言葉の森の保護者の方から、よく質問や相談があります。
その中で、ときどき出てくるのが、「先生が褒めてばかりいるのですが、これでいいんですか」というものです。
その答えは、決まって、「それでいいのです」です。
その理由1.直す指導では、長続きしないからです。
小学校低中学年のころは、褒める指導よりも直す指導の方がしやすい時期です。特に、低学年になればなるほど、直すことが多くなってきます。
しかし、その場合の「直すこと」の大部分は、直さずにそのまま放っておいても学年が上がれば自然に直るものです。なぜ自然に直るかというと、学年が上がり文章を読む量が増えてくると、自分で直そうと思わなくても自然に正しい書き方が身についてくるからです。
例えば、小学校低学年でよくある「わとは、おとをの区別」「会話の改行」などは、最初はみんなできません。できなくて当然です。日常の話し言葉でそういう区別がないからです。
しかし、文章を読む機会が増えてくると、自然にそういう区別があることがわかるようになります。そして、大部分の子は、だれに教わらなくても年齢が上がるにつれ自然に正しい書き方になっていきます。
正しい書き方を教える場合でも、小1のころに10回言わなければわからなかったことが、小3では1回でわかります。読む量の土台ができていれば、説明はすんなり入るのです。
ところが、多くの真面目なお母さんや先生は、小1のころに10回説明して直そうとしてしまいます。
その結果、どういうことが起きるかというと、まず、子供は書くことが苦手になります。お母さんは、年中子供に注意するようになります。
この状態にがんばって耐えた子は、小学5年生ぐらいになり自我が確立してくると、もう親の言うことを聞かなくなります。小さいころに教え込みすぎた子は、必ずバランスをとるために大きくなって反発するようになるのです。
高学年のいちばん重要な時期に親の言うことを聞かなくなるので、親は子供の勉強を塾に丸投げするようになります。
高学年になっても、親が楽しく子供の勉強を見てあげられるようになるためには、低学年のときにできるだけのんびりと楽しく褒めながら教えていくことが大切なのです。
理由2.褒める指導で続けられるのは、指導のカリキュラムがしっかりしているからです。
ときどき、褒める指導だけで作文を書かせるのなら簡単だから、家庭でもできるという人がいます。
ところが、家庭で親が子供に作文を教えるようになると、すぐに勉強が行きづまります。低学年のときなら、それでも無理に続けることはできかもしれません。しかし、小学校3、4年生になっても作文の勉強を家庭で行うというのは、たぶんどの家庭でもほとんどできないと思います。
作文の通信教育講座の中には、楽しそうな教材だから家庭でもできるとうたっているところがありますが、楽しくできるのは、国語のクイズのような易しいレベルの間までです。本格的に作文を上手に書くレベルになると、教材の楽しさだけで勉強することはできません。
言葉の森の指導が、褒めること中心でありながら上達していくのは、指導の枠組みが上達するようにできているからです。
他のほとんどの作文教室では、小学校の間だけとか、せいぜい中学生の間までの指導カリキュラムですが、言葉の森は高校3年生の大学入試の小論文までの長期的なカリキュラムで指導をしています。
しかも、高3の小論文入試では、最難関校に合格できるだけの指導を行っています。これは、高校生の生徒が増えすぎても困るので宣伝はしていませんが、言葉の森の大学入試小論文指導は、現在、どの予備校よりもレベルが高くわかりやすい指導をしていると思っています。それは、受験作文小論文のページの開設を見るとわかります。ほかの予備校で、このように理路整然と書き方を説明しているところはないと思います。
言葉の森の講師が、子供たちをのんびり褒めているだけのように見えるのは、しっかりしたカリキュラムで指導しているからなのです。
理由3.作文の上達には、時間がかかるからです。
ところで、作文の上達には時間がかかります。
数学や英語であれば、夏休みの集中学習で一挙に成績を上げて得意教科にするというようなこともできないわけではありません。これは、それなりに大変ですが、やり方さえ守ればだれでもできます。
ところが、作文の勉強は、短期間の集中学習で上手にさせることはできません。
もちろん、言葉の森の体験学習の最初のころは、目覚ましく上達するということはあります。しかし、その後の進歩は、時間のかかるものなのです。
他の教科の勉強は、単元が進んだり、テストの点数が返ってきたりするので、勉強が進歩している感じがします。しかし、作文の場合は、毎回同じような作文を書いていて、それが題材によってはかえって下手になったように見えることもあるのです。
このときに、親がどう対応していくかということが大事です。
ひとつには、作文の勉強の進歩は時間のかかるもので、気長に読む勉強を続けながら褒めていると、忘れたころに上達していたことがわかるものだと考えることです。
この場合に、重要なのは、褒めることとともに、読む勉強を続けることです。それは、昔は長文の音読ということでやっていましたが、今は、長文の暗唱、又は、問題集読書、又は、普通の読書です。
家庭で行う自習の仕方は、今度わかりやすく整理したものをお送りする予定ですが、当面は、最低限、毎日の読書さえしっかりできていれば、それが読む勉強になると考えておいてください。
「忘れたころに、上達していたとわかる」というのは、自動採点ソフト森リンの点数グラフの推移からも言えます。どの生徒も、年間を通して数ポイント進歩しているだけです。決して、1ヶ月や2ヶ月で目に見える進歩があるという勉強ではないのです。
高校2、3年生で大学入試のために新たに作文の勉強を始めるような生徒は、勉強に対する意識がかなり高いはずですが、そういう生徒でも、自分なりに上達が実感できるのは1年ぐらいたってからです。勉強に対する意識がそこまで高くない小中学生の生徒については、上達にはもっと時間がかかるというのが普通なのです。
上達していないように見える時期は、作文の勉強をしているのでなく、その子のその時代の思い出となる作文の記録を残しているのだというぐらいにのんびりと考えておくことです。毎回同じような作文を書いていたとしても、それを進歩がないと考えるのではなく、記念の作文がたくさんたまっていくというふうに考えれば、親も子も負担がなくなります。
そうして、ふと気がついたときに、「いつの間にか、ずいぶん上手になっていたね」ということになるのです。
理由4.子供の意欲を活性化させる大きな要素は、家庭の対話だからです。
勉強は、意欲的に取り組んでいるかそうでないかによって、同じ時間をかけても上達の度合いがかなり違ってきます。
子供たちがいちばん意欲をもって勉強できるのは、受験に作文試験があるときです。実際に、受験前の子供たちは、かなり難しい課題でもがんばって取り組んでくるので、この期間はみんな作文力が向上します。
しかし、受験という差し迫った目標がないときは、作文の勉強というものは、きわめて意欲化しにくい勉強なのです。その理由のひとつは、はっきりした点数がつかないからです。
この意味で、小学校高学年以上の生徒は、できるだけパソコンで作文を書き、毎週森リンの点数を勉強の目標にしていくといいと思います。
言葉の森の通学教室では、小学校5年生以上の生徒はほぼ全員パソコンで作文を書いています。子供たちの適応力は高いので、家庭で毎日10分でもブラインドタッチ(タッチタイピング)の練習をすれば、数週間で、手で書くよりも速く楽にパソコンで書けるようになります。(ブラインドタッチは、ソフトなどで練習する必要はなく、自分の好きな歌を歌いながらその歌詞を打つ練習をしていくという形でやるのがいいと思います)
