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記事 1281番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
facebook会員五千名以上。これから対話の教育を as/1281.html
森川林 2011/06/30 15:09 



 言葉の森のfacebook会員が五千名以上になりました。(6月30日現在5737名)

http://www.facebook.com/kotobanomori

 言葉の森のサイトの特徴は、facebookを単なるウェブサイトのひとつとしてではなく、つながりのあるメッシュのひとつとして位置づけていることです。

 これから、このfacebookを利用して、従来のインターネットではできなかった新しい教育のシステムを作っていきたいと思っています。



 今回は、その応用例のひとつとして、「対話の教育」を取り上げます。



 親子の対話というと、親と子がただお喋りをするだけのように聞こえると思います。実際、そういう面もありますが、それだけではありません。

 親子の対話は、年齢と話の質との関係で、話をすることがきわめて強力な学習の要素を持つことがあるのです。

 その最も顕著な例は、幼児期に表れます。



 0~2歳の幼児期は、まだ対話を交わすようなレベルではありません。しかし、この時期に実は、対話の核となる能力が急成長しています。

 幼児期に、親との生きた会話のかわりに、テレビやCDの音声が流れている環境で成長すると、対話の能力が阻害されるおそれがあります。おもしろくもないのに笑い声が聞こえてきたり、悲しくもないのに泣き声が聞こえてきたりすると、幼児は、対話を感情のないものとして学習してしまうのです。

 いったん最初の学習が成立すると、あとは、人間が話しかけても、その話を感情のないものとして聞くようになります。こういう子供が人間との人間らしい対話の能力を回復できる時期は、3歳ぐらいまでと言われています。

 幼児期の対話というのは、それほど重要なものなのです。



 音楽の世界では、幼児期に絶対音感を育てる方法があります。同じことが、音楽だけでなく言葉についてもあてはまります。

 幼児期は、絶対語感の育つ時期です。この時期に、親が実物とかかわりのある状態で、いろいろな話しかけを行うと、子供の思考力が大きく成長します。

 しかし、その場合に大事なのは、できるだけ実物との関連を持たせて話をするということです。その点で、絵本の読み聞かせよりも、実際に何かをきっかけにして話をすると方が話の中心になります。



 読書の場合は、それぞれの年齢に応じた発達段階があります。

 好きなものを読むのが基本と言っても、年齢相応よりも易しいものを読み続けると、逆に読む力が低下する場合があります。例えば、漫画は小学校低学年では、読む力を育てる面の方が強いのですが、高学年になると逆に読む力を低下させます。

 それは、ちょうど、やわらかいものばかり食べているとあごが丈夫にならないと同じようなことです。絵の助けを借りて読めるようなものばかり読んでいると、文字だけの文章を読む力が育ちません。

 高校生以上になると、本をよく読んでいるといっても、それが小説のような本ばかりであれば、やはり読む力はあまり伸びません。



 同じことが、対話の場合にもあてはまります。

 対話というのは、ただ親子でお喋りをすればいいというのではなく、考える喜びを育てるという面を重視して話していく必要があります。

 だから、子供が小学校低学年から中学年、高学年とだんだん成長していったときに、その子供の成長に応じて、親が考える楽しさを伝えられるような話をしていくことです。



 そういう話が自然にできる人もいます。しかし、ほとんどの人は、準備や努力なしにそういう話をすることができません。

 しかし、いったん中身のある知的な対話を親子でできるようになると、それは、その家庭の文化となり、その子供が大人になったときにも受け継がれていくようになります。

 食事中にみんなでテレビを見ながらごはんを食べるというようなこともひとつの文化です。そういう環境で育った子供は、自分が大人になり親になったときにも、やはり同じように子供たちにテレビを見せながら食事をするでしょう。

 逆に、食事中に、年齢の違う親子がそれぞれ自分なりに話をしながらごはんを食べるということができればそれもひとつの文化です。

 子供の教育のほとんどは、この家庭の文化の中で行われます。家庭の文化が崩壊している中で育った子が、学校や塾の教育で成長するというのは難しいのです。反対に、学校や社会環境がどんなに悪くても、家庭の文化さえしっかりしていれば、子供はのびのびと成長します。



 その家庭の教育文化を作ることに、facebookが活用できます。

 今、言葉の森のfacebookサイトには、「読書」や「遊び」や「季節の行事」のグループがあります。グループというのは、参加者が自由に投稿やコメントを交わせる掲示板のようなものです。

 このグループの中に、今後、課題の長文をもとに子供が作文の勉強をする際に、親子でどういう対話ができるかという情報交換のページを作っていく予定です。

 対話というのは、対話自体と目的として行うものではありません。そういう対話ができるのは、よほど趣味や関心が一致している場合ですし、その場合も毎日話せば話題はなくなってしまいます。

 作文の勉強という毎日の新しい課題があって、その課題に沿って対話をするということができれば、話題は尽きることはありませんし、何よりも考える喜びの感じられる知的な対話ができます。

 幼児期の語りかけのあと、子供が小学生になったら、その年齢に応じて自然に知的な対話が交わしていけるような発展性のあるサイトをこれから作っていきたいと思っています。



※5月からfacebookサイトの更新に取り組んでいたため、ホームページの更新が遅れていました。

 言葉の森のfacebookは、ほかのサイトにはないユニークな取り組みがいくつもあります。まだ会員になっていない方は、ぜひ言葉の森のfacebookページの会員になってくださるようお願いいたします。

http://www.facebook.com/kotobanomori

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記事 1280番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
インターネットを金本位制に戻すfacebook(フェイスブック) as/1280.html
森川林 2011/06/16 21:11 


 言葉の森では、facebook(フェイスブック)を情報提供の場としてだけでなく、コミュニケーションの場として活用していきたいと思っています。そこで、現在、行っているのは、さまざまなグループ活動です。

