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国語の読解力をつけるための基礎は、小学校中学年までの読書量です。しかし、ただ物語的な読書だけの量が多くても、それがそのまま国語力に結びつくわけではありません。入試に出てくる問題文は、子供が通常読むような本のレベルよりも高いので、そういう難しい文章に慣れておく必要があります。
入試問題の文章に慣れるためにいちばんいいのは、やはり昨年の入試問題です。天声人語のような新聞のコラムの文章は易しすぎます。塾のテキストや市販の問題集などの問題文でもいいのですが、入試問題にはその時代の特徴が反映されます。古い問題集では、たとえその文章自体の質がよくても時代的に合わない面も出てきます。例えば、二酸化炭素と地球温暖化は、科学的な裏づけに疑問が持たれるようになってきました。一昔前なら必ずどこかで出た文章ですが、これからはもう出ないと思います。
小学校中学年までに本をよく読んでいた子は、入試問題集のような難しい文章を読み始めると、すぐに、そういう文章を読む力も身につけます。本をよく読んでいる子は、難しい文章も読み慣れるのが早いのです。読書が大切だというのは、読書がそのまますぐに国語の学力に結びつくからではありません。読書力がある子は、難しい文章を読む力もつけやすいからです。
小6になって国語の成績が伸び悩む子によくあるのが、問題を解くスピードが遅いというケースです。テストの問題で、前半はよくできているのに後半は×が多いというのは、読むのに時間がかかっているからです。こういう子は、できなかった問題を家でもう一度やってみると正解になるということがあります。読むスピードは、国語力の重要な要素です。これも、入試問題集のような文章を読み慣れることでついてきます。
読解問題を解くとき、ほとんどの子は、感覚で答えを選んでいます。言葉の森の教室で読解問題を解く子の、問題用紙と解答用紙をときどき見ると、最初はほとんどの子が傍線などを引かずに、きれいなまま読んでいます。
こういう読み方では、答えが合っていても間違っていても、あとから反省に生かすことができません。その問題のどこをどう考えたのかということがわかるように、線を引いたり印をつけたりしておくことが大事です。
問題文をきれいに読み、傍線を引かないというのは、小中学生ばかりでなく、高校生でもかなりあります。問題文を読むときに傍線を引くようにさせ、国語を感覚ではなく理詰めで解かせるようにすると、どの子も成績が急上昇します。
国語の記述力をつけるための基礎も、小学校中学年までの読書量です。ただ、これも通常の読書のレベルでは、入試問題に対応した語彙がないので、入試問題集のような文章を読む練習をしていく必要があります。これも、新聞のコラムや塾や市販の問題集よりも、実際の昨年の入試問題集の方がいいことは言うまでもありません。
国語というのは、他の教科と違い、学年に関係がないので、中学入試問題集の問題文であっても、小6になってすぐに読むことができます。同様に、高校入試の問題集は中1になってすぐに読むことができ、大学入試の問題集は、高1になってすぐに読むことができます。しかし、中学入試の問題集を小5で読むのはかなり苦しいようです。
入試問題集を読むことによって、記述に必要な語彙が身についてきます。しかし、理解するための語彙と表現するための語彙は違います。読めるからと言ってその語彙がすぐに使えるわけではありません。そこで、問題集の文章の内容を、身近なお父さんやお母さんに説明する練習をします。記述で実際に書く練習は時間がかかりますが、口頭で説明する練習は短い時間でかなりの量をこなせます。
記述力で大事なことは、迷わずに一挙に必要な字数まで書く力をつけることです。書いている途中で考えたり、消しゴムで消して書き直したりすると時間が大幅にかかり、ほかの問題を解く時間に影響します。そのためには、志望校の入試の記述問題で出る字数に合わせて、実際に書く練習をすることです。
例えば、150字の記述問題があったら、大体3文か4文でまとめると見当をつけ、頭の中で文章を考え、書き出したら迷わずに指定の字数ぴったりまで書くようにします。実力のある子は、2、3文字の差で字数ぎりぎりにまとめることができます。
記述問題でよくあるまとめ方は、ただ「Aがよいと思う」という書き方ではなく、「BではなくAがよいと思う」「確かにBもよいがAがよいと思う」などと、説明や感想の輪郭がわかるように対比をはっきりさせて書くことです。
しかし、国語の力でいちばん大事なのは、こういうテストに対応した読解力や記述力ではありません。国語の成績をよくすることは、ある意味で表面的な学力です。
将来も役立つ国語力とは、さまざまな問題を自分なりに考えそれを表現する力です。考える力と書く力があるというのは、評価として測定しにくいものですが、それが大人になってからも役立つ本当の学力なのです。
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あなた、教育者としては勉強が足りないのではないですか?
