文章を読む力として大事なのは、難しい文章を速く的確に読み取ることです。
では、難しい文章とはどういうものを指しているのでしょうか。その基準のひとつが、教科書に使われているような文章です。単純に言えば、小学生なら中学の教科書に載っているような文章が難しい文章で、中学生なら高校の教科書に載っているような文章が難しい文章です。
その考えを更に単純化して考えると、小学生の場合は中学入試の問題に出てくるような文章が難しい文章で、中学生の場合は高校入試の問題に出てくるような文章が難しい文章だと言うことができます。
読書の本来の目的は、内容を味わうことですから、自分の好きな読書はそれが易しいものであっても難しいものであっても、本人の興味のままに進めていく必要があります。しかし、今日の社会では、そのままでは質の低い読書からなかなか抜け出せません。
そこで、教育としての読書ということを考えた場合、問題集読書という方法が出てきます。文章を読む力のある生徒は、国語の問題集に載っているような文章を楽しく読むことができます。小学生のころ、学校から教科書が配られると、国語の教科書を読書がわりに全部読んだ人も多いと思います。同じように、国語の問題集に載っている文章も、読む力のある生徒は読書として読むことができるのです。だから、問題集読書には読書の楽しみという要素もありますが、更に重要なのは言葉の教育としての読書の役割があるということです。
この問題集読書にスムーズに取り組むための準備として、漢字集の暗唱による漢字のイメージ化があります。
小学6年生で習う漢字の中に、「朗報 貴族 神聖 奮起」という言葉があった場合、普通は、これらの漢字をひとつひとつを読みと意味と書きの知識として理解するのが漢字の学習です。しかし、読める、書ける、意味がわかるということが、そのまま自由に使えることになるのではありません。
自由に使えるためには、それらの漢字が漢字という意識のないままイメージとして把握されるようになっている必要があります。通常は、読書や対話の中で何度もその漢字に接っし、文脈の中でその漢字を読むことによって、漢字とイメージが結びつくようになります。だから、読書量の多い子や家族の対話が豊かな子は、漢字の勉強を特に何もしていなくても、難しい本を読むことができ作文や会話の中で使える漢字が多くなるのです。
漢字集では、これらの4つの漢字をひとまりのつながりのまま暗唱します。4つの言葉を続けて暗唱していると、この言葉のつながりを自然に自分らしくイメージ化するようになります。例えば、「朗報が、貴族に届いたので、神聖な気持ちで、奮起した」というようなイメージです。
しかし、これが、この4つの言葉のつながりだけを覚えるのであれば、言葉のイメージ化はそれほど必要ではありません。短期記憶の範囲で処理できることは、わざわざイメージ化する必要がないからです。
だから、漢字集は、24語(48文字)のつながりをひとつのセットとしています。それは、漢字2文字でできる4つの熟語が6回並ぶぐらいがちょうど語呂がいいということと、その長さが短期記憶で処理できる範囲を超えているので、必然的に暗唱することでしか覚えられないからです。
例としては、次のような言葉の配列になります。(小6の漢字集の一部)
宣言 盟主 仁義 優美 官庁 吸収 諸国 城門 朗報 貴族 神聖 奮起
著名 磁石 密接 否定 異色 討論 容認 名詞 通訳 訪問 誤解 誕生
この48文字を続けて30回ぐらい声を出して読むと、ひとまとまりの音のつながりとしてほぼ暗唱できるようになります。時間は5分程度です。
常用漢字が無駄なく使われていることと(この場合は小6の配当漢字)、それなりに意味のつながりが感じられることと、読んでいて語呂がいいという意味で、現代流の素読と言うこともできます。(つづく)
漢字は個々に覚えるのではなく、他の漢字や言葉とのつながりにおいて覚えたときに、生きて使える漢字になります。ある文章を暗唱するとき、人間はその文章の言葉をイメージ化することによって記憶します。つまり、暗唱は言葉に対応しています。これに対して、ある文章を理解するとき、人間はその文章の意味をイメージ化することによって理解します。つまり、理解は意味に対応しているのです。
文章を理解するためには、その内容つまり意味がわかればいいので、内容を運ぶ手段となる言葉そのもののイメージを定着させる必要はありません。言葉は、文章の意味を理解するために使われたつど忘れられいくような使われ方をします。
暗唱はそうではありません。百字の文章を暗唱することと、百字の文章を理解することとの間には、言葉の処理の仕方で大きな違いがあります。暗唱の場合は、言葉そのもののイメージ化が必要になります。これが、言葉の教育の重要な方法になるのです。
音読や暗唱の素材というと、江戸時代の寺子屋教育での素読の連想から、論語や漢詩や枕草子や平家物語を考える人が多いと思います。しかし、なぜ暗唱の教育を現代に復活させるかというと、それは現代の文章を読む力をつけるためです。現代の文章のほとんどは、戦後の歴史の中で、常用漢字約二千字の範囲で表される文章になっています。言葉の教育ということで考えると、論語や枕草子には、現代の社会での重要な用語である「経済」「電気」「国際」「量子」などは出てきません。古典の暗唱は、文化としての暗唱であって教育としての暗唱にはならないのです。
では、現代の教育としての暗唱の素材にはどういうものが必要なのでしょうか。それは、まず常用漢字が網羅されているものでなければなりません。次に、その常用漢字の集合が意味を持つつながりで並べられているものでなければなりません。そして第三に、暗唱をするからには語呂のいいものでなければなりません。そのようにして開発したものが、言葉の森の漢字集です。これまでの漢字学習の教材には、これらの三つの条件がそろっているものはありませんでした。
言葉の森の漢字集は、教育漢字については学年別配当の順序で作られています。それは学校教育の中で活用できるようにするためです。だから、漢字集は漢字の書き取りの練習としても使えます。しかし本来の目的は、その学年で習う漢字を、生きたイメージを持って読めるようにするためのものです。
漢字集は、小学校低中学年のころは、まだそれほど重要ではありません。使われている漢字が日常的に使われている語彙と同じ水準なので、わざわざ暗唱してイメージ化するほどのものでないものが多いからです。
しかし、学年が上がるにつれて漢字集の暗唱による漢字のイメージ化が重要になってきます。
例えば、小学6年生の漢字集にある「朗報 貴族 神聖 奮起」などの語彙は、子供が、たとえその漢字の読み方と書き方を知識として習っていたとしても、日常的な会話や読書の中で頻繁に出てくる言葉ではありません。だから、こういう言葉が出てくるような文章を読むと、子供は、その文章を難しいと感じるのです。
そして、難しい文章を読むよりも、自分のよくなじんでいる言葉で書かれている易しい文章の方が、読書の楽しみという中身に没頭できるので、現代の豊かな読書環境の中ではかえって、易しい本の読書から、難しい本の読書へ移行することができなくなるのです。(つづく)