前回は、読点の打ち方と批評の仕方について書きましたが、今回は全体の章について書きたいと思います。
第一章は、「かかる言葉と受ける言葉」についてです。本多氏は、「かかる言葉と受ける言葉は近いほどわかりやすい」と述べています。これはそのとおりです。例えば、「美しい水車小屋の娘」よりも、「水車小屋の美しい娘」の方がわかりやすいということです。しかし、文章の目的は、「読む側にとってわかりやすく」書くことにあるのではありません。「自分の書きたいことを読む側にとってもわかりやすく」書くことにあります。自分の書きたい順序で読み手にもわかりやすく書くために、句読点の工夫があります。シューベルトの歌曲集で、「美しき水車小屋の娘」という標題があるのは、その詩の訳者が「美しき」をまず伝えたかったからでしょう。「水車小屋の」をまず伝えたかったのなら、「水車小屋の美しき娘」となったはずです。論理的にどちらがわかりやすいかということ以前に、自分が何を先に伝えたいかということがあるのです。その上で、誤解を避けるために「美しき、水車小屋の娘」などという句読点の工夫が出てきます。決して句読点の論理が先にあって、それに合わせて語順を入れ替えればいいというのではありません。
第二章は、「かかる言葉の順序」についてです。本多氏は、「節を先にし、句をあとに」「かかる言葉は長い順に」と述べています。これもそのとおりです。例えば、「年輪のゆたかなよく育った太い竹」の方が「太くよく育った年輪のゆたかな竹」よりもわかりやすいということです。しかし、ここでも大事なことは、書き手が何を先に伝えたいかという意識が最初にあります。「太くよく育った」をいちばん言いたいのなら、その言葉を最初に持ってくることは何もさしつかえありません。その上で誤読を避けるために、句読点の工夫をするのです。
第三章は、「テンやマルの打ち方」についてです。本多氏は、読点は論理を明確にするためのものだと位置づけ、論理に合わないテンは間違いだと決めつけます。そうでは、ありません。読点は文章をわかりやすくするために打つものです。そのために、ある程度の論理的な裏づけが必要なのです。本多氏の作文技術では、「論理のテン」→「読み手にわかりやすく」→「語順を入れ替える」と進みますが、本当は、「自分が伝えたい語順」→「読み手に分かりやすく」→「必要に応じたテン」→「論理の裏づけ」となるのです。
第四章は、「漢字の使い方」についてです。本多氏は、漢字とかなはわかち書きと同じ役割で、文章を読みやすくするためのものだと述べています。だから、「『漢字』にするか『かな』にするかは、その前後で適当な方を選ぶ。無理に統一してはならない」と続けます。だから例えば、一つの文章の中で「いま」と「今」が前後の関係で適当に混在していてもよいというのです。それでもわかりにくいときは、本当にわかち書きにすればよいと話は進みます。なぜ、こういう無理な論理展開になるかというと、読点を論理のテンと限定したために、漢字とかなでつじつまを合わせなければならなくなったからです。漢字とかなは、書き手の文字感覚で、書きたい方を選ぶというのが普通だと思います。「いま」と書く人はどこでも「いま」と書くでしょうし、「今」と書く人はどこでも「今」と書きます。前後の関係で漢字にするかかなにするかを決めるというルールは、多くの人にとって逆に違和感のある書き方だと思います。
第五章は、「助詞の使いかた」についてです。「は」や「が」や「も」についての説明が書かれていますが、この章が中学生の作文技術にとって特に何か有用なものを提供しているとは思えませんでした。
第六章は、「改行を考える」です。段落は思想の一単位だから、論理的におのずから決まってくると、本多氏は述べています。しかし、必然的に決まると言えるほど明確ではないのが段落です。書き手の考え方によって、文章は大きくくくられることもあれば、小さくくくられることもあります。本人は話が新しい段階に入ったつもりでも、ほかの人は必ずしもそうは思わない場合もあります。段落は文章を読みやすくするためにあるのです。そのために、論理的に話が変わってくるところで行を変えるのです。決して論理が先にあり、論理的であれば読みにくくてもいいというのではありません。本多氏は、サルトルの「自由への道」で一冊の本の半分にあたる一章全部が改行ゼロだった例を挙げていますが、それはサルトルが文学的な効果を意図して書いたか、よく考えないで書いたからだと思います。サルトルは、主著の一つである「弁証法的理性批判」でも、あまりよく考えを整理しないで書いている印象を私は受けました。