これに全部書いてあるでしょう
http://www.ir3s.u-tokyo.ac.jp/pages/236/all.pdf
海外の報道でも共和党のペリーが「進化論はウソ、温暖化もウソ」とデタラメを吹聴しているので、民主支持者からはもちろん、共和党でも極右以外は「ペリーじゃオバマに勝てない。ロムニーしかない」(ロムニーは温暖化を認めている)ことが常識でしょう。
「もう出ない」なんてとんでもないです。教育者なら、ちゃんと調べて、間違ったところはきちんと訂正するべき(間違いは誰にもありあす。潔く訂正さえできれば立派な方です。)
というか、あなたCOPのこと知らないのですか?
ウソなら、各国から首脳が集まって議論するわけないでしょうに。
あと、「気候研究ユニットメール流出事件」を調べてみてもいいでしょう。
さて、貴殿は潔く間違いを認められる方でしょうか?
二酸化炭素と温暖化の問題は、大きくは石油利権のキャンペーンに、みんなが乗せられていたのです。
はっきり言えるのは環境破壊が進行しているという事実までであって、それを地球温暖化と結びつける議論を今さらしている人は、これからは笑われると思います。
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言葉の森が考えている森林プロジェクトのもう一つの目的は、地域での女性の手による小起業です。
現代の新しい寺子屋的な教育の主な担い手は、小中学生の子供を持つ母親です(もちろん父親も含みますが)。なぜかというと、子供たちの成長と教育に関して、いちばん真剣にならざるを得ないのがその年代の母親だからです。
そして、この子供たちの教育は、地域の同年代の母親が連携して子供たちをよりよく育てるというイメージで行われていくでしょう。なぜ連携が必要かというと、小中学生の子供たち自身が友達と連携して生きる時代にいるからです。家庭での教育といっても、親と子供だけが向き合って勉強をしている形では魅力の乏しいものになってしまいます。同年代の子供たちの数人の小さな集団の中でこそ、子供たち意欲は増してくるからです。
教育という仕事で、なぜ母親が中心になるかというと、教える仕事の多くは、女性の方が向いているからです。そして、母親たちが、子供たちの教育について上手に教えるコツをつかみ、教室を運営する仕組みをつかむようになると、次はその経験を土台にして、新しい仕事を創造することができるようになります。
女性は、一般に男性よりもクチコミ的な交流の能力が優れていますから、自分の個性を生かして新しい仕事を始める場合、スタートは男性よりも軌道に乗せやすいことが多いのです。それらの新しい仕事の分野は、主に教育的、文化的なものになるでしょう。そこから、新しい創造文化産業が発展していきます。
アップルやマイクロソフトが誕生したときも、最初は、コンピュータいじりの好きな若者が自分の興味の赴くままに、半分遊びのようなノリで仕事をしていました。未来を作るのは、それが斬新なものであればあるほど、事前の計画的なビジョンではなく、興味と関心と熱中という動機です。儲かりそうだから始めるというものよりも、面白そうだから始めるというものの方が、大きな将来性を秘めているのです。
日本でこれから生まれる新しい創造文化産業は、主に女性と若者の手によって、最初は小さな個性の発揮のようなところから始まると考えられます。
現代の社会の特徴は、多くの人が、単なる消費者から、自分も生産する側に回りたいと考えていることです。物を買うよりも自分も作って売りたい、いい音楽を聴くよりも自分の声で歌いたい、本を読むよりも自分も本を書きたい、誰かに教わるよりも自分も誰かを教えたい、そういう気持ちを多くの人が持つようになっています。
森林プロジェクトの作る寺子屋は、子供たちの教育の場であるとともに、教える母親たちが自分たちの手で教育的文化的な仕事を始める基盤にもなります。
ヨーロッパ生まれの文化産業は、クラシック音楽やバレーなどの芸術に見られるように、主に宮廷文化として発達しました。貴族の文化的ニーズとして生まれたものが、大衆的に広まっていきました。だから、これらの産業の前提になるのは、一部の優れたプロと大多数の受け手としての消費者でした。
これに対して、日本の江戸時代の文化産業の多くは、最初から大衆のニーズをもとにして発達しました。だから、誰でも作り手として参加できる広がりを持っていました。
これからの産業は、多くの人が消費するものかどうかということよりも、多くの人が作り手としても参加できるものかどうかということが重要になります。
