工業時代のニーズは消費でした。その消費のためにお金を稼ぐというのが仕事でした。
これからの文化の時代のニーズは生産です。生産と言っても、物作りのような生産とは少しニュアンスの違う文化の生産です。それが物の形をとることもありますが、本質は物ではなく文化です。だから、生産という言葉より創造という言葉の方が合っているかもしれません。
自分が何かを創造し、それを提供することによって人々が喜び、その喜びの返礼としてお金が手に入るという結果がついてきます。これが新しい経済の流れです。
最初は、小さな流れがあちこちに生まれるだけかもしれません。先ほどのスピリチュアル講座を開設した女性も、最初は近所の人の相談にのるぐらいかもしれません。しかし、やがてそういう流れの中から、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが現れてきます。
ゲイツやジョブズは、IT(インテリジェンス・テクノロジー)という工業の世界から生まれました。だから、スタートは自分の頭の中にあるアイデアでしたが、作られたものは物であり、多くの人が消費することを前提とした製品でした。
これからの文化の時代に作られるものは、単なる物ではありません。自分もその生産あるいは創造に参加できるという新しい資格のようなものなのです。
だから、女性を中心とした多数のミニ起業家の中からやがて現れてくるのは、本当は、ゲイツやジョブズというよりも、女性の松尾芭蕉や女性の千利休といった方が近いでしょう。
俳句を作るのに、工場や機械設備は必要ありません。お茶を飲むのも同様です。占いやヒーリングや運勢改善も、基本は同じです。マインドマップや速読法や記憶術も同様です。
今の世界ではまだお金を動かすために、物という形をとることも多いのですが、やりとりされる本質は物ではなく文化です。
そして、文化の本当の楽しみは、自分も創造に参加できるということにあるのです。
iPhoneを買うのも喜びですが、自分で俳句を作るのも喜びです。同じように、自分でだれかをヒーリングするのも喜びです。そして、自分のヒーリングが売れるとなれば、あるいはヒーリング講座が売れるとなれば、それは物を手に入れる消費の喜びとは質の違った喜びになるでしょう。
時代の象徴となる人物は、工業時代には、本田総一郎や井深大でした。江戸の文化の時代には、松尾芭蕉や千利休でした。そして、もう少しさかのぼれば清少納言や紫式部でした。
いずれも、登場した最初のころは、それらの人物が担う製品や文化が社会の中で大きく育つとは思われていませんでした。
今、日本は、そういう新しい文化の時代が始まる歴史の前にいます。
言葉の森が、森林プロジェクトとして考えているのも、そういう新しい文化としての教育です。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63) 教育論文化論(255)
私の周囲に、いろいろなセミナーに出かけ、そこで資格を取得したり技術を身につけたり、自分でも新たにそういうセミナーを主宰したりするようになっている人がいます。
物が豊かに溢れる日本の社会では、もちろんまだ欲しい物はたくさんありますが、物よりも心を引きつけるものは、自分を向上させて自分でも何かを始めるという、物以外のものなのだと思います。
豊かな消費者という目標はもはや過去のもので、消費者としての豊かさをいくら追求しても、大した喜びが得られないと思うようになってきたのです。
消費の喜びより、もっとわくわくするものは、たとえ小さなものであっても、生産者として自分を豊かにする喜びです。消費者としての豊かさから、生産者又は供給者としての豊かさを求める時代に変わりつつあるのです。
そして、このニーズがこれからの日本の経済を切り開くエネルギーになっていきます。日本が新しい経済をスタートさせるということは、世界の経済の先に進む方向が明らかになるということです。
では、それはどのような形で進むのでしょうか。
例えば、ある家庭の主婦が、ふと思い立ってスピリチュアル系のちょっと不思議な講座を受講したくなったとします。占いとヒーリングと運勢改善の講座です。その内容自体に賛成してくれる夫は少ないと思いますが(笑)、それ以上に、もしその費用が20万円もかかるとしたら、たとえその講座を受講することによって自分もその講座を主宰する資格が得られるとしても、常識ある社会人である夫は、まず頭から反対すると思います。客観的に見ても、その反対意見の方が説得力があります。
