今の経済体制は、行き詰まりを見せています。まだ、これまでのストックがあるので、その行き詰まりは目に見える形として現れてはいませんが、破綻は水面下で進行しています。
その原因は、おおまかに言えば、世界中の生産力が世界中の消費力を上回るようになったためです。つまり、需要の減少が、供給の減少につながり、供給の減少が収入の減少につながり、それがまた需要の減少につながるという負のサイクルが生まれているのです。
資本主義の発展期には、この正反対のサイクルが存在していました。需要が伸びるために供給が伸び、供給の伸びに比例して収入が伸び、それが再び需要に投入され、生活は日増しに豊かになっていったのです。
発展期の社会では、消費に回らずに貯蓄に回された分は、新しい供給を生み出すための投資になっていました。しかし、そこには次々に生み出される供給をすぐに吸収できる貪欲な需要があったのです。
現在の資本主義の行き詰まりを解消する方法として考えられている一つは、戦争経済です。もう一つは、地球規模のインフラ整備です。しかし、どちらも一時的な対症療法でしかありません。
物やサービスの生産については、もはや人類の生産力は、人類の消費力を大きく超えているのです。
したがって今後、経済の行き詰まりが表面化するときは、株価の暴落、バブルの崩壊、倒産、失業、リストラという経済の急収縮が一気に現れます。もともと実際の需要のないところに生まれていた余剰の供給は、その余剰の分だけ消滅するのです。
こういう将来の社会の変動を予測する人の中には、既に田舎で自給自足の生活を始めている人もいます。国も会社も年金も給与もあてにならないとしたら、自分の生活は自分の手で守らなければならないからです
しかし、農業を中心とした自給自足の社会は、当面の経済破綻については防波堤の役割を果たしますが、それがそのまま未来の社会の雛形になるわけではありません。自給自足というのは、結局、破綻に対する避難の方法にすぎないのです。
新しい社会の基盤は、物やサービスの生産を超えた、新しい原理に根差している必要があります。その原理こそが、人間の持つ創造性です。
工業として生産される物、商業として提供されるサービスのいずれもが、社会全体の需要に対する過剰な供給力を秘めています。新しいものや新しいサービスが登場するたびに、小さな活況は生まれますが、それはもはや資本主義全体の活性化に結びつようなものではなくなっています。
消費の拡大は、一時的に経済の拡大につながりますが、それはもはや恒常的に供給の拡大を必要するものではなくなり、じきに再び供給過剰の世界が繰り返されるのです。
これに対して、新しく生まれる経済の原理が創造です。創造は、需要とも供給とも次元を異にする人間生活の原理です。それは、ある面では需要であり、ある面では供給でもあるのですが、単なる量的な需要や供給ではありません。需要としては無限の需要であり、供給としては対応する需要を必ずしも必要としない自足した供給なのです。
新しい経済の原理は、この創造を軸として形成されます。その創造の核となるものが人間です。
未来の社会を論じる人の中には、人工知能のような新しい物や技術の生産が人間社会を切り開くと考える人もいます。しかし、これまでの需要と供給という社会の枠の中にいる限り、物やサービスの生産は、永続的な発展の動因にはならないのです。
創造を軸とした新しい社会を、今の社会になぞらえて描くとすれば、それは、企業を中心に生産者と消費者が同心円を描く社会ではなく、子供を中心にその子供たちを育てる人々が同心円を描く社会です。
なぜなら、人間の中でも特に子供たちの成長こそが創造の源泉であり、創造を原理とする社会では、その子供たちを育てることが社会全体の関心になるからです。
農耕社会では、土地を開墾し農作物を育て、それらを収穫するまでの時間が投資の時間でした。工業社会では、工場を建て人を雇い原材料を仕入れ、それらを生産し販売するまでの時間が投資の時間でした。
創造社会が完成に向かうと、もはや投資という考え方自体もなくなるのですが、今の工業社会の延長にある間は、投資という仕組みが一時的に必要です。創造社会では、子供たちが成長するまでの時間と、その間の教育や文化が投資の内容となるのです。
経済の破綻から避難する場としての自給自足経済は、自給自足に留まるかぎり避難の場でしかありません。その経済の中心に、子供たちの創造的な成長を位置づけることによって初めて、新しい社会の原理となるのです。
子供たちに創造的な教育を行う際の最初の前提となるものが、本質的な教育です。
