あるサイトに、「文を書くのが苦手な小3男子 中学受験の専門家がすすめる勉強法は?」という記事がありました。
質問の内容は、「普段読書をしないせいか、記述問題や作文、感想文などがとても苦手です。作文や感想文を書く際に「どう思ったか」「自分ならどうするか」を入れてみてはとアドバイスすると、本当にそれだけを書いて2行で終わる始末です。」ということでした。
この質問に対するアドバイスは、「文を書くことが苦手な子どもは、たいてい、お手本となる文章をあまり目にしていないことに原因があると思います。普段から読書をしていないと、表現や文章の構成をどのように書いてよいかわからないでしょう。対策としては、小学生新聞や通信教育などもよいと思いますが、他の子どもの作文を読ませて、書き方を“マネさせる”ことも1つの方法です。」として、、「インターネットで検索すれば、優秀な作文や感想文を見つけられると思います。そして、お手本の作文に沿って同じような構成で、子ども自身の体験の作文を書かせてみるとよいでしょう。」ということでした。
上手な文章を手本にして真似るということ自体は、いい方法です。
しかし、問題は、子供がそういう勉強を続けられるかどうかということです。同学年の子の上手な作文を書き写す勉強というのは、自分の文章がだめだからほかの子の真似をしなさいということですから、楽しいはずがありません。
これがもし、子供がもっと小さくて作文というものを書いたことがほとんどないような時期でしたら、手本を真似るというのはいいやり方です。しかし、その場合も、手本を真似るという意識ではなく、手本に馴染むというような感覚でやっていくことが大切です。
手本を真似るというのは、自覚した年齡の子が自主的にやるにはいい方法ですが、小学校3、4年生の子がそういう自覚を持つことはまずありません。
ところが、小学4年生までの子は、お母さんの言うことをよく聞きますから、そういうやりたくない勉強も続けさせられてしまいます。その結果、やがて親子の仲が悪くなり、子供は作文を書くことがますます嫌いになってしまうことも多いのです。
小学校3、4年生までに、自分の意思に反することを親に強制されていると、小学5年生ごろになり自己主張ができるようになると、今度は逆に親の言うことを聞かなくなります。
この強制が躾に関するようなことであれば、子供が反発しても、親には信念がありますから、子供はそれを強制とは考えずに自分の生き方のルールとして受け入れます。
しかし、勉強の仕方に関することは、親も試行錯誤でやっているので、続けることが難しい場合はうやむやのうちにやらなくなってしまうこともよくあります。すると、子供は、親に言われたことでも自分の嫌なことはやらなくてもよいのだということを学習するようになります。その結果、学年が上がると親の言うことを聞かなくなることが多いのです。
では、文を書くのが苦手な子に、文章を書く力をつけるためにはどうしたらよいのでしょうか。実は、もっと楽しく簡単にできる勉強法があるのです。
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作文が苦手な子に、その作文をいくら直しても、上手にさせることはできません。
上手になるどころか、ますます作文が苦手になることが多いのです。
では、上手な作文を手本にして書き写すというのはどうでしょうか。
それは、自分の文章がだめだからほかの文章を真似しなさいということですから、やはり楽しいはずがありません。
いい方法は、その子の書いた作文の中身をまず褒めてあげることです。
しかし、その際に、「でも、もっと漢字を使わなきゃね」とか、「もう少していねいに書かないと」とか、「この表現がおかしい」とかいうことは言わないことです。
誤字は直しておきますが、誤字を直すことが勉強の中心ではありません。
そして、作文を褒めてあげる一方で、長文の音読を毎日数分続けるのです。
子供が音読に飽きて、ふざけて読んでも気にしません。
音読についても、読み方を注意する必要はないのです。
音読を続けて半年もすると、子供の書く文章が違ってきます。
褒めて続けているだけで、自然に褒められるような実態があとからついてくるのです。
簡単(笑)。
●「漢字を使う」「ていねいに書く」は書いたあとではなく、書く前に言うこと
書く前の心構えとして、習った漢字を使う、ていねいに書くというのはいいのです。でも、それも大体できていればいいことです。
よくないのは、書いたあと、作文の中身よりもすぐ目につくところで、漢字を使う、ていねいに書くということを言ってしまうことです。