ところが、世の中の半数は女性で、ある女性が関心を持っている何かは、他の多くの女性も関心を持っています。
その女性が夫を説得し、20万円の講習を受けて、技術を身につけ、自宅でささやかにその仕事を始めたとします。
ここで大事なことは、価値は、需要から生まれるということです。
その女性のもとに、同じような関心を持つ女性たちが集まります。すると、当初の金額はわずかであるとしても、それは立派な仕事です。そして、需要が増えれば金額増えるという関係から考えれば、その女性の始めた仕事がこれからどれぐらい発展するかはだれにもわからないのです。
社会には、いろいろな資格があります。それらの資格を支えているものは、もともとのニーズです。しかし、生のニーズでは不安定なので、資格を独立した形で存続させるものとして、制度や法律や組織ができます。
会社に入るというのも、大きな意味ではその会社に入るための資格を手に入れるということです。そして、いったん資格が手に入ったら、風邪で休んで仕事ができないときでも、つまり、仕事をするという生のニーズに応えられなくても、報酬は保障されます。しかし、報酬のもとになっているものは、あくまでもニーズです。
ところが、今の日本の社会では、戦後の歴史の経過の中で、既にニーズのなくなった制度があちこちに残っています。それが、旧体制です。その旧体制のもとになっているものの多くは、物不足の工業時代に生まれた大量消費の価値観に基づくニーズです。
それらのニーズは、なくなったわけではありませんが、供給する側が圧倒的に増えたために、ニーズとして経済を牽引するパワーをもう持たなくなっているのです。
昔の物不足の時代には、物を手に入れることはわくわくすることでした。今はそうではありません。
今生まれている新しいニーズは、自分も生産者として創造に参加したいというニーズです。
そのニーズを担っているのは、主に、現実の仕事に追いまくられていない女性です。男性の多くは仕事に追われ、自分の本当のニーズがどこにあるか考える時間もあまりありません。しかし、心の奥では、定年になったら自分の力でできる何かを始めたいと思っています。
仕事に追われていない女性は、もっとストレートに、今、自分のしたいことは何かを創造することだと実感しているのです。
その最初の出発点は、スピリチュアル系でも、ヒーリング系でも、あるいは、マインドマップでも、速読法でも、記憶術でもいいのです。自分の持っている力で、たとえ女性の起業家というほどではなくても、自分が生産者として社会に参加する機会を作りたいと思っているのです。(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63) 教育論文化論(255)
昨日、山一證券のことを書きましたが、もし、今の会社で突然リストラに遭ったら、みなさんはどうするでしょうか。
当面、食べていくことは何らかの形でできるでしょう。
これまでのように、個別企業の破綻でしたら、新しい就職口を探すということで対応できます。しかし、今回の経済破綻は、再就職の可能性がないほど、経済全体が破綻することになるかもしれません。
そのときに、焼け跡の荒れ地から最初に芽を出して立ち上がるのは、徒手空拳でも、つまり肩書や資格や組織や資金がなくても、自分の力で周囲に喜びを提供できる人です。
そのときの喜びの提供の仕方は、戦後の焼け跡で闇市が立ったときのような形のものではありません。戦後の焼け跡時代に、不足していたものは物でした。食べ物も衣服も住居もなくなったところから戦後がスタートしました。だから、そのあとに訪れた高度経済成長時代は、物の経済の時代でした。
しかし、今回は、そうではありません。世界経済のバブルのお金が吹き飛んだために、資産がなくなり、その影響で仕事もなくなるかもしれません。しかし、物は豊富にあるのです。ないのは、物を回すために使っていたこれまでのお金です。
終戦直後の社会では、生産力が破壊されていました。だから、物作りからスタートしました。しかし、今度の経済破綻は、生産力の破壊ではありません。生産力は、十分にあったのです。そして、経済破局の中でもそのままあり続けるのです。それが売れないというだけです。
なぜ売れないかというと、皆が欲しがるような普通の生産物、例えば、食料品、衣料品、家電製品などは、中国をはじめとする新興国で、もっと安く大量に作られ売られるようになったからです。
