受験の主要科目は、国、数、英です。
この中で、最も差がつきにくいのが国語です。というのは、国語は全くできない人でもそこそこの点数を取ることができる代わりに、よくできるからと言って満点を取ることは難しい科目だからです。
これに対して、数学と英語は、勉強力の差がはっきり出ます。特に、数学は大きい問題ができるかできないかで全体の点数が大きく変わってきます。だから、受験を左右するのは、数学と英語なのです。
では、なぜ数学と英語は、勉強力の差が出るのでしょう。それは、問題作成に人工的な要素が盛り込めるので、さまざまなレベルの難しい問題を作れるからです。
だから、学習塾も予備校も、数学と英語に力を入れています。そして、国語には力を入れていません。
国語は差がつきにくいから力を入れないということもありますが、それ以上に、勉強をさせてても力がつかないから、塾でも予備校でも力を入れられないのです。
もちろん、受験指導をするという建前上、塾や予備校は一応国語も教えるようにはなっています。しかし、国語は教えても力がほとんどつかないとわかっているので、問題集をやらせて解説を詳しくするような勉強しかしていません。
国語力をつけるとうたっているところも、せいぜい解き方のコツを教える程度の指導です。解き方のコツがわかると、確かにある程度の点数は上がります。しかし、それは国語力がついたのではありません。
国語力は、実は国語のテストではあまり測ることができません。
本当の国語力は○×式のテストではなく、文章を読み、それをもとに文章を書かせることでわかるからです。
だから、今後、このような国語の試験が増えてくると思います。
本当の国語力は、受験のときにも役立ちますが、それ以上に社会に出てからも役に立ちます。
数学や英語の場合は、社会に出てからはあまり使わない人もいます。逆に、仕事などで使う場合は、学生時代さぼっていた人でもがんばれば比較的短期間で身につけることができます。
これに対して国語力は、社会に出るといやがうえにも使わざるをえなくなります。
文章を読むことでも、書くことでも、話し合いをすることでも、考えることでも、すべて広義の国語力が必要です。
しかも、こういう国語力は、必要になったからといって短期間では身につけることができないのです。
だから、子供時代の国語の勉強は、国語の成績を上げるということももちろん大事ですが、それよりももっと大事なのは、読む力、書く力、考える力をつけるといことを考えていくといいのです。
そういう国語力は、問題集を解くような勉強法では、決して身につきません。
実際に文章を読み、考え、文章書くことによって身につくのです。
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国語力と国語の成績は少し違います。
国語の成績は、解き方のコツによって上げることができますが、国語力は毎日の読み書きによってしか上げることはできません。
そして、国語の成績は、国語力によって上限が決まってくるのです。
受験に役立つのは、国語の成績と国語力の両方ですが、社会に出てからも役に立つのは国語力の方です。
だから、国語の勉強は、成績を上げるだけでなく国語力をつけるつもりで取り組んでいくといいのです。
はじめまして。いつも森川様の記事を楽しく拝読させて頂いております。
現在私は30代前半の社会人ですが、子どもの頃から国語が苦手で、今の仕事でもとても苦労しています。
色々記事を参考にさせて頂き、国語力の向上のために本の暗唱を毎日しております。本は、三木清の『哲学入門』です。300字くらいに区切って、毎日100回音読し、10日間で同じ文章を計千回音読しています。
ただ、私のように30過ぎてもこのように暗唱していけば国語力は向上していくのでしょうか?
ご回答よろしくお願いします。
サムさん、こんにちは。
読んでいただいてありがとうございます。
読むのは自分の興味のある本ですから、「哲学入門」が好きならそれはそれでいいと思います。
しかし、300字を100回は長すぎます。
何事も続けて6ヶ月ぐらいたつと、効果がわかってきます。
もっと短い時間(10分ぐらい)でできるやり方にして、半年継続を目安にしていくといいです。
それから、国語力の基本は多読と難読(復読)ですから、その音読暗唱と並行して、自分が楽しく読める本を1日50ページ以上を目標にして読んでいくといいです。
がんばってください。
ご回答ありがとうございました。
そうですね、結構長い気がしますので、毎日の暗唱する分量を減らして多読と並行してやっていきたいと思います。
アドバイスありがとうございました!
