これまでの工業時代における消費産業においては、消費したいものを消費者が買うので、その物財が売れることによって生産者が豊かになり、それが労働者の賃金という形で消費者に再び還元されるという仕組みでマネーが回っていました。
これからの創造産業においては、そうではありません。まず創造したいものを創造者が作るので、その創造物の価値を賞賛するために、他の創造者がその創造物を買うという形でマネーが社会の中を回ります。マネーの流れの源泉が、欲求をもとにした消費から、新しい価値の創造をもとにした賞賛に変わってくるのです。ちょうど、文化祭の模擬店で、面白いものを買ってあげるためにチケットを使うというような形に似た経済と考えるといいでしょう。
そして、その面白いもの、つまり新たに創造されたものが、新しい需要を作り出します。つまり、既存の需要を奪い合う社会から、新しい価値の創造によって新しい需要を創造する社会へ向かう途上に、現在の日本はあるのです。
その新しい社会がまだ実現していないのは、お金を持っている人が、その使い道がないために、マネーの流れをとどめているからです。そして、そのことによって日本中が互いに貧しくなっていることに多くの人が気づいていないからです。
だから、まずお金のある人が、新しい価値の創造を賞賛するために、そのお金を使うことから始めなければなりません。
ケインズ経済学の本質は、供給力の過剰によって社会にたまったお金を、社会が再び使わざるを得ない仕組みを作ることにありました。ケインズは、有効需要を作るためには、ピラミッドを作ることでも、大きな穴を掘ってそれを再び埋めることでも何でもよいと言いました。需要が新たに作られさえすれば、それが無駄な需要であってもかまわないと考えたのです。しかし、その延長に、「その無駄は戦争であってもいい」ということも成り立ちました。
日本がこれから目指す新しい需要は、そのようなものではありません。ケインズが、有効需要は無駄な需要であってもよいと考えたのは、当時の欧米の社会では、大衆はそれぐらいしかできないと思われていたからです。これに対して、日本では、ブルーカラーの労働者も職場でのカイゼンに参加するだけの知的創造性を持っています。社会全体の知的平均値が高いというところに、日本で世界初の創造産業社会が誕生する条件があるのです。
これまでの社会では、生産技術の未発達による生産力の不足が、需要-生産-労働のサイクルを作り出し、それが、不足に対する競争を生み出していました。その競争の仕組みが、社会のすべての分野に浸透していた結果、教育も競争の中で行われるようになっていたのです。
しかし、その結果、勉強の目的が競争に勝つことになり、何のための競争かということよりも、どれだけ激しい競争で相手に勝つかということが重視されるようになりました。
勉強の真の目的は、自分を向上させ、社会に価値ある創造を付け加えることによって社会に貢献することであるにもかかわらず、勉強の過程で競争が重視されるようになった結果、受験のための教育や点数のための教育が広がるようになっていったのです。
この競争教育は、ふたつの問題を生み出しています。
ひとつは、競争に勝つような優れた能力を持った人たちの勘違いです。優れた能力を持つ人は、その個性を生かして社会に役立つ仕事をしようとするのでなければなりません。それが、できるだけいいイスを取って自分が安泰に暮らすための人生を送ることを目標にするようになってきたのです。このことが,社会全体の大きな損失を生み出しています。
もうひとつは、競争に負けたと思う人たちの自信喪失です。人間は本当はだれでもが自分の個性を生かした創造ができる存在です。にもかかわらず、自信を持たない人は、自分でその可能性を閉ざし、消費と労働の世界に安住してしまうのです。ここにもまた、社会全体の大きな損失があります。
競争教育は、競争に勝った人の私利私欲の価値観と、競争に負けた人の早めの自信喪失を生み出しています。
多くの人は、月曜から金曜までは我慢して働き、土日は休んで英気を養うというような日々の送り方をしています。土日の休養と消費生活のために、月曜から金曜の労働があるという生活です。
競争に勝った人も、同じ罠にはまっています。だれもが、より豊かな消費生活とより多い休養のために、いかに割りのよい労働に携わるかということを人生の目標にするようになっているのです。
競争ということを考えるとき、私は、30代のころ、房総半島の磯で見た光景を思い出します。激しく波の打ち寄せる岩場で、たくさんの小さな海草が岩場にしがみついていました。ある海草は、波の穏やかな日当たりのいい場所に根をはっていました。ある海草は、波の荒い日陰に小さく根をはっていました。しかし、それぞれの海草が、自分の今いる場所で自分にできるかぎりの光合成という創造を営んでいました。
人間社会も、本来はそうであったはずです。人よりもいい場所を取ることを目的にするのではなく、自分の今いる場所で自分なりの新しい価値を創造することが本当は自然な生き方です。
ところが、今まさに、そういう社会が生まれる条件ができつつあるのです。(つづく)
