自然が毎日繰り返す、朝焼けのドラマ。
青い空とオレンジ色の雲を背景に、無数の鳥たちが、あるいは群れて、あるいは一羽で、南へ、東へ、西へ、思い思いに飛んでいく。
見る見る明るくなる空を見ていると、大きなところですべてがうまく行っている気がする。
ゆっくり動く雲、新しいシナリオで次々と塗り替えられる空。
地上のシナリオも、静かに変わっているのだろう。
(写真は「写真集」からのものですが、今朝の空はちょうどこんな感じでした。)
現代は、シナリオが人間の意志で次々と変わっていく時代です。
大事なことは、どんな状況になっても、そこを出発点として新しい対応を考え出していくことです。
それが、自分でシナリオを作ることです。
それでは、今週もいい1週間をお過ごしください。
(中根)
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自分の足で歩く。
自分の手で作る。
自分の頭で考える。
それが、今の日本に求められていることだ。
戦後は米ソの狭間で、今は米中の狭間で、大国にはさまれて生きる国、日本。
どちらの側につくのかではなく、自分がどういうビジョンを持っているかを示すことが第一だ。
子供たちの自立は、大人の自立に支えられている。
日本が独立することが、子供たちの教育の最初の出発点だ。
普通の国民は、年中政治や経済のことを考えているわけにはいきません。
日々の仕事があるからです。
特に、マスメディアが歪んだ報道を続ける現代では、判断のための正しい材料を集めるだけでも一苦労です。
しかし、政治の動きは、必ず日々の生活に影響を与えます。
だから、政治を判断する大きな基準として考えるのは、それが自分の足で歩くことにつながるのかどうかということです。
自分の足で歩いてさえいれば、うっかり間違った方向に行ったとしても、すぐ引き返せばいいだけだからです。
そして、間違ったことさえも、いい経験になるのです。
教育も、政治も、生活も、本質はみんな似ています。
今日は秋晴れの日曜日。
自分の足で納山を歩いてみたいい気のする日です。
豊かな日本の自然に感謝。
今日もいい一日をお過ごしください。
(中根)
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最近、小学3年生ぐらいの子のお母さんやお父さんから、「塾の宿題が多すぎて……」という声をよく聞きます。
小学校の3、4年生からそんなに勉強させていては、将来必ず頭が悪くなります(笑)。
親は、よその子がやっているので不安。
塾は、よその塾がやっているので不安。
互いに不安の中で子育てをしているのです。
多すぎる宿題がなぜよくないかというと、できる問題もできない問題も同じように解くので、できる問題を解く回数が多すぎる一方、できない問題を解く回数が少なすぎることになるからです。
そして、もっと大きな問題は、勉強しているというポーズが優先されがちなので、立ち止まって自分が納得するまで考えるという肝心の中身がなくなってしまうことです。
では、どういう勉強がいいかというと、小学生はまず勉強よりも読書を優先することです。
そして、親子の対話のある楽しい家庭にすることです。
そして、算数は教科書準拠の問題集を1冊用意して、できない問題が1問もなくなるまで、何度も繰り返し解くことです。
この「できない問題を繰り返し」ということが、塾や通信講座の勉強では対応できません。
だから、無駄とわかっていても、大量の宿題を出す仕組みになっているのです。
最も賢い勉強法は、同じものを繰り返す家庭学習です。
これは、教科書準拠の基礎の問題を解くときも同じ、受験用の高度な問題を解くときも同じです。
塾や予備校は、受験前の1年間、模試で自分の位置と弱点を知り、志望校の受験情報を知るために行くところです。
勉強は、最初から最後まで教えてもらうのではなく、わからないところだけ教えてもらうという形でやるとき、最も能率のいいものになるのです。
(中根)
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体験学習をしている子供のお母さんの中には、子供につきっきりでアドバイスをして、長時間熱心に教えてしまう人も多いと思います。
作文というものは、特に低学年の作文の場合は、大人が見れば不十分なところだらけです。小学校1年生の生徒では、会話の改行など何度教えてもわからないのが普通です。それは、普段の会話で話し言葉にカギカッコがついていたり、改行されていたりするようなものを見ていないからです。会話がカギカッコで改行だとわかるのは、そう書いてある本を何度も読んで自然にそのルールを覚えるからです。
ところが、大人は、自分にわかっていて子供にわからないことを、つい理屈で教えてしまおうとするのです。理屈で教えたことは、一度ではなかなか身につきません。すると、熱心に教えれば教えるほど、大人は叱ることが多くなり、子供は勉強が苦手だと思うようになるのです。