これまでの教育は、受験を目的とした教育でしたから、子供たちの間に差をつけるための教育を行っていました。その結果、できる子には無駄な知識を教えることによって創造性を枯渇させ、できない子には自信を失わせることによって創造性を枯渇させていました。
人間には、本来、できるできないという差を超えた、創造する力が誰にもあります。その創造性を育てる前提となるものが、すべての子供に必要な知識や技能を身につけさせる本質的な教育です。
それは、かつて江戸時代に、読み書き算盤の教育と言われていたような寺子屋的な教育によって、地域と家庭の中で行われていくものです。(これが今、「寺子屋オンエア」として行おうとしているもので、その機構を「森林プロジェクト」として提供していきたいと思っています。)
この本質教育の基盤の上に、創造教育が行われる必要があります。
創造とは、創造する知識や技能という底辺の広さに、創造性という高さを掛けたものとして表されます。
これからの社会では、特に膨大な知識をいかに速く広く身につけるかということが底辺の広さを決定します。その知識の底辺を広げる教育の一つが、暗唱教育です。そして、創造性の高さを引き上げる教育の一つが、作文教育です。(これが今、言葉の森が作文教育として行おうとしているものです。)
作文教育は、また、子供たちの教育を地域全体の関心とする媒体ともなります。
例えば、江戸時代の寺子屋教育における席書きのように、地域においてプレゼン作文発表会のようなイベントが定期的に行われれば、子供たちの関心も、地域の大人たちの関心も、子供たちの成長を点数による成績ではなく個性による創造として見る方向に向かいます。
こうして、社会全体が、子供たちの成長を軸とした創造の価値を評価する方向に向かっていくのです。
このような社会を作る最短距離にある国が日本です。そして、日本で作られた創造教育の仕組みは、そのまま世界に広がる可能性を持っています。更に、それは教育の仕組みに留まらず、それぞれの国で新しい社会の仕組みとして広がっていくのです。
なぜなら、創造教育は、学校と先生によって作られるものではなく、家庭と地域社会によって作られるものだからです。その形態がたまたま学校的な場所や先生的な人を必要としたとしても、それは従来の学校や先生とは異なる新しい社会の学校や先生です。
子供たちの成長を中心として同心円を描いて広がる社会が、これからの資本主義を超えた新しい創造社会なのです。
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言葉の森の作文指導は、小学校低学年のときは楽しく書くのが基本です。間違いを直すことばかりに熱心な指導では、確かに間違いは直りますが、それよりもすぐに書くことが嫌いになってしまいます。
間違いは、作文の中で直すのではなく、読む力をつける中で直すのです。
一年生で会話をカギカッコで書くことと改行することができない子がいたとします。この子に、カギカッコと改行を教えて、次回から直るということはまずありません。何度も何度も同じことを教えても、それができるまでに何ヶ月もかかるのが普通です。
なぜかというと、普段の日常会話で、会話にカギカッコがついていたり、改行されたりしていることはないからです。あったら、漫画です。
会話のカギカッコと改行は、本の中で現れます。本を読んでいる子は、自然に、会話はカギカッコがついていて改行されていることを見ています。そういう読書の蓄積がある子は、もし会話のカギカッコと改行ができていないときも、一度説明するだけで次回からはすぐに正しく書くことができるのです。
言葉の森の作文指導は、低学年のころは楽しい作文ですが、高学年になると考える作文になります。
低学年のころの楽しい作文の経験があるからこそ、高学年の考える作文も同じように楽しく取り組めるのです。
考えるというのは、抽象的に考えるということです。
例えば、意見について理由を書くというときに、理由が書けずに実例を書いてしまう生徒がかなりいます。自分の経験したことに結びつけて書くことはできるのですが、誰にも共通する一般的な理由として書くという抽象的な思考ができないのです。
この考える力、思考力も、読む力から来ています。
子供たちが読む本は、物語文がほとんどです。物語文は、ストーリーという事実中心に書かれているので、わかりやすく誰でも読めます。
これに対して、説明文や意見文は、ストーリーがありません。その代わりに、物事の因果関係などの抽象的な構造が文章の骨格になっています。こういう文章を読むことによって、作文を書くときも抽象的な構造のある作文が書けるのです。