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日本の寺子屋式の勉強は、従来の欧米式の勉強に比べると、一歩も二歩も進んでいる勉強法です。
現在、学校教育の中で教育格差が拡大しているのは、その教育が欧米式の教育だからです。
欧米式の教育とは、等質の生徒集団を前提として、先生が一方的に教える形で理解させ、理解度をテストで評価し、競争で意欲づけを図るという教育です。
その教育の前提となる社会は、成績が学歴と結びつき、学歴が社会的地位と結びつくという画一的な価値観が中心となっていた社会です。
戦後しばらくの間は、子供たちは黙っていても勉強する動機がありました。それは、成績が地位と結びつくという社会の価値観があったからです。そして、家庭環境は誰もが等しく貧しいというところで等質でした。
しかし、その後、受験塾が登場すると、勉強は受験のためのテクニックを必要とするようになりました。
また、昔は読書とラジオぐらいしかなかった室内の娯楽が、テレビ、ゲーム、インターネット、SNSと多様化すると、娯楽に多くの時間を取られる子も出てきました。
その結果、等質集団という前提が崩れてきたのです。
欧米式教育は、できすぎる子と、できなさすぎる子には対応できません。誰もが同じ程度であるときにだけしか効果を発揮できない勉強法です。
そして、世界の子供たちを取り巻く環境は、社会が貧しいときは等質なので、欧米式の学校教育も効果的ですが、社会が豊かになるにつれて、日本と同じように等質性が崩れてくるはずなのです。
昔は、等質の生徒集団を、単一の教科書で、一人の担任が教えていました。また、社会全体が教育に求める価値観も共通していました。
この時期が、欧米式教育の成功していた時期です。
今は、多様な生徒集団を、多様な教材で、多様な塾がそれぞれに教えています。しかし、先生が教えるという形を前提にすると、欧米式教育を効果的にするためには、少人数学級や習熟度別クラスや個別指導で、等質の集団を細分化する形で作り直さなければならなくなります。
そして、この多様性を多様性のままに教えるための仕組みづくりの一つとして、ICT教育が期待されているのです。
しかし、江戸時代の寺子屋教育は、コンピュータのない時代に、多様性を多様性のままに教えるシステムを作りだしていました。
なぜそれができたかというと、自学自習の方法が確立されていたからです。つまり、今で言う義務教育の年齢では、学ぶべきものはほぼ確定しているので、先生が多様な生徒を一律に教えるのではなく、生徒が自分の進度に合わせて教材を学習し、先生はそれを見守るだけで、ときどき進度の段階を決め直すという仕組みができていたのです。
しかも、寺子屋教育の利点は、ICT教育のように人間がコンピュータと向き合う孤独な勉強ではなく、集団の中で勉強するという集団の力学も生かしたものだった点にあります。
その自学自習を進める勉強の一つの方法が、限られた一つの教材を音読によって徹底して反復し身につけるという方法でした。
つまり、義務教育段階の学力は、理解による方法ではなく、反復による方法で身につければよいという教育観が確立していたのです。
この寺子屋教育の勉強法をインターネットを活用して現代に生かし、更に、創造性を高める作文教育に結びつけていくというのが、言葉の森がこれから考えている教育のビジョンです。
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日本の寺子屋式勉強法のひとつの名残りが九九の暗唱です。
欧米では、九九を理解によって一覧表などを使って覚えようとするので、できる子とできない子の差が生まれ、できる子でも大してできるようにはなりません。
義務教育段階のあらゆる勉強は、九九と同じです。
しかし、九九は学校の勉強だけではできるようにはなりません。
ここが、学校と寺子屋の教育法の違いなのです。
なぜ学校だけでは、九九ができるようにならないかというと、学校は理解の場になっているからです。
教育の本質は慣れなのですが、学校は理解させる場になっています。そして、その理解を教えるのが先生の役割です。
では、慣れはどこで身につけるかというと、家庭での宿題か、学校のあともうひとつの塾か、又はその塾で出された宿題かなのです。
かつての寺子屋では、理解ではなく最初から慣れを身につけさせる教育法が確立していました。それが、限られた教材と音読による反復と集団の中での学習というシステムでした。先生の役割は、教えることではなく、そのシステムをメンテナンスすることだったのです。