熱心に教えれば確かに少しずつではあっても効果は上がりますが、それよりも大きいマイナスは、そういう勉強の仕方は長続きしないということです。それは、勉強をすることによって、親も子もくたびれてしまうからです。
力のつく勉強は、長続きする勉強です。長続きさせるためには、教える方も教わる方もくたびれずに行うということが大事です。そして、その中でも特に、教える側がくたびれないということが大事なのです。もし、お母さんが子供に教えていて負担に感じることがあったら、次の点をまず改善するようにしてください。
・作文の授業でない日に、毎日長文の音読や暗唱を行い実力をつけておく
・毎日読書をして、文章を読むことに慣れておく
・作文の課題を事前に見て、その課題に合ったお父さんやお母さんの似た話をしておく
以上の、作文の授業のない日にやっておく準備ができていれば、もし当日、作文が書けなくなっても対処の仕方は簡単です。それは、親子で一緒に構成図を書くことです。その場合、親が子供と話をしながら親のペースで構成図を書いていきます。これでは、親の書いた作文のようになりますがそれでもいいのです。
何度かこういうやり方で構成図を書き、それをもとに作文を書かせていると、子供はすぐに自分で書く要領を身につけます。
このあたりの方法でわかりにくいところがありましたら、いつでも言葉の森事務局にお電話でご相談ください。
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「何でも自由に書いていいよ。」
作文が苦手な子供に作文を書かせるときについ言ってしまう言葉ですが、自由ほどむずかしいものはありません(笑)。子供は、何をどう書いていけばよいのか途方に暮れてしまいます。でも、最初に、全体の構成を示し、それぞれの部分にどんなことを書いて、どんな表現を入れればよいかを説明すると、見よう見まねで書けるようになるものです。作文の世界も「初めに型ありき」なのです。骨組みのしっかりした作文を書けるようになれば、最初の大きな山は越えたと言えるでしょう。
最初に型を示すことの利点は、もう一つあります。それは、できあがった作文について、プラスの評価がしやすいということです。説明したとおりに書けているところをほめてあげればよいからです。特に、作文に苦手意識がある子供は、ほめてもらえると安心して、作文を書くことに対する抵抗がぐっと小さくなります。
以下、2007年の言葉の森のホームページの記事からの引用です。
==========
子供の作文が型にはまっていると注意を受けた人は多いと思います。
言葉の森の作文指導は、型を重視したものだからです。しかし、この型を決める指導によって、どの子も、楽に自由に書けるようになっていったのです。
人間は、もともと与えられた型で満足する存在ではありません。型が決まってくれば、自然にその型から離れて自由に書きます。しかし、逆に、型がないところでは、自由に書くということ自体ができなくなります。
言葉の森に来る高校生の中で、成績が優秀なのに作文だけは苦手という人がときどきいます。共通しているのは、どう書いたらいいのかわからないということです。そこで、次のように指導します。「字数は短くていいから、最初の段落でこういう意見を書いて、次の段落でこういう実例を書いて、その次の段落でこういう実例に広げて、最後の段落でこういう形にまとめるといいよ。字数は全体で100字ぐらい書ければ十分だからね。」
どうして「字数は短くていいから」ということを何度も言うかというと、大事なのは型であって、内容や分量ではないことをはっきりさせるためです。
それで、実際に100字しか書けない生徒でも、書き終えたあとは、文章を完成させたという満足感が残ります。すると、次の週からは、もうどんどん書けるようになるのです。これまで、いかに型を教えられていなかったかということです。
これに関連して、もっと自由な題名で自由に書かせたいというご意見をときどき受けます。
自由に書かせるというのは、一見子供にとっても先生にとってもやりやすい勉強のように見えます。しかし、それが続くのはせいぜい数ヶ月です。
自由に書かせていると、先生のアドバイスは自然に注意することに向けられます。最初のうちは、意味のある注意ができても、次第に注意することがなくなってきます。すると、「もっと心をこめて書きなさい」とか、「もっと子供らしく書きなさい」とか、「もっと気合いを入れて書きなさい」などという、子供にとって何をどう努力したらいいのかわからないアドバイスをするようになるのです。そのようにして、多くの子供が、作文は難しいものだと思うようになっていったのです。
では、自由に書かせて褒める指導をすればいいのかというと、これもすぐに限界が来ます。いつも「よく書けたねえ」と褒めているだけでは、子供は次第に書くことに飽きてきます。
課題があり、項目があり、目標があるからこそ、意欲的に勉強を続けていくことができるのです。
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(山田)