ところが、子供たちが楽しく読める説明文は、あまりありません。身近なところでは、小学生新聞に載っているコラムなどが読みやすい説明文ですが、こういう文章が本として出されることはほとんどありません。
そこで、おすすめするのが、国語の入試問題集です。入試問題集の問題文の中には、読みにくい悪文もありますが、概して内容的に優れたものが多いからです。また、内容に興味を持った問題文であれば、出典を参考にしてもとの本を読むこともできます。
しかし、この問題集読書は、家庭ではなかなかできません。形だけやっているように見えても、ただ眺めているような読み方をしている子が多いのです。
言葉の森では、寺子屋オンエアなどで、この問題集読書にこれから力を入れていきたいと思っています。
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「作文がなかなか書けないんです」という相談を受けることがあります。特に、小5以上の難しい感想文課題になると、何をどう書いていいか全くわからないという子も出てきます。
しかし、そこであれこれアドバイスをするのは、単なる対処療法で、子供に書かせることはできても何も実力はつきません。まして、書いたあとに赤ペンで懇切丁寧な添削がされても、それで何か身につくということはまずありません。作文は、書く前の準備がほとんどすべてなのです。
では、どうしたらよいかというと、それは毎日長文を音読しておくことです。朝ご飯の前に音読をすると決めておけば、読まなければ朝ご飯が食べられないのですから、自然に読むようになります。ひどいやり方だと思う人もいるかもしれませんが、それぐらい生活に密着したものにしないと、退屈な短時間の勉強は定着しないのです。
たまに、朝ご飯は食べないという人もいますが、その場合は、夕ご飯でもいいのです。必ず毎日読むようにすることが大事です。時間にすれば1200字程度の長文の音読は3分でできますから、決して負担になる量ではありません。大事なことは、やると決めることだけです。
ただし、音読については、決して読み方を注意しないことが大事です。いつも、「よく読めるようになったね」と優しく褒めてあげることです。
子供が高学年になると、親の前で音読することを嫌がるようになります。それは、それまで親が子供の音読を注意していたからです。
子供の音読を聞くともなしに聞いていると、親が似た話を思いつくことがあります。そこで、親自身の体験に基づいた似た話をしてあげます。
受験の国語問題に出てくるような文章は特に微妙で難解なものが多いので、子供は一応読むことは読めてもその文章に書いてあることが実感できません。そのときに、お父さんやお母さんが自分の体験に結びつけて似た話をしてあげると理解がぐっと深まるのです。
この音読と対話によって、語彙力が増え、似た例が増え、難しい感想文が上手に書けるようになります。
だから、作文の勉強は、書く前の準備が重要なのです。
これに対して、算数(数学)は解いたあとがすべてです。
よく子供の中に、問題集を熱心に解くだけ解いて、自分で丸付けもせずに終わってしまう子がいます。「丸付けはしたの」と聞くと、「あ、まだだった」ということが時どきあるのです。
また、丸付けも本当は、1問解いたらすぐに丸付けをするぐらいの細かな丸の付け方の方がフィードバックが早いのでよいのですが、1ページを全部解いてからまとめて丸付けをする子がほとんどです。
なぜ丸付けが大事かというと、算数の勉強は、間違えた問題を間違えないようにすることが勉強の本質だからです。
ところが、小学校低中学年の算数の勉強では、そのような間違える問題はほとんどありません。なぜなら、低中学年の勉強は計算の仕方に慣れる勉強ですから、合っているものをどんどん解いて解き方に慣れることが勉強の中心になっているからです。
その低中学年の勉強の癖が抜けずに、高学年になっても、できる問題をどんどん解くことが勉強だと考えてしまう人が多いのです。
算数の勉強で必要なのは、できる問題を解くことではなく、できない問題をできるようにすることです。だから、解いたあとの丸付けと、間違えたときの解法の理解が大事なのです。
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12.4週の清書は、1月18日までにテキスト入力された分に関して森リン点の対象になります。
しかし、今回、年が2015年として送られているものがありましたので、それらの人は1月4週の山のたよりに、12.4週の清書の森リン点が表示されていませんでした。(下記の15名の人)
年を修正しましたので、現在、ウェブの「山のたより」(