かつて時代の先端を行っているように見えたパソコン生産も、電子化によってただ部品を組み合わせて箱に詰め込むような簡単な生産になりました。自動車生産も、電気自動車化によってやがてどこの国でも組み立てられるようなものになるでしょう。農業生産も、工業生産も、買いたい人よりも、作りたい人の方が多い時代になったので、物が売れなくなったのです。だから、リストラが始まったのです。
企業は、従業員の数を減らし、機械化を進め、低賃金の労働者を移民の受け入れや派遣の採用の形で雇うことによって、売れない競争に勝とうとします。そのことによって、社会全体の物がますます売れなくなっていきます。
使い道のなくなったお金だけが余り、欲しいものがないので、当面必要な安い物だけを買い合う結果、ますます物が売れなくなりお金だけが余るという状態になっているのが現代の経済です。
だから、突破口は、個々の人の再就職ではなく、みんなの欲しがるものを提供できる人が登場することにあります。今度の経済破局の焼け跡から立ち上がる最初の芽は、物資の横流しで利益を上げる闇市ではなく、文化の創造で喜びを与える光の市です。(対比の言葉が格好よすぎますが(笑))
世界の未来は、中国やブラジルやインドなどの巨大な新興国が担うわけではありません。新興国の経済は、これからも発展しますが、新興国のあとに続く国も、続々と同じ道を進んできます。その道の先端にいる日本が、不況からいちばん最初に立ち上がり、新しい経済のモデルを作っていくことが求められています。
今の世界経済の行き詰まりは、日本が工業時代のあとに続く新しい産業のビジョンを提案できなかったために起こったものです。日本が工業時代の成功で使い道のなくなったお金をためる一方、アメリカがそのお金を借りるという名目で横取りして(笑)、博打を始め最初は大儲けしたもののやがて賭けた大金を返せなくなったというのが、今の日米関係です。
アメリカに貸したと思うのではなく、もうそれは恵んであげたことにして、日本は今まだある手持ちの資金で新しい創造産業を始めればいいのです。そのために、創造とは無縁のところにとどまっている淀んだお金を一掃しなければなりません。それが、これから起こる混乱の本質です。だから、これは、混乱というよりも、新しい時代を迎えるための大掃除という意識で前向きに取り組んでいくことなのです。
新しい産業は、価値を生み出すものでなければなりません。今、多くの人が思いつく新産業の多くは、単に消費する産業です。おいしいものを食べて、いい服を着て、景色のいいところを見に行くという程度の消費では、世界経済の立て直しにはなりません。それは、今、新興国の人たちが既に始めていることです。日本は、そういう消費の喜びを超えた喜びを創造しなければなりません。それが、同義反復のような表現になりますが、創造の喜びです。
周囲の人に新しい喜びを創造することを、自分の喜びとするような仕事が、これからの時代に必要とされる仕事です。
もちろん、世の中は、それほど単純に進むものではありません。現実に起こってくる諸問題には、バランスよく対応していくことが必要があります。
世の中には、おいしいものを食べるどころではない人も大勢います。また、工業生産の多くは新興国に取って代わられずに日本国内で競争力のある生産を続けています。また、経済の混乱から弱者を守るには、今よりも強力な政治の力が必要です。
しかし、大きな目でみると、今は、新しい社会が登場する前の入口にみんなが集まっている時期なのです。入口の方向さえわかれば、やがて行列は静かに動き出し、新しい時代が日本から始まっていくでしょう。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
facebookの方のコメントで、「入口は一つではない」という話があったので、その補足説明です。
行列というのは、経済の方向です。
世界の経済のお金の使い道がわからないために、今の行き詰まりが起きています。
大きく見ると、これからの経済は工業の時代から文化の時代に移っていくと思います。
しかし、その移行の仕方は、これまでのように他人を押しのけて我勝ちに進むものでなく、周囲の人との共感の中で静かに進んでいくものです。
だから、行列は静かに動き出すのです。列を崩して殺到したり塀を乗り越えて入ったりしないということです(笑)。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63) 教育論文化論(255)
これまでの経済は、マネーを持っている人の意向が反映した経済でした。それは、政治の面では金権政治という形で現れていました。