産業というと、すぐにどれだけのニーズがあるかということを考えるのは、かつての製造業の三種の神器時代の意識の名残りです。現代の日本のように豊かな社会では、どれだけニーズがあるかということよりも、どれだけ参加したい人がいるかということが重要になってきます。すると、そこで生まれる新しい産業は、きわめて多様性に富み、大衆自身が作り手となり、主に人間の成長や向上に役立つ教育的な要素を持つ、創造的な文化産業になるのです。
日本は、そういう創造的な文化産業の時代を、既に江戸時代に一度経験しています。その経験を、現代の科学技術と情報インフラと民主主義と国際的な広がりの土台の上に再び開花させることが、これからの日本を豊かにする展望になります。そして、それがこれからの子供たちの教育を守り発展させることにつながっていくのです。
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言葉の森が考えている森林プロジェクトの目的の一つは、新しい教育を提案することです。
新しい教育とは、簡単に言えば、
(1)受験のための教育から実力のための教育へ、
(2)外部に委託する教育から家庭と地域による教育へ、
(3)点数を目標とした教育から文化を目標とした教育へ、
(4)競争を動機とした教育から独立を動機とした教育へ、
という大きな流れの中に位置づけられる教育です。
これを作文と国語の教育を中心に実現していくことが森林プロジェクトの目標です。
今の子供たちの学力は、全体的に見て昔よりも低下していますが、それよりも大きな問題は、学力の二極分化が起こっていることです。(学力の低下は、はっきりしたデータが少ないという問題がありますが、なだらかな低下が起こっていることはほぼ間違いありません)
これからの創造文化産業は、どの分野であっても理解力や思考力の裏づけが必要になります。芸術、音楽、スポーツなどの分野でも、これからは知的な裏づけが必要になってくるのです。
だから、子供たちの学力を育てることは、教育の最も大きな目的になります。
学力低下の原因はさまざまですが、大きく三つのことが考えられると思います。
第一は、学習が子供たちの内的な意欲を引き出していないことです。そのために、現在の学習の多くは、強制、競争、賞罰などを意欲の動因としています。これからの学習は、子供たちどうしの協力、家庭における対話、地域での承認と期待などに支えられたものになる必要があります。
第二は、学習の中身が、本来の目的からはずれていることです。今の学習は、子供たちの将来の生活に必要な学力をつけるよりも、受験で差がつく分野の学力をつけることを中心にして行われています。例えば、高校生の早い段階で、大学入試に対応するために理系と文系のコースが分けられてしまうことがあります。人間には、文系の教養も理系の教養も両方必要です。それが、ただ受験に対応するためという理由によって偏ったものにさせられています。
第三は、教育の方法が時代後れになっていることです。今の一斉授業の教育は、同じぐらいの年齢や知的レベルの子供に同じ手順で同じことを教えるという昔の工業時代の教育観を基礎としています。しかし、現代は、子供たちの生活環境も学力も目標も多様化しています。このような中で、一斉授業を続けようとすれば、少人数学級や習熟度別クラスの方向に進まざるを得ません。しかし、それはただコストがかかるだけで、コストのわりに効果の少ないものです。また、コストがかかることによって、所得による教育格差を更に拡大します。
これらの現代教育の限界を克服する方法として考えられるのが、子供たちの自学自習を基本にして、家庭と地域で支えていく新しい形の寺子屋的な教育です。(つづく)
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世界経済の行き詰まりを打開する道は、製造業を超えた、新しい大衆的な創造文化産業を生み出すことです。それがこれからの日本の役割です。
そのための第一歩は、日本が過去の文化を思い出すことです。その一つとして考えられるのが地域の特産品文化です。
江戸時代には、それぞれの地域で発達した特産品がありました。それらの特産品は、地域の経済を支えるとともに、将軍家御用達のような形で高度な文化的水準に達していました。これらの特産品を現代の工業技術と情報技術のもとで復活させることです。