 これは、facebook内に、メンバー制によるグループを作り、その中で日常的に話ができるようにしていく仕組みです。グループに参加すれば、自分の関心のある分野に特化した情報でコミュニケーションを交わすことができます。

 今あるのは、36グループです。活発なところもそうでないところもありますが、自分の気が向いたときに、グループの記事を読んだり書いたりすればいいので気が楽です。

 そして、そういうゆるいつながりで参加しているグループであっても、そのグループでのやりとりは、ときどき自分のウォール(自分用の掲示板のようなもの)に表示されるので、つながりが切れてしまうことはありません。



 日本では、まだfacebookが広がっていないので、参加する個人や団体の中には、毎日きわめて頻繁に記事をアップロードするところと、ほとんどfacebookを開かず何日かに一度見にくるだけのところとの両極端があるようです。

 アメリカのようにfacebookが普及して日常的なプラットフォームになれば、1日1、2回定期的にチェックするというような使い方が多くなってくると思います。そういう無理のない生活に溶け込んだ使い方がされるようになって初めて共通のプラットフォームとして使いやすくなっていくと思います。



 さて、ここで、facebookの持つコミュニケーションの特徴を少し考えてみたいと思います。

 インターネットは、これまで一部の人や組織でなければできなかった情報発信を、誰の手でもできるように解放しました。

 その典型的なブログやyoutubeです。情報を提供するということは、それまでは新聞社やテレビ局のようなところでなければできませんでした。しかし、技術の制約とコストの制約が急速になくなった結果、今では誰もが特別の苦労なしに、自分で創造した情報を世界中の人に向けて発信できるようになりました。

 しかし、これらの情報を自由に情報を発信する人や組織が増えた結果、今度は、求めている情報がどこにあるかを探すための検索エンジンの必要性が増してきました。

 ところが、検索エンジンの利用が広がるにつれて、検索エンジンのアルゴリズム(計算方式)の裏をかくSEO対策が現れてきました。

 単に裏をかくSEO対策に対応するだけなら話は簡単です。しかし、問題は、そういうSEO対策を意識的に行っているあまり品質のよくないサイトと、SEO対策をほとんど行っていない品質のよいサイトとが混在していることです。

 そのため、現在、googleやYahoo!の検索の上位に来ているサイトは、必ずしも上位にふさわしいサイトではないという結果になってきました。

 こうなると、インターネットで何かを探す人は、検索エンジンが登場する以前の世界に戻ってしまったことになります。

 情報は年々増えていく。しかし、検索エンジンはあまり使えなくなってきた。このような状態で頼りになるのは、信頼できる個人のクチコミです。そこで、facebookのような特定の個人とつながることのできるコミュニケーションサイトが価値を持つようになってきたのです。



 googleの検索結果を上位にするためには、被リンク数をかせぐ必要があります。つまり、検索結果の上位に来るのは、ほかのサイトからリンクされている数の多いサイトだということです。

 しかし、今は匿名でいくらでもブログが作れる時代ですから、例えば、ある人がいろいろな名前で100個のブログを作り、そこから自分のサイトにリンクをはれば、一挙に100ヶ所のサイトからリンクされたホームページが登場することになります。

 そこで、このSEO対策に対応するために、検査エンジンの側が、今度は被リンク数だけでなく、中身のコンテンツの量を評価するようにしたとしても、コンテンツは、いくらでもコピー&ペーストで作ることができます。

 バーチャルな世界を前提にするかぎり、人間が作ったアルゴリズムであれば、人間が裏をかくのは容易なのです。

 ところが、facebookには、実名制というリアルな世界が結びついていました。これまでのインターネットが、金(きん)の裏づけのないマネーシステムだとすると、facebookは一昔前の金(きん)の裏づけのあるマネーシステムに戻ったというふうにも言えると思います。

 実名の裏づけのある個人が評価しているサイトは、匿名のブログから多数のリンクされているサイトよりも評価が高いはずです。(今はまだfacebookも過渡期なので、そうは言いきれない面もあると思いますが)

 こうして、多くの人が、googleやYahoo!の検索結果よりも、facebookでの知人の評価の方を信頼するようになっていったのです。

 金本位制が復活したら、金(きん)の裏づけを持たないマネーをいつまでも持っていようと思う人はいません。同じ金額が表示されているなら、金(きん)と交換できるマネーを持ちたいとだれもが思うはずです。

 facebookがこれから脚光を浴びると思われるのは、こういう時代の大きな流れが背景にあるからなのです。



 この言葉の森のホームページをごらんのみなさんも、ぜひfacebookに登録して、言葉の森のfacebookサイト、 言葉の森作文ネットワークにおいでください。


主なグループ紹介


読書の好きな子になる庭  子供を読書の好きな子になるにはどうするか、また、読書の好きな子にはそのあとどう対応していくか、ということを話します。 具体的な本の紹介などもしながら進めていきたいと思います。

親子で遊ぼうワンワンワン  主に小学生ぐらいの子供と、お父さんお母さんが楽しく遊ぶための方法を考えるグループです。 もう子供が大きくなった方も大歓迎。経験談を教えてください。 まだ子供が小さい方、まだ子供がいない方もぜひどうぞ。

教育の丘コミュ  子育て、教育、勉強に関する雑談、親睦、交流を行ってます。 お気軽にご参加ください。


高校大学入試小論文の岸  最近増えている、高校、大学の入試小論文。かなり書きにくそうなテーマも出されています。そういうテーマにどう取り組むか、という実践的な話を中心に。 実際の小論文課題を取り上げながら話をしていきたいと思います。

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ファンレター 20110623  
横浜市教育委員会、学校給食会は、放射線量も測らず小学校の給食に福島県の計画避難区域内の牛肉をたべさせています。
誠実な市議でも時間がかかっております。
中根先生の作文でなんとか横浜を説得できないでしょうか。
ヒントを下さい。