ところで、森リンの点数で意欲を持たせるというのと、もうひとつ異なるアプローチが、対話によって意欲を持たせるという方法です。もちろん、作文の力が上達してくると、いい作品を書き上げること自体が、苦しいながらも楽しいというレベルにまでなります。しかし、そこまで行くのは、よほど上手になったあとです。ほとんどの子は、書くことが苦しいという気持ちがほとんどで、それでもがんばって勉強していると思います。
ここで大事なのが対話です。
他の教科の勉強では、特に予習などをしていなくても、教材を見て先生の説明を聞けばそこから勉強をスタートさせることができます。しかし、作文の勉強はそうではありません。
もちろん、予習をしていなくても作文の勉強を始めることはできます。しかし、予習をしている生徒と比べると、勉強に取り組む意欲の差は歴然としています。
私もしばらく前までは、教える側の工夫で意欲を持たせることができると考えていました。しかし、どんなに面白く意欲化できるように教えても、作文を書きだした途端にすぐに意欲がしぼんでしまう子がいます。一方、どんなときでも、書きだしから書き終わりまでがんばる子がいます。
その差は、作文を書くまでの家庭での事前の対話と、作文が返却されたあとの家庭での対話だったのです。
いつでも意欲的に取り組む子は、家庭でお父さんやお母さんと、次の週の課題について話をしています。子供が、自分から進んで、両親に似た話を取材するというケースが多いと思いますが、その取材に対して、お父さんやお母さんが対話を楽しむ形で熱心に答えているのです。
この対話によって、子供の思考力が活性化します。また、親が子供に知的な話をじっくりできる機会が生まれます。他の教科の勉強は、子供が教材を見て自力で進めていくのが理想ですが、作文の勉強はその反対で、親子が課題についてたっぷり対話をする中で進めていくのが理想なのです。
このように、作文の課題について事前に両親と対話している子は、作文を書いているときに、作文用紙の上でやはり両親と対話をしながら書いているのだと思います。そして、そのようにして書いた作文が返却されたとき、両親がその作文の返却を楽しみに待っているとしたら、意欲的にならない方がおかしいのです。
この作文の勉強における対話の意義ということを、言葉の森では今後、どの家庭でも実行しやすい形で提案していく予定です。
簡単に言うと、毎日の家庭での対話のメニューを作ることです。
また、家庭での親子の対話だけでは、慣れないうちは話題が息づまることもあるので、その対話をfacebookの活用でバックアップすることを考えています。
まとめ.褒める指導と対話を結びつける。
作文の勉強は、真面目に直す指導として行うこともできます。
しかし、その結果は、長続きせず、作文が苦手になり、親が年中怒るようになり、高学年になって親子の対話ができなくなるということにつながります。
作文の勉強は、特に低学年のうちは、そのように生真面目に取り組んではいけないのです。
一方、作文の勉強を褒めるだけで行うことは、その褒める指導の背後に明確な方法論がなければ、やはり、長続きさせることはできません。
褒める指導は、直されて苦手になるよりもずっといいのですが、やはり褒めるだけでは限界があるのです。
いちばんいいのは、褒める指導を基本にしながら、
(1)明確なカリキュラムに基づいて指導する(言葉の森の方法です)。
(2)親が進歩を気長に見てあげる。
(3)その一方で、読む勉強としての自習を続け、
(4)高学年からはパソコン入力で点数も目標にする。
(5)そして、家庭での事前の対話と事後の対話で意欲を持たせる。
という方法を組み合わせることです。
この中で、これから最も力を入れていく分野は、家庭での対話です。
言葉の森の指導も、家庭での対話を支えることを今後の重点にしていきたいと思っています。
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言葉の森では、作文小論文試験の5か月前から受験コースの作文課題を選択できるようにしています。中学受験、高校受験、大学受験とも同じです。ただし、受験コースは、定員があるので、現在在籍している生徒が優先です。
受験コースは、志望校の過去問に合わせた問題で練習する形の作文指導で、指導の内容も、普段よりも少し難しくなります。例えば、通常の課題では、時間制限や字数制限などあまり厳しくは言いませんが、受験コースでは時間と字数は評価の重点になります。
しかし、普段の作文の課題が普通にできていれば、受験コースの課題も同じようにできます。難度自体には、普段の課題も受験コースの課題も大きな差はありません。
言葉の森の作文の課題は、通常の課題も受験コースの課題も、かなり難しいので、ヒントなしに書くことはなかなかできません。
しかし、ヒントを見て書ける生徒は実力がある生徒ですから、ヒントのとおりに書ければ合格する力があると考えていいのです。ヒント以上の自分のオリジナルな内容を盛り込むことまでは要求しません。
時間制限は、最初のうちは守ることができません。学校によっては、大人でも書けないようなスピードを要求するところもあります。それは、そのスピードと字数によって点数の差をつけることが目的ですから、まともに書けなくても心配することはありません。
最初は、目標の字数まで埋めることを優先し、時間についてはどのぐらいかかったか記録だけしておきます。試験の1、2か月前になったら、時間制限の範囲で書くようにします。
速く書くコツは、(1)途中で考えない、(2)途中で読み返さない、(3)途中で書き直さない、です。普段の練習でも、できるだけ消しゴムは使わずに、先へ先へと文章を進めるように書いていきます。
そのためには、書きだす前に簡単に構成メモを書いておく必要があります。最初に構成メモを数行書いておき、作文を書き始めてから途中でどう書き進めていいかわからなくなったときに、構成メモを見直して書き続けるという形で書いていきます。
文章は、最初と最後の大きな枠組みが合っていれば、途中の過程の筋道は、読み手にはあまり印象に残らないものです。細かいところでつじつまを合わせようとするよりも、大きな流れができていればよいと考えて書いていきます。
作文を採点する試験官は、何編も同じような文章を見て頭が疲労しています。そのときに、構成のわかりやすい文章を見ると、ほっと安心します。構成のわかりやすい文章とは、結論が最初にある文章、構成を予測させる言葉のある文章、段落ごとの長さが同じぐらいで見た目のバランスがとれた文章です。
例えば、「私は、……と思う。その理由は……」などと書いてあるのは、結論が先にあるので読みやすい文章です。逆に、「……は……である。だから……と思う。」となっているのは結論があとにあるので、読みにくい文章ということになります。
構成を予測させる言葉とは、「……その方法は、三つある。第一に……」というような、「方法」「理由」「原因」「○つある」「第一に」「第二に」などの言葉です。自分が何を書こうとしているかを、早めに理解してもらうように書いていくのが、読みやすい文章を書くコツです。
受験コースの練習の仕上げの時期になると、表現をもうひとひねり工夫する練習をしますが、ここであまり難しく考えると自信をなくしてしまいます。時間内に、必要な字数まで書ければ、とりあえず合格圏内には入っていると思っていればいいのです。
言葉の森で作文の勉強をすると、構成のしっかりした文章を書くことができます。これは、受験に限らず将来どのような文章を書くときにも役に立ちます。
