回作文を提出しているのは、毎週の電話指導があるからです。
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言葉の森ももうひとつの特徴は、先生が生徒に個別に対応する以外に、生徒が、お父さんやお母さんと対話をする形の勉強を重視していることです。
例えば、作文の課題の中に、「似た話を聞いてくる」というものがあります。小学校中学年では、「いたずらをしたこと」「初めてできたこと」「大笑いをしたこと」などの題名で書く課題がありますが、ここで、自分の話だけでなく、家族に取材して話題を広げてくるのです。多くの生徒は、身近なお母さんに取材してきますが、お父さんに取材したり、田舎のおじいちゃんおばあちゃんに取材してくる子もいます。
この家族との対話の中で、子供の認識力が育っていきます。本を読んだりテレビを見たりすることによって知識として学んだことは、すぐ忘れてしまうことも多いものですが、自分が体験の中で学んだことはその子の血や肉となります。これと同じように、身近な家族から聞く話も、子供自身の体験と似た意味をもっています。
家族からの取材は、感想文を書く場合は更に重要になります。感想文の主題となっているものの中には、子供にとって頭で理解はできても、体験を通して学ぶことのなかったものがかなりあります。しかし、人生経験の長い親は、実生活の中で似たような経験を何度か繰り返しています。
例えば、芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」はだれでも知っていますし、そこに書かれている内容は小学生でも十分に理解できます。しかし、小学生の子供は、たとえ自分に似た話があったとしても、それを似た話として思い出すことはなかなかできません。ところが、親が同じテーマの広い意味での似た話を聞かせてあげると、子供は親の経験を通して、そのテーマを実例としてとらえることができるようになるのです。
これが、対話を通して学ぶということです。
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中学受験で多忙な勉強の1年間が終わると、ほとんどの子が読書の習慣をなくしてしまいます。
本を読むのが好きな子は、中学生になってから本を読み始めますが、中学生時代というのは、部活があったり定期試験があったり意外と忙しい時期です。
読書は、毎日の習慣で読み続けていけるものですから、テストなどで何日か本を読まない日が続くと、すぐに読書の習慣は途絶えてしまいます。
しかし、この中学生の時期にも、しっかりと本を読み続ける子がいます。そういう子は、ほぼ例外なく国語の力があります。そして、国語の力がある子は、やる気になるとすぐにどの教科の成績も上げることができます。(ただし、読書好きな子は、退屈な勉強を嫌う子も多いので、受験勉強のスタートなどは遅れ気味になることも多いようです)
さて、中学生になっても読書を続ける子は、どういう本を読んでいるのでしょうか。意外なことに、それは親の目から見ると、一見程度の低い内容に見える本なのです。
教育関係者と呼ばれるような人の多くは、本を選ぶときにまずその内容に注目します。内容に感動があり、読みやすい本であれば、それを良書と考えがちです。しかし、読みやすい本というのは、易しい語彙しか使われていないために読みやすいということも多いのです。
その反対に、一見くだらない内容に見える本の中に豊富な語彙が盛り込まれていることがあります。
以下の例は、どちらがよいか悪いかということではなく、表現の仕方の例として見てください。
まず、森絵都さんの「アーモンド入りチョコレートのワルツ」という本の表現の一部です。
====(引用はじめ)
ぼくは一瞬、どうすればいいのかわからなくなって、とっさに海へ目をやった。暗い暗い夜の海。遠い岸辺に灯台の光が見える。その光がぐるりとひとまわりしても、ぼくにはまだどうすればいいのかわからなかった。
====(引用おわり)
情景と心情の描写が工夫されていますが、使われているのは平易な語彙で、小学生でも十分に読めます。
次は、中村うさぎさんの「極道くん漫遊記」という、著者名と書名からして良書には選ばれることのなさそうな本です。^^;