森川林 20110630  
 お返事遅れてすみませんでした。
 国民の大多数は、正しい情報があれば正しい判断をすると思います。
 しかし、今はまだ、マスメディアが情報をゆがめ、政治が判断をゆがめるという状態が続いているようです。
 その原因は、利権と脅迫です。
 そのことに、多くの人が気づきはじめたので、これから世の中は大きく変わっていくと思います。

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記事 1279番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
facebook(フェイスブック)の本質とその対応方法 as/1279.html
森川林 2011/06/06 22:00 


 今回は、facebookの本質を、今後の言葉の森の学習にどう結び付けるかということについて考えていきます。

 例によって、一般論から始めるので、最初は教育や作文に関係のない話が続きますが、あとの方で具体的な勉強に結びついていきます。

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 まず、私たちがいま生きている社会がどういうものかと考えると、それは、情報の封鎖が不可能になりつつある時代だということです。

 これまで、人類は、多くの戦争を経験してきました。しかし、その戦争の中で、民衆が自らの希望と意志で行った戦争などはひとつもありません。すべて、そのときどきの支配層が、自分に都合のいいシナリオを民衆に信じ込ませて、うまく戦争に誘導していっただけです。

 それは、決して未開の人類の話ではありません。第一次世界大戦も、第二次世界大戦もそうでしたし、今、世界で行われているさまざまな戦争、紛争もすべてそうだと言って差し支えないと思います。

 日本人であれ、アメリカ人であれ、中国人であれ、ロシア人であれ、それぞれの国民がひとりの個人として相手の国のひとりの個人と対立する必然性は何もありません。そういうことが理屈ではわかっていながら、これまで国家間の戦争が止められなかったのは、情報を独占しそれをゆがめて発信するマスコミが健在だったからです。

 しかし、今急速に、その情報独占の構造がゆらぎつつあります。その情報の民主化を推進しているのは、もちろんインターネットです。



 ところが、私たちはその状況を手ばなしで喜べるほど余裕のある情勢にあるわけではありません。現代の各国の支配層は、インターネットによる情報の民主化が進み自分たちのシナリオが通用しなくなる前に、最後の賭けをしようとしているのです。

 ですから、私たちの対応もそれに応じて、できるだけ速く情報の民主化を進めていくことにあります。それは、インターネットを中心に、あらゆる情報をだれもが自由に発信し、それを広範に公開する機会を広げていくことです。

 例えば、日本と中国、日本と北朝鮮、あるいは日本とアメリカを戦争状態に引きずり込みたがっているさまざまな勢力が今もあるはずです。しかし、例えば、日本人の何割かが中国人の何割かとインターネットで情報を共有できる間柄になったとしたら、両国の間で戦争を起こすことはもはや不可能です。もし両国の間に利害の対立があったとしても、その解決は話し合いによるしかありません。武力に訴えるという方法は、まともな感覚の人間ならとるはずがないのです。それをとらせたがっているのは、民衆ではなく支配層だけです。



 facebookをはじめとするインターネットのソーシャルサービスの広がりは、私たちの住むこの地球をこれ以上悪い星にしないための重要な足がかりとすることができます。そして更に、地球を悪くしないだけでなく、よくするための方法としても、これらのソーシャルサービスを使っていくことができるのです。

 インターネットは、政治的には真の民主主義を実現し、経済的には創造産業を作り出し、社会的には教育文化を生み出すことができます。今の段階で人類の力が統合できれば、あらゆる天災や人災に対応できると同時に、これまでにない新しい愛と平和と活力に満ちた社会を作り出すことができます。

 この展望をこれから実現していくのが、私たちすべての課題なのだと思います。

(つづく)

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暗唱の自習をどう進めるか as/1278.html
森川林 2011/06/02 18:09 



言葉の森が、暗唱の自習を始める前



 言葉の森が長文暗唱の自習を始める前、自習の内容は長文音読でした。(一時これに短文暗唱が加わっていた時期もありますが)

 長文音読の自習は、その後、学校などが始めるようになったため、学校の宿題と言葉の森の自習がぶつかるという問題が出てきました。

 また、長文音読は同じ文章を繰り返し読むことが大事なのですが、ただ声を出して読むことに意義があるような受け取られ方をするという問題も出てきました。

 そこで、長文音読よりも繰り返しの効果がはっきり表れ、達成感のある長文暗唱を自習の中心とするようにしました。



 この長文暗唱を始めるようになってから、子供たちが勉強を進める上で大きな変化がありました。いちばんの大きな変化は、作文力をつけるための努力の方向がわかるようになったことです。

 作文の実力というものは、一般になかなか上達しません。まだ、だれでもスランプというものがあります。

 従来の作文指導では、ただ書かせて添削するという形がほとんどだったので、子供たちが毎週いくらがんばって書いても、思ったようには上手にならないというジレンマがありました。

 ところが、この長文暗唱の自習を始めてから、作文は苦手だが毎日必ず自宅で暗唱を続けるという子が出てきました。その子供たちが、半年ほどたつと確実に作文力がついてきたのです。



家庭で暗唱の自習が続けにくいとき



 しかし、長文暗唱の自習は、長文音読の自習よりもずっとやりがいがあるにもかかわらず、やはり続けにくいものです。その理由は、ただひとつ、同じことを毎日繰り返すという勉強の仕方にあります。

 今の子供たちは、ビジュアルなメディアを利用した日々変化のある面白い教材や勉強法に慣れています。そういう子供たちにとって、毎日同じことを同じように続けるというのは、たとえそれが1日10分間であっても苦痛に感じることが多いのです。

 子供たちの実力を本当につけるのは、この同じことを繰り返すという勉強法です。目先の変わったものを次々とやっていく勉強では、確実なものはなかなか身につきません。これは、参考書や問題集の利用の仕方でも同じですが、高校入試や大学入試の勉強で実力をつける子は、例外なく同じ教材を何度も(普通は四回以上)繰り返してやっています。

