5月22日の記事「創造性を育てる作文 6」のつづきです。
だいぶ時間が空いてしまったので、これまでのあらすじを。
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「創造性を育てる作文 1」
作文の勉強の目的は、「正しく、わかりやすく、美しく、速く」書くことに加えて、「創造性を育てる」ことにある。
「〃 2」
創造性には、まず意欲の創造性がある
「〃 3」
これからは知識の底辺を伸ばすよりも、創造性の高さを高めることが重要になる。
「〃 4」
読む創造性は、知識が血肉になることが条件である。
「〃 5」
知識に習熟するための勉強の有効な方法が暗唱である。
「〃 6」
書く創造性とは、構成を使った創造である。
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なんだかややこしい話が続いていますが。
題材の創造性(読む創造性)、構成の創造性(書く創造絵性)に続いて、今回は、表現の創造性、次回は、主題の創造性です。
表現による創造とは、作文の場合、主に比喩による創造です。あらゆる表現はもともと創造ですが。その中でも特に比喩は独創性の高い創造です。
物事と言葉とは、必ずしも一義的に結びついているわけではありません。例えば、この黒いかたまりを、「犬」と言っても、「ミニチュアシュナウザー」と言っても、「黒い子犬」と言っても、どれも正解です。物事は一つですが、それを表す言葉は何種類もあります。だから、物事と言葉の間には、常にギャップがあります。
話すことにも書くことと同じような創造的な要素はありますが、話にはほとんどの場合、直接的な相手がいます。人間は、話をするとき、言葉を単なるキャッチボールのようにしてコミュニケーションをしているわけではありません。相手の投げていないボール、つまり言っていないことも察する力があるからです。
例えば、食卓で、はっと気づいた顔をして、「あれとって」と言おうと思い、「あ……」と言うとき、近くにいる人はすぐにそれが醤油(しょうゆ)だとわかる、というようなコミュニケーションが、話すときのコミュニケーションです。それに対して、書くコミュニケーションには直接の相手がいません。だから、話すよりは書く方が表現の創造性を必要とします。この表現における創造性を伸ばすことが、作文教育のひとつの目標です。
ところで、表現の創造の前提となるものは、言葉そのものへの習熟です。ある言葉が使えると言っても、使えることがそのままその言葉に習熟していることではありません。習熟には個人差があります。
例えば、カタツムリという言葉を知っている子はたくさんいますが、その知り方の度合いにはさまざまな差があります。それは、カタツムリの属性をどれだけ知っているかという差です。カタツムリは、小さい、殻がある、臆病ですぐに角をひっこめる、雨が好き、ゆっくり進む、ニンジンを食べる、などのさまざまな属性は、言い換えればカタツムリという言葉が持つ概念の広がりを示す何本もの手足です。
たとえやダジャレが使える子は、このひとつの言葉に対する概念の手足が多いのです。小1、小2の子が、たとえをなかなか使えないのはこのためです。教えられたたとえを理解することはできますが、自分で作ることができないのは、子供たちの使える言葉が、まだ数本の手足しか持っていない素朴な言葉だからです。だから、たとえの練習とは、たとえを教えることではなく、日常生活の体験や読書の中で、言葉の持つ概念の手足を増やしていくことです。
この概念の手足というものが、文章に対する理解の深さを規定します。ここに国語の勉強の特徴があります。
国語にも、数学にも、難問というものがあります。易しい問題とは、テストのために作られた空間が限られて閉ざされている問題です。難問とは、そのテストの空間が広く閉ざされていない問題です。
例えば、数学の場合は、その単元の勉強だけでなく、ほかの単元で学んだことを使わなければ解けないような問題が難問です。
国語の場合は、その文章で問われている状況を理解するために、その文章以前の経験や読書による共感が必要になる問題です。
だから、数学はわからなくなったら、わかるところまで戻るという勉強が基本です。これに対して、国語はわからなくなったら、わかるようになるまで読書や経験を積み重ねるという勉強になるのです。したがって、国語の勉強は、問題を解く勉強はほんのわずかでよく、中心になるのは言語を豊かにする読書や対話や暗唱の勉強なのです。(つづく)
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国語の指導をしている人の中に、「作文は小4から」と言う人がいるようですが、小4からでは遅すぎるというのが本当です。
小3や小4は、小学生がいちばん小学生らしく充実した勉強をする時期です。読書で言うと、読むのが楽しくなる本がたくさんあり、読書をする力もついてきます。作文で言うと、作文を書く力がつくとともに、作文に書く材料には事欠きません。ちょうど勉強の花が咲く時期なのです。