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2007年2月の調査で、世界中のブログで使われている言語のうち日本語が37パーセントで、英語の36パーセントよりも多いという結果が出ていました。
その後、ブログの言語別人口で同じような調査が行われていないのは、日本語の割合が更に増えているだけなので、調査に興味がなくなったためだと思われます。
twitter(ツイッター)でも同じような調査が行われ、2010年2月の時点で、日本語が14パーセント、英語が50パーセントという結果が出ていました。しかし、2010年1月の時点で、世界のツイッターユーザーに占める日本人の割合は1パーセントわずかに上回る程度でしたから、おおまかに言うと、日本語は、英語など他の言語に比べて14倍も情報発信力があるということだと思います。
facebook(フェイスブック)では、まだ日本人の割合が少ないし、同様の調査がないようなので、どうなるかはわかりませんが、私はたぶん、ブログやツイッター以上に日本語の占める割合が大きくなるのではないかと思っています。その理由は、ブログの利用は、自分で何かの情報を発信したいという人に限られていただけですし、ツイッターの利用は、ある程度時間の余裕のある人に限られていたと思いますが、facebook(フェイスブック)は多くの人にとって日常生活に必要なプラットフォーム(土台)になっていくと思われるからです。
なぜ日本語にこういう情報発信適性のようなものがあるかというと、ひとつには、日本語が英語など他の言語と比べると、1文字あたりに盛り込める情報量が多いからです。ツイッターの利用者の中に、日本語と英語で同じ内容を別々にツイートしている人がいます。日本語は日本人の知人向け、英語は英語圏の知人向けと使い分けているようです。その日本語と英語の140字以内の文章を見ると(ツイッターの文字制限は140字)、ざっと見て、英語では日本語の半分の内容しか盛り込めていません。つまり、日本語を使えば140字の内容が書けることを、英語を使うと日本語の70字ぐらいの内容のものしか書けないということです。
もし、日本語のツイッターが70字という文字数制限になったとしたら、利用の度合いはもっと減るでしょう。70文字だと、何かを論じるというよりも、文字どおり「つぶやく」とか「さえずる」とかいう程度のことしかできなくなるからです。
しかし、70字という文字数制限であったとしても、日本には31文字の和歌の文化がありますから、日本人は意外にもその文字数に適応してしまうかもしれません。文字の持つ情報量の面だけでなく、どうやら文化の面からも日本語は情報発信適性があるようなのです。
facebook(フェイスブック)で、先日、会員数が多いと言われるコカコーラの会員になってみました。すると、コカコーラのfacebook(フェイスブック)ページから、ときどき宣伝用の投稿が入ってきます。そして、その投稿のコメントが世界中から瞬く間に1000件ぐらい入ります。
私もコカコーラの投稿記事にコメントを書いてきましたが、日本語で書いてある投稿はほかになく、すべて英語など欧米の言語によるコメントでした。しかし、それらのコメントの内容は大部分が、叫び声のような感じを受けたのです。日本人が普通コメントという言葉で連想するような味のある内容はあまりありませんでした。しかし、それも、文字の持つ情報力が日本語の2分の1だと考えると、納得できるような気がします。
インターネットというインフラは、アメリカが中心になって世界中に広がりました。アメリカは、このほかにも、民主主義の政治体制と市場主義という経済体制を世界中に広げることを自分の使命としていたようです。私は、このアメリカの役割を、織田信長の天下布武と同じような性格を持つものだと思いました。天下に共通のレールを敷く、そのために、抵抗する既存の旧勢力は有無を言わさず排除していく、そういう役割だと思ったのです。
では、アメリカが世界中に共通のインフラというレールを敷き終えたあと、そのレールの上を走るものは何なのでしょうか。そのレールの上を走る中身こそ、文化というコンテンツで、その文化を運ぶ列車にあたるものが言語です。
こう考えると、日本語の持つ情報発信力は、同時に文化発信力でもあると言えるのです。
言葉の森のfacebook(フェイスブック)ページの中で、今、毎日、作文の勉強会を開いています。(これは、だれでも自由に参加できます。facebook(フェイスブック)で「教育の丘コミュ」というグループを検索して参加ボタンを押してください)
作文の勉強会と言っても、ちょっとした言葉遊びのようなもので、比喩の練習とか、名言の練習とかいうものを、半分以上お笑いネタでやりとりしていくものです。
私は、この言葉遊びをしながら、わずか数語か十数語で読み手をうならせるような味のあることが書ける文化というものは、日本以外にはほとんどないのではないかと思いました。
facebook(フェイスブック)の利用者に日本人が増えてくると、こういう文化のコンテンツがますます広がっていきます。facebook(フェイスブック)における日本語の占める割合は、ブログやツイッター以上のものになるでしょう。
世界中に流れる情報のかなりの部分(たぶん英語と匹敵するぐらいの部分)が日本語になり、しかも、その日本語の情報の中身が単なる伝達や連絡のようなものだけではなく、文化的な創造を伴ったものだということになると、どうなるでしょうか。
まず、世界中のエリートから、「これからは、子供に日本語を学ばせておかないと、世界の新しい文化に乗りおくれることになる」という意識が生まれてくると思います。ビジネスにおける打ち合わせは、世界共通の英語で行うとしても、文化的な創造を伴うものは、日本語を学んでいないと遅れをとるということが次第に世界中の知識人の共通認識となっていくのです。
しかし、それは同時に日本語の危機になる可能性もあるのです。
先にも書いたように、アメリカの文化は、標準化の文化です。アメリカ文化が生んだ自動車、コンピュータ、インターネットなどは、いずれも入れ物や通路というインフラでした。また、コカコーラ、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなども、その本質は売られている商品の中身というよりも、売り方のシステムでした。つまり、アメリカの文化は、大量生産化、ブランド化、フランチャイズ化、マニュアル化というビジネスモデルや方法の文化だったのです。
この標準化が、言語に関しても行われるようになると、日本語は情報発信性のある言語だから世界中の人がもっと使いやすいように標準化しようという動きが出てくる可能性があります。例えば、日本語50音表のうち、タチツテトの部分は、タティトゥテトとツァチツツェツォに分けた方が合理性があるとか、ワ行は新たにワウィウゥウェヲという言葉にしようとかいう案です。
この標準化の圧力に対して、言語の持つ文化性を保つ力はどこにあるかというと、文化性を主張する中にあるのではありません。標準化の主張と文化性の主張が対立して議論した場合、その議論そのものがすでに標準化の発想の枠内にあるからです。
文化性は、言語の持つ芸術性の中にあります。日本には、万葉集や古今和歌集などに見られるような大衆的な言語芸術の伝統があります。
しかし、現代日本語には、まだそのような大衆性のある芸術は生まれていません。
日本語が世界言語となる時代に大事なことは、日本人が現代日本語による新しい大衆性のある芸術を作り出していくことなのです。
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日本語(日本人)情報発信力は、すごいですね!
