問題集でも、参考書でも、これぞと決めた1冊を徹底して自分のものにするという勉強法が最も能率のよい勉強法です。
ところが、多くの人は、これとは反対の勉強の仕方をしています。それは、例えば、学校で宿題があったり、テストがあったりすると、その宿題やテストに合わせた勉強をしてしまうのです。
テストで間違えた問題やわからなかった問題があると、その問題を解けるようにしようとしてしまいます。
できなかった問題ができるようにするのはいいのですが、自分のペースで行う勉強は後回しにして、その宿題やテストに取り組もうとするから、なかなか実力がつかないのです。
では、どうしたらいいかというと、宿題やテストで出た問題を、自分が普段やっている問題集や参考書の中に位置づけるのです。
つまり、同じ問題や似た問題がある箇所を、自分が普段勉強している問題集や参考書の中から見つけます。そして、宿題やテストができるようにするよりも、その自分のやっている問題集の中でできるようにしておくのです。
このようにすると、ほとんどの問題は、結局自分の持っている問題集や参考書と関連づけられることがわかってきます。そして、その1冊の問題集や参考書を徹底して自分のものにする勉強法が正しい勉強法だと確信がわくのです。
では、自分の持っている問題集や参考書に似た問題や該当する説明がない場合はどうしたらよいのでしょうか。
それは、できなくてもよかった問題だとみなすのです。
学校や塾の先生の中には、生徒にちょっと難しい問題を出して、生徒ができなかったり苦労したりするのを、生徒に考えさせる勉強だと思っている人がいます。
特に、算数数学の問題は、そういうパズル的な難問を出しやすいので、そのために算数数学が苦手になる子が多いのです。
本当は、生徒全員を同じようにできるようにさせるのが勉強なのですが、そして、それは十分に可能なことなのですが、そういう勉強は教える側としてはあまり面白くないのです。
だから、生徒の側は、そういう難しい問題に合わせて勉強するのではなく、まず自分が決めた1冊の問題集又は参考書を徹底して身につけることを優先していく必要があります。
そして、1冊が完璧に自分のものになれば、そういう難しい問題についても自然に対応できる力がついてくるのです。
作文の勉強は、表現の勉強だと思われがちです。伝えたい中身が既にあって、それをどう表現するか工夫するのが作文の工夫だと思われています。
それは、文章を書くということが、「推すか敲くか」「梨花は一枝か数枝か」という細部にこだわることとして考えられてきた文学の歴史があったからです。
細部の表現にこだわることも、もちろん大切です。しかし、それ以上に大切なのは伝えるべき中身です。
大事なのは、推したのでも敲いたのでもいいから、要するに門が開いたのかどうかということであり、一枝でも数枝でもいいから、何しろ梨の花が咲いたのかどうかということです。
ただし、これをあまり強調すると、味などどうでもいいから食べられればいいという粗雑な世界に入る可能性もあるので、ほどほどにということは必要です。しかし、中身の方が表現の仕方よりも大切だということは、作文の勉強の土台として考えておく必要があります。
このことに関連して、たまに受験生から、「合格するためには嘘を書いてもいいんですか」と聞かれることがあります。そういうときは、はっきり、「もちろん駄目だよ」と言います。
嘘かどうか、採点者にはわからないとしても、自分自身の生き方として嘘をつくことはいけないという価値観を持っておく必要があるからです。
さて、中身が大切という場合の中身とは何かというと、一つには実例です。実例には知識的な実例と体験的な実例とがあります。人の知らないことや、人のしていないことを題材にした作文はそれだけで価値があります。
実例のほかに大事なのは、意見や感想です。ほかの人の思っていないところまで思うというのが、意見や感想の価値です。ここで思考力というものが出てきます。
みんながAだと思っているところに、「確かにAもわかるが、しかしBというものもある」と考えたり、みんながAかBかと論じているときに、「確かにAかBかということも大事だが、しかし、Cということもある」と考えたりする力が思考力です。
その思考力がどこから出てくるかというと、それは、一つには自分なりの深い体験で、もう一つには語彙力です。
自分なりの深い体験というものは、年齢を重ねる中で身につくものですが、語彙力は努力次第で身につけることができます。
その語彙力をつける最もよい方法が、難しい語彙の使われている文章を読むということです。
小中学生の場合は、問題集読書のような文章を、楽しく読む力をつけていくことです。
高校生や大学生の場合は、世の古典と言われている本を読むことです。
語彙力検定というものがありますが、語彙力を四字熟語やことわざを覚えるように知識として覚えても、使えるようにはなりません。語彙力は、難読の結果であって、語彙力そのものを目的として覚えるものではないからです。