第七章は、「無神経な文章」についてです。悪い文章を例に挙げて批判することは、文章の勉強を最初のうちだけは上達させます。しかし、悪い例の批判をいくら続けても、上手な文章を書けるようにはなりません。教育の基本は、よい文章を読むことによって、よい文章を書く力をつけることです。悪い文章を批判することによって、悪い文章を書かないようにすることは、教育の導入期にだけ必要なことです。そして、悪い文章を批評する場合も、大事なことは、批評の仕方の思いやりです。本多氏の批評にあるような「ヘドが出そう」「いやみったらしい」のような言葉を中学生どうしが互いの作文の批評に使うとしたら、その作文の授業はかなり寒々としたものになると思います。
第八章は、「リズムと文体」についてです。自分の好きな文章の例は、だれでも自分の好みでいくらでも出てきます。しかし、このような好みの文章の羅列が、中学生の作文力の向上につながるとは思えません。
本多氏は最後に、文章改良の例を書いています。ここが、本多氏のこれまでの作文技術の集大成と言えるところでしょう。しかし、その改良のもとになる文章は、「芝生をいためる球技等の行為は厳禁する」という短い標語でした。(笑)
「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(1)
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作文指導に関してテキストとなるような本が少ない中で、この本が中学生の作文指導に使われることもあると思うので、何点か批判を書いておきたいとと思います。
第一は、読点の打ち方についてです。本多氏は、「長いかかる言葉が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ」と述べています。これはそのとおりです。また、かかる言葉の順序として、「句より節を先に」「長い言葉から先に」と述べています。これもそのとおりです。
例えば、「村はずれにあるうちの雑木林を開墾する」という文があった場合、「村はずれにある→雑木林」「うちの→雑木林」と、かかる言葉が二つあります。これを、短いほうのかかる言葉を先にして「うちの村はずれにある雑木林を開墾する」と書くと、誤解が生じる可能性があります。だから、本多氏の説明で言うと、「うちの」を強調して先に置きたい場合は「うちの、村はずれにある雑木林を開墾する」とするということです。これも、そのとおりです。
しかし、ここからが問題で、本多氏は、「村はずれにある、うちの雑木林を開墾する」のテンは不要だから間違いだと主張します。理由は、「村はずれにある」という言葉は終止形と同じなので、マルと誤解されるからだと言うのです。もちろん、その可能性はあります。しかし、かつての国語表記法では、このテンを打つ方が原則だったのです。
昭和21年3月に文部省教科書局で作成された句読法の案では、「テンは副詞的語句の前後にうつ」「その上で、口調の上から不必要のものを消す」「形容詞的語句が重なる場合にも前項に準じてうつ」としており、その例としてしっかりと「村はづれにある、うちの雑木林を開墾しはじめてから、」という例が載っています。
句読点が日本語の中に成立したのは、たかだか百年前後のことです。テンの打ち方については、まださまざまな揺れがあるのです。特に読みにくくなければ、いずれも許容範囲です。どれか一方が正解で他方が誤りだというのは、頑なな見方だと私は思います。
また、終止形と同じ形だと誤解されるとは言うのは、あまり説得力のある理屈ではありません。例えば、私たちが口頭で話す場合、長いかかる言葉が二つ以上あるときは、それが終止形であっても、いったん息を継ぎます。「村はずれにあるうちの雑木林を」というのは一口でも言えますが、「村はずれにあるうちの古い大きな雑木林を」という文になれば、多くの場合、話し手は「村はずれにある」でいったん息を継ぎます。そのときに聞き手は、「村はずれにある」までを聞き、その後それが終止形となるか連体形となるか二つの可能性を予測しながら先の言葉を待っているのです。だれも、「終止形で息継ぎをするなよ」などとつっこみません。(笑)書き言葉は常に話し言葉からの影響を受けています。だから、終止形と同じ形の連体形でテンを打つということも、それなりに自然な打ち方なのです。
二つの可能性があるものの一方だけを原則とし、他方を反則とする論理は歯切れがよいので、中学生にはわかりやすいかもしれません。しかし、その歯切れのよさは、実は考え方の一面性に基づいている歯切れのよさなのです。
第二は、本多氏の文章の持つ人間性についてです。本多氏は、悪い文章の見本として朝日新聞の声欄の投稿の一つを挙げ、次のように書いています。
「一言でいうと、これはヘドの出そうな文章の一例といえましょう」「最初から最後までうんざりさせられるだけの文章だと思うに違いありません」「手垢のついた、いやみったらしい表現」。