 高校入試や大学入試の場合は、子供たち自身に勉強の自覚が出てくるので、この繰り返しの勉強も意義がわかれば無理なく取り組めます。しかし、小学生の場合は、この繰り返しを苦痛と感じてしまう子がほとんどなのです。



大事なのは、親の確信と忍耐



 ここで大事になってくるのは、親の確信と忍耐です。「毎日10分、暗唱の自習をしなさい」と、親や先生が何度か言うだけで、それを毎日しっかり続けられるような子はひとりもいません。人間は、創造性に富んだ生き物なので、同じことを繰り返すというのはすぐに飽きるのです。

 子供が毎日の自習に飽きて嫌がったときに、確信をもって続けさせられる親はあまり多くありません。というのは、暗唱の自習というのは、親自身もやったことがないので半分不安なところがあるからです。子供があまり嫌がると、これでいいのかと不安になってしまうのです。

 これと反対なのが九九です。九九を覚えることを子供がどれだけ嫌がっても、親は確信をもって続けさせることができます。九九は、親自身も子供のころに覚えた経験があり、やればだれでも例外なくできるようになることがわかっているので確信を持てるからです。

 暗唱の自習で、もうひとつ大変なのは、毎日、毎日親が口を酸っぱくして言わなければ続けられないということです。言葉の森の暗唱は、毎日10分間の練習でだれでも完璧に1ヶ月で1000字近くをよどみなく暗唱できるようになりますが、これが毎日ではなく、2日に1回とか、3日に1回ということになると、完璧とは言えない暗唱になってしまいます。そして、一応できたとしても、不完全な暗唱というのは、子供にとってはあまり達成感がありません。

 だから、暗唱の自習は毎日やることが大事なのですが、毎日できるかどうかの責任の半分以上は、親が毎日ひとこと声をかけてあげられるかどうかにあります。ここが、親の忍耐が必要なところです。

 また、小学校高学年や中高生の場合は、毎日一定の時間を確保するということ自体が難しくなるので、これは子供の生活状況の問題としてまた別に考える必要が出てきます。



無理なく毎日続けさせられればそれが家庭の文化になる



 勉強のさせ方の上手な親は、

1、子供に苦痛を感じさせず、
2、親もほとんど負担にならず、
3、毎日同じことを同じように続けさせて、
4、それを明るく楽しく褒めるだけ

という勉強のさせ方ができます。

 ちょうど、こんな感じです。

親「あ、今日の暗唱の時間よ」
子「はあい」
子(素直に暗唱の自習をする)
親「わあ、すごい。よく上手に読めるね」



 反対の場合は、こんな感じになると思います。

親「あ、まだ暗唱やっていないでしょう」
子「えー、やりたくない」
親「やらなきゃだめでしょ」(と、小言を言ったり、叱ったりする)
子(しぶしぶ暗唱の自習をする)
親「もっとちゃんと読みなさい」(などと注意するか、読み終えたあとも褒めない)



 こういう家庭での学習スタイルは、一種の家庭の文化ですから、一朝一夕にできるものではありません。そして、いったんできた文化を作りかえるというのは、とても大変なことなのです。

 だから、小学校1、2年生のころに、親が、子供にほとんど強制と感じさせない形で毎日の自習をする習慣をつけることができれば、その後の家庭学習はすべてうまくいきます。

 逆に、子供に強制を感じさせたり、毎日ということが徹底できない場合は、その後の家庭学習はなかなかうまく進みません。

 では、既に、子供に毎日の自習を続けさせることに困難を感じている家庭の場合はどうしたらいいのでしょうか。



暗唱が難しい場合は、読書の自習に切り替える



 小学校低中学年の勉強でいちばん大事なことは、何を勉強するかということではなく、どう勉強するかということです。

 毎日同じことを同じようにやるという勉強の仕方を定着させることが大事で、何をするかということはそのあとに出てくる問題です。

 そして、何をするかということについて、最も大事なのは、解く勉強をするのではなく、読む勉強をするということです。特に、国語の勉強については、読む時間を確保することが最優先です。

 暗唱の自習も読む勉強ですが、暗唱を毎日続けるというのは難度が高い勉強ですから、暗唱を続けにくい場合は、暗唱はやめて、読書という勉強に切り替えていくのです。

 子供が嫌がったり、親が毎日叱ったりしながら続けるような勉強は、どのような勉強であっても、プラスの面よりもマイナスの面の方が大きくなります。叱ってやらせるぐらいなら、やらない方がやはりいいのです。

 そのかわり、毎日の読書であれば、難度はずっと低くなるので、毎日続けさせることももっと簡単にできるようになります。

 これは、毎日一定の時間を確保しにくくなった小学校高学年や中高生の場合も同じです。また、小学校高学年以上の場合は、ただの読書のかわりに問題集読書に取り組むという自習に切り替えることもできます。



毎日の読書の続けさせ方



 読書や問題集読書の方が自習として簡単だと言っても、やはり毎日続けさせるには、親の確信と忍耐が必要になってきます。

 確信というのは、読む時間を確保することが、国語力、思考力、表現力をつける最も確実な土台になるという確信です。

 忍耐というのは、やはり毎日同じように、本を読ませるためにひとこと声をかけるということです。

 ここで大事なのは、毎日欠かさずにということです。ときどき読むとか、読みたいときに読むとか、忙しいときは読まないというのでは、家庭の文化にはなりません。

 読む本は、絵のスペースの方が字のスペースよりも多くないということを基準にするといいでしょう。具体的には、絵本でないこと、漫画でないこと、学習漫画でないこと、図鑑や雑誌でないことです。

 しかし、それは、絵本や漫画や学習漫画を読まないということではありません。どんなものでも読んでいいのですが、毎日の読書の自習として読むのは普通の本だということです。