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世界は、これから、自然災害の多発と、戦争の危険性の拡大と、経済破綻の進行と、新しい感染症の拡大という困難な方向に進むことが予想されます。
しかし、その一方で、この大きな混乱のあとに、明るい未来がやってくるはずで、今、その準備が着々と進んでいるのだと思います。
そして、多くの人の見方によると、その新しい未来を作るキーになるのは、日本や日本文化や日本人であるらしいのです。
前回のホームページの記事「創造のコンテンツは日本から」でも書きましたが、これから来るのは、インフラの時代ではなくコンテンツの時代です。確かに、インフラは表面的には大きな比重を占めます。たとえば、アフリカ大陸を近代化するというだけでも、膨大なハードのインフラ需要が生まれます。しかし、そこで生まれる近代化した中国やアフリカの未来は、想像の枠内でもう既に織り込み済みの未来です。
それに対して、これから生まれるコンテンツの未来は、まだほとんどの人の目に明らかになっていません。
ここで大事なことは、私たちは、この未来の方向に向かって行動することを最優先していくということです。
言葉の森のホームページに、私は、3月の中旬までは地震や原発の記事を何度か書きましたが、それはそのとき、日本の歴史上最悪の危機が起こる可能性があったからです。
しかし、この危機は、3月の末には基本的に回避されたと思いました。だから、3月22日に、「日本の新しい産業(その1)」という記事を書いたのです。地震や原発の問題はこれからも継続しますが、もう最大の問題ではありません。各人の心構えと対策を決めたら、これからは、未来の方向への行動を進める時期なのです。
だから、私はもう地震や原発の話は一切どこにも書いていません。それは、その分野に詳しい人に任せておけばいいのです。日本は、いくつかの紆余曲折はあっても、原発廃止の方向に大きく進んでいくと思います。その路線をしっかり支持し、被災地の人たちのこれからの生活を日本全体で支えていけばいいのです。
さて、地震、原発の話はそういうふうに考えたとしても、多くの人の心の中に、まだ漠然と不安感や不幸な未来への予感のようなものが残っている気がします。先日、近所のファミリーマートにあった雑誌「プレジデント」を見ると、その特集が、「幸せになる練習。希望格差社会の実態」でした。こういう特集が組まれるということは、多くの人が、不安感や不幸感を持っているということだと思います。
先日も、あるサイトに、漠然とした不安を感じて仕方ないというような書き込みがありました。そういう気持ちは、だれでも、よくわかると思います。言葉で言えるはっきりした問題ではなく、漠然と、しかしかなり継続的に未来への不安を感じているという状態です。
しかし、私は、今はこう思っています。不安を感じているのは、まだ覚悟ができていないからで、いつ何がどうなってもいいという決心さえつけば、あとは明るくなるしかないのです。まだ不安を感じているというのは、これから来る未来の時代に乗りおくれているということです。今は、自分個人の不安につぶされそうになっている場合ではなく、そういう不安に負けそうな他人を励ます役割をしなければならない時期です。
こういうことを書くとノーテンキだと思われると思いますが、私はもうKY路線でやることに決めたのです。不安や心配でいっぱいで過去と現在にしか目を向けていない人には話を合わせないことにしたのです。
先日、twitterにそのようなことを書いたら、昔の生徒で今、大学四年生になっているM君が、しっかリツイートをしてくれました。
こんな内容です。
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mokaha 中根克明(森川林)言葉の森
言葉の森は、過去も現在ももうふりかえらずに、未来に向かってまっしぐらに進む路線です。今は既に、地震が、原発が、政治家が、マスコミが、と怒ったり心配したりしている時期ではありません。
もちろん、そういう怒りや心配は必要ですが、それはあくまでも二義的なもので、私たちは新しい未来を作るために前進しなければならないところに来ているのです。
これから、まださまざまな困難や混乱がやってくるかもしれませんが、そこだけにとらわれずに、その先の明るい未来をめざしてがんばっていきましょう。
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若者は、こういう感覚がわかるのだと思います。この感覚がわからない人は、気持ちの上で老人になっているのです。
さて、話をもう少し個人的なことに向けると、地震や原発の過去にこだわるのと同じ心理が、身近な人に対する人間関係にも反映します。それは、相手の過去や現在に対する不満や批判や怒りです。
なぜ身近な人に不満や批判を感じるかというと、それは、そういうことを感じる自分自身を克服するためなのです。人間は、結局だれでも同じような人生を歩んでいて、自分も過去のいつかにその不満や批判の対象となる人と同じような生き方をしてきたことがあるし、またいつか将来、その不満や批判の対象となる人と同じような生き方をするのです。そういう過去の自分と未来の自分を克服して、より新しい課題に到達するために、今目の前に嫌な人がいると考えればいいのです。
だから、その嫌な人を、嫌だと思うままでいれば、その課題はずっと続きます。その人が目の前からいなくなっても、また新しく同じような嫌な人が登場します。なぜなら、それは相手の問題ではなく、自分の課題だからです。
私は、だから、相手に不満や批判を持っている人に対しては、こうアドバイスをしたいと思います。「その課題は早くクリアして、もっと別の新しい課題に取り組んだ方がいいんじゃない」と。
以上の話に共通するのは、過去や現在に目を向けず、未来に目を向けようということです。
そして、更に重要なことは、言葉の森のこれからの活動は、新しい未来の創造にとても近いところにあるということです。
未来の日本、そして世界を支えるものは、新しい教育です。新しい教育の中で、ひとりひとりの人間が、幸福と向上と創造と貢献の人生を生きていくことが、これからの社会作りの土台になっていきます。
そして、この新しい教育の中心になるものは、新しい作文教育なのです。
これからの教育に求められる重要な4つの定義は、「受験のための教育から、実力のための教育へ」「学校や塾での教育から、家庭と地域での教育へ」「点数を目指す教育から、文化を目指す教育へ」「競争を目標とした教育から、自身の独立を目標とした教育へ」というものです。
これらの新しい教育の定義に深く結びつくのが、作文教育における「正解から対話へ」「強制から自律へ」「記憶の再現から創造の発表へ」「孤立した競争から相互の交流へ」という新しい流れです。この新しい流れを作るのが、これからの言葉の森の活動になっていくと思います。