創造文化産業というと、個人が創造性を発揮するもののような感じを受けますが、ピカソやロダンのような形で個人が一人でできる分野は限られています。雇用の吸収力を考えた場合、一人ひとりがばらばらに創造するようなものよりも、広い裾野を持ちチームワークで作り出すものの方が効果は大きいのです。
例えば、刀剣を作る場合でも、一人の職人が最初から最後まで手作りで仕上げるのではありません。そこには鉄を鍛える人、刃を研ぐ人、装飾を施す人とさまざまな工程ごとの分業があります。江戸時代の浮世絵なども、絵を描く人、彫る人、刷る人などの分業がある中で一つの産業として成立していました。特産品というのは、そういう裾野を持つ産業になるのです。
多様な創造文化産業を生み出すためには、これまでの経済や教育の仕組みを変える必要があります。
まず、創造産業を経済の中に位置づける仕組みが必要です。また、創造的な文化を経営に乗せる工夫も必要です。更に、人間が個性と創造性を発揮できるような教育を行っていく必要があります。つまり、政治、経済、経営、教育の分野で、新しい産業に対応した改革が必要になるのです。
この新しい創造文化産業を生み出す母体になるのは地域です。しかし、従来の意味での地域と比べて、現代はインターネットで情報を共有できる範囲が広がっているので、地域の概念はより深くより広いものになっています。
創造文化で作り出される商品やサービスは、ローカルなものです。世界中のどこでも作れ、どこでも輸出入できるグローバルなものではなく、その地域に行かなければ作り出せない商品やサービスが中心になります。生きた人間どうしのつながりの中で生産が行われるのが、この新しい産業の特徴です。
このような創造文化産業が地域に確立すると、失業者というものは存在しなくなります。本人に働く意欲があれば、地域の産業は必ずその本人の持ち味を生かした仕事を作り出すことができます。それは、地域という有機的な環境においては、人間もまた有機的な存在になるからです。
逆に言えば、今までの産業社会では、人間は企業の機能の一部を担う歯車であり、誰とでも代替可能な無機的な人間として見なされていました。地域の産業によって、人間の有機的存在が再び取り戻されることになるのです。
言葉の森では、この創造文化産業の一つの形として森林プロジェクトを考えています。(つづく)
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子供たちの勉強を支える前提となるものは、家庭の豊かさです。それは、社会全体の豊かさでもあります。
しかし、今、EU、アメリカ、日本の経済は、破綻の一歩手前にあります。
このような状況で、子供たちの教育をどう守り、発展させるかということを考えるのが今回のテーマです。
そのためには、なぜ先進国の経済が、現在行き詰まっているのかを理解する必要があります。
おおまかにいえば、人類の歴史は、農業革命、工業革命という二つの産業革命によって大きく発展しました。
工業革命からしばらくは、欧米の製造業が世界の経済を牽引していました。しかし、技術の移転により、やがて日本が製造業の主導権を握るようになりました。
製造業の分野で日本が欧米、特に戦後の経済のトップであったアメリカを追い上げ追い詰めていったために、アメリカは製造業以外の分野に活路を見出そうとしました。それが、ひとつには金融業、もうひとつには情報産業でした。
しかし、金融業は、金融工学の技術を駆使することによって博打化しました。また、情報産業は、新しい産業分野でしたが、短期間にフロンティアが埋め尽くされていきました。だから、日本の未来の産業は、金融にも情報にもありません。
ところで、その後、日本の製造業の技術は、中国など新興国に移転し、それらの新興国がそれまで日本が担っていた製造業の肩代わりをするようになってきました。
中進国が次々と製造業に参入してくるのに、先進国である日米欧が新しい産業を生み出すことができないでいるというのが、現在の世界経済の行き詰まりの大きな原因です。
日本の将来の産業を、宇宙産業のような高度な製造業に見出そうとする人もいますが、こういう製造業は高度であるがゆえに雇用吸収力がありません。今、日本など先進国にとって必要なのは、固有吸収力のある、製造業と同じぐらいの価値を生み出す、製造業を超えた新しい産業です。
日本の当面の産業を、中国などのマネーをあてにした観光サービス業に求めようとする人もいますが、それらの産業は新しい価値を生み出しません。日本は、もっと創造的な分野で新しい産業を生み出していかなければなりません。