 本の内容で、親のほとんどだれもが共通して陥りやすい失敗は、難しいものや有名なものを読ませようとすることです。

 読書で大事なことは、何を読むかということよりも、毎日読むということですから、子供が興味を持って読めるものを読ませることが大事です。

 そして、ときどき、「よく本を読むね」とか「読書が好きなんだね」などと声をかけてあげ、子供自身が自分は読書好きなのだという自覚を自然に持たせていくのです。



facebookで相談を



 トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭に、「幸せな家庭はみんな似通っているが、 不幸な家庭はそれぞれに不幸である」という言葉があります。同じように、「勉強のうまくできる家庭は、どこも似通っているが、勉強のうまくできない家庭は、それぞれにできない事情がある」ということが言えるようです。

 このときに大事なのが、個別の相談です。一般論としての自習の意義や方法はだれでもわかります。しかし、自分のうちの子にはできないというとき、そこにはその家庭の独特の事情ががあります。

 言葉の森では、現在facebookでさまざまなグループを作っています。自習のさせ方だけに限らず、読書のさせ方、読解問題の解き方、小論文試験の取り組み方など、多くのグループがあります。

 グループ参加には、何も制約がありませんので、ご希望の方はぜひ見学においでください。

http://www.facebook.com/kotobanomori

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暗唱(121) 

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「言葉の森作文ネットワーク」の理念と方法(その2) as/1277.html
森川林 2011/05/27 14:47 


 進歩と平和の両立ということを考えた場合、それを実現する鍵となるものは、制度ではなく、その制度を支えるひとりひとりの個人です。言い換えれば、個人の教育さえ充実していれば、制度の不備は人間の力によってカバーすることができます。

 江戸時代、当時の世界最大の都市である江戸の治安を守ったのは、公権力の警察機構構や防災機構ではありませんでした。幕藩体制は、多くの無駄を抱えてはいたものの、庶民の生活を守り発展させることに関しては、きわめて低コストで合理的な仕組みになっていたのです。それは、市民の民度が高く、自助努力によって治安や防災や教育の生活基盤が維持、運営されていたからです。



 そして、これが、未来の社会の姿なのです。

 どのように優れた制度であっても、また、どのように予算をかけた運営であっても、国民ひとりひとりの教育水準が高まらないかぎり、安定した社会は生まれません。反対に、国民の文化的水準さえ高ければ、制度も予算も、つまり、法律も警察もほとんど要らない形で豊かな社会生活を実現することができます。日本は、そのような社会を江戸時代に、世界最大の規模と、世界最高の水準で既に実現していました。私たちのすることは、その過去の経験をもう一度思い出すことだけなのです。

 理想の未来の社会を作ろうとするときに、欧米では、新しい理論を作り、それを議論をし、さまざまな試行錯誤を行わなければなりません。大多数の国民が合意できる安定した社会の設計図ができるまでの間には、多くの紆余曲折や対立があるはずです。

 しかし、日本は、理想の未来の社会を作るために、過去を思い出すだけで済むのです。世界のほかの国でも、そのような理想の社会の萌芽となる時代がいくつもあったはずです。しかし、日本以外の国では、主にその地理的な条件から、異民族の侵入によってしばしば歴史が中断され、その理想の社会を長期間にわたって継続させ発展させることができませんでした。そういう社会が現実に発展したのは日本だけだったのです。



 もちろん、古きよき時代は、その古さゆえの制約を持っていたからこそ、当時の歴史状況では世界に影響を与えることはできませんでした。江戸時代に日本に来た欧米人の多くが、その江戸社会の庶民の生活に、深い尊敬と羨望の念を抱きながらも、それが世界史の中では消滅する運命にあると感じていたのは、当時の日本文化がまだ欧米の文化を包み込むほどの普遍性を持っていなかったためです。

 しかし、今は違います。現代の日本人の生活のほとんどは、欧米の文化の枠の中で営まれています。だから、私たちがこれからすることは、今の生活を前提にして過去を思い出し、過去を基準にして今の生活を変える、ということなのです。そして、繰り返して言えば、これは、制度や予算の問題ではなく、ただ個人の教育の問題に帰着するのです。



 未来の世界の理想となる社会のモデルを提案する役割が、日本にはあります。しかし、そのためには、日本の教育を根本から変えていく必要があります。従来の日本の教育のままでは、未来の社会の建設という仕事を担うことはできません。

 その新しい教育の考え方は、大きく言えば、
1、受験の教育から、実力の教育へ
2、学校の教育から、家庭の教育へ
3、点数の教育から、文化の教育へ
4、競争の教育から、独立の教育へ
ということになると思います。(注1)

 2の「学校の教育から、家庭の教育へ」というのは、学校が不要だというのではなく、従来の「分業として成り立つサービスに、子供の教育を委託する」という発想から、「地域や家庭の文化として、教育を担う」という発想に切り換えるということです。

 これは、教育に限らず、今後の社会の基本的な考え方になります。例えば、治安、防災、医療、福祉、介護、環境整備などのサービスは、これまで、役所が管轄する仕事として考えられていたために、多くの無駄と非効率を生み出していました。

 しかし、その無駄と非効率を解決するために民間の効率的なサービスに期待するというのは、過去の古い資本主義的な枠内の考え方です。人間生活の土台となる教育、治安、防災、医療、福祉、介護、環境整備などを民間に委託すれば、その分だけGDPは上がります。しかし、もともとこれらの人間生活の土台は、役所のサービスにも民間サービスにも頼らずに、地域や家庭の文化の中で自然に最適な状態で生活の一部として解決されていたものなのです。そのモデルのひとつが、何度も述べるように江戸時代の文化でした。そして、江戸時代の民間サービスは、もっと高度な文化の創造の方に向けられていたのです。



 世界を変えるためには、個人がまず変わっていく必要があります。

 これから、私たちがすることは、新しい教育の理念にもとづいた新しい教育の文化を創り出していくことです。これは、小手先の改良ではなく、根本的な改革として行われる必要があります。