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インターネットのコンテンツは、今後、個々のホームページからソーシャル・ネットワーキング・サービスに移行していくようになると思います。
なぜかというと、クラウド化の流れの中で、自社サーバーの中にコンテンツもプログラムも全部入れてきっちりと管理運用することは時代後れになりつつあるからです。(容量の限界、プログラム開発の限界、スペックアップの限界、検索しやすさの限界などのため)
ワールドワイドのインターネットのクラウドの中に、どのコンテンツも全部投げ込んで、それを検索エンジンで探していくか、又はフェイスブックなどのつながりを拠点にして探していくかという形になってくと思います。
この流れを別の言葉で言うと、Consistency(一貫性)から、Eventually-consitency(結果オーライ)への流れということになります。
途中の過程で論理的に無矛盾の一貫性を保つ必要はなく、結果的につじつまが合えばいいということです。だから、どこかのページを探す場合も、「AからBに行ってCをクリックすれば確実に行けます」という形ではなく、「あのへんで探すか、このへんの人に聞けばわかるんじゃないかなあ」でいいということです。
こういうアバウトな発想は、日本人ではまずできなかったと思います。しかし、グーグルの処理が1日2万テラバイトを超え、百万万台のサーバーにデータを分散している状態では、途中経過の一貫性などはもう望めません。そして、こういう規模のスケールは、今後多かれ少なかれどの企業にもやってきます。
このクラウド化の流れの先にあるものは、コンテンツの創造の世界です。
インターネット技術では、日本は大きく立ち遅れていました。その最も大きな原因は、日本語処理の難しさから(文字コードが4種類もあり、どれも多少不備がある)、若い人がコンピュータの世界に入る最初の敷居が高すぎるところにあったと思います。
しかし、インターネットの技術は今後も発展していくでしょうが、もうすでにコンピュータのソフトやハードでできる世界は、量子コンピュータなども含めて見通しを想像できるものになっています。
人間は、未知のものに最も惹かれますから、たぶん世界の最も優秀な頭脳は、もうだいぶ前からコンピュータやインターネットの世界とは別の科学分野の研究を進めていると思います。
そういう優秀な頭脳を持たない人にとっても、コンピュータやインターネットのソフトとハードの世界は、もう既に日常生活のインフラになりつつあります。ちょうど、家の前に舗装道路があるとか、家の中で水道や電気が使えるというのと同じ感覚です。大昔は、自分で山の中に人の通る道を作ったり、近くの川に水を汲みに行ったり、まきを拾ったりしたのでしょうが、今はそういうことはすべて基本的なインフラとして提供されています。人間のすることは、そのインフラを前提にして豊かな生活をすることです。
ところが、その「豊かな生活」というものが、これまでのアメリカ型消費社会の発想では、豊かな消費生活でしかなかったのです。おいしいものを食べて、いい服を着て、広い家に住み、テレビでのんびりスポーツ観戦を楽しむとか、たまに家族で海外旅行に行くとかという消費生活は、確かに魅力あるものです。しかし、そういう生活のもたらす満足感には限界があります。
消費文化の国々では、内心満たされないものを感じながら、そのような消費生活を更に豊かに続けるという方向にしか進みようがありませんでした。より豊かな食事、よりきれいな服、より長い休日、より豪華な自動車や住居、あるいはより激しい刺激という方向です。
しかし、日本人は、豊かな生活のよさは認めても、その先に限界があることをすぐに理解できるだけの文化を持っています。それは、縄文時代や江戸時代の長い豊かな生活をすでに何度も経験して、その中で人間が幸福に生きる方法を模索してきた歴史があるからです。
逆に言うと、日本以外の国々では、豊かさの限界を大衆的なレベルで歴史的に経験したことがないので、いまだに豊かな消費生活の幻想から脱却することができないのです。
インターネットは、これからコンテンツの時代に入ります。
しかし、そのコンテンツの内容は、これまでの消費生活の延長にあるコンテンツではありません。言い換えれば、検索エンジンで探して手に入れるという消費のコンテンツではなく、ソーシャルサービスで自ら作り出して友達と共有するという創造のコンテンツと言ってもよいでしょう。
その創造のコンテンツの文化を世界で最も豊かに持つ国が、この日本なのです。まだ、だれもそのことに気づいていないようですが(笑)。
しかも、創造のコンテンツは、日本の過去の文化から引っ張り出してくるだけではありません。日本人は創造の文化というものを経験しているので、現代の環境に合わせた創造のコンテンツを新たに作り出していくことができます。
その創造のコンテンツを作り出すプラットフォームが、今、フェイスブックなどを中心に世界中に広がっているソーシャルサービスなのです。
(注)創造のコンテンツ
日本における創造のコンテンツとは、例えば、折り紙を折ったり、綾取りをしたり、短歌や俳句を作ったり、百人一首をしたりするような文化に象徴されるコンテンツです。
これらのコンテンツの特徴は、
(1)習得するために時間がかかるという向上の要素がある(折り紙や綾取りや百人一首には学習が必要)、
(2)決まった枠内で行うというルールのようなものはあるがその中身は自由に工夫できる(例えば、折り紙は1枚の紙で、綾取りは1本のひもで、短歌や俳句は決められた字数で)、
(3)個人が創造したものは個性や交流を楽しむ面が強く、勝敗や優劣に還元されない(百人一首も家庭で行う場合は交流のため)、
(4)一般庶民から支配階級までの格差がなくどの階層でも共通している(費用をかけて行うようなものは少ない)、
などです。
これに対して、欧米の文化は、一方で、学習や習得をあまり必要としないトランプゲームのような大衆的な娯楽があり、他方で、プロを目指して勝敗や優劣を競う学問や芸術やスポーツやビジネスの分野があるという形で文化が二極化しています。これは、欧米のこれまでの歴史のほとんどが、支配と被支配の格差に基づいたものだったからです。
このように考えると、世界に創造のコンテンツを広げるのが、これからの日本の役割になると思います。
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インターネットのクラウドは、次のように発展してきました。まず、Yahoo!に代表されるポータルの時代、次に、googleに代表される検索の時代、そして今は、ブログやfacebookに代表される交流の時代と言ってよいでしょう。