「中学生からの作文技術」の188ページに載っていますから、時間のある人は書店で立ち読みして確認されるといいと思います。当の批判された文章は、ごく普通の文章です。多少紋切り型の表現が多いと思いますが、文章で大事なのは伝えようとしている中身であって、伝え方の巧拙ではありません。書店で確認する時間がない人のために引用すると、こういう文章です。
====
只野小葉さん。当年五五歳になる家の前のおばさんである。このおばさん、ただのおばさんではない。ひとたびキャラバンシューズをはき、リュックを背負い、頭に登山帽をのせると、どうしてどうしてそんじょそこらの若者は足もとにも及ばない。このいでたちで日光周辺の山はことごとく踏破、尾瀬、白根、奥日光まで征服したというから驚く。
そして、この只野さんには同好の士が三、四人いるが、いずれも五十歳をはるかに過ぎた古き若者ばかりなのである。マイカーが普及し、とみに足の弱くなった今の若者らにとって学ぶべきところ大である。子どもたちがもう少し手がかからなくなったら弟子入りをして、彼女のように年齢とは逆に若々しい日々を過ごしたいと思っている昨今である。
====
別にいいじゃん。(笑)そんなひどい言い方で批判するなよ、と私は思います。
もし、身近な人に、「あいつの言っていることはわかるが、言い方がむかつくんだよな」などという人がいたら、私はその言われた人よりも言っている人の程度の方が低いと思います。
教育でまず大事なことは、テクニックではなく人間性です。作文の技術を身につけるよりも、作文を書く姿勢の方が大事だと私は思います。私たちは、じょうずな文章を書くよりも前に、よい生き方をするべきなのです。せっかく一生懸命に書いている人の文章に、「ヘドが出そう」だとか「いやみったらしい」などという言葉で批評する感覚は、勉強以前に人間の生きる姿勢として問題なのです。想定されている読み手が中学生であれば、なおさらこのことが言えると思います。
「中学生からの作文技術(本多勝一)」批判(2)
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昨年、「パワーVSフォース」という本の紹介をしました。そこで、キネシオロジーという人間の筋肉の反応を利用した正誤判定が可能らしいということを書きました。
その後、同じ著者の本が何冊か出版されているので、アマゾンで注文して読んでみました。と言いたいところですが、英語で書いてあったのでほとんど読めませんでした。
ところで、最近の著書「トゥルースVSフォールスフッド」をつまみ読みすると、このキネシオロジーテストの限界が逆に明らかになっていました。
今回は逆に、このキネシオロジーという発想のマイナス面に光を当てておきたいと思います。
これは、キネシオロジーに限らず、宗教や占いをはじめとするすべての超越的なもの(現実の理解を超えたもの)について当てはまることです。一言で言えば、これらの超越的なものには、正しい要素と誤った要素が分かちがたく結び付いており、人間が強力な常識を持たなければその正誤を分別することができないということです。そして、多くの人は、超越的なものの力に圧倒されて常識の方を放棄してしまうようです。
このような意味で、すべての宗教は基本的にオウム真理教と同じ性質を持っています。個々の宗教で、例えば輸血をしないとか肉食をしないとかいうのは、個人の信条の自由として尊重されなければならないことは当然です。しかし、その宗教がもし政治的権力を持つようになった場合、他の人に対して「輸血をすべきではない」とか「肉食をすべきではない」ということを強制する可能性があるのです。なぜならば、それらの信条は個人の自由意志によって為されたものであるにも関わらず、神からの命令として実行されているからです。「私がしたいから」という話であれば、対話の余地がありますが、「神様がそう言ったから」では人間どうしの対話は成り立ちません。そして、対話がない中で対立を解決する手段は、結局暴力にならざるを得ないのです。これが宗教の弱点です。
キネシオロジーは、のべ何百万人もの実験データによって科学的な裏づけを持っているかのように叙述されています。しかし、ここにはその実験データを解釈する仮説の側に大きな誤まりがあるのです。それは、キネシオロジーは、客観的な正誤を判定しているのではなく、その人の意識(又は無意識)の中にある正誤を判定しているに過ぎないということです。
同様のことは、水の結晶のようなことにも言えると思います。「ありがとう」という紙をはったコップではきれいな結晶ができ、「ばかやろう」という紙をはったコップでは醜い結晶しかできなかったという実験です。ここでも、考えられることは、水が紙に書いてある字を読んだわけではなく(笑)、紙をはった人の意識を反映したのだろうというのが、普通の常識的判断です。