しかし、経済危機が深化する中で出てくるのは、マネーの意志ではなく、国民の集合意識としての国家の意志です。今の世界経済の中では、国家の意志は単独で自国の利益を追求するよりも、ブロック化された枠内で自国の利益を追求していくようになるでしょう。
ヨーロッパは、EUの分裂ではなく、EUの更なる統合強化の方向に進むでしょう。アジアも、アジアの中での結びつきを強化していく方向に向かうでしょう。
ブロック経済の結びつきの強化と並行して、国内では統制経済が進行するように見えます。しかし、今日のネットワークの時代に、統制が長期間徹底できるとは考えられません。
統制経済は、最初のうちこそ、預金封鎖、資産課税、配給制度などの形で現れますが、架空の需要のもとになっていた規制に支えられた古い体制が勢いを失ったあとは、統制の役割はなくなります。
統制が新たな利権の温床になる前に、統制とは異なる原理を経済の中心に据えなければなりません。それが、ネットワークの中で生まれる自助の文化です。
自助の文化とは、一人一人が、消費者としては本当に欲しいものを求め、生産者としては自分が他の人から本当に求められているものを作る文化です。だから、未来の社会で人間が生きていく条件は、自分がみんなに喜ばれるような何かを提供することができるかどうかにかかってきます。資産の量ではなく、貢献の量が問われる社会になっていくのです。
教育もまたそうです。勉強は、受験に合格するために行うものではなく、自分が将来社会に何かを貢献するために行うものになっていくでしょう。
これまでの勉強の基本は、志望校の過去問に合わせたものでした。だから、志望校の試験科目が英、国、社だけで、数、理がなければ、数、理の勉強はしなくていいと思われていました。そして、点数を上げるためには、受験する教科の重箱の隅の知識もしっかり身につける必要があったのです。
しかし、自分の将来の仕事のために勉強するとしたら、勉強の仕方も当然変わってきます。新しい勉強のスタイルは、全教科を万遍なく、しかし、重要なポイントをしっかり身につけ、そして自分の興味関心のあることについては徹底してこだわるようなものになるでしょう。
バブル崩壊の影響で山一證券が倒産したとき、優秀な大学を出た優秀な社員がたくさんいましたが、多くの人が再雇用に苦労しました。そのときに言われた言葉が、「優秀な人なら、いくらでもいる。欲しいのは自分の持ち味のある人だ」ということでした。
肩書に支えられた社会は、今回の経済危機で大きく後退するでしょう。それは、明治維新が、武士階級の小さな肩書の差を一掃したことと似ています。古い社会の無駄がなくならなければ、新しい社会の芽は出てこないのです。
新しい時代は、新しい需要を作り出す人によって作られていきます。新しい需要とは、これまでの規制下の制度で作られた架空の需要ではなく本当の需要に根差したものです。
新しい需要を作り出せる人は、同時に、自分が新しい何かをしたいと思っている人です。
これからの子供の教育で大事なことは、いつも新しい何かをしたいと思っている子供たちを育てることです。そして、子供たちは模倣によって成長する存在ですから、何よりも身近な大人が新しい何かを求めて生きていくことが大切になってくるのです。
教育の分野にも古い体制は残っています。教育の本来の目的は、子供たちの実力を育てることですが、実力以外のものが目的のように遂行されている面があります。そのひとつは、受験に合格させることを目的にした教育です。
もちろん、実力をつけた結果として合格するのであれば問題はありませんが、受験をめぐる情報が精緻になるにつれて、実力以外の要素が合否を分けるような面が大きくなっています。
例えば、ある試験に合格するためには、その試験の過去問の分析が欠かせません。しかし、受験する子供には、分析のためのデータや方法がありません。すると、そういうデータを利用できる子供の方が利用できない子供よりも、合格する可能性が高くなります。このため、教育は、不必要にお金のかかるものになっています。
新しい教育とは、教育を本来の実力をつけるための教育に戻すことです。そのための方法のひとつは、子供たちの教育を家庭と地域を基盤としたものにすることです。教育を学校だけに任せるのではなく、学校と家庭が連携したものにしていく必要があるのです。
他人に委託する教育から、自分たちで工夫する教育、つまり自助の教育に変えていくことが、これからの新しい教育に求められてくると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
最初に書いた記事で、「リーマンショックの影響で山一証券が」となっていたのを訂正しました。
