言葉の森では、今、理想の勉強スタイルというものを作れるよう、いろいろ工夫をしています。
第一の柱は、創造的な作文教育です。作文というものは、どうしても採点する人の主観で評価することが多いので、より客観的な子供自身がその評価を理解できるようなものを目指しています。
そのためには、第一に事前指導を作文学習の中心とすることです。
第二には、語彙の豊富さなどをプログラムで自動的に計算し、子供がその数値の変化を自分の目で見られるようにすることです。
この二つは、既に大体できていますが、今後はもっと生徒や保護者にわかりやすいものにしていきたいと思っています。
第二の柱は、これから力を入れていくもので、全教科の本質的な実力のつく学習です。
今の子供たちは、その親祖父母の世代の子供のころよりも、ずっと長い時間勉強しているように見えます。その傾向は、特に、小学校低中学年で顕著です。
しかし、全体的な学力や思考力ということで見ると、かえって学力が低下しているような印象を受けることが多いのです。
長い時間をかけているわりに実力がつかないというのは、勉強の仕方に問題があるからです。
では、どういう問題があるかというと、まず第一に、いろいろなものに手を出し過ぎているということです。
今の世の中は、教材や学習のツールが豊富なので、ついいろいろなものを少しずつやるような勉強になりやすいのです。
しかし、学習内容が定着するのは、同じものを同じように繰り返し学習することによってです。
だから、理想の勉強法は、1教科について1冊の問題集又は参考書だけを、徹底して反復し自分のものにすることです。
ところが、なぜこれができないかというと、小さいころから目先の変わった楽しい教材に慣れているので、同じものを何度も繰り返すということが退屈に思えるからです。
それでも、小学校1、2年生までは、子供も親の言うことをよく聞くので、退屈な勉強でも言われればきちんとやります。
ところが、小学校3、4年生になると、親の力では、同じことを繰り返すような退屈な勉強を続けさせることが難しくなってくるのです。
勉強は、毎日やるのが基本です。週に何回かがんばってやるという勉強法では、力がつきにくいだけでなく、勉強の習慣がつきません。
大人は、曜日によってめりはりのある生活をしますが、子供は、大人とちがって、毎日同じことを同じようにやる方がいいのです。
毎日、家庭で同じことができ、それを毎日先生がチェックしてアドバイスできるように作ったシステムが寺子屋オンエアです。
これは、ネットを利用して、自宅で勉強している子供たちを先生が見る仕組みです。
しかし、先生が見るといっても、従来の学習のように、先生が何かを教えるのではありません。先生に教わるのではなく、子供が自分で1冊の問題集又は参考書を毎日こなしていくのです。
小中学生の勉強には、誰かに教わらなければできないというような難しいものは何もありません。難しく見えるのは、受験で差をつけるためにパズルのような問題が出されることがあるからです。
そのパズルのような問題も、解法を読めばほとんどができるようになっています。解法を読んでもまだわかりにくいという場合は、ただその問題に慣れていないということなのです。
しかし、それでもどうしても何度解法を読んでもわからないというときだけ、先生に聞けばよいのです。
ただし、受験の場合でも、大事なのはそのような超難問ができることではありません。受験は難問の出来で合否が決まる世界ではなく、全教科の総合点で合否が決まる世界ですから、全部の教科にわたって普通の問題がしっかりできていることが大事なのです。(つづく)
これからの勉強の環境はどうなっていくかというと、通学でも通信でもない第三の学習スタイルが出てきます。
それは、ICT(Information and Communication Technology 情報通信技術)による教育です。わかりやすく言えば、パソコン(スマホなども含む)とインターネットを利用した教育です。
現在のICT教育の多くは、まだ従来の通学型の授業と教材をそのままネットで配信するようなものとして考えられています。
しかし、ICT教育の本来の授業の場は、家庭です。反転授業(家庭で学習をし、学校はその学習内容を発表したり交流したりする場となる形の教育)の普及に伴って、家庭での学習をいかにうまく組み立てていくかということが、今後のICT教育の成否を握るようになります。
家庭での学習を進めるいちばんの動機は、人間の関わりです。単なる優れた授業や優れた教材が、子供たちを勉強に向かわせるのではありません。
もし、優れた授業と教材だけで熱心になる子供がいたら、それは人間よりもむしろ機械に近い子供と言っていいでしょう。人間は、他の人間との関わりによって意欲を持つのです。
しかし、パソコンとインターネットの利用は、もともとは勉強の効率化ということで考えられてきました。
パソコンとインターネットを利用するときに、人間との関わりが必要だとなると、それは昔のパソコンやインターネットのない時代の一斉授業よりも能率の悪いものになる可能性があります。
そこで、勉強の仕方そのものの変革が必要になるのです。
しかし、今のICT教育は、勉強の仕方そのものは従来のままで、パソコンとインターネットを中心に、人間はできるだけ介在しない低コストの教育を目指しています。
その方向は、面白い授業、面白い教材のほかに、試験、競争、順位付け、賞罰を活用することです。
もちろん、多少の競争や賞罰はあってもよいのです。それは、人間どうしのコミュニケーションの一種として行われるのであれば全く問題ありません。
しかし、今広がりつつあるICT教育は、競争や賞罰以外の動機付けを見出していないようなのです。
なぜかというと、今のICT教育の根底にある教育観は、優れた教材と競争と賞罰の結果、優れた子が優れた教育を受けられるようになればいいというところにとどまっているからです。
日本の江戸時代の寺子屋における教育観は、すべての子供が同じように優れた教育を受けられるというものでした。
その根本には、人間にはもともと大きな差はないのだから、だれでも勉強の仕方次第に同じように優れた人間になれるという人間観がありました。
これからのICT教育は、この江戸時代の教育観と結びついた形で行われる必要があります。
そのためには、勉強の仕方そのものを、従来の「教える教育」から「教えない教育」に変えていくことが必要になります。
教育における人間との関わりを、教えるための人間と教わるための人間の関わりとして考えれば、ICT教育は、従来の黒板での一斉授業よりも能率の悪いものになるかもしれません。
そうではなく、教えない教育の中で人間どうしの関わりを実現していくことが、これからの新しい日本的なICT教育の学習スタイルになっていくのです。