エドガー・ケイシーは、無意識のリーディングの中で、人間が知ることのできなかったさまざまな真実を明らかにしました。しかし、ここに登場する神様は、キリスト教というきわめてローカルなものに限られています。キリスト教以外のあらゆる宗教の神が登場することのない真実は、やはり一面的な真実だろうというのが、普通の常識的な考えです。
心理学の実験で、被験者に苦痛を与えることが必要なのだと説明された人のほとんどは、平気で他人に苦痛を与えることができたそうです。この場合も、「たとえ必要なことであっても、他人に苦痛を与えることはしたくない」と言うのが常識を持った人間です。そして、「苦痛を必要としない方法を考えよう」と提案するのが創造的な人間です。しかし、整然とした理屈に対抗するだけの強力な常識を持つ人さえほとんどいなかったということをこの実験は示しています。
キネシオロジーは、自分の肉体にとってプラスかマイナスかということは正確に判断できると思います。これはOリングテストと同じです。ビタミン剤と人工甘味料を袋に入れて、キネシオロジーテストによって中身を判断するというのは可能だと思います。
また、自分の知っている身近な人が、自分にとってプラスかマイナスかということも、同様に判断することは可能だと思います。これは、常識で考えてもありうることで、何となく話が合う人と合わない人がいることは多くの人が経験していることだからです。
しかし、ここから話を拡大して、自分が直接には知らない人、例えばガンジーとかマザー・テレサをキネシオロジーが判断すると言った場合、そこで判断されているのは、ガンジーやマザー・テレサというリアルな人間ではないはずです。キネシオロジーが判断しているのは、人々の意識の中にある、又は、メディアを通して知らされた知識の中にあるガンジーやマザー・テレサです。これが常識です。
キネシオロジーは、自分に直接影響のあるものごとを判断するには、有効なテストだと思います。しかし、自分の直接的な関わりを離れて、客観的な事象を判断しようとするとき、そこに数々の主観的偏向が入り込む余地があるのです。テストに参加する人が多くなればなるほど、そのテストはそれらの参加者の集合的な意識に影響されるようになり、あたかも客観的な数値であるかのように振る舞いはじめます。しかし、それは科学ではありません。ただのマジックなのです。ところが、この科学とマジックは、科学の要素が強い部分からマジックの要素が強い部分まで境目がない状態で分かちがたく結び付いています。それは、すべての宗教と同じです。普遍的な要素とその宗教だけに当てはまるローカルな要素が分かちがたく融合しています。それを見分けることができるのは、人間の人間的な常識です。しかし、その常識は、科学的装いと拮抗できるほど強力な常識でなければならないのです。
[:ねずみ:][:きつね:][:うし:][:チューリップ:]
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国語の力をつけるポイントは、国語の入試問題に出てくるようなレベルの文章を繰り返し読んでいくことです。
どの参考書や問題集よりも優れている教材は、実際の最近の入試問題です。
繰り返し読むということが大切ですから、設問を解く必要はありません。空欄は飛ばして読んでいきます。解説などももちろん読みません。ただひたすら問題文を読書がわりに読んでいきます。もちろん黙読です。
難しい語彙の文章を読んでいると、脳が疲労するせいかすぐに眠くなります。そういう場合は、無理をせずに時々休みながら読み続けるようにしてください。
「せっかくだから問題も解こう」というのは、単なる無駄な寄り道になるだけです。問題を解いたり解説を読んだりして力がつくのは、問題にパターン性がある数学などの問題のときだけです。
繰り返しの回数は4回以上です。4冊の問題集を1回だけ読むよりも、1冊の問題集を4回読むほうがずっと効果があります。なぜ4回以上かというと、それはこれまでの経験からです。英語の単語を覚えるような勉強でも、3回目まではうろ覚え状態ですが、4回目から急速に記憶に定着し、5回目でほぼ完全に定着します。暇な人は実験してみてください。
おすすめの問題集を紹介します。
小学校高学年用……中学入学試験問題集(国語編) みくに出版
中学生用……全国版高校入試問題と解答国語 旺文社
高校生用……全国大学入試問題正解国語(国公立大編) 旺文社
いずれも「図書の広場」にリンクがあります。
https://www.mori7.net/tosyo/