そして、それが、高度に洗練された日本の文化的伝統を生かした大衆的で創造的な文化産業なのです。
欧米にも、高度な文化産業はあります。例えば、クラシック音楽やバレーなどがそうです。フランス料理やワイン文化やゴルフなどのスポーツなども、文化産業です。高度に洗練された文化的伝統を持ち、個々の分野では製造業に匹敵するほどの高い価値を生み出すできる産業です。
しかし、欧米から生まれた文化産業の多くは、宮廷文化から生まれたものでした。大衆の生活の中で消費されるものではなく、貴族階級の社交の中で消費されるものが中心だった結果、多様性という点での限界がありました。
これに対して、日本の文化産業は、その多くが江戸時代の安定した社会を背景に生まれたもので、高度に洗練された文化でありながら、大衆的な消費に支えられるという点できわめて多様性に富んだものでした。
この創造的文化産業を復活させることが、これからの日本の進む道です。日本のような先進国が、製造業を超えた分野で新しい産業を生み出すことが、世界の経済全体を再び活性化することになるのです。
しかも、現在の日本は江戸時代よりもはるかに高度な製造技術と、広範な情報技術を持っているので、これから生まれる創造的文化産業は、単なる江戸時代の懐古的なレベルにとどまるものではなく、全く新しい製造業的文化産業、又は、文化産業的製造業になる可能性があります。
※このあとの話の予定は、これらの新しい創造的文化産業のひとつの出発点として、森林プロジェクトによる作文教育を位置づけていくという話です。
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西角さんの本は、国語力の大切さを書いている点と、具体的な勉強法が書いてある点でおすすめです。
しかし、今回のホームページの記事は、本の内容から少し発展して、勉強の意欲を家庭でどのように育てるかという話になっています。
子供たちは、家庭や地域という集団に所属することを意欲の源泉としています。特に、小学校4年生のころまでは、子供は、子供どうしの集団よりも、親や先生という身近な大人の社会の方に所属したがる傾向があります。
では、具体的に、どのようにして、子供たちの勉強への意欲を家庭の中に生かしていくことができるでしょうか。(この場合の「勉強」とは、当面、作文を中心とした国語の勉強です)
第一は、作文の課題の予習を通してです。
これは、既に何度か書いているように、子供がたちが、お父さんやお母さんに、次の週の作文にどんなことを書くかを説明するものです。感想文の課題の場合は、感想文のもとになる長文を読んで、その長文の内容を(長文を見ずに)お父さんやお母さんに説明します。
言葉の森の小学校高学年から先の感想文課題は、人間の生き方や社会のあり方を論じる、難しい説明文や意見文が多いので、その内容を説明しようとすると、自然に語彙力や思考力が鍛えられます。日常生活では普段使わないような語彙を使って、長文の内容を相手に伝えようと説明することで、書く力も読む力もついてきます。
ここで大事なのは、子供の説明が、家族の知的な団欒のスタートになることです。子供の説明をきっかけにして、お父さんとお母さんと、兄弟がいれば兄弟が仲よく話を始めることが、子供の役割意識を確かなものにするのです。
普通の家庭では、子供のそのような難しい説明がなければ、知的な話が弾むようなことはあまりないと思います。お父さんやお母さんが、子供にそういう話を聞かせたいと思っても、大人からの一方的な難しい話では、子供はついてきません。しかし、子供から長文の説明をする形であれば、ごく自然に家族全体のでの話につながります。
このときに大事なことは、(1)楽しく話をすること、(2)できるだけ大勢の家族の中で話をすること、です。
楽しく話すとは、親が似た例などを話して、子供の説明を補強するような話し方をするということです。欧米流のディベートのような話をするのではありません。話をするというと、人によっては、意見を述べるようなイメージを抱いてしまうと思いますが、話し合いは、討論の場ではありません。相手の話を発展させる場です。
ですから、意見を言うのでなく、まして反対意見を言って子供の意見を論破するようなことをするのではなく、親自身の体験実例をもとに似た例を話して、子供の説明を補強してあげるのです。