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私事ながら、先月ようやくスマートフォンを入手致しました。
自称情報通の友人に勧められるまま、最新・高性能(らしい)機種を購入したのですが、食い入るように画面を見つめる日々が続いています。
楽しいからではなく、難しいからです。(笑)
新時代の利器とはいえ、使いこなすためには人間側にも並々ならぬ努力が必要なようです。
ところで、ガラリと話題は変わって、今週の月曜日、2012年9月3日。
ある国民的スターが「生誕100年“前”」を迎えました。
なんのこっちゃとお思いでしょうが、そのスターというのは誰あろう、あの「ドラえもん」なのです。
ドラえもんは22世紀の未来からやってきたネコ(タヌキではありません)型ロボット。
彼が誕生したのが2112年9月3日、すなわち本年2012年は、「生誕100年“前”」となるわけです。
生誕“何周年”の歴史を持つ名作は数多いですが、過去を顧みるのではなく「未来に向かって」お祝いされる作品、キャラクターというのは他にはないと思われます。
夢と可能性に満ちた作風そのままの、『ドラえもん』ならではのニュースだと言えましょう。
「言葉の森」の教室にもドラえもんの学習漫画シリーズが多くあり、子供たちの人気を集めています。
また、川崎にある『藤子・F・不二雄ミュージアム』を訪れられたこともある方もいらっしゃるのではないでしょうか?
私も、藤子ミュージアムの開館前、別の場所で催された特別展を見に行ったことがあります。
そしてそこで思わず、「ドラえもんのひみつ道具図鑑」のような本を買ってしまいました。(笑)
その場のノリと懐かしさでなんとなく手にとったその本でしたが、パラパラと拾い読みした限りでも、これがビックリ。
面白おかしく、奇想天外で、しかも理にかなっており、かつどこか親しみを感じさせる……まさしく「こんなこといいな、できたらいいな」を考えに考え抜いて形にしたであろう、夢の道具のオンパレードでした。
藤子・F・不二雄先生が自らの作品(作風)を、SF=「Science Fiction(サイエンス・フィクション)」ではなく、「すこし・ふしぎ」と評していらしたのは有名な話。
しかし、少しどころか「すばらしく・ファンタスティック」と言うべき“発明品”の数々、そのアイデアの豊かさには、もはや圧倒されるばかりです。
子供の頃はただ無邪気に楽しんでいたものでしたが、大人になり、科学的理屈やお話の作り方が多少分かった今となっては、藤子・F先生の頭の中は一体どうなっているのかと畏敬の念を新たにするしかありません。
いかにもマンガ的、荒唐無稽でありながら、ドラえもん本人(?)同様「いつかこの世に生まれ落ちるかもしれない」という説得力と期待感を持ってあらゆる道具が描かれているのは、本当にすごいことだと思います。
そんな『ドラえもん』をモチーフに、2012年現在の「ひみつ道具」、最先端にして未来へと繋がる技術を紹介している企画が、こちら。
「みらいサーチ」
http://www.yomiuri.co.jp/net/newproducts/mobile/20120903-OYT8T00779.htm
ここでスマートフォンが登場します。(笑)
私が試した時に表示された道具は「おすそわけガム」、それに対応する実在の技術は「タグキャンディー」という代物でした。
市販のキャンディー(棒に刺さったアレです)をてのひら大の機械にセットすることで、振動や音響の効果により様々な食感を味わえるようになる、という発明。
たとえば、コーラ味のキャンディーを振動させ、口の中で炭酸の弾ける感じを再現。いちご味のキャンディーに果肉や種の“つぶつぶ感”をプラス……など、誰もが空想するけれど誰も実現したことはなく、極めて無駄なようでいてできたらちょっぴり素敵な、“リアルひみつ道具”です。
他にもこのような技術が何点も取り上げられており、音声検索するたびに違う結果に出会える模様。
皆様もぜひ、のび太くんになったつもりで、お持ちのスマートフォンに「ドラえも~ん」と呼びかけてみてはいかがでしょうか。
もっとも、「携帯端末に音声入力して検索をかけ、動画を見る」という行為自体が、すでに驚くべき“未来的(SF的)光景”であるとも言えます。
“デジタルネイティブ”などと呼ばれもしますが、今も昔も変わらず、無邪気な好奇心を持つ子供たちにとっても、それは新鮮な驚きになるはず。
お父さん、お母さん自身がさながら「ひみつ道具を取り出すドラえもん」となって、お子様たちの興味を惹くニュースを教えてあげるといいかもしれません。
そんな些細なきっかけから、100年後、ドラえもんを生み出す未来の科学者が育ってゆくかもしれないのですから。
(いとう)
↓この記事のために購入した本。以前のものは友人に譲ってしまったので……。↓