 だから、当然、教科の枠組みなども大きく変わります。現在の、国語、数学、英語、理科、社会、音楽、美術、家庭、体育という区分も大きく変化する可能性があります。

 教育の改革の中で、学年の分け方も大きく変わります。特に、これまで見過ごされがちだったために民間が先行していた幼児教育を、人間の自然の成長の中に正しく位置づけて行っていく必要があります。

 また、教育を、サービスとして学校や塾や先生に委託するという発想から、教育を文化として地域と家庭の生活の中で担っていくという発想に大きく切り換える必要があります。



 このように、教育におけるあらゆるものが変化する中で、その変化に伴う混乱をできるだけ少なく、しかも、教育のあり方を未来の理想に向かって進めるための羅針盤となるものがあります。

 それは、現在の教育と未来の教育の両方に属し、現在の教育と未来の教育の架け橋となるような教科で、それが、作文教育なのです。

 作文は、現在の教育において、国語、読解、作文、小論文の教科として、入試の重要科目のひとつとなっています。しかし同時に、作文は、未来の教育の要素も持っています。つまり、作文教育の中で、創造性、自律性、対話性、文化性もまた育てることができるのです。

 作文は、国語力もつく、読解力もつく、作文の受験にも役立つ、そして、未来の社会に必要な創造性や人間性を育てることにも役立つという特殊なk性格を持つ教科だったのです。



 しかし、そのように高度な作文教育を行うためには、従来の方法では不十分です。つまり、いい教材、いい先生、いい教室だけでは、新しい作文教育を担うには力不足なのです。

 新しい作文教育を行うためには、その教育の前提となる対話を欠かすことができません。それは、子供と先生との対話、子供と親との対話、親と先生との対話であるとともに、それぞれ、ほかの子供や親や先生との対話も含む、多様なつながりを持った対話となる必要があります。その対話を、日常的に持てる仕組みがあって初めて、作文教育は従来の教育の枠を超えた、現在と未来の教育の架け橋となる役割を持てるのです。

 そして、このように未来の教育の方向が明らかになってきた時期にちょうど合わせるかのように、facebook(フェイスブック)というプラットフォームが生まれていました。

 未来の社会を担う教育は、これまでは理論の中だけでしか語られていませんでした。しかし、今ようやくその現実の後ろ姿が見えてきました。これから、多くの試行錯誤があるはずですが、新しい教育は着実に進んでいくでしょう。

 アメリカが作ったfacebook(フェイスブック)というレールの上を、これから日本の教育文化というコンテンツが走ります。しかし、それは決して日本だけに限定された文化ではありません。世界のモデルとなるような、普遍化された日本の文化です。

 日本の力では、facebookのようなプラットフォームは作れなかったでしょう。それは、技術的に作れなかったのではなく、そういう発想がなかったからです。アメリカだからこそ、このような仕組みを現実のシステムとして創造することができました。

 同様に、世界のすべての文化には、その国やその民族でなければ創造できない独自の内容があります。だから、日本がこれから世界に貢献する道は、日本の文化を他の世界に押しつけることではありません。日本の中で、世界に通用する理想の社会を黙々と作ることなのです。

 そして、そのようにして日本がこれから作り出す新しい教育と新しい社会が、やがて、世界の人々が自分たちの歴史に合った未来の理想社会を考える際の貴重なモデルとなります。



 言葉の森は、未来の社会を支える柱を、未来の教育として作り出していく森です。言葉の森作文ネットワークに参加するみなさんの応援によって、これから、日本を守り、発展させ、世界の未来の理想のモデルとなる新しい社会と新しい教育を作るようにがんばっていきたいと思います。


(注1)
1、受験の教育から、実力の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1227
2、学校の教育から、家庭の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1228
3、点数の教育から、文化の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1229
4、競争の教育から、独立の教育へ
https://www.mori7.com/index.php?e=1250

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「言葉の森作文ネットワーク」の理念と方法(その1) as/1276.html
森川林 2011/05/25 21:19 


 「言葉の森作文ネットワーク」とは、言葉の森のfacebookページの名前です。

 今回は、このページの理念と方法について説明していきます。

http://www.facebook.com/kotobanomori

 理念という根本的な話から始めますので、しばらく作文とは関係のないように見える話が続きますが、最終的には結びつきます。また、facebookの意義ということにも結びついていきます。

 自分で言うのも何ですが、すごくいい話になると思います。(ならなかったら困るけど)(^^ゞ




 世界は大きな曲がり角に差しかかっています。その曲がり角の兆候は、一足先に日本に訪れています。

 今、日本に住んでいる人の大きな関心は、日本を守ることにあると思います。その思いは、これから、世界中の人が、今後世界に起こるさまざまな問題を克服してそれぞれの世界を守ることを願う気持ちと共通しています。

 日本を守り発展させることが、同時に、世界を守り発展させることにつながるという時代に私たちは生きています。



 人類は、今、これまでとは質的に異なる新しい歴史時代に入ろうとしています。

 それは、生産力が、あらゆる貧困の条件を覆い尽くすほど飛躍的に発展した時代です。

 今日、世界の各国で失業が大きな問題となっているのは、見方を変えれば、多くの働き手が仕事に携わらなくても、世界の経済が回っていくほど人類全体の生産力が増しているということです。

 その豊かな生産力が、現実の生活で実感できないのは、ただ政治の工夫が不足しているからという理由だけによるものです。

 アインシュタインは、かつて、「なぜ、人間は原子力を発見することができたのに、それを管理することができないのか」という質問に答えて、「それは、政治が物理学よりも難しいからだ」と答えました。

 しかし、難しいということは、やり方によって解決できるということです。



 今日の政治の問題は、ひとことで言えば、民主主義が本当の意味で機能していないことにあります。

 先進国では、単純な多数決の投票制度によって、外見上の民主主義が実現されているような印象を受けますが、実はその外見の民主主義の印象を利用して、根本的な非民主主義体制が強固に維持されています。