現代の教育を特徴づけているもののひとつは競争です。競争は、勉強の意欲づけに欠かせないもののように思われています。
競争による意欲は、数多くの意欲のきっかけのひとつに過ぎませんが、競争だけが突出して重視されているように見える原因は何でしょうか。この原因を知らずに、競争を否定することも、競争に没頭することもどちらも、正しい対応の仕方ではありません。
競争に力を与えているものは、現代の社会の中にあります。それは、限られたイスを取り合う社会の仕組みです。
例えば、なぜ人間が、よりよい学歴をめぐって競争するかというと、それはその競争に勝つことが、将来の社会生活における、よりよい職業、よりよい会社、よりよいポストなどに結びついているからです。そして、これまでの日本では、いったんよいポストにつくことは、その後の人生の安泰を保障していたからです。
競争によって社会生活のポジションが決まる社会では、教育も含めてすべてが競争の中に置かれます。だから、教育の分野だけが競争を否定することはできません。たとえ外見上の競争を抑えたとしても、それはただ競争を潜伏化させるだけです。
教育と競争の問題を考える場合、競争があることをまず前提にする必要があります。しかし、その競争に邁進していいのではありません。それは、なぜかというと、ひとつには、これまでの競争社会が崩壊しつつあるからです。そし、もうひとつには、競争を必要としない新しい社会が生まれつつあるからです。
まず、競争社会が崩壊しつつあることについてです。
現代の社会は、競争の激化によって、賃金カット、リストラ、失業などが次々と生まれています。公務員、医師、弁護士という安定しているように見える職業も例外ではありません。また、企業の盛衰も激しく、一生安泰な会社などは、もはやどこにもありません。しかも、大企業の方が今後激しい競争にさらされるおそれがあります。なぜかというと、現代の大企業は、大きく見ると過去の工業時代の担い手であったが故に大きくなってきたからです。
工業時代の経済の中心は、今急速に中国など新興国に移行しています。大企業は、今後、好むと好まざるとに関わらずグローバル化しなければ生き残れません。しかし、そのグローバル化は、その企業の内部の人にとっては激しい生き残り競争を意味します。
競争社会がこれまで機能してきたのは、逆説的に言えば、競争に勝てば一生安泰だというシナリオがあったからです。しかし、生涯、競争に勝ち続けなければならない競争社会にあっては、人間は競争そのものに疑問を感じるようになります。特に、日本人のように他人との共感に基づいて生きる文化を持つ国では、生涯にわたる競争は受け入れがたいものになってきます。
次に、競争を必要としない新しい社会が生まれつつあることについてです。
現代の社会は昔の社会よりももっと進歩しているはずなのに、失業が増えるのはなぜなのでしょうか。それは、社会が豊かになったからです。つまり、失業者がいても、その失業者以外の人にとって社会生活が円滑に営まれるほど、社会の生産力が増大してきたためです。
今日では、農業も、工業も、昔ほど多くの人間の労働を必要としません。かつて人間が行っていた労働の多くを機械がカバーしているからです。これは、ブルーカラーだけでなくホワイトカラーでも同様です。唯一、サービス業だけが雇用創出力があるように見えますが、そのサービス業も、IT化やマニュアル化によって非熟練化し、低賃金化しています。
昔の社会は、次のような仕組みで経済が成り立っていました。
まず、物財が不足しています。欲しいものがなかなか手に入りません。そして、生産手段も不足してるために生産効率が悪いので、多くの人間の労働が必要です。このような時代には、人間は、欲しいものを消費するために懸命に働き、その働きによって賃金を手に入れ、その欲しいものを購入するというマネーの流れが成り立っていました。この構造が、今の中国の急速な発展の土台となっているものです。
しかし、日本では、もはやこのような構造は、成立しなくなっています。日本では、既に物財は豊富にあります。ほとんどの家庭に、自動車、エアコン、カラーテレビなどが備わっています。そして、それらの消費財を生産するための生産手段は高度化し、省力化を極限までおしすすめ、人間の労働を必要としなくなっています。つまり、企業にとっては、働く人が不要で、賃金の支払いも不要で、一方、国民にとっては、消費するものがないという状態にあるのです。このため、日本の国内ではお金が回らないので、日本の国全体としては、生産したものを海外に輸出して富を生み出すしかない状況に置かれています。
ところが、この輸出による富の創出は、中国など新興国の登場で急速に不可能になりつつあります。そこで、今、小手先の対応として、中国などからの観光客の消費による需要で国内の経済を活性化させようとする動きも出ています。しかし、これは、過去の経済にとらわれたジリ貧の道を進む対応です。
日本は、これから、豊かになった社会にふさわしい、新しいマネーの流れを作っていかなければなりません。それが、創造産業の時代と呼ばれるものです。(つづく)
※話が長くなりそう。……
(教室のペット犬ユメと猫)