====(引用はじめ)
やがて俺たちは、鋼鉄製の柵に囲まれた瀟洒(しょうしゃ)な屋敷にたどり着いた。ドラゴンは、門の前まで押し寄せてきた群衆を蒸気の鼻息で威嚇すると、そのまま番犬のようにうずくまる。
====(引用おわり)
こういうちょっと難しい表現で書かれた文章とともに、冒険物の本らしいテンポの速い会話が続きます。
====(引用はじめ)
だが、フールーは、すました顔で言葉を続ける。
「わたしたちは、美しいモノが好きなの。……(略)……皆、美少女ばかりでしょ?」
「自分で自分を美少女とか言うなっつーの!」
「あら、ホントのコトだもん」
「…………」
誰か、このバカ娘に、謙遜(けんそん)ってモノを教えてやれぇーーっ……て、まぁ、俺も教わったコトねーけどな。ははは。」
だが……ちょっと待てよ? よくよく考えてみりゃ、……(略)……
====(引用おわり)
登場人物が極道くんなので、品の悪い言葉で書かれていますが、言葉と実感がよく結びついている表現です。
読書で大事なことは、いろいろありますが、いちばん重要なことは、毎日読むということです。だから、面白く読めるということが最優先です。そして、そのうえに、難しい語彙が盛り込まれていれば申し分ありません。たとえ内容的に優れた本であっても、子供がその本を薬でも飲むように決められたページまで義務感でやっと読むというような本では読書力はつきません。そして、この読書力が、読解力の土台になっているのです。
ときどき、「読書をしても国語の成績は上がらない」と言う人がいますが、それは半分は正しく半分は間違っています。どこが間違っているかというと、「読書をしないのに国語の成績のいい子はいない」ということも言えるからです。読書力は、そのまま読解力ではありませんが、読解力の土台となっています。
国語の問題で物語文を読むときに、読書力のある子は、文章を実感をこめて、あたかもその物語の中の世界を自分が経験しているように読むことができます。そういう読み方ができれば、選択問題でも記述問題でも、問題を見たあとにすぐに答えることができます。しかし、読書力のない子は、まず読み取ること自体に時間がかかりますが、それ以上に、問題を見たときに、もう一度もとの問題文の該当箇所の周辺を読まないと答えが出てきません。ここで出てくるスピードの差が読書力の差なのです。
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通信教育で作文指導を行うところが増えてきました。公立中高一貫校の入試で作文が重視されるようになったためです。
今回は、そういう作文の通信講座とは違う言葉の森の作文指導の特徴を7点にわたって説明したいと思います。「作文教室比較のための新7つの基準」ということです。作文教室や国語教室を選ぶ際の参考にしてください。
まず第1は、言葉の森では、子供が教材をこなすだけでなく、先生と生徒、子供とお父さんお母さんの対話を重視した指導をしていることです。
与えられた教材を埋めていくだけであれば、どの教材も似ています。そして、
子供が楽に取り組める教材になるように工夫すればするほど、実力をつける教材からは遠ざかっていきます。特に、作文や国語の教材では、そういうことが多いのです。
楽に取り組める教材は、子供の理解力よりも低く作られています。子供が、難しい文章よりも易しい文章、易しい文章よりも絵の多い漫画を好むのは、自分の理解力よりも低いものの方がなじみがあるからです。
しかし、
本当の実力は、子供の今の理解力よりも少し難しいものを学ぶことによって身につきます。この「少し難しい」というレベルは、算数のような積み重ねの道筋がはっきりしている教科の場合は、スモールステップで対応することができますが(しかし、実際にはそういう対応ができている教材は「でき太くん」のようなものに限られているようですが)、国語の場合はそうではありません。
難しい文章を理解できる子は、だれも同じように理解できますが、理解できない子は、多様な原因で理解できません。ある子は、体験が不足しているために理解できず、ある子は語彙が乏しいために理解できず、ある子は精神年齢がまだ低いために理解できないというさまざまな原因があるために、理解の深さと浅さが人によってさまざまに異なるのです。
