日本では、江戸時代のころ、「老」という言葉は尊称として使われていました。例えば、幕府の役職でも、「大老」「老中」「若年寄」などという言葉がありました。一方、今でも、自分を謙遜する場合、「若輩」などという言葉を使います。水戸黄門が、ご老公として諸国を旅したのも、こういう文化の背景があったからでしょう。
江戸時代の武士の勤務には定年制がなく、何歳でも本人が希望するまで勤めることができました。もちろん、家督を子供に譲り早々と引退することもできました。
長寿の人には、「老衰」と称して褒美が与えられました。当時は、「老」も「衰」も褒め言葉でした。姥捨て山(うばすてやま)のような話とは正反対の文化があったのです。
江戸時代の日本人の子育ての基礎となった「和俗童子訓」は、貝原益軒の晩年81歳のころに書かれたものです。
また、日本文化のもうひとつの基礎となっている武士道の源流とも言える「葉隠」は、山本常朝が主君の死のあと隠棲した地で聞き書きとして書かれたものです。
これに対してヨーロッパの思想や文化のひとつの背景となっているデカルトの「方法序説」は、デカルトが20代の初めに考えた思想がもとになっています。
デカルト自身は、物質と精神のそれぞれについてバランスのとれた考えを持っていましたが、デカルトの思想は、主にその物理的世界観だけが一人歩きする形でその後の科学技術文明の基礎となりました。
「葉隠」の中に、こういう話があります。
……世の中にはわかるものとわからないものとがある。
わからないものの中には、よく考えてわかるものと、時間がたてばわかるものとがある。
また、いくら考えても、時間がたってもわからないものもある。……
これに対して若いデカルトの考えはこうでしょう。
……世の中にあるものは、すべてわかるようにできている。
わかるためには、それをできるだけ小さく分けて、わからないものがなくなるまで細分化していくことだ。……
こういう考え方の差異が、勉強の仕方の違いにも結びつきます。
日本的な「老」の勉強法の典型的なものは、「読書百遍意自ずから通ず」でしょう。欧米的な「若」の勉強法は、「わからないところがなくなるまで分けるスモールステップ」です。
この二つの異なる方法論をうまく組み合わせることがこれから必要になってきます。
老の文化と若の文化の差は、教育の分野だけでなく、政治の世界にも経済の世界にもあてはめることができます。
今、政治の世界で常識のように思われている三権分立や多数決による民主主義などは、もともと人間が個々ばらばらの存在で、個人のエゴイズムによって行動するという人間観をもとに成立しています。その前提自体を見直すこともこれから必要になってきます。
近代の資本主義と科学技術の文明は、欧米の若い文化を基盤にして成立しました。
しかし、その文化が今行き詰まっています。環境の破壊、科学技術の暴走、戦争の危機、金権の政治と文化などがその端的な例です。
この行き詰まりを切り開くことができるのは、日本で育まれていた老の文化です。なぜなら日本の社会は、外見上欧米化は進みましたが、その精神の中ではまだ日本古来の文化が息づいているからです。
欧米の若い文化と日本の老の文化を融合する際に大事なことは、外見上の欧米と外見上の日本にとらわれるのではなく、その背後にある文化としての欧米と文化としての日本を見ることです。
教育の方法論についても、この文化的な見方がこれから必要になってくるのです。
公立中高一貫校を受験する場合、数年前までは自宅で対策を立てて勉強する人がかなりいました。基礎的な知識があれば解けるような思考力を問う問題が中心なので、自宅での勉強で充分に間に合ったのです。
しかし、その後、学習塾でも公立中高一貫校受験コースが設置されるようになり、公立中高一貫校に対応した全国規模の模試も行われるようになりました。
ところが、公立中高一貫校の適性検査の問題は、知識を問う問題ではなく発想力や思考力を問う問題なので、受験対策の勉強をしてもあまり効果が上がりません。合格する力のある子と、合格する力のない子の差は、受験対策ではほとんど埋められません。そのため、どの塾でも、合格率は低くなっています。
公立中高一貫校の模擬試験も同じです。特に、作文の試験は、誤差が大きいのであまりあてになりません。これは、公立中高一貫校だけでなく、高校入試でも大学入試でも作文小論文試験の模試というのは、もともとそういう性質を持っています。
作文の模試で誤差の大きい理由は、第一に、本人にとって書きやすいテーマのときと書きにくいテーマのときとでは、文章の出来に大きな差があるからです。
これは、作文試験の本番のときも同じです。では、どうしたらいいかというと、試験の本番のときにどんなテーマが出ても普段の実力と同じものが出せる工夫をしておくことです。(そのコツは、また別に説明します。)
作文の模試で誤差の大きい理由の第二は、採点する人が文章の評価の仕方をよくわかっていないことが多いからです。客観的な試験で○×をつけるのであれば、誰が採点しても同じですが、作文の評価はそういうわけにいきません。また、ひとりの人が採点できる量には限りがあります。そのため、模試などで大量に採点する必要がある場合は、文章を評価する力のない人も採点に加わるようになるからです。
公立中高一貫校の合格可能性を見る際に最も参考になるのは、親の感覚です。親子で話をしていて、子供なりによく考えていると思わせるような子、親子で対等に話のできるような子は、合格する力を持っています。
公立中高一貫校は倍率が高いので、合格するかどうかは確率的な面がありますが、考える力のある子は、合格してもしなくてもどこの学校に行っても心配ありません。合格した子と不合格になった子が、結局は同じ大学に行くというような結果になることも多いのです。
したがって、公立中高一貫校の受験対策を考える際に大事なことは、合格することを目的にして受験勉強に力を入れることではなく、合格を目指すことをきっかけにして考える力をつける勉強をすることです。
そして、考える力、書く力をつけるためには、授業を聞いたり問題を解いたりする受け身の勉強だけではなく、もっと主体的な勉強の仕方が必要になってくるのです。