以下は、言葉の森新聞に書いた補足説明です。
バブル崩壊(1990年ごろ)→山一證券(1997年)→リーマンショック(2008年)です。
と書いていてふと思ったのが、後世の歴史は、1990年の日本のバブル崩壊と、その後のアメリカのITバブル崩壊と、その後のリーマンショックと、今起きつつある経済危機を、同じ流れのものとして記述するだろうということです。
共通しているのは、生産活動に使うのでは使いきれなくなったマネーをギャンブルにつぎこんで、最初はうまく行っているような気がしていたものの、結局返せなくなったということだからです。
この出口は、ひとつしかありません。それは、使いきれなくなったマネーを新しい産業の創造にふりむけることです。
その新しい産業とは、昔ながらの公共事業の延長にはありません。タヌキしか通らないような道に高速道路を作っても仕方ないのです。(タヌキさんごめんね)
新しい産業は、上からの指示で作られるような大きな産業ではなく、ひとりひとりの人間がその産業に従事することを喜びとするような、下から作っていく産業です。
私は、そのひとつとして森林プロジェクトを考えています。人間が、その地域で、周囲の人に喜ばれながら自分の提供する何かを受け取ってもらえるような仕事です。
そして、それを受け取った人が、自分も同じように周囲の人に喜ばれる何かを提供できるのだと気づくような仕事です。
その芽は、実は既にいろいろな形で現れています。その具体的な話を、今後書いていきたいと思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63) 教育論文化論(255)
ヨーロッパ発の経済危機が起きた場合、日本の証券会社や銀行も、ヨーロッパの国債デフォルトに関わるCDSを取り扱っているようですから、ヨーロッパの破綻は、日本の金融機関の破綻にもつながってきます。
日本の大手証券会社や大手銀行が破綻しそうになったとしたら、国は、その金融機関を救済するために、資本注入で乗り切ろうとするでしょう。そのときの原資は、印刷されたマネーです。
その一方で、預金の引き出し額制限などの対策をとるでしょう。
また、銀行は、手持ちの資金を確保するために、これまで貸付をしていた企業や個人から、貸し剥がしを始めるでしょう。
こうして、銀行の経営危機が、産業界全体の活動の低下を引き起こすのです。
しかし、日本は、既に1990年のバブル崩壊のときに銀行の貸し剥がしを経験していますから、産業界に対する影響は、世界の中では比較的軽症にとどまるでしょう。
けれども、社会全体が不況に向かうことは避けられません。
その一方で、銀行を救済するために印刷されたマネーによって物の値段が高騰していきます。
これが、不況下のインフレです。
なぜこういう事態が起きてきたのでしょうか。
社会の富の本質は、人々の需要です。欲しいものがあるから買いたいという気持ちが、富の源泉です。
だから、人々が本当に欲しいものが需要となり、それが生産されていれば、社会は豊かになり発展していきます。
ところが、工業化時代の終わりごろから、先進国では、そのように人々が心から欲する需要が少なくなっていったのです。
自動車、クーラー、カラーテレビは、かつては豊かな生活の象徴で、人々の憧れの対象でした。しかし、いったんそういうものが所有されてしまうと、もう2台目の需要はありません。もっと高性能のものが出てきたとしても、それは最初の需要ほど強いものではありません。
こうして、先進国では、富の源泉が次第に枯渇していったのです。
しかし、先進国には、これまで蓄積したマネーがありました。このマネーの使い道を作るために、別の需要を作らなければなりませんでした。
そこで、国がケインズ政策という大義名分で作り出した需要は、人々の本当の需要に基づいていない架空の需要でした。その架空の需要が消えないようにささえる枠組みが、利権システムでした。
更に、その架空の需要は、リアルな経済を離れ、マネーがマネーを需要する金融工学として発展していきました。
人々の生きた需要よりも、人為的に作られた架空の需要の方が大きくなり、それを富だと勘違いしていた時代がしばらく続きました。
今起きている経済危機は、その勘違いが明らかになり、破綻しようとしていることなのです。(つづく)
※クリスマスイブにふさわしくなさそうな話を始めてしまいましたが(^^ゞ、最後は明るい話にする予定です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63)