それぞれのクラウドで、前の段階における競争は、後の段階によって意味を消失させられてきました。そして、競争は新しい性格のものとして生まれかわっていきました。
ショッピングのサイトで、楽天とアマゾンとヤフーがあるとします。最初は、どこのサイトでショッピングをするかという顧客の獲得が競争の焦点になっています。
しかし、やがて価格.comのようなものが登場すると、消費者は、どこのサイトで買うかということを意識せずに、買いたい商品にだけ関心を持つようになります。
すると、企業にとって競争は、消費者の獲得から別のものに移っていきます。今後の競争の焦点は、いかに消費者を獲得するかということよりも、いかにいい売り手を獲得するかという方向に変わっていくと思います。
この傾向は、インターネット企業に限らず、一般の企業でも次第に前面に出てきます。これからの企業は、いかに顧客を獲得するかということよりも、いかにその企業で一緒に仕事をする人が居心地よく仕事ができるかという競争の方に移っていくのです。
品物の買い手から売り手へ向かう流れは、情報の分野にもあてはまります。
ブログやfacebookに代表される交流の時代も、最初のうちは交流を消費する側に重点が置かれています。つまり、これまでマスメディアに乗らなかったようなマイナーな情報にも接することができるとか、友達と交流が持てるとかいう価値が前面に出ています。
しかし、このあとやがて、重点は、情報を消費する側から情報を生産する側に移っていきます。
最初は、互いの交流自体が楽しいのですが、やがて、単なる交流の楽しさから、そこで何を交流するのかという、「何」のコンテンツが問われるようになってきます。交流の重点が、交流の受け手から、交流の送り手に変化していくのです。
そのような時期になって初めて生きてくるのが、日本文化におけるコンテンツ性です。
インターネットのこれまでの発展は、大きなビジョンの枠組みとそれに伴う技術の発展でした。このビジョンの枠組み作りに、日本人はほとんど参加していません。だから、逆に、そういう中で、ブラウザの仕様に縦書きやルビふりの要素を導入した日本人は、孤軍奮闘の中で本当によくがんばったと思います。
なぜ、日本人がビジョン作りや枠組み作りのような分野になると活躍しないのかいうと、たぶん日本人には、それまでの流れを無視して一から作り直すというようなKY的なことをしたくない心理があるからだろうと思います。
しかし、そのかわり、日本人が得意なのは、いったん決まった枠組みで、その中身を作る仕事をしていくことです。
短歌や俳句は、日本独特の短詩形の文学です。これまで数多くの短歌や俳句が作られてきましたが、枠組みを変える試みはほとんどなく(石川啄木が3行で短歌を書いたとか、種田山頭火が定型を崩したとかいう以外に)、だれもが定まった形式を前提に、中身を埋めることにだけ関心を持ってきました。
ブログという概念は、日本の技術者の多くが考えていたはずですが、それを実際に提案して広めたのはやはりアメリカ人でした。しかし、そのブログが広まったあとに、ブログで情報発信を行う中心になっていったのは日本人でした。
同様のことが、今はまだ日本人の参加が少ないfacebookでもこれから起こるはずです。それは、facebookが交流という消費のツールから、コンテンツの創造という生産のツールに変化していくことです。それに伴って、facebookで使えるアプリも、これから質的に変化してくると思います。
インターネットの進化は、もう終点に来ています。このあとに来るのは、システムのこれ以上の進化ではなく、コンテンツの進化です。
インターネットの速度も容量も、これから更に発展していくでしょう。昔、私がニフティのパソコン通信を始めたころのモデムの通信速度は、1200bpsでした。今10MBで通信ができるとすると、その差は約1万倍です。昔のハードディスクの容量はキロバイトという単位ではなかったかと思います。今はメガバイトを超えてギガバイトになっています。
しかし、1万倍の差といっても単なる量の差ですから、これから更にインターネットやコンピュータが進化して、量子コンピュータができ、ハードディスクの容量が無限大になっても、そこで現れる世界は今の世界の延長で大体予測できます。
人間の創造力は、予測のできる未来には魅力を感じません。人間が、本当に生きがいを感じるのは、まだ姿の見えていない未知の分野に関してです。
枠組み作りの時代が終わり、中身の時代が始まろうとしている今、コンテンツの創造に大衆的に参加する文化を持つ日本の役割は実はかなり大きいのだと思います。
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通学教室で、生徒に、「今日は、どんな課題で、どんなことを書くの」と最初に聞くようにしました。これまでは、既に課題の準備をしていることを前提に、先生がすぐにその日の課題を説明していたので、中には準備をしていない子もいました。
子供たちに説明をさせると、最初は、みんな、「えー!」と驚いていましたが、すぐに熱心に持ってきた課題フォルダを読み始め、それぞれ自分の理解した範囲で説明を始めました。中には、見当違いの読み方をしている子もいましたが、ほとんどの子は的確に内容を把握して読んでいました。
その中に1人、中学1年生の生徒で、課題フォルダをあらためて開くこともせずに、すぐに長文の内容を説明してくれる子がいました。その週の課題の長文がすっかり頭の中に入っているようでした。
試しに、「じゃあ、実例はどんなふうに書くのかなあ」と聞くと、最近の時事的な話を盛り込んで、自分の書こうとする実例を説明してくれました。「よく考えてきたね」と褒めると、その子は、お母さんと長文を読んでいろいろ考えてきたのだと教えてくれました。
作文の勉強を充実させるいちばんのポイントは、作文に書くことを準備してくることです。つまり、予習です。
その予習のときに生かせるのが親子の対話です。小学生の課題には、「似た話、聞いた話」という項目があり、自分の体験だけでなく、似たような父母の体験を聞いて話題を広げる練習があります。ときどき、この「似た話、聞いた話」で、とても面白い話を取材してくる子がいます。たまに、両親ではなく、祖父母に取材した話を書いてくる子もいます。
感想文の課題の場合、この親子の対話は更に重要になります。感想文がうまく書けるかどうかは、似た話がどれだけ思い出せたかにかかっています。しかし、小学生の子供は、読んだ本をすぐに自分の似た体験に結びつけられるほど多くの経験を持っていません。本当は、似ていそうな話はたくさんあるのですが、子供が自分でそれを考えつくことはなかなかできません。
そういうとき、身近な両親が子供と話しながら似た話を探していくと、子供の理解力はかなり深まるのです。読書を通して読んだ実例よりも、身近な両親の話を聞いて理解した実例の方が、子供の心に深く残ります。それは、本で読んだ実例よりも、父母から聞いた実例の方が生きた実例になるからです。