子供によって異なる理解の差に対応できるのは、国語の場合、教材ではなく人間です。先生やお父さんやお母さんが、子供の反応を見ながら説明することによって、その子の理解度に応じた指導ができます。言葉の森の教材は、全体にかなり難しく作られています。特に、小学校5年生からの教材は、考える要素が多くなるので、普通の小学校5年生の力ではひとりでは十分にこなすことができません。また、小学校3年生から始まる感想文の指導も、普通の小学校3年生では、決してひとりでこなすことができません。
しかし、言葉の森では、できる子もできない子も、全員その教材ができるように指導しています。それは、
実力のある子には、その実力に応じた高度なアドバイス、実力のない子には、その実力に応じたわかりやすいアドバイスが臨機応変にできるからです。
夏休みに学校で出されることの多い読書感想文の宿題は、日本全国で小学生の子供たちを苦しめている宿題ですが(笑)、この読書感想文も、言葉の森のやり方であれば、どの子も楽に書けるように指導できます。それもすべて、その子の理解度に応じて話をするという教え方の蓄積があるからです。
言葉の森の通信指導は、毎週の電話で先生が生徒に説明する形で行っていますが、担当の先生が生徒と直接話をするので、子供の反応を見ながら説明することができます。こういう個人対応の指導は、教材と赤ペンだけでは、どれだけ工夫しても十分にはできません。
特に、作文指導で大事なのは、書く前のアドバイスであって、書いたあとの添削ではありません。
書く前のアドバイスで、生徒の理解度に応じた説明ができなければ、書いたあとの添削でいくら個人別に対応しても、それは本当の個人対応にはならないのです。
言葉の森以外の作文通信講座で作文の勉強をしている人は、子供が作文を書き出せないときにどうしたらいいか困ることがあると思います。書いたあとの赤ペン添削は、確かに充実していると思います。しかし、作文の勉強で大事なのは、書いたあとのアドバイスではなく、まず書き出すことができるかどうかということです。
通信講座の中には、子供が書き出しやすいように、作文ではなく、国語の穴埋め問題のような教材を用意しているところもあります。しかし、これは経験した人ならわかると思いますが、穴埋め問題で短い文をどれだけ書いても、そのことと、ひとつのまとまった作文を書くことの間には、非常に大きな差があります。作文の力は、作文を書く中でしか身につきません。だから、子供が作文を書くという指導をすることが最も重要なのです。
言葉の森の子供たちの作文の提出率は、毎週ほぼ百パーセントです。しかも、小学校高学年以上の課題は、中学受験の作文試験にもそのまま対応できる難しい課題がずらりと並んでいます。
子供たちが、なぜそういう難しい作文を書けるのかというと、担当の先生と生徒の間に毎週の事前指導のコミュニケーションがあるからです。(つづく)
※これから7点にわたって書くつもりでしたが、第1の話の途中で、結構長くなってしまいました。(^^ゞ このあとは、できるだけ簡潔に書いていきたいと思います。
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東日本大震災とそれに続く今回の原発事故については、既に豊富な情報が出ているので、言葉の森のホームページではしばらく書いていませんでした。
しかし、今、原発の今後について大きな不安を感じている人も多いようです。そこで、今後の心構えについて書いておきたいと思います。
福島原発は、これまで綱渡り状態で、更に大きな事故に発展する可能性がありましたが、私の予感では今後は安定して最終的には収束していくと思います。
しかし、原発については、まず原子力の利権で動いていた組織をすべて解散し、日本から原発を廃棄することです。日本が原発を廃棄すれば、それが世界の潮流になります。日本は、世界をリードするそういう役割があったのだと思います。
さて、未来に横たわる危機は大きく四つあると思います。