言葉の森では、教育相談として、保護者から随時電話による教育相談を受けつけています。
言葉の森での勉強の仕方に関する質問が多いのですが、作文や国語に限らずもっと幅広くいろいろな相談が寄せられます。
最近、共通して感じるのは、子育ての初歩的なところを勘違いしているように思われる相談が多いことです。もちろん、私自身も、というか親はだれでも子育ては初めての経験ですから、さまざまな試行錯誤を繰り返します。
しかし、最近受ける電話相談の中には、「そんな当然なこともしていないの」と思うようなものも結構あるのです。
そのひとつは、子供に言うことを聞かせられない、あるいは、子供が言うことを聞いてくれないという相談です。これが、小学校低中学年の子供でそうだというところに問題があります。
もうひとつは、その反対に、小学校低中学年のうちに子供が苦痛を感じるほどの分量の勉強を強制して、時間が足りないなどという相談です。
現れてくる現象は正反対ですが、共通しているのは、バランスのとれた自然な親子関係、人間関係ができていないのではないかということです。
理想的な親子関係は、親の権威が確立していて、子供は親の言うことを素直に聞くが、親はほとんどを子供の自主的な行動に任せているという関係です。
なぜ、そういう自然な親子関係ではなく、やや不自然な関係が生まれているのかと考えて、ふと思ったのが、親である現代の大人が持っている人間関係でした。
今の親の世代は、子供時代に集団で遊んだ経験が少ないのではないかと思います。
小さな子供たちが自由に遊ぶとすれば、そこに自然な上下関係ができます。これは、大人に管理された遊びや勉強の中ではあまり生まれません。
自由な遊びの中で、年齢の差や体力の差などにより自然な上下関係が生まれると、それは親分子分の関係になります。子供時代にガキ大将に率いられた子供たちは、自分たちもまたガキ大将になり、いい親分を演じられるようになります。
親分というのは、年下の子対して権威のある存在です。ドラえもんに出てくるジャイアンのようなわがままな親分ではだれもついてきませんから、自然に人徳で年下の子供たちを引っ張るような練習をしていきます。
そういう子供が成長して、社会や家庭で、同じようにいい親分、子分の役割を果たすことができるようになるのです。
親子の関係というのも、基本的には親分と子分の関係です。学校の先生と生徒の関係も、親分と子分の関係を基本にしていればスムーズに進みます。
しかし、親が親分を演じることに慣れていないと、子供と対等の関係を作ろうとして子供のわがままを止められなくなったり、逆に子供に頭から命令するような関係で言うことを聞かせようとしたりしてしまうのではないかと思います。
健全な親分子分の関係ができている家庭では、子供はのびのびとしていて、しかも素直に言うことを聞きます。
大事なことは、子育ての前に、親が自分を育てる練習をすることです。そのためには、親が、まず自分が親分になるのだという自覚を持つことです。
父親がいざというときの大親分であり、母親が日常的な親分です。子供のうち上の子から順に、子分1、子分2……となるような有機的な関係を作ることがこれから必要になってくるのだと思います。
「ピンポーン」
「あ、大親分が帰ってきた。子分1、玄関開けてきて」
「へい。行ってきやす」(言葉づかいまで変えなくていいんだって)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117)
私が子供のころの遊びで、面白くて熱中したのが、小さい木切れを使っていろいろなものを組み立てることでした。近所に大工さんがいたので、形が微妙に違う小さな木の切れ端がよく手に入ったのです。
先日、小学校4年生の生徒の「小さいころから大切にしているもの」の作文を読み、そこに、レゴブロックのことが書いてあったので、ふとそんな昔のことを思い出しました。
レゴの面白さは、組み立て方を創造する面白さです。だから、想像力によって何にでも見なせるものが面白いのであって、車輪や人物など、その用途にしか使えないものがあると、かえって作る意欲が薄れてしまうようです。
今度、中学の技術科でプログラミングが必修になるという話を聞きました。
プログラミングの面白さも、やはり創造の面白さです。特定の結果だけが出てくるアプリケーション・ソフトの使い方(例えば、ワードやエクセルの使い方など)を学んでも、何も面白くはありません。単純なレゴのブロックのようなものが与えられて、何でもいいから自由に作ってみようという勉強なら、中学生の子供たちは熱中すると思います。