ところがここできれいな花を咲かせるためには、まだ花の咲いていない小1、小2のころの準備が必要になってきます。書いたものを添削するだけの事後指導が中心の作文指導であれば、作文が上手に書けるようになってから赤ペンで添削するということしかできませんが、本当に大事なのは添削する以前に実力をつけておくことなのです。
小3、小4のころは、どの子も生き生きと作文を書きますが、これが、小学校高学年になると、3、4年生ほど無邪気に、書くことや読むことに喜びを感じることができなくなってきます。コンクールなどに入選していちばん素直に喜べるのが小3や小4のころで、それよりも学年が小さいとうれしさという実感があまりありません。また、それよりも学年が大きいと今度は気恥ずかしさのようなものが出てきます。
だから、作文の勉強が最も充実するのが小3や小4のころですが、しかし、だからこそそのころから作文の勉強を始めるのでは遅いのです。
勉強の習慣のようなものは、小1や小2のころに形成されます。例えば、毎日の暗唱のような勉強も、小学校低学年で始めれば楽に定着しますが、小3や小4になってからだと、なかなか習慣になりにくいところがあります。
また、小学校高学年になったり、中学生になったりして勉強や部活などが忙しくなると、作文の勉強が習慣として定着していない場合は、継続することが難しくなります。しかし、小学校低学年のころから作文の勉強をしている子は、そういう忙しい時期でも何とか工夫して続けることができるのです。
小学校1、2年生は、作文の勉強だけに限っていえば、字数も少なく内容も乏しく、勉強の中身があまりないように見えるかもしれません。しかし、この時期は、外に見えない勉強が蓄積されている時期です。例えば、毎日暗唱をする習慣や、毎日本を読む習慣、毎週作文を書く習慣、書いた作文や音読する長文について毎週親子で対話をする習慣などが形成されています。
昔から習い事は6歳6か月からと言われています。6歳台では、どのような習い事もお遊びのような感じになります。しかし、この時期に始めた習い事は、ずっと続くものになることが多いのです。
作文の勉強は、特に言葉の森の場合は大学入試の小論文や現代文のレベルまで続いているので、ずっと続ける値打ちのあるものです。ほかの習い事にもそれぞれの価値はありますが、小学生から高校生まで続けられて、それが大学生になっても社会人になっても役立つ実力となるというものはあまりありません。
だから、作文の勉強は、小1や小2から始めた方がいいのです。
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今、世の中は大きく転換しようとしています。「我思う。故に我有り」で始まった欧米の個人主義の文化が、経済的にも理念的にも行き詰まりを見せ、その方向に人間の明るい幸福な未来はありそうもないと多くの人が気付きはじめました。
それに取って代わるものが、今、経済的に台頭しつつある新興国だと思う人はいません。新興国の経済発展は、単なる遅れて来た欧米化であり、古い世界に生まれた新しい力に過ぎません。中国やブラジルは、ヨーロッパやアメリカや日本がたどって行き詰まった道を、まだあとから走っているに過ぎないのです。
では、欧米に代わる新しい道があるかといえば、それがまさに日本がかつて明治維新という欧米化の中で否定してきた古い日本の文化の中にあったのです。そのことがはっきりわかったのが、3.11の東日本大震災でした。この過酷な自然災害と人為的な災害の拡大の中で、日本文化が精神的にまだ強い生命力を持っていて、それは欧米の文化とは異なる文脈の中でこれまで生き続けていたことがわかったのです。その隠されていた日本文化を、欧米のもたらした科学技術の光の中で、新しい世界文化として開花させることが、これからの日本の果たすべき役割です。
欧米の文化は、主人と奴隷の文化でした。頭脳として判断し命令する役割を持つ人と、手足として命令され働くだけの役割を持つ人とがはっきりと分化され、幸福は消費生活の中にあると思いこまされてきたのが欧米の文化でした。働くことは苦役であり、働きから解放されることが人間の理想でした。この、それなりに首尾一貫した世界に、日本人もまた洗脳されてきたのです。
しかし、日本の歴史には、その欧米の価値観とは異なる文化も連綿と流れていました。それは、だれもが等しく創造する主体で、その創造と愛と調和の中で社会が成立することが可能だという確信に裏づけられた文化でした。
欧米文化は、自分以外のすべての主体を物として対象化する文化でした。だから、欧米文化の理念的な究極の理想は、自分だけが主人となり自分以外のすべての主体が奴隷となる社会を作ることでした。その理念の近似的な社会形態が、カースト制度のような、ヒエラルキーで社会の隅から隅までが組み立てられた社会でした。