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森リンで高得点を取るためには、話題を広げることが大切です。
論文というと、自分の考えを述べるだけのように感じる人がいるかもしれませんが、意見だけの文章は逆に説得力がなくなります。意見の裏づけになる具体例を書くことが、面白くかつわかりやすい小論文を書くコツです。
具体例には、自分の体験によるものと、自分の知識によるものとがあります。小論文では、このどちらもが大切です。幅広い実例を書くためには、普段からいろいろなことに挑戦するとともに、読書によって教養を広げておく必要があります。
なぜ読書が大切かというと、単なる断片的な知識では、小論文を書くときにはその知識が生かせないからです。生きた知識は、文脈を伴った知識です。用語集を暗記して語彙を増やしても、小論文にその語彙を生かすことはできません。読書を通して得た語彙は、一見関係の薄いように見えるテーマにも活用していくことができるのです。
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私は「森リン」という仕組みに多少動じておりました。
何故なら、文章というものはあくまで読み手によるもので、
傑作か、悪文か、読み手によってずいぶんと分かれるものだからです。つまり作文というのは極めてアバウトなものであり、これだから良い、悪いというきまりまありません。つまり
これといった判断基準はなく、読み手にそのすべてがまかされて
いるというわけです。では、例えば太宰治、芥川龍之介などの
名のある文学者達の文章がなぜ「良し」とされるのか、
先生も疑問に思うことでしょう。生意気かもしれませんが、私もそう思います。その答えは、いかに世間一般の「大半」の「大部分」の人々の心を捕らえるか、ということだと私は結論付けました。つまり、読み手の大半が「面白い」と思える文章こそが真の良き文章だということです。私は太宰治のファンですが、先生は違います。けれども、彼の文章を「好き」と言っている人が大部分を占めているからこそ、彼は日本文学史に名を残すような文豪となったのだと私は確信しております。
もう少し深く検証すると、つまり、文章というものは人間が書き、人間が読んで何かを思い、笑ったり、胸打たれたり、怒ったりすることで初めて成り立つ、そういう、絶妙なバランスを持つものです。けれども、読み手が人間である限りその「良し悪し」の判断がある程度つけられるのではないか、と私は思います。だから、私はその判断を「森リン」という機械にまかせるのはどうかと思うのです。例えば、森リンの判断基準に「字数に対する漢語の割合」というものがありますが、夏目漱石の文章に、平仮名だけのものもありますし、太宰治にカタカナだけの文章もあります。人間が読んで良し悪しを決める「文章」を、果たして機械が採点して良いのか、と疑問に思っております。私以外にもたぶん同じ事を思っている人がいることでしょう。そこのところ、どうなんでしょうか。
先生、生徒である私が、真剣に問うているのです。
誤魔化さないで、ちゃんと答えてください。
先生は私が真剣に質問しているのに、それに対して
真面目に答えてくれたことは一度もありませんね。
いつも、「あなたは考えが浅いから、私の言っていることなど
到底理解できない」と言って誤魔化して逃げますが、
あなたは先生なんですから少なくとも生徒が真剣に
質問しているのにそれに対して答えない、お茶を濁す、
それはいけないと思います。
第一、「作文の良し悪し」という、この教室の存在意義とも言える本質的、根本的問題について真っ向から議論をしかけているのに、先生はいつも私を浅はかだと決め、「戦意喪失」と言って
逃げます。私が仕掛けた疑問に、真っ向から立ち向かいません。これは生徒であるすべての人にとって最も重要なものですので、説明をする必要があると私は思います。
どうか、ご返信、おねがいします。
だって、わかなちゃんて、喋っているとくたびれるんだもん。(笑)
さて、森リンは、機械による評価のための評価ではなく、人間による指導のための評価を出しているんだよ。ここを勘違いしないことが大事。
それから、文章の評価にはいろいろな要素がある。語彙が豊富だとか、漢字が多いとか、読みやすい文であるなどいうことは、その一つの要素に過ぎない。どれか一つの要素を取り出して論じれば、必ず評価は歪んでくる。
評価の意味について、くわしくは、ここに。
http://www.mori7.info/moririn/in_mori_tetu.php
「評価の意味」を拝見させていただきました。
これはよほどに哲学書を熟読しているな、