第一は、原発の事故も含む自然災害です。地球の変動に伴って、今後も大地震、火山の噴火、原子力事故などが起きるかもしれません。その場合は、ただその災害が起こった場所から静かに避難することです。簡単なことです。避難するのに何を持っていこうかなどと考える必要はありません。生命されあれば何とでもなるものです。
第二は、経済の破綻です。このあと、ドルの崩壊、日本の財政破綻、ハイパーインフレ、食料危機などが起きたとしても、日本全体では全員に十分行き渡るだけの富があります。これは、世界全体でも同じで、今飢餓に苦しんでいる人がいるのは、地球に食料が不足しているからではなく、それを行き渡らせる政治が不足しているからです。経済の破綻が起きたら、まず助け合うことです。ひとりひとりが助け合う気持ちを持てば、経済の破綻は克服することができます。
その助け合いが自然にできるたぶん唯一の国が日本だということが今回の震災でわかったのだと思います。
第三は、戦争やテロの勃発です。経済情勢が厳しくなると、他国への侵略によって自国の不足を解決しようとする国が出てきます。しかも、戦争は大義名分を用意してから行われるので、国と国との争いは、すぐに国民どうしの大規模な争いに発展します。このような戦争を起こさないためには、戦争への動きがあったときにまずそれを止める行動をすることです。その止める行動には、戦うことも含みます。
特に、日本の一部が侵略されるようなことがあれば、それを黙認したり、ほかの国に助けを求めたりするのではなく、日本自身でしっかりと戦う決意を示すことです。他国を侵略しようとする国は、国内の矛盾を抱えていますから、日本が毅然として侵略を許さないという行動をとれば、かえって自国の内部の矛盾の方が大きくなります。大事なことは、日本が正義の原則を譲らないということです。
第四は、感染症の拡大です。今後、世界の各地で新しいウイルスが発生し急速に広がるような事態もあると思います。この場合は、生物が持つ自然治癒力に信頼を置いて、明るく元気に耐えることです。人類の歴史には、これまで何百回も何千回もそのようなパンデミックがあったはずですが、人類は絶滅もせずに生き抜いてきました。医学の力を過小評価するものではありませんが、ワクチンには効果もあればそれ以上の副作用もあります。ワクチンを求めて右往左往するのではなく、まず自分の力で感染症を治すという決心をすることです。
以上のように考えると、これからさまざまな困難があるとしても、基本的には何も心配ないことがわかります。
そして、この動乱の何年間が過ぎたあとに、人類は今よりももっと豊かで明るい社会を作るために協力して動きはじめるでしょう。
言葉の森は、そういう未来の社会を念頭において、新しい産業社会における、より充実した作文教育を創造していきたいと思っています。
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未来の教育の大きな戦略目標として、「受験の教育から、実力の教育へ」、「学校の教育から、家庭の教育へ」と書いてきました。今回は、「点数の教育から、文化の教育へ」という話です。
教育は、個人の側から見れば、自己の向上です。社会の側から見れば、社会の再生産です。その両者の出合うひとつの形が点数です。社会は、社会自身を再生産する方向に向かって100点を用意します。個人は、自己の向上のバロメータとして、その100点に近づくことを向上の目標とします。
ところが、教育の目的が、実力をつけることから受験に合格することに狭められることによって、この点数による評価が極大化したというのが現代の教育の特徴です。点数が評価の中心になるにつれて,逆に、点数化しやすいものが教育の中心になっていきました。
例えば、小学校から高校にかけての教科には、国語、数学、英語、理科、社会、音楽、美術、体育などがあります。このうち、音楽、美術、体育などは、点数化しにくいので、一般的な受験勉強の中心にはなっていません。理科や社会は、点数化しやすい教科ですが、そこで求められる知識は比較的平板なものなので、記憶力を中心としたものになります。国語、数学、英語は、理科や社会に比べると、知識が立体的な構造を持っているので、記憶力以外に思考力が必要になります。そのため、国語、数学、英語が受験勉強の主要な3教科になり、そこに、理科、社会を付け加えて5教科の勉強が教育の中心になるという体制になっています。