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英会話教室は、日本ではかなり前から大きな広がりを見せていました。現在の大きな変化は、小学校から英語教育が始まることによって、民間の英会話教室が幼児や低学年に広がっていることです。
しかし、私はこのブームはしばらくの間だけのことではないかと思います。それは、社会人の英会話教室が、次のような経過をたどっているからです。
日本で民間の英会話教室が広がったのは、日本人が中学高校の6年間の英語教育を受けていながら満足に英語が使えないという状態があったからです。
しかし、その民間の英会話教室でも、満足に英語を使えるようになる教育はできませんでした。そのあとに来たのが、これまでの英会話教室で何年やっても英語が身につかなかった人たちを対象にした英会話教室でしたが、その教室でも結果は同じでした。
同じようなことが、幼児や低学年の英会話教室についても言えるのではないかと思います。もちろん、これまでとは違う新しい方法で、英語教育を実践しているところもあるので、将来英語教育が飛躍的に進歩する可能性もあります。
しかし、今後しばらく間起こりそうなことは、幼児期からの英会話教育があまり効果がないとわかってくることです。
海外に赴任した人たちの間でよく聞く話は、年の違う兄弟が海外に行った場合、日本語力の備わった上の子は英語の習得が早かったが、日本語力のまだおぼつかない下の子は習得が遅かったというケースが多いということです。
言葉は、単なるコミュニケーションのツールではなく、物事の理解の仕方や認識の仕方のツールです。それは、ツールというよりも手足の一部のようなものです。
手足は日本語という母語で確実に使えるようにしておき、その上で英語というツールを使えるようにするのはいいのですが、手足も英語化しようとなると、必ずどこかで無理が出てきます。
今、多くの人が幼児期からの英語教育に関心を持っていますが、本当はもっと先のことを考える必要があります。それは、英語教育を否定することではなく、日本語力の確実な土台の上に、英語教育を打ち建てることなのです。
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その通りだと思います。 英語を話すにも 日本語の土台がないと 意志の疎通もままならないです。 すぐれた翻訳をする人は 外国の言葉はもちろんですが 日本語にも 精通しています。
今心配しているのは、幼児期からの英語教育のやりすぎです。遊びでやっているぐらいならいいのですが、本格的にCDなどを長時間聞かせると、日本語の方があやしくなってきます。最近、そういう子が増えているようです。
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言葉の森のページに、「ダジャレの木」があります。
そこによくまあ、みんな、考えつくなあと思うものが多数。
https://www.mori7.net/ki/dajare/
その一部を紹介します。
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野口英世の愚痴ひでーよ
モンブランに 変なもん ぶらーん
ねこがおどろいたキャット
りんごがおぼれてあっぷあっぷ
ひなまつりにひまなつり
演歌でええんか?
ぶたをぶった
ひめがひめーをあげた
いくら、いくらですか?
レバー食べればー?
モーターにコショウかけたら故障してモーター
この小学生しょうが臭い
鴨よカモーン
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これを実際の場面、たとえばカモが泳いでいるところで、「カモーン」などと言うと面白い。というか、みんなに笑われます。
もうひとつ。ホームページの記事から。
https://www.mori7.com/index.php?e=1210
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人間の言語のこの不完全性こそが、創造の土台となっています。
簡単な例を挙げると、人間が、トウモロコシを間違えてトウモコロシと読んだとき、機械はそれをエラーと見なすでしょう。動物は(人間の言うことが通じる犬のような場合)それを正しいトウモロコシに還元して理解するでしょう。しかし、人間だけは、この間違いを笑いとして受け止めることができます。ダジャレの本質は、言語の不完全性が、人間の受け取り方によって笑いに転化することにあります。
正しいもの、完全なものは原則としてひとつしかありません。しかし、間違ったもの、不完全なものは原則として多数存在します。この不完全性の多様さこそが、創造の多様性の土台となっています。
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なーるほど。
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