ところが、意見というものはその場ですぐに思いつくことができても、体験実例というものはなかなか咄嗟には思いつきません。特に、父親の場合は、抽象的な意見や説明は得意ですが、一般に、具体的な体験実例は苦手です。だから、子供が読んでいる長文に、あらかじめざっと目を通しておいた方が話の内容が充実してきます。そのために、facebookにお父さんやお母さんのための予習室というグループがあります。
できるだけ大勢の家族の中で話すということも大事です。子供とお母さんが二人きりで話をするとなると、どうしても、親から子への一方的な話になってしまいがちです。父親と母親が話をするとか、そこに祖父母も参加するとか、兄弟がいれば兄弟も加わるかようにするとか、できるだけ家族全員で話した方がいいのです。子供の説明がきっかけになって、家族の間で楽しい対話が始まるという感じが大事です。話が弾んでくると、子供のもとの長文の話から話題がずれて、親どうしで別の話に盛り上がるというような場合も出てきます。そういう対話の方が、子供の説明意欲に結びつきます。
しかし、家庭での対話というものは、家庭の文化ですから、子供がある程度大きくなってからだと、対話の習慣をつくるということは難しくなります。そのためにも、子供が小学校1年生のころから、つまり、予習がまだ他愛ない話のころから、子供の説明を家庭での対話のきっかけにするという習慣を蓄積しておくといいのです。
子供たちの勉強を家庭の中に生かす第二の方法は、作文が戻ってきてからです。作文を書いたあとというのは、ただ保管するだけになってしまいがちですが、それをもう一度生かします。その簡単な方法は、子供の書いた作文を、家族みんなの目に触れるような場所に、きれいな額などに入れて飾っておくことです。1週間飾ってあれば、その作文についての話題も、自然に出てくるでしょう。また、特に話題がなくても、子供は自分の書いたものが、そのようにみんなに期待された形で展示されるとなれば、書く内容にも力が入ります。ただし、こういう展示のような形をとれるのは小学生までで、中学生以上は、子供が書くことに自信があり、親子で作文を中心にした話題が自然に交わせるようになっていないと難しいかもしれません。
説明のときも展示のときも、親の姿勢で大事なことは、欠点を見つけて批判するのではなく、いいところを見つけて似た例などで発展させていくことです。ここで、親の工夫と努力が問われてきます。
社会生活でいろいろな苦労を経験している親は、決して、子供の作文だからと言って欠点をすぐに指摘するような対応の仕方をしません。欠点をその場で指摘するのは、ほとんどの場合、指摘する側の自己満足にしかなりません。欠点を言われた側は、それをすぐには直せないことが多いはずですし、それよりも、必ず、「自分が一生懸命書いた作文の内容には目を向けず、欠点だけを見つける」という受け止め方をします。作文の欠点は、作文の上で直すのではなく、作文以外の読書や対話の中で徐々に直していくものです。そういう遠回りの対応を我慢してできる親であれば、ほかの勉強も生活習慣もすべてうまくやっていけます。
以上は、小中学生の場合ですが、高校生の場合は、これに加えて次のようなことが将来考えられると思います。(まだ実現していませんが)
それは、高校生の作文課題に、地域の問題を意見文として入れていくことです。高校生以上になると、自分の所属する学校、家庭、地域におけるさまざまな問題とその原因や対策を自分なりに考えることができるようになります。高校生の現在の作文課題は、主に大学入試小論文に対応したものがほとんどですが、ここに地域の問題を入れていくのです。
すると、高校生の提案をきっかけに、地域における社会問題を論じ合う文化ができてきます。高校生の場合の勉強は、本人の自覚ができていますが、そこに地域での実践的な課題が加われば、更に意欲的に作文の勉強に取り組んでいけると思います。
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昨日の記事からの続きですが、西角さんの本を離れて、対話と意欲の話になります。
勉強の意欲というものを考えた場合、高校生以上は、勉強の意義を自分なりに自覚して意欲を持ち続けることができるようになります。
しかし、勉強のいちばんの土台を形成する小中学生のころはそうではありません。この時期は、勉強の内容も基本的なものが多いので、勉強自体はそれほど面白くはありません。また、小中学生のころは、勉強の意義というものを理解してそれで意欲を持つということもできません。