と感心させられる文章でした。
しかし、反面、哲学的に難しくして誤魔化しているだけのようでまったく初心者に説明するような意思がないように思われました。文を意味不明にして、「これが哲学」とか適当なことを言い、本質的に重要な(私が先ほど質問したこと)答えになっていないのです。これこそまさしく「誤魔化し」というものでは
じゃあ聞きます。
「さて、世界に存在するものの最も根本的な概念は、存在物です。存在物は主語で、存在は述語です。存在物は存在するという行為を伴うことによって初めて存在します。存在するという行為は、存在しないことつまり無を否定することによって成り立ちます。言い換えれば、存在物は存在と無の矛盾した統一として存在すると言ってもいいでしょう。
存在と無の統一は、四つの面を持っています。第一に存在物は外部の無に抗することによって存在します。第二に存在物は内部の無を不断に否定することによって存在します。第三に存在物は過去の無から絶えず離れ去ることによって存在します。第四に存在物は未来の無に向かうことによって存在します」
これは何なのか、
具 体 的 に 説 明 し て 下 さ い。
お茶を濁す、とはこの事を言うのです。
、「機械と人間が共生するためには、機械が人間の不得意なことをカバーし、人間が機械の不得意なことをカバーする必要があります。すべてを機械中心に行おうとしたり、すべてを人間中心に行うとしたりすれば、そこに機械と人間の摩擦が生じます。」
そうです。その通りなんです。しかし、こう言いつつも
何故、森リンという機械に任せるのか、矛盾だと思います。
先生は全国からたくさんの作文の先生方を雇っておられるようですが、何故そうした有能な方々を利用せず、最終的に機械に任せてしまうのか理解できませんね。
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作文の書き方のコツの一つは、格好よく書くことです。普段、電子メールなどでやりとりしている文章をそのまま使っていては、いい文章は書けません。ある意味で、よそ行きの文章を書く力が、上手な小論文を書く力につながります。
格好よく書くためには、自分の知っている範囲でできるだけ難しい言葉を使うことです。しかし、そういう言葉を使うためには、その言葉が書かれているような本を読まなければなりません。書く力をつける第一歩は、まず読むことなのです。
森リンの採点では、難しい言葉の評価は、重量語彙の点数という形で表されます。
もちろん、既に難しい言葉を使っているという人は、それ以上難しく書く必要はありません。それよりも逆に、難しい内容をできるだけ平易に書く力が求められるようになってきます。森リンの採点で、過重量のマイナス点になっている人は、もっと易しい言い回しに変えて書くことが必要になります。
森リンの重量語彙の点数を見ると、自分がもっと難しく書くべきか、もっと易しく書くべきかということがわかってきます。
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「父母の広場」の記事より
https://www.mori7.net/nohara/hubo/index.php 貝原益軒が考え出した勉強法に、百字の文章を百回ずつ読むというものがあります。益軒は、そのようにして論語や孟子を百字ずつ読むことを勧めました。
昔の勉強法は、同じものを何遍も繰り返して血肉にするというスタイルのものが中心でした。剣道の素振りなども同じ発想だと思います。同じ動作を何度も繰り返していると、無意識のうちにもその動作ができるようになるというのが繰り返しの効用です。
ところが、戦後の教育は、理屈で理解することが優先されたために、反復で身につける学習は敬遠されてきました。そのため、今の親の世代は、長文音読のような勉強を子供のころにしていません。そこで、子供が、「こんな同じのを繰り返しているのは嫌だ」と言うと、それもそうだと思ってしまうのです。
しかし、ふだんの勉強が知的理解中心になっているからこそ、言葉の森の長文音読は、単純な反復学習として位置づけて続ける価値があると思います。
私のうちの子供も、同じものを読んでいるとすぐに飽きて、ふざけて読んだり抑揚をつけて読んだりしていました。そういう読み方でもかまいません。何しろ同じものを続けて読んでいると、その文章のリズムや言い回しが自然に身についてきます。それが作文の勉強のいちばんの土台になります。
1〜2週間で全部読み終わったら、また最初から繰り返し読み、3ヶ月の間に、何十回も読むようにしていってください。[:うし:]
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