予習の大切さは、学年が上がるほど高まってきますが、小学校低学年の作文も、予習の有無で大きく変わってきます。小学校1、2年生のころは、毎日が新鮮は体験の連続なので、書くことに困ることはまずありません。しかし、予習をしてこない子は、毎回同じような放課後の遊びの話や、家に帰ってからのゲームの話を書いてしまうことも多いのです。
この自習は、子供の勉強にとって大きな力になりますが、それだけではありません。実は、子供と一緒に作文の中身や似た例を考えるというのは、大人にとってもかなり楽しいことなのです。
現代の社会では、親子の対話の機会が少なくなる一方で、テレビやゲームなど、対話の機会を更に減らす環境に囲まれています。作文の課題をもとにした対話は、自然に知的になるので、テレビを見たり、本を読んだりするよりも、実ははるかに頭を使う時間になることが多いのです。
言葉の森では、今後、この家庭での対話がそれぞれの家庭で軌道にのるように、いろいろなアドバイスをしていきたいと思っています。
その手段の一つとして、現在、facebookのページ作りに力を入れています。
作文の勉強は、他の教科の勉強とは違い、教材だけを与えてもなかなかこなしていくことができません。親と子の対話、先生と親子の対話という形で、勉強の中に対話を取り入れた指導をこれからしていきたいと思っています。
ここまで読むと、お父さんやお母さんの中に、「わあ、大変だ」と思う方も多いと思います。大体、子供に説明をさせるというのが大変で、果たして素直にそういうことをするのだろうかというのが最初に考えることだと思います。
しかし、これは、やってみるとわかりますが、子供は結構楽しく素直に説明を始めます。
子供のころ、学校ごっこをした人がいると思いますが、先生の役というのは、結構人気があります。生徒の役は、ただ聞いていて、たまに手を挙げて答えるぐらいですからあまり面白くありません。しかし、先生は、やさしく説明したり、いばって命令したり、褒めたり、叱ったり、突然チョークを投げつけたりと、いろいろな変化ができるからです。
同じように、人の説明を聞くのはあまり面白くありませんが、人に説明してあげるというのはなかなか面白いものです。特に、ふだん子供が親に説明するような場面はあまりありませんから、子供が先生役のような立場で親に長文の内容を説明するというのは、子供にとっては新鮮なことなのです。
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クラウド論は、3で終わるつもりでしたが、最後の方の創造の部分がわかりにくいと思いましたので、追加の話を書くことにしました。
クラウドの本質は、よく言われるように、自社サーバーで行っていた仕事をアマゾンやグーグルが提供するサーバーの中に移し替えるという、形の上だけの話ではありません。
クラウド化の本質は、インフラの共通化という雲に包まれることによって、それまであった境界が消失し、それに伴って差異も消失していくということです。
このクラウド化は、インターネットによって加速されていますが、決してインターネットの世界に限られたものではなく、今日の文化、経済、政治も含めた大きな歴史的動きなのです。
共通化の雲という言葉から連想するのは、ワン・ワールドという概念です。世界は、これまで一貫して境界と差異の消失という方向で発展してきました。自由化というのは、経済における境界と差異の消失です。英語が世界の共通語として広がっているのは、言語コミュニケーションにおける境界と差異の消失です。
インターネットの世界では、今、ショッピング、検索エンジン、ソーシャルサービスなどの分野で多くの企業が競い合っています。リアルの世界では、場所や人という境界に基づく差異から、ナンバー1の企業ばかりでなく、ナンバー2も3も4も、そしてはるかに下位の企業も、それなりに存在する余地がありました。
例えば、鮮度という商品の性格から消費者に近接したところでないと成立しない八百屋や魚屋は、昔はひとつの街に必ず1軒はありました。鮮度によって、場所が境界となっていたからです。しかし、現在では宅配便などの流通産業の広がりによって、より大きな商圏でナンバー1にならないと生き残れない状況が生まれています。
インターネットの世界では、そこでやりとりされるコンテンツが主に情報的なものであるという理由から、競争は更に過激になり、現在では世界中でナンバー1の1社しか生き残れないという状態になりつつあります。そして、更に、ショッピングのナンバー1と、検索エンジンのナンバー1と、ソーシャルサービスのナンバー1が、相互の境界を消失させて、ひとつのクラウドの中でインターネットそのもののナンバー1を競う状況がこれから生まれてきます。
競争の世界で圧倒的なナンバー1が生まれることは、競争自体の消失を意味します。ワン・ワールドというのは、言語も、文化も、政治も、経済も、ひとつに統合された世界の構想です。これまで空想の中だけで考えられていたひとつの世界国家、世界政府という構想が、インターネットの発達によって現実的な可能性を持つようになってきたのです。
ところが、境界と差異の消失した世界で、人間の歴史の前史は終わり、本史が始まると単純に考えることはできません。
人間以外の生物は、もともと境界と差異のない世界で暮らしていました。イルカやクジラは、人間と同様に高い知能を持つ生物ですが、争いも奪い合いもない世界で、平和なワン・ワールドを築いていました。しかし、その平和は究極の平和ですから、これから何億年たっても、何十億年たっても、イルカやクジラはたぶん今のイルカやクジラのまま平和に暮らしているだけでしょう。
これに対して、人間が、このイルカとクジラと同じように、ひとつの世界政府のもとで永遠の平和を享受すると考えることはできません。なぜなら、人間は、イルカやクジラと違い、世界から分離する自由を持つ生物としてこの世界に登場したからです。
イルカやクジラは、何億年平和が続いても、その平和に飽きることはありません。人間以外の生物は、すべてそうです。
忠犬ハチ公は、帰らぬ主人を迎えに行くために何年間も同じ時刻に同じ駅に通い続けました。私たちは、その話を聞くと、人間の感覚でハチに同情します。世界から分離する自由を持つ存在である人間は、あるべき姿と現実を比較することができるので、葛藤を感じたり、退屈したり、変化や刺激を求めたり、向上を目指したりします。
しかし、動物たちにとって、現実は、あるべき理想とのギャップを持つ何かではなく、ただあるがままの隙間のない即時的な事実そのものに過ぎません。ハチ公は空虚な気持ちで主人の帰りを待っていたのではなく、待つという行動を日々充実して生きていたのです。
ところが、人間には、動物たちのような即時的な生き方はできません。人間は、境界と差異の消失したひとつの大きなクラウドの中で、必ず新たな境界と差異を作ろうとします。ワン・ワールドは、究極の平和の始まりではなく、新たな支配と抑圧の出発点になるのです。