普段の作文は、中身のいいところを褒めていて、清書して作文を投稿するときなどに、漢字を使うことと、ていねいに書くことを目標にしていくといいと思います。
●事前の指導があると褒めやすい
書いた作文の中身を褒めるのもいいことですが、事前指導がそれに加われば、更に褒め方が具体的になります。
その事前指導のひとつが構成指導です。例えば中学生だったら、意見→理由1→理由2→意見、というふうに事前に書き方を指示すると、方向が決まるので書きやすくなります。
小学生の場合は、構成よりも表現の事前指導で、会話・たとえ・思ったことを入れて書く、というふうに事前に指示をすると書きやすくなります。
事前指導のいいところは、その指導をもとに合理的に褒めることができる点にあると思います。
●音読は、模範文よりも普通の説明文で
音読は、模範作文のようなものよりも、普通の説明文の方がいいと思います。読む力をつけるのが大事なので。
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教育の役割は、人間の能力を高めることにあります。
人間の能力の中心は知力です。知力の中心は創造力ですが、創造力が現実に役立つものになるためには、材料となる知識や技術が必要です。だから、現在学校で行われているような基礎的な知識や技能の習得が、教育の大きな目標になります。
人間の能力の中には、知力以外のものもあります。その一つが体力です。体力には、持久力、瞬発力、巧緻性などがあります。また、病気や怪我に対する抵抗力、治癒力などもあります。この体力を高めることも、教育の大きな目標です。
人間の能力には、知力、体力以外のものもあります。日本では、昔から知育、体育、徳育ということが言われていました。知育が知力を育て、体育が体力を育てるものであるように、徳育は徳力を育てるものです。教育の大きな目標の第三は、この徳力を育てることです。
徳力は、現実的な形では、次のような力として表れます。
まず、物事がうまく進む力です。現実世界は、物理的な法則のもとに動いています。だから、物事が生起する現象は確率的なはずです。しかし、人間が関わるものには、確率をわずかに超える現象があります。このわずかな差を生み出すものが徳力の一面である想念力です。
想念力は、知力や体力ほど確実な目に見えるものではありません。しかし、人間社会では、この想念力のわずかな差が、しばしば大きな結果の違いとなって現れます。
徳力のもう一つの面は、身の回りの危険や安全を察知する力です。人間は、二つの選択肢があった場合、そのどちらかをランダムに選ぶのではありません。客観的な裏付けはないものの、勘によってよりよいものを選びます。このよりよいものを選ぶ微妙な力が、徳力のもう一つの面である心眼力です。
この想念力と心眼力、つまり心身力を伸ばすのが、心身教育の目標です。
教育には、評価の手段と習得の方法が必要です。
心身力の評価の手段は、想念力や心眼力の小さなシミュレーションです。
心身力の習得の方法は、あらゆるものに対する分け隔てのない愛のようなものです。
これは、具体的にはさまざまな形で表れます。関英男さんの述べた洗心のようなものや、塩谷信男さんの述べた前向きな心や、中村天風さんが述べた積極心のようなものと考えてもよいでしょう。つまり、怒らない、不満を言わない、愚痴をこぼさない、不安を持たない、周囲に感謝し思いやりを持ち、いつも明るく幸福な気持ちでいて、勇気を持ち積極心で生きていくというような心の姿勢のことです。
世間一般で考えられている人間の徳というものは、徳育教育の目的ではなく方法として考えていくものなのです。
心身力の習得の重点には、個人差があります。ある人にとっては怒らないことが、他の人にとっては愚痴をこぼさないことが、また他の人にとっては勇気を持つことが重点になります。課題は、人によって違うのです。だから、その内容は、他人が決めるものではありません。また、他人がその度合いを評価するものではありません。ここが、道徳や宗教と違うところです。
心身教育が進むことによって、人間の能力は大きく発展します。しかし、人間は生身の肉体を持った存在ですから、どれだけ心身力が発達しても、知力と体力は別の課題として追求していく必要があります。
そして、やがて、知育、体育、徳育のバランスのとれた人間になるというごく平凡なことが、教育の目的として改めて了解されるようになるのです。
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