https://www.mori7.net/oka/iyama.php )では見られるようになっています。
次回からは、こちらで自動的に修正しておくようにします。
コード 学年 先生
かなほ 中3 nakami
かみほ 中1 nakami
くきし 小5 sango
たろろ 小5 komiko
ちひま 小3 komiko
ちやく 中1 hirari
ともち 小5 saki
にえさ 小6 nakami
ゆそわ 小4 jun
ゆねち 小5 sizuku
らおは 社 kanera
られり 小2 komiko
れらせ 小3 tako
わくも 小3 sasami
わにせ 中1 onopi
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大きい三角形を作るためには、底辺と高さをともに大きくしなければなりません。底辺だけが広かったり、高さだけが高かったりしても、面積は広くなりません。
勉強も同じです。知識は底辺のようなものですから、ある程度は広くしなければなりません。しかし、その知識に応じて意欲も高めて行かなければ、知識だけが詰まった辞書のような人間になってしまいます。
大人になって社会生活を始めると、学校時代に勉強したことのうち、確かに役立ったと思うものがあると同時に、ほとんど全く役立たなかったものがあることに気がつきます。
そして、基本的な読み書き計算だけはしっかり自分のものにしておく必要がありますが、それ以外の知識は必要に応じてやれば間に合うものだったということがわかってきます。
昔の勉強には、そういうバランス感覚がありました。だから、小中学校時代に朝から晩まで遊んでいるように見えても、学校で必要な知識はしっかり身につけていたのです。
そういう子供たちが大きくなって、知識も意欲もある社会人として成長していったのです。
ところが、今は、知識の底辺だけがやたらに広い子がいる一方、知識の底辺がほとんど作れない子もいます。勉強がバランス感覚をなくしているのです。
勉強の目的は、よい学校に入ることではありません。社会に出て、よい仕事をすることです。
そう考えれば、勉強に自然にバランス感覚ができてきます。
成績さえよければ、一夜漬けでもいいし、わからないところは適当に書いておけばいいし、まぐれで当たったらそれでもいい、と考えているならば、それは成績だけが目的になっているということです。
勉強は、人に勝つためにやるものではなく、自分の向上のためにやるものです。しかし、向上というだけでは目標がつかみにくいから、他人との競争も味付けとして少しは必要になるということなのです。
子供のころは、そういう大きなことはわかりません。だから、ほとんどの子は、親や先生に言われたことをそのまま熱心に取り組みます。
だからこそ、親は折にふれて、勉強の目的や人生の目的などを話しておく必要があるのです。そういう話をしてくれるのは、今の社会では親しかいないからです。
勉強以外の大きな話をする時間を作るためには、知識を詰め込む勉強はほどほどにしておく必要があります。
この一見、無駄に見えるような親子の雑談が、子供の考える力や意欲を伸ばしていきます。
作文の勉強というのも、そういう一見遠回りに見える親子の対話が、重要な役割を果たしています。
作文という結果として表れるものは氷山の上の部分です。水面下に隠れたもっと大きな部分は、経験や読書や親子の対話で成長していくのです。
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読書力は、学力の土台です。
読書力は、まず語彙力となって表れます。その学年相当の子が知らないような言葉を知っている子は、その言葉を通して物事をより深く構造的に捉える力を持っています。
しかし、語彙力は語彙力検定のような単独の知識として身につくものではありません。日常の読書や対話の中で生きた語彙として使われることによって、生きた語彙力となるのです。
では、読書をしようとしない子には、どうしたらいいのでしょうか。
それは、実は簡単なのです。まず、親が、「読書はして当然」と考えることです。「勉強はして当然」と考える親は多いのですが、読書はそうは思わない人も多いのです。
そういう親は、自分自身があまり本を読みません。子供のころは読書好きだったかもしれませんが、大人になってから日常的に本を読むという習慣がなくなってしまう人が多いのです。
子供は、親の後ろ姿を見て育ちます。親が、「家事や仕事で忙しいから本など読めない」と思っていれば、子供も子供なりに、「勉強や遊びで忙しいから本など読めない」となります。