教育とは、社会の再生産ですが、その再生産が点数化されやすいものに絞られることによって、自己の向上も点数化されやすいものに絞られるようになってきました。点数が教育の評価の中心になることによって、社会と自己の両者がともに質の低い目標に甘んじるようになってきたというところに、現代の教育のひとつの問題があります。
例としては少し飛躍しますが、例えばドッグショーという犬の評価があります。そこで評価されるものは、姿形や血統が中心です。外面からは判断しにくい、性格のよさや頭のよさは評価の中に出てきません。そして、そういう内面的なものが出てこないばかりか、外面的なものが極端に重視されると内面的なものが低下する面も出てくるのです。人間の教育も似ています。点数化しやすいものによる評価は、ある程度までは有効ですが、それが極端に重視されるようになると、かえって人間の成長と社会の発展を妨げる面も出てきます。
社会も人間も、その多くは、点数化されにくいものによって運営されています。例えば、江戸しぐさのような文化があります。座る場所が混んでいたら互いにちょっと詰めてあげるというような文化です。道でときどき出会う人には、相手のことをよく知らなくても会釈を交わします。災害のあった場所でもそれをいいことにして物を略奪するようなことはしません。見知らぬ人どうしでも分け隔てなく相手の立場に共感してものを考えます。自然と一体感を感じ、自然を味わうことに喜びを感じます。こういうことは、すべて社会の中で再生産されている文化です。しかし、これらの中で点数化されるようなものはほとんどありません。
こういう例は、挙げればきりがありません。例えば、言葉だけで列挙すると、親孝行、自然への信頼、祖先への尊敬、日本語脳、よい姿勢、早寝早起きの習慣、清潔に対する感覚、色彩を表す表現、昔話に伝わる文化、助け合いの文化、譲り合いの文化、自己主張のない文化、誠実さや正直さに対する価値観、道を追求する文化、八百万(やおよろず)的な考え、オープン性、平和志向、静かな文化、清貧の思想、明るさに対する価値観、手先の器用さ、謝ればすぐに水に流す文化など、こういう日本の社会に伝わる文化のほとんどは、点数による評価とは無縁のものです。
しかし、これらの文化は、点数評価を中心とした社会の中では、軽視されるどころか否定されてしまうこともあります。例えば、テスト勉強のコツとして、子供たちが、「時間がなかったら、選択問題はとにかくわからなくても埋めておけ」というようなことを教えられたとします。しかし、これは、日本文化の中にある正直さや潔さ(いさぎよさ)に対する価値観とは対極にある考え方です。
日本文化は、以前、無の文化だと書いたことがあります。(
「新たな知のパラダイム」)。それは、西洋における有の文化とは正反対の哲学に立脚しています。西洋の有の文化とは、個人のエゴを社会の構成原理としている文化です。そして、このエゴ的なものほど、点数化されやすいという傾向があります。
点数は、どこができていたらプラス何点で、どこができていなかったらマイナス何点だというふうに、特定の場所を基準として誰にとっても共通に客観的に採点されるので説得力があります。無味乾燥な説得力というのが、点数文化の特徴です。
それに対して、点数化されない文化は、全体の雰囲気の中で承認や共感を受ける形で評価されます。未来の教育のひとつの大きな方向は、この「点数の教育から、文化の教育へ」という流れの中にあるのだと思います。
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これからの教育を考えた場合、受験のための勉強から実力のための勉強へ、というひとつの流れがあると書きました。(前回の記事)
もうひとつは、学校で先生に教えてもらうような形の勉強から、家庭で自分自身で学ぶ勉強への流れです。
現在、教育というと、学校で先生に教えてもらうものというイメージがすぐにわきますが、実はそういう形は、決して普遍的なものではありません。学校で先生が生徒に教えるというスタイルの勉強は、近代のヨーロッパで生まれた特殊な勉強の形態がただ世界中に広がっただけだったのです。