 その仕組みはいくつもありますが、ひとつの具体例を挙げれば、例えば、マスメディアを資金力でねじまげ、情報操作によってゆがんだ世論を作り、その世論を自分に都合のよい方向に向けて社会をコントロールするというような方法です。これは、現代の先進国では、多かれ少なかれどこでも行われています。



 しかし、インターネットの発達は、このような形だけの民主主義から私たちが抜け出せる条件を作りつつあります。

 真の民主主義を実現する簡単な方法をひとつ挙げれば、例えば、選挙権を持つ人に教養試験を行い、その評価をもとにして投票数を配分するという方法があります。政治・経済・社会・文化の総合的な教養試験で得点の高かった人には10票、得点の低かった人には1票というような民主主義を行えば、すぐに民主主義は生きたものになって復活します。人間の知恵は、こういう仕組みを作る上で、必ずほとんどの人が合意できる枠組みを見つけることができるはずです。



 もちろん、もっといい方法もたくさんあると思います。大事なことは、どんな方法であれ、その実現可能性がだれの目にも見えるような気がするほど、現在考えられる人類の未来は楽観的だということです。膨大な生産力と、真の民主主義を反映した政治が実現すれば、今、地球上にあるほとんどの問題が解決するのは時間の問題だけになります。



 ところが、ここで新たに大きな問題として立ち現われるのが、人間というものの持つ本質的な性格です。

 人間は、理屈の上でどれほどよいことであっても、同じ状態が続くことに飽きる存在です。これが、人間でなく、牛や馬やニワトリであれば、このような問題は生まれません。また、人間でなく、ロボットであってももちろんこのような問題は生まれません。更に、もっと知的な動物であるイルカやクジラやゾウであっても、このような問題は生まれないのです。

 しかし、人間が、人類社会の恒久平和を実現するために、イルカのような動物にならなければならないとしたら、それは人間の意義を否定することになります。人間は、飽きるから進歩してきたのであり、イルカは飽きないから進歩してこなかったのです。



 人類の歴史には、ある地域のある期間に限定されたものであったとは言え、相対的に豊かで平和な社会が実現した時期がありました。そのときに、昔の人もやはり、進歩と平和の両立という問題を考えてきました。

 その解答のひとつとして生まれたのが、カースト制度だと思います。

 カースト制度は、社会の中で、「生まれつき」という議論の余地のない理由によって、大多数のイルカのような人生を歩む人と、ごく少数の人間のような人生を生きる人を階層化する仕組みです。この仕組みによって、進歩と平和を両立させることができると、かつて考えた人がいたのです。そして、この考えは、ダーウィンの進化論に影響を受けている欧米の知識人の間では、今でも、最も現実的な解決策だと考えられているように思います。更に言えば、これ以外の選択肢はほとんど考えられていないのです。

 カースト制度は、インドの一部の遅れた文化に属する制度なのではありません。人類の未来の社会に待ち受けている可能性なのです。



 しかし、今西錦司の棲み分け理論を、知識として知るというよりも実際の生活の中で自然に実践している日本人にとっては、欧米とは別の選択肢も容易に思い浮かびます。そして、日本人は、それを考えるだけでなく、現実の歴史の中で実践してきました。

 日本の歴史は、欧米の発想とは全く異なる別の解決策を現実の社会の中で驚くほど長期間にわたって実現してきました。それは、(1)社会の構成員のほとんどが知的に向上し成熟していて、(2)しかも、その多くがそれぞれに創造性を発揮して生きていく、という社会です。それが例えば、質的な違いはあるものの、縄文時代の数万年と、江戸時代の数百年だったと言ってもよいでしょう。

 日本は、世界の歴史の中でほとんど唯一と言ってもよいほど、独自の方法で進歩と平和を両立させる文化を作り出してきたのです。(つづく)

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日本(39) 

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言霊論 as/1275.html
森川林 2011/05/24 21:04 


 言霊という感覚は、日本的なものです。欧米では、言霊に匹敵する言葉はあまりないように思います。

 欧米のディベートの文化では、言葉は意思を伝える手段ですが、言語は手段以上のものではなく、その手段をいかに有効に使うかということに考えが進みます。ディベートの前提は、自分が正しいと思うかどうかにかかわらず、ある立場に立って論じるということですが、この発想は、日本人には苦手です。

 国際舞台での交渉事は、テーブルの上でにっこり笑って握手をしながら、テーブルの下では相手の足を踏むというようなことが行われるようですが、こういうことを平気でできる日本人はあまりいません。日本人にとって、言葉とは心がこもってしまうものですから、自分の感情を抜きにして理屈の上だけで話をするというのは苦手なのです。



 そこには、日本語と日本人の特殊な事情が二つあるようです。



 第一は、日本語の音声です。日本語は、世界でも、日本とポリネシアにしか存在しないと言われる母音言語です。この母音言語の環境に6-8歳のころに置かれると、自然の音を言語と同じ左脳で処理する日本語脳が形成されます。ですから、日本で成長した日本人はほぼ全員日本語脳です。

 この日本語脳の特徴は、自然音だけでなく、感情も左脳で処理してしまうことです。

 例えば、「梅干し」という言葉を聞くと唾液が出てきます。日本語脳でない外国人との比較の調査はまだありませんが、この言葉によって情動が影響されるというのが日本人の特徴だと思います。

 だから、「さわやかな青空」という言葉を聞くと、その言葉だけで、気持ちもさわやかになってくるのです。

 心身統一合気道の創始者である藤平光一氏は、自分の脈拍を自由に速くしたり遅くしたりできたそうです。その秘密は、脈拍をコントロールしようとするのではなく、自分の気持ちをすごく焦っているときの気持ちにしたり、逆にすごくゆったりしたときの気持ちにしたりすることによって、結果的に脈拍をコントロールするという方法でした。しかし、それを聞いて納得した海外の学者が同じことをやろうとしても、だれでもできなかったそうです。