小中学生の意欲は、勉強の意欲も遊びの意欲も、すべて集団に所属したいという仲間意識から来ています。
近代の学校教育が、子供たちの集団意識をうまく活用できたのは、学年別にクラスを作るという仕組みがあったからです。学年別の同質集団で、同じ学習課題を勉強するということが、クラスに対する子供たちの帰属意識を生み出していました。先生の役割は、その帰属意識を高めて子供たちの学習に対する意欲を高めることでした。
しかし、学校を取り巻く社会が、文化的にも経済的にも同質である場合は、学年別クラスも同質性を保つことができましたが、やがて、社会が豊かになり、経済の格差が生まれ、社会の同質性が崩壊してくると、学校の学年別同質性に基づいた意欲づけも機能しなくなってきます。
現在の学級崩壊という現象の背後には、同質性を失った社会と、そのために同質性を失った学年別クラスにおける集団意識の形成の難しさというものがあります。
欧米流の近代教育は、この解決策を、社会の経済格差に合わせた同質性の回復という形で実現しました。欧米では、公立学校は、貧しい家庭の、学校選択の余地のない子が行くところになっています。経済的に恵まれた家庭の子供は、その恵まれた度合いに応じて私立学校に進みます。その私立学校において学年別クラスの同質性を確保し、勉強に対する意欲を持続させる仕組みづくりをしているのです。
日本においても、事情は同じです。戦後のみんなが等しく貧しいころは、だれもが同じ地域の公立学校に通い、同じような経済的文化的水準の子供たちが、同じ一斉授業を受け、その授業の中で同質化した集団との一体感を感じて勉強をしていました。
しかし、日本の社会が豊かになるにつれて、公立学校に通う子供たちは多様化していきます。小さいころから習い事に行き学年よりも先の勉強をしている子もいれば、家庭の中で読書の習慣がなくテレビやゲーム漬けになっている子もいれば、地域のスポーツクラブで毎日スポーツ三昧の子もいます。こういう子供たちは、小学校低学年の時点で既に一斉授業の枠に収まらなくなります。先生の指導の工夫以前に、子供たちの集団の質そのものが変化し多様化しているのです。
私立学校志向は、このような同質性の失われた豊かな社会を背景にして生まれました。ところで、そこで新たに形成された同質性は、受験を基準にしたものです。すると、その集団に対する帰属意識を子供たちの意欲に結びつけるためには、テストのランキングが最も効果的な方法になります。そのために、大人は、勉強に対する意欲づけというと、すぐに競争を強化することを考えてしまうのです。しかし、競争は単なる一つの表面的な手段にすぎません。子供たちの勉強の意欲は、もともと競争の勝ち負けの中にあるのではなく、集団の仲間意識の中にあるのです。
学校という集団で行われているのと同じことが、より目的の絞られた形で、学習塾でも行われています。学習塾における子供たちの意欲づけには、志望校に合格させるためのノウハウ、競争による刺激、先生の熱心な指導などを欠かすことができません。
それらを当然だと思う人がほとんどだと思いますが、江戸時代の寺子屋教育では、ある意味で正反対の教育が行われていました。つまり、寺子屋では、志望校に合格させるというような目的自体がありませんでした。また、競争はある程度あったでしょうがそれが子供たちの大きな関心にはなってはいませんでした。更に、先生は熱心さとはほど遠い状態で、ただ子供たちを遠くから見守り、ある課題を終えた子に次の課題を指示するという役割を果たしていました。もちろん、子供たちに対する一斉の授業などはありませんから、子供たちの勉強の内容は、思い思いの自習形式でした。
このような環境で、寺子屋の子供たちは、どのようにして勉強に対する意欲を持つことができたのでしょうか。そこに、集団への帰属意識の変化というものがあります。
現代の子供たちは、学校や塾での学年別同質集団という機能的人工的な環境で、成績の競争を刺激としてその集団に帰属意識を持って勉強しています。江戸時代の寺子屋の子供たちは、家族や地域という共同体的な環境で、その共同体に帰属する意識を直接の動機として勉強に対する意欲を持っていたのです。
受験や競争に勝つためという動機ではなく、家族や地域に参加するためという動機で勉強に対する意欲を持つことが、これからの対話を中心とした教育になります。
では、それは具体的にどのような形になるのでしょうか。(つづく)
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