日本で、この学校制度が教育に取り入れられたのは明治時代からです。それまでの日本では、教育は、主に寺子屋という形で行われていました。武士階級では、藩校のようなものもありましたが、そこで行われる教育も、学校というよりも寺子屋のスタイルに近いものでした。
寺子屋のスタイルの勉強というのは、生徒ひとりひとりが思い思いに教材を学ぶという形の勉強です。先生が一定のカリキュラムに沿って、全生徒を並べて一斉に授業をするという形の勉強ではありません。先生が、全員を集めて一斉に講義をするという形の勉強は、子供への教育というよりも、既に成人した人に対する講演のような形で行われていました。
ところで、日本の江戸時代の識字率が70-80%だったのに対して、当時のヨーロッパの先進国の識字率は20-30%しかありませんでした。江戸時代の勉強法は寺子屋方式で、ヨーロッパの勉強法は学校で先生が教える方式でした。
なぜこのような違いが出てきたかというと、日本では、教育が一般大衆の生活と密接に結びついていたからです。江戸時代の庶民は、毎日の生活の中で文字を使い計算をする必要に迫られていました。仕事ももちろんそうですが、かるた遊びや、短歌、俳句、手紙のやりとりなど、毎日の生活の中で文字が頻繁に使われていたのです。江戸時代の日本は、それだけ社会全体の知的水準が高かったのです。
ところがヨーロッパの教育はそうではありませんでした。ヨーロッパでは、教育を必要としたのは社会を支配する一部の階級だけで、一般の庶民は教育とは無縁の生活を営んでいました。一握りのエリートの子弟を教える方法として、学校で先生が一斉に教えるという形がとられていたのです。
江戸時代までの日本で、既にヨーロッパよりも優れた教育が行われていたにもかかわらず、明治政府がヨーロッパの学校制度をとりいれたのは、当時の日本人が新しく学ばなければならないヨーロッパの近代科学が、それまでの日本の文化からはかけ離れたものだったからです。子供たちが学ぶための教材自体が、新しい教科書を作らなければ用意できませんでした。そして、子供たちが新しく教科書で学ぶ知識は、親の伝統的な知識の中にはないものがほとんどでした。短期間で急速に欧米に追いつくために、日本はヨーロッパの学校制度を取り入れざるをえなかったのです。
この学校制度も、やはり当初は大きな成果を上げました。日本は、明治時代からずっと教育の先進国でした。日本の社会全体が教育に対する関心が高く、庶民の平均的な知的水準も先進国の中で最も高かったのです。底辺が高いために、一般大衆とエリートの知的水準の違いがほとんどないというのが、日本の社会の特徴でした。
しかし、OECDの学習到達度調査(PISA)が行われるようになった2000年ごろには、日本の教育力には、既にかげりが見られるようになっていました。今、日本における学校教育は、生徒の実力をつけるのにあまりよく機能しているようには見えません。教育関係者の多くは、その原因を先生1人が教える生徒の多さにあると考えているようですが、昭和の中ごろまでは、1学級の人数はもっと多かったのです。少人数学級になれば、教育の質は確かに充実するでしょうが、問題の根本的な解決策はそこにはありません。40人学級が30人学級になっても20人学級になっても、また、ひとりの担任から複数担任制になっても、今の学校の教育機能低下に歯止めはかからないでしょう。それは、なぜかというと、これまでの日本の子供たちの学力を支えてきたものが、学校制度ではなく、学校制度をとりまく家庭の環境や文化だったからです。
日本の家庭には、江戸時代の昔からずっと続く伝統的な教育文化、特に優れた文字文化がありました。例えば、昔話を聞かせる、しりとり遊びをする、カルタ取りをする、百人一首をする、年賀状を書く、書き初めをする、本を読む、雑誌や新聞を読む、という文化です。このほかに、折り紙を折る、お絵かきをする、九九の暗唱、十二支の暗唱、いろはの暗唱、春の七草の知識、故事やことわざの知識など、日常生活の中で自然に行われる文化が、日本人の知性を育てることに役立ってきました。この家庭における文化によって、日本の子供たちは、学校に上がる前から既に一定の知的水準を共通に持つようになっていました。