日本文化は、これとは正反対の文化を持っていました。日本人にとっては、あらゆる対象は単なる物ではなくそれ自体の意志を持つ主体だという無意識の前提がありました。「鶴の恩返し」の鶴は、単に機を織るマシーンではなく、自らの意志を持つ主体者でした。雪の中で立っていた笠地蔵は、単に笠をかぶせてもらう対象としての石の像ではなく、自ら行動する意志を持った主体でした。
多くの日本人にとって、スズメやカエルやハエも、人と同じような心を持つ主体でした。(やれ打つな蠅が手をする足をする 一茶)。そして、植物でさえ、人間と共存すべき対等の意志を持つ主体だったのです。(朝顔につるべとられてもらひ水 加賀千代女)
しかし、明治以来の教育は、日本本来の文化とは異なる欧米の文化の中で育まれてきました。学校教育の中では、ハエやアサガオは、実験や観察の対象ではあっても、共存する仲間ではありませんでした。日本の文化は、学校の中ではなく家庭の中で細々と受け継がれてきたのです。
明治時代に全国に作られた学校制度は、子供たちを一挙に欧米の文化に適応させるための制度でした。それは、日本の近代化が直面していた富国強兵の国家像に合うための優れた歯車としての人間を育てる教育制度でした。そして、優れた歯車として求められる能力は、時代の変化とともに変化しながらも、歯車であるという目標だけは一貫して続いていたのです。
歯車を動かす方向としてのハンドルも、やはり欧米文化の提供したものでした。方向は決まっているから、あとはその方向に合わせて能率よく動く歯車となれ、というのが、近代の、そしてこれまで続いていた教育の本質的な価値観でした。(つづく)
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豊かになり便利になり、更により豊かになり便利になるために給与が増え消費が増える、という時代がありました。しかし、その過程で人間の生活は仕事に支配されるようになりました。仕事の生活が家庭や地域の生活よりも優先され、共働きが常態化し、他人を上回って自分が勝つことが目標になり、人間の心が次第に荒廃し自然も破壊されていきました。
そして、子供たちは、勉強を競争としてとらえ、自分の向上のためではなく他人との競争に勝つために学ぶことを強制されてきました。
その結果、子供たちの勉強の中身を親は知らず、ただ成績としてつけられる点数だけが見えるものになっていきました。
また、仕事も同様に給与として渡される金額だけが、そのほかの家族にとって見えるものになっていきました。
社会と家庭が有機的に結びついていれば、子供の勉強の中身は、そのまま親子の対話の土台となるものです。また、両親の仕事の中身も、子供にとって自分の生活の一部として関心の対象となるはずです。しかし、今はそうではありません。
子供の勉強は、小学校高学年から次第にブラックボックスのようになり、時々通知される点数だけが家庭とつながる窓になっています。両親の仕事もその本人以外にはブラックボックスで、仕事の結果渡される金額だけが、家庭とつながる窓になっています。そして、互いに共有するものの乏しくなった家族に、共有の機会を提供してくれるものが消費生活なのです。
そのような仕組みも、経済が発展し所得が年々上昇する時代にはうまく機能していました。親の所得が毎年増え、子供は親よりも豊かな生活が期待でき、子供の学歴は親よりも高くなるという時代には、勉強も仕事もブラックボックスで差し支えなかったのです。
しかし、今、その仕組みがうまく働く前提となる経済発展が止まりつつあるばかりでなく逆に後退しつつあります。これまでも一時的な景気後退は何度もありました。しかし、その景気後退でスリム化し活力をつけた経済は、不況のあとにはより力強い成長をしてきました。
ところが、今日の後退は、これまでの後退とは違い構造的なものです。いちばんの問題は、豊かな先進国でこれから目指すべき真の需要がなくなっていることです。そして、従来からある需要は、新興国の供給に支えられるようになっています。つまり、先進国から新興国へ不断の所得移転が行われる中で先進国での新しい需要と新しい供給が生み出されるという形になっていないのです。
この行き詰まりを打開する道は、需要と供給を同時に創造することです。それがまず大人の社会で起きつつあります。それは、他人から与えられた仕事ではなく、自分の好きなことを仕事として社会に貢献し、その貢献の見返りとして収入を得たいという創造的な仕事への欲求です。
会社の歯車として働くことによって得られる所得だけでなく、自分の好きなことや得意なことを仕事として、他人から喜ばれる結果として所得を得たいという動機が広がりつつあるのです。