出発点は、家族で読書タイムを決めることです。そして、どんな本でもよいから毎日10ページ以上はみんなで読むというようにするのです。子供が最初に選ぶ本は、易しそうな本ばかりです。それも10ページだけ読んですぐに終わります。
しかし、毎日10ページ以上ということが習慣になるにつれて、途中で必ず面白い本にめぐりあいます。読書には、もともと子供をひきつける力があるのです。すると、10ページでは止まらずにもっと長く読むようになります。そのようにして少しずつ読書好きになっていくのです。
読書は家庭ですることが基本です。ときどき、「学校の読書時間があるから、家では読まなくてよい」と考える人がいます。また、「家庭では勉強で忙しいから、読書は行き帰りの電車の中で読む」という人もいます。
学校で読むことも電車の中で読むことももちろんよいことですが、それが家庭で本を読まない理由になっては本末転倒です。家庭での読書が基本になって、学校でも読むし電車の中でも読むということがあるのです。
ところで、最近、家庭での読書をすすめるよい方法が、寺子屋オンエアの勉強の中にあることがわかってきました。
家庭での勉強時間の中に、読書の時間を入れるようにすると、どの子もかなり長時間読書に没頭しているのです。読書離れというのもただの習慣ですから、本を読むきっかけさえあれば、誰でも自然に読書好きになるのです。
このことは、勉強についても言えます。家庭での勉強も、毎日取り組むというきっかけさえあれば、どの子も自然に勉強の習慣ができていくのです。
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読書がやはり学力のもとです。
よく保護者の方から「うちの子は読書が嫌いで」と相談を受けます。
私自身、昔は本当に読書をよくしたのですが、最近は忙しさにかまけて読書をサボり気味……。反省です。
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読書をしていれば国語力がつくわけではありません。確かに低学年のうちは、読書量と国語力の間には高い相関関係がありますが、学年が上がるにつれて、その度合は低くなってきます。
読書と国語力の関係が学年が上がるにつれて低くなるのは、高学年で求められる国語力が難しい文章を読み取る力だからです。読書好きな子と言っても、その読書の質には大きな差があり、ほとんどの子がその学年相応に楽しんで読める本は、高学年の国語力には結びつかないことが多いのです。
しかし、それにもかかわらず、なぜ読書が大事かというと、易しい読書もしない子は、難しい文章は更に読もうとしないからです。
現在、学校で行われている勉強のかなりの部分は、記憶力の再現です。テスト前の一夜漬けで結構点数が取れるようなものが、学力と思われているのです。ですから、読書の有無は、当面の学校の成績にはあまり関係しません。
しかし、学年が上がるにつれて、勉強の中には考える要素が増えてきます。国語に限らず、理科でも社会でも、更には数学でも、そしてもちろん英語でも、国語的な考える力がないと、単に記憶と手順だけでは対応できなくなります。そういう段階になったときの学力のもとは国語力なのです。
最初は易しい読書であっても、文章を読み慣れている子は、国語の問題の難しい文章も次第に読み慣れていきます。そして、国語の問題に出てくるような難しい文章の中に面白さを見出すようになると、今度はそこからさかのぼって読書も次第に難しいものを楽しむようになります。
言葉の森の港南台教室の中学生や高校生の中で、ときどき、「この本借りていっていいですか」と、その学年には難しい本を借りていく人がいます。もちろん、その反対に、こちらが、「この本、面白いよ」とすすめても、「いや、今はいいです」と断る生徒もいますが(笑)。難しい本をよく借りていく生徒は、普段の成績は普通でも、受験期になると成績が急上昇します。考える力があるので、最後の1年間ですぐに実力が伸びるのです。
受験期に入る前は、どうしても学校や塾のその日その日のテストの成績などに目が向きますから、すぐに役立つ知識の勉強を優先し、読書は時間のあるときに読むものと考えてしまう人が多いのですが、実はそれは逆です。
普段の生活の中では、読書を再優先し(と言っても、読書を勉強よりも先にすると読書だけになってしまうので、時間的には勉強のあとに読書という流れにするといいのですが)、勉強は読書よりも優先順位の低いものと考えておくことです。それが、長い目で見て子供の実力を本当に育てることになるのです。
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