このような共通の知力がある子供たちに、学校の先生が宿題を出せば、ほとんどの家庭では、日常生活の延長でその宿題をこなしてきます。例えば、小学校低学年で学ぶ九九も、学校の授業だけでは到底全員に徹底させることはできません。家庭での練習が前提になって初めて、日本人の全員が九九を言えるようになっているのです。
ところが、昭和の後半から、この家庭の文化が崩壊し始めました。それは、夫婦が共働きをせざるを得なくなるような経済環境の変化もあったと思います。しかし、それ以上に家庭の文化を崩壊させたものは、テレビ、そしてそのあとに続く、ゲーム、インターネット、ケータイなどの情報娯楽文化だったのです。もちろん、今でもほとんどの家庭は、その家庭なりの文化を保持しています。共働きで忙しくても、子供たちのテレビやゲームやインターネットの時間が多くなっても、何とか時間を捻出して親子の対話の時間を確保している家庭です。しかし、その度合いはまちまちです。
そして、この結果、それらのまちまちの知的水準にある子供たちを受け入れる学校は、既に小学校1年生のころから、一斉に授業を進めることを前提にした教育ができなくなってきたのです。これが、公立学校に見られる学級崩壊の根本的な原因です。一斉の授業を効果的に進めるためには、子供たちの知的水準を同じ程度にしなければなりません。だから、私立小学校、私立中学校のように、テストで選抜された子供たちを教えるところでは、昔ながらの一斉授業スタイルの勉強を生かすことができます。しかし、公立小中学校のように子供たちの水準に差があるところでは、いくら少人数学級にしても、一斉指導の授業では限界があるようになってきたのです。つまり、家庭文化の崩壊が、学校教育の崩壊の本当の原因になっているのです。
問題の根本的解決は、勉強の中心となる場所を、学校から家庭に移すことです。それは、今のほとんどの人にとってはなじみのない教育スタイルだと思います。しかし、江戸時代までの寺子屋教育は、この家庭を中心とした教育でした。寺子屋というのは、今の学校のように、生徒を集めて先生が一斉に授業をするような場所ではありません。そこでは、子供たちは思い思いに自分に決められた勉強を行い、時間が来ると家に帰りました。その間、先生はただ子供たちが羽目をはずしすぎないように見守っているだけで、子供たちの勉強が新しい段階になるときだけ、手短に次の勉強の仕方を指示しました。寺子屋というのは、家庭でもできることを、スペースや教材のうえでより能率的に行うために設けられた場所だったのです。
現在の家庭は、インターネットや電話を利用すれば、この昔の寺子屋環境をそのまま家庭に移すことができる条件を持っています。もちろん、すぐにそのような変更はできませんが、これからの歴史の流れを大きな目で見ると、教育の中心は学校や塾から家庭に移ってきます。学校は、教育の場というよりも、集団活動や交流を楽しむ場として活用されるようになるでしょう。
この変化は、小学校や中学校のようなところだけではなく、高校や大学にも広がっていきます。大学での勉強も、わざわざ遠くまで通って授業を聴いてレポートを書くというような学習の仕方に、多くの人は内心疑問を感じています。能率よく勉強しようと思えば、ネット環境を利用して自宅で学び、本当に会って話を聴きたい人にだけ会いにいくという形の勉強が最も合理的です。このような形が作られれば、勉強の目的は、受験のための勉強から実力のための勉強へと大きく変化していきます。そして、この勉強の目的の変化に応じて、勉強の場所も、学校から家庭へと大きく変化していくのです。
(2011年4月8日加筆)
勉強の場所が、学校や塾から家庭へと変化したあとに、その家庭での学習を能率化するために、ひとつの家庭に複数の子供が集まるような状態が生まれてきます。次第に多くの子がひとつの場所に集まるようになると、家庭の教育は、地域の教育に発展していきます。それが、新しい時代の寺子屋です。
集団で学ぶという外見は、一見今の学校に似ていますが、学校が家庭から切り離されて存在しているのに対し、寺子屋的な地域の教育は、家庭での教育の延長にあります。未来の教育は、正確に言えば、学校から、家庭と地域に移っていくのです。
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