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今の大人の世代は、これまで歯車としての教育を主に受けてきたために、創造的に提供できるものをあまり持っていません。しかし、互いにほどほどに創造的である者どうしが、自分の作ったものを与え合い、自分の学んだことを教え合い、少しずつ働く中身に喜びを感じ、その中身が家族にとってブラックボックスでないような生活を目指していく動きが生まれています。
ここに、日本の社会が未来に向けて切り開く新しい経済の芽があります。つまり、先進国で生まれる新しい需要と新しい供給は、創造的な文化産業という形で全国各地でこれから生まれていくのです。
このような社会の底流の変化の中で、子供たちの教育も、大きな変化を求められています。それは、ひとことで言えば、これからの教育の中心は、創造の教育になるということです。しかし、もちろん創造の教育は、知識の教育や理解の教育と対立するものではありません。知識や理解の土台の上でなければ、価値ある創造は生まれないからです。
創造の元になるものは個人の個性です。しかし、個性はもともとだれにでも生まれつきあるものです。その個性が社会にとって普遍的に認められる創造性となるためには、知識や理解の土台とともに、個性を磨き上げる時間が必要です。ところが、今の教育は、知識や理解そのものが目的となり、それが点数化されることによって受験の選抜基準に使われるようになっています。その結果、知識や理解が「重箱の隅」化し、受験の科挙化が進む中で、知識や理解の過剰なノルマが、個性を創造にまで高める余裕を奪っているのです。
だから、これからの教育が目指す方向は二つあります。一つは、知識や理解の効率のよい習得で、それが古来から読み書きそろばんと言われてきた、初等教育の単純で幹の太い学習法です。
義務教育である小中学校の教育は、受験の科挙化に合わせた複雑な枝葉ばかりの教育で子供たちの時間を勉強で埋め尽くすべきではありません。枝葉は大学の専門教育に入ってから自分の興味に合わせて思う存分茂らせていけばいいのです。幹の太い単純な基礎教育を行うためのこれもまた単純で強力な教育の方法が、音読の反復による暗唱です。
江戸時代の寺子屋教育の方法は、素読となぞり書きでした。それは、今の学校の宿題で行われている音読のような回数の少ないものではなく、素読は百回繰り返して暗唱できるぐらい行うものであり、なぞり書きは、筆で半紙が隅から隅まで真っ黒になるまで続けるものでした。この単純な方法の復活が今の教育に求められていることの一つです。
これに対して、現在学校や塾で行われている教育は、カラフルで複雑な教材によって子供たちに知識と理解の教育を枝葉まで徹底させることを目指したものです。だから、コストのかかる教材や教室や先生が必要になっているのです。
従来の知識と理解を最終目的とした教育が、音読や暗唱を教育の方法として導入する場合、暗唱の対象となる知識それ自体を目的化する傾向が出てきます。つまり、「枕草子」の暗唱ができたら、次は「平家物語」だというような暗唱の自己目的化です。
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暗唱の目標を決めることは大事です。しかし、それは暗唱の目的ではありません。暗唱の目的は、知識と理解の土台を単純に大きく育てていくことです。だから、暗唱の素材は必ずしもだれもが知っているものである必要はありません。「枕草子」の次が「平家物語」である必要もないし、「百人一首」の百枚が順番である必要もないのです。もちろん、そうでない必要もまたないので、わかりやすくだれもが知っている古典を暗唱の素材とする方が一般的な方法になるでしょう。しかし、それは暗唱の目標であって目的ではなく、暗唱の目的は、知識と理解の土台を作ることなのです。
暗唱によって作られる知識と理解の土台は、また知識力と理解力の土台でもあります。暗唱によって身につくものは、暗唱の対象となる知識だけではなく、暗唱の方法となっている知識を習得する力です。つまり、寺子屋で行われていた素読・なぞり書きなどの教育は、江戸時代の子供たちに論語や孟子の文章を知識として定着させただけではなく、欧米から急激に押し寄せてきた科学技術の知識を習得し理解する力も育てていたのです。
暗唱が知識や理解だけではなく、知識力や理解力も育てているという例を、私たちは、本多静六のエピソードに見ることができます。静六は、家が貧しかったために勉強する時間や場所がありませんでした。そこで、皆が嫌がる退屈な米搗き(こめつき。玄米をついて白米にする作業)の仕事を選び、米をつきながら自分の覚えた文章を暗唱する練習を続けました。上の学校(今の高校と大学の中間のようなところ)を受験する機会を得た静六は、暗唱の成果によって作文の試験で高得点を取り合格することができました。しかし、他の教科はそれまでの勉強の蓄積がなかったため、最初の年に数学で赤点を取り落第します。