勉強の面白さは、創造の面白さです。しかし、現代の教育では、勉強の過程の面白さよりも、早く成果を出すことが要求される面があります。
成果を出すというのは、出来合いのアプリケーションの使い方を学ぶということと似ています。
しかし、日本の将来を支えるのは、アプリケーションを使える人ではなく、プログラミングを楽しめる人です。
結果を出すのではなく、過程を楽しむというのが、これからさまざまな分野で求められてくると思います。
話は変わりますが、私がもうひとつ、男の子だったら面白がるだろうと思うのが電子工作です。コンピュータの中のプログラミングでなく、実際に形があって動くものを作るということになると、たぶん男の子は熱中すると思います。(女の子は、熱中するかどうかよくわかりませんが。(^^ゞ)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
プログラムの授業はやっていて面白い。しかし,数学以上についてこれない生徒が多い。
プログラムは、数学よりも数学的発想をうまく教えられるような感じがします。
数学は、得意な子の中にも、計算の作業としてやっている子も多いと思います。
プログラムは、応用範囲の広い基本的な関数だけ教えて、レゴのブロックのように、これで自由に遊んでごらんと、作品の発表会をすると面白そうです。
今小学生ですが、レゴを使ってロボットを作りプログラミングしたマイコンで動かすということをやっておりますがすごく楽しそうです。男の子です。教室もやはり男の子ばかりですね。
プログラミングは当然まだ全然できませんが、これから勉強の楽しさを知る糧になってくれれば良いなあと思うばかりです。
ぽかさん、そうなんです。
これまではプログラミングだけだったのですが、これからはプログラミング+電子工作の時代です。
子供たちが遊びながら電子工作をいろいろ試すという時代になると思います。
ちょうど、昔の子供たちが、凧作りとかプラモデル作りに熱中したような手作りの時代になると思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
今年の言葉の森新聞は、12月4週の1205号が最後になります。新年は、1206号からです。毎週定期的に発行しているので、1205週、つまり25年間も気長に発行していたことになります。
さて、今年は、大きな変化が二つありました。
一つは、言葉の森が5月からfacebook活用の取り組みを始めたことです。
もう一つは、9月から森林プロジェクトという新しい企画を始めたことです。
言葉の森が、初めて1970年代に作文教室を始めたとき、全国に作文教室という名前のものはありませんでした。
言葉の森が、初めて1990年代にホームページを開設したとき、全国でホームページを作っている学習塾はほとんどありませんでした。
その後、言葉の森が初めてPHPとMySQLで動的ページを作ったとき、そういうことをしているサイトはほとんどありませんでした。
また、言葉の森は、オリジナルな形では初めて日本語の作文小論文自動採点ソフトを作り特許を取りましたが、そういうところはまだほとんどありません。
言葉の森は、何でも独自に行うので初めてのことが多いのです。
その言葉の森が、新たに初めてのこととして取り組んでいるのが、facebookの活用と森林プロジェクトの企画です。
現代という時代の変化の特徴をひとことで言えば、マスの時代の終焉です。しかし、それは、単に昔ながらの古い手工業の時代に戻ることではありません。
ネットを使い、時空の制約を超えた新しい手工業が、経済、政治、文化、教育、コミュニケーションなどのさまざまな分野で生まれてくるのです。
この時代は、今、切り口の仕方によっていろいろな名前で呼ばれています。クラウド、メッシュ、シェア、ソーシャルなどです。99%という言葉も、この中に入るかもしれません。
私は、それを自助の文化の復活と考えています。つまり、社会のあらゆる面で、ひとりひとりの個人が主人公として主体的に物事に関わるようになってくるのです。
これは、教育についても同様です。そして、そういう教育の中で育った子供でなければ、これからの未来を切り開けないと思います。
今年は、そのための土台作りの年でした。来年は、facebookと森林プロジェクトを通して新しい方向を作り出していきたいと思っています。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森サイト(41)