人間の歴史は、過去にこのようなことを何度も繰り返し、時にはそのために最初からすべてを破壊して出発するようなことを行ってきました。
境界と差異のないワン・ワールドが永続するためには、その世界の内部に先験的な境界と差異が組み込まれている必要があります。例えば、インドのカースト制度のようなものがそうです。未来の社会でワン・ワールドが成立する場合も、このカースト制度を模したものが作られるでしょう。
あるいは、長期間にわたって豊かさと平和を維持した古代マヤ文明に見られるように、生贄制度などの非人間的な文化が社会の存続に不可欠の要素として組み込まれる可能性もあります。
境界と差異のない世界が存続するためには、人間の社会では、その社会の内部に、例外的で強固な境界と差異を残しておく必要があるのです。
そして、これまでは、この理不尽なビジョンに対して違和感を持ちつつも、そのビジョンに対抗できるほどの明確な展望を持つ人はいませんでした。それはちょうど、社会ダーウィニズムにおける弱肉強食の合理化や、マルサスの人口論における人口抑制の不可避性に対して、対案を持つ人がいなかったのと同様です。
だからこそ、カースト制度は、賛同者よりも批判者の方がはるかに多いにもかかわらず生き残り、古代マヤ文明は、だれもが求めていない非人間的な制度を自助努力によって廃止することができなかったのです。
しかし、そうでない歴史も人間には可能です。それは、境界と差異のない世界で、ひとりひとりの人間が日々新たな創造と発見によって境界と差異を絶えず作り出していくような世界です。
このような世界に近い社会が、かつての日本の歴史にはありました。それは、日本の縄文時代と江戸時代です。この二つの時代は、いずれも長期間にわたって平和と繁栄が続きましたが、他の文明にあったような極端な身分格差や抑圧制度は見られませんでした。それは、この二つの時代に、それぞれの社会の中に日常的で大衆的な創造と発見があったからです。
ところが、縄文時代や江戸時代の文明を、現代に復活させることはできません。なぜなら、現在は、日本人の間だけではなく、世界中の人が納得できるような強固な文明を提案できるのでなければ、世界的な広がりを持つワン・ワールドに対応することはできないからです。
言い換えれば、縄文時代や江戸時代の創造文化では、世界基準になるには力不足であったからこそ、日本が、明治、大正、昭和、そして平成の現代にかけて世界との摩擦を経験する中でエゴイズムの文化に染まる必要があったとも言えるのです。つまり、今の日本であれば、世界基準の提案をできるだけの世界性がすでにあるのです。
人間社会の未来は、社会の構成員のすべてが創造と発見の生き方をすることによって、どのような格差も抑圧も必要としない文明を、世界的な広がりで築けることができるかどうかにかかっています。
そして、話は再び身近な現実に戻りますが、この創造と発見の生き方を、ソーシャル・ネットワーク・サービスにおける交流の基盤とすることができるかどうかが、今後問われていきます。
SNSに代表される、消費者レベルにおけるクラウド化の広がりにおいて、参加者の交わす交流が、各人の創造と発見を基盤としたものであるならば、未来のワン・ワールドの展望は明るいでしょう。
しかし、もし人間どうしの交流のほとんどが、新たな創造と発見に結びつかないものにとどまるならば、未来のワン・ワールドは新しいカースト制度を必要とするようになるでしょう。
すでに、コミュニケーションのクラウドは、急速に世界中に広がっています。日本でも、ブログ、twitter、facebookなどで交流の輪が次第に広がっています。
今はまだ、コミュニケーション自体を目的とした交流が中心ですが、やがて、日本におけるSNSの交流は、他の国とは異なり、各人の創造と発見に基づいたものを中心にしていくでしょう。
それは、日本語によるブログの情報発信量が言語人口比で世界一であることに見られるように(2006年調査)、日本には、創造と発見を日常生活の中で追求する独特の文化があるからです。
ソーシャル・ネットワークにおけるクラウド化の技術は、アメリカで生まれました。しかし、そこに、今後大衆的なレベルで創造的なコンテンツを盛り込んでいけるのは、日本以外にはたぶんありません。交流のツールとして生まれた技術が、これから国境を越えて創造のツールに進化していくのです。
コミュニケーションで大事なことは、交わすことそのものではなく、何を交わすかというコンテンツの価値です。価値は、過去の時代では、主に境界と差異によって作られていました。しかし、これからの境界と差異の消失の時代の中で、最後まで残る価値は、新たに創造されたものだけです。
これまで、マスメディアの情報に価値があったのは、知らない大衆と知っているメディアとの間に画然とした境界があったからです。しかし、インターネットの時代に、その差異はきわめて小さくなっています。そのような時代に価値ある情報とは、他人より先に知った情報ではなく、自分が新たに創造した情報です。
クラウド化を新しい容器とすると、そこに新しい水を注ぎ込むのは、日本人を中心とした創造の文化を持つ無数の一般大衆です。
クラウド化を生かせるかどうかは、クラウド化の本質をどう考えるかにかかっています。クラウド化とは、インフラの共通化による境界と差異の消失ですが、その消失を不毛なワン・ワールドではなく、新たな豊かさの条件とするためには、私たちひとりひとりが創造の文化を作り出す必要があります。そして、それは、私たちがかつてそういう文化を持った時代があったということを思い出すことが出発点になるのです。
インターネットの発達は、情報の世界化、情報のポータル化、情報の検索化、情報の発信化、情報の交流化という形で進んできました。この流れを具体的な名前にあてはめれば、ネットスケープ、インターネットエクスプローラ、ヤフー、グーグル、ブログ、mixi、twitter、facebookなどとなるでしょう。この変化が、境界と差異の消失というクラウド化の進化を表していました。
だから、今、インターネットを活用するということは、単に情報を発信するだけではなく、交流を交わすということでもあるのです。しかし、交流が交流を目的としたものだけにとどまるならば、それは、アバターがあちこちの仮想空間でコミュニケーションを交わすという以上の話にはなりません。大事なのは、交流することではなく、その交流に創造を載せていくことです。
インターネットに象徴されるクラウド化のインフラを、単に交流のためのインフラにとどめるのではなく、日常的で大衆的な創造を交流させるためのインフラにするという観点を持つことによって、クラウド化はもう一段階新しいステージに進化することになるのです。
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