 藤平氏は、合気道の達人でしたから、脈拍を自由にコントロールするレベルまでできましたが、似たようなことを多くの日本人がやっているように思います。そのときに使われているのが、日本語と日本語脳の組み合わせが生み出す言葉の情動性なのです。



 さて、日本語脳というのは、主に音声の面での特徴です。ところが、第二に、日本語には音声だけでなく、文字においても情動性を喚起する力があるようです。

 日本語には漢字とひらがな(カタカナ)がありますが、漢字を処理する脳の部位と、ひらがな(カタカナ)を処理する脳の部位が違うことがわかっています。漢字は、イメージや音楽と同じ部位で処理されていて、ひらがなやカタカナの処理される部位とは異なっています。

 絵は、言葉に比べると、情動に影響を及ぼす度合い高く、言葉だけで聞く(あるいは見る)よりも、画像の助けを借りた方が理解が早くなることが知られています。言葉の持つ記号性の更に純化したものが数字だとすると、情動に対する影響力という点で、画像>言語>数字という関係が成り立つように思います。

 こう考えると、漢字を画像的な象形文字として認識する日本語は、表音文字だけで記述されるアルファベットよりも、人間の気持ちを動かしやすいのだと思います。

 では、漢字だけで成り立つ中国語はどうかというと、中国語ではすべての文字が画像になっています。それに対して、日本語は、画像としての漢字と漢字の間に、その漢字の関係を表す助詞や助動詞がひらがなとしてはさまっています。このひらがなが、動きの役割を果たします。

 例えば、「感謝」という言葉だけを見ると、感謝のイメージは画像として浮かんでくるような気がします。しかし、ここに、「感謝する」「感謝します」「感謝したい」というひらがなの助動詞がつくと、このイメージが動きをもって心に迫ってくるような感じがすると思います。

 つまり、日本語は、表意文字と表音文字の組み合わせによって、先ほどの、画像>言語>数字の関係に、更に、動画を付け加えた関係になっているようなのです。(動画>画像>言語>数字)



 日本語は、音声の面からも、文字の面からも、単なる伝達手段としての言語という無機的なものではなく、人間の心に影響を及ぼす生命力を持ったものになっています。しかし、それは、日本語と日本語脳が組み合わさったときにそうなるのです。そして、この心への影響というものは、たぶん、人間の潜在意識により深く影響を及ぼすものです。これが、日本語において言霊という感覚が成立しやすい条件になっているのだと思います。



 もちろん、日本語に限らず、言語にはもともと情動に影響を及ぼす面があります。アルファベットにも、当然そのような言霊の力はあるはずですが、それを感じとるためには、感受性を高める必要があります。

 しかし、日本語の場合は、普通の人でもすぐに言語の情動性を感じ取れるような特徴があり、それが個人の意識だけでなく、日本人という集団の集合意識にも影響を及ぼす面があるのではないかと思われるのです。

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日本語脳(15) 

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エントリーシートの書き方 as/1274.html
森川林 2011/05/23 19:24 


 エントリーシートや志望理由書の書き方にはコツがあります。



 小中学生の場合、志望理由書は本人が書くことが原則になっていますが、本人任せでは書けません。親がアドバイスをして親子の合作で書いていく必要があります。



 手書きで書く場合は、最初に、エントリーシートの枠に1行普通に書いてみて、その字数を数えます。そして、手書きで書く字数と行数に合わせて、パソコンの字数行数のセットをし、パソコンで内容を修正しながら書いていきます。パソコンで完成したものを、手書きできれいに清書するという書き方です。



 文章を書くときは、構成をわかりやすく書くのが大事です。志望理由書で自分のアピールできる点を書く場合でも、論点をいくつかに整理して、それぞれの論点について同じ長さぐらいの字数配分で書いていきます。

 ある段落は長すぎ、ある段落は短すぎという書き方にならないように、全体の目配りをしながら書いていきましょう。



 エントリーシートに書く内容は、自分のアピールできる点です。できるだけ具体的な固有名詞や数字を入れて、裏付けのはっきりしたものを書きます。例えば、「本を読むのが好きです」と書くよりも、「毎週2、3冊は必ず読みます」などと書いた方が説得力があります。何かをがんばって続けた場合でも、「○年○ヶ月続けた」と書きます。ほかに、「○人集まった」とか、「○円の業績があった」のように、できるだけ数字がわかるように書いていきます。



 内容は、全体に明るくなるように心がけます。苦しい経験も人間を成長させますが、苦しいことをのりこえたという明るい点を中心に書いていきます。

 また、他人を批判するような内容は、文章の力を弱くします。批判はできるだけ避けて、物事のプラスの面を中心に書いていきましょう。



 エントリーシートでアピールするのは、自分が挑戦したことですが、大学生の場合、4年間をふりかえってみると、人に自慢できるような挑戦は意外と少ないものです。

 アルバイトや部活などはだれでもそれなりにがんばっていますが、だれが書いてもあまり大きな差が出ません。それよりも、むしろ、勉強面でがんばったという話は、意外と好感を持たれます。

 しかし、その勉強も、資格試験をとるためにがんばったという実利的なものよりも、研究や調査で、特に何かの見返りを期待するわけではなくがんばったというようなものの方が印象に残ります。



 アピールできる点があまりない場合は、説明風に書くと字数が埋まりません。その場合は、そのときのエピソードを描写的に書いていくといいでしょう。



 書き終えたあと、自分が書いたものを必ず他人にも読んでもらい、読みにくいところを指摘してもらいます。家族でも友達でもかまいません。他人に読んでもらうことによって、自分では気がつかないことがわかります。

 高校生や大学生になると、自分で書いて読み返してそのまま提出という形になりやすいのですが、提出する前に必ずほかの人に読んでもらいましょう。



 言葉の森の「質問の広場」という掲示板に、いろいろな人が書いた志望理由書と添削例が載っています。そのようなサンプルを参考にすると書きやすいでしょう。

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