一時は井戸に身を投げて死のうとした静六は、その後一念発起し、数学の問題を片端から暗唱することに決めたのです。すると、見る見る成績が上がり、やがて数学は学年のトップになり、数学の先生から、「おまえは数学の天才だから、もう勉強はしなくてよい」と言われるほどになりました。
数学というと、理解だけで成り立つ勉強のように思われていますが、大学入試までの数学は、理解の方法を知識として習得することができるのです。
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今西錦司は、同じ文系の仲間である友人たちから、文系なのに数学ができるということで一目置かれていました。あるとき仲間の一人が、今西に、なぜ数学ができるのかと聞くと、今西は、「数学は暗記すればいいんだ」と答えたそうです。
暗唱によって得られる知識と理解は、知識と理解の習得にとどまらず、知識力、理解力という学力も形成しているのです。
しかし、そこで得られる知識力、理解力は、勉強の両輪の一つの輪でしかありません。
これからの教育に求められているものは、寺子屋式の単純な教育で幹の太い学力をつける一方、その能率的な低コストの勉強法によってできた余裕の時間を創造の勉強に向けることです。
子供たちが教育の中で創造性を育てることができることによって、未来の創造文化産業に基づく経済は、本格的に稼働を始めるのです。
では、その創造の教育とは何かを言えば、それは何よりも言語における創造性の教育です。音楽にせよ、スポーツにせよ、絵画にせよ、その創造の根幹には必ず言語的な思考が働いています。科学技術や学問の世界においては、更にその言語的な思考が創造性の土台となっています。
だから、まず言語において創造性を発揮する教育が子供たちの創造性の教育の中心となるのです。豊富な知識と理解の上に、あるテーマについて創造的に思考を組み立てる勉強が作文小論文の勉強です。
これからの社会に求められ人材は、クイズ番組のような知識が豊富で、「ああ言えばこう言う」式のディベートの話法だけが得意な人間ではありません。自分の持ち場である仕事や学問の世界において、独自の創造的な思索と提案のできる人が求められているのです。
そして、そういう人材が単に一部のエリートだけに限られるのではなく、大衆的に生まれるような社会がこれからの日本が目指す社会です。
これまでの欧米流消費文化は一部の人だけが主人公で、大多数の大衆は、雇用されるだけの受け身の労働者であり、与えられたものを選択し購入するだけの受け身の消費者でした。
これから生まれる創造文化の社会は、すべての人が主人公であり、創造者であり、また、その創造の発展に向けて向上を図る学習者であるような社会です。そこで初めて人間の生活は、幸福と向上と創造と貢献が結びついた本来の姿を回復するのです。
(写真は、えさをねだる子スズメ(左)、親スズメ(右)。教室の近くで)
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言葉の森の毎月第4週の読解問題は、選択式問題の解き方のコツを身につけるために行っています。
なぜこのコツを身につける必要があるかというと、読解力があるのに国語の点数が悪い子のいちばん大きな原因は、この解き方のコツを知らないことにあるからです。
これは、小中学生ばかりでなく、高校生でもあてはまります。以前、たまたま高校3年生が多かったときに、みんなに同じようにセンター試験の国語の問題をやってもらいました。すると、読む力のあるはずの生徒でも60点ぐらいの平均点しか取れない子が結構いました(高校3年生の夏ごろの話です)。
それで、その子たちに1人1、2時間かけて、実際の答えを照らし合わせながら解き方のコツを説明しました。すると、驚くことに次の週から100点近い点数を取ることができるようになったのです。これは不思議でも何でもありません。選択式の問題は、厳密に解けばだれでも満点に近い点数を取れるのです。(だから、問題作成をする人は大変なのです)
こういう解き方のコツを理解することが必要になるのは、小学校5年生ぐらいからです。小学校4年生までは、そこまで考える必要はありません。ですから、小学校低中学年で、清書に時間がかかる場合は読解問題まではやらなくてもいいのです。また、小学校高学年や中高生でも、清書に時間がかかり、読解問題に取り組む時間が十分に取れないときがあります。そういうときは、8問全部を解くのではなく、問1と問2の2問だけは確実に解き、それ以外の問題はやらない(又は手を抜く)というふうにやっていくといいのです。
この読解問題は、解き方のコツを身につけるためのものですから、点数がいいとか悪いとかということは全く重要ではありません。むしろ、自分が確実にできたと思った問題が×になったときが、最もいい勉強の機会になるのです。
読解問題の時間が取れない人は、問1と問2だけに絞って取り組むようにしていってください。
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