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言葉の森は、昔、作文だけを教える作文教室としてスタートしました。
「創造性を育てる作文」というのが指導の目標でしたから、当初は国語の勉強などは度外視していました。今でも漢字の書き取りなどには力を入れていません。
それは、国語とか漢字とか、あるいか算数数学の勉強とか英語の勉強とかいうものは、答えも勉強の仕方もはっきりしているものですから、わざわざ人に教えてもらうようなものでないと考えていたからです。
しかし、創造性を育てるといっても抽象的で、具体的にどういう勉強が創造性を育てるのかわかりません。
そこで、いろいろな試行錯誤の結果、今は、音読で語彙力をつける、暗唱で文章を丸ごと理解する力をつける、構成と項目を意識して書く、プレゼン作文で発表と交流の機会を作る、というような方法で指導するようにしています。
また、作文の評価はどうしても主観的になるので、客観的な評価ができるように、森リンという自動採点ソフトを開発しました。特許庁の検索のページ(
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/all/top/BTmTopPage )で、「言葉の森」と検索すると表示されます。
そして、この自動採点ソフトの点数と、小1から高3までの構成・項目指導の評価を組み合わせて作文検定試験を行うようにしました。
作文の勉強というものは心理的な負担の大きいものなので、なかなか独学で続けることができません。
だから、夏休みの感想文の宿題なども、締め切りギリギリにならないと書け出せないという子が多いのです。
そこで、言葉の森では、開設当初から事前指導に力を入れ、作文を書く前に10分間、先生がその子に合わせて説明するという方法で指導するようにしました。
一般の作文指導はこの逆で、事前に何の指導もないか、あるいは全員一律の指導があるだけで、子供たちに作文を書かせます。そして、書いたあとに赤ペンで詳しく添削します。
赤ペンの添削がたくさんあると、いろいろ教えられているような気がしますが、その添削を生かせる子はまずいません。
作文は、事前指導でなければ力がつかないのです。
言葉の森の作文指導は、書く人の立場に立った系統的なものなので、小1から始めて高3あるいは大学生、社会人になるまで続ける人がよくいます。
そういう人たちは、書くことが苦にならないのはもちろん、書くこと、読むこと、考えることが好きな、個性のはっきりした人になるようです。
ところが、このように順調に勉強を続けられない人も一部にいることに、最初のころから気づいていました。
それは、例えば、読書の習慣がない子、簡単な本しか読まない子、長文の音読をして来ない子、その結果親子の対話もない子、暗唱が続けられない子などです。
更に、作文や国語だけでなく、算数や数学の勉強でも、通信教材を漠然とやるだけだったり、塾に行っているという理由で家庭学習の習慣がなかったりする子などもいました。
また、小学生なのに、勉強が忙しくて読書の時間がとれないという逆立ちした勉強の仕方をしている子もいました。
もちろん、その反対に、中学入試や高校入試や大学入試の受験の直前まで作文の勉強を続け、読書の生活も続け、受験にも合格し、合格後またすぐ作文の勉強を開始するという子もいました。
この差は、能力の差ではなく、家庭学習や家庭環境の差だと思ったのです。
しかし、教室では、家庭学習まではコントロールできません。
「長文ちゃんと読んでくるんだよ。そしてできればお父さんやお母さんに取材してくるんだよ」と前の週に言っているのに、その週になると、「まだ読んでいませんでした」となってしまう子は、やはり密度の濃い勉強はできません。
それは、やむを得ないことだと思っていました。教室では、家庭での過ごし方まで関与できないからです。
ところが、インターネットの技術の発達で、クラウドサービスのひとつとして、教室と家庭を結びつける学習指導ができるようになったのです。
それが、今行っている寺子屋オンエアです。
生徒は、自宅で自分の好きな時間に勉強を始めます。
しかし、勉強の仕方を知らない子がほとんどなので、言葉の森の方で国数英の指定の教材を決め、その勉強の方法も決めておきます。もちろん、自分のやりたい教材でやってもかまいません。
勉強時間は約1時間ですが、低学年の生徒は自由に時間を短くできます。
予定の勉強が終わると、読書をして先生の電話を待つようにしています。これで、読書習慣のない子でも、毎日本を読む習慣がつきました。
勉強している間は、先生や同じ時間に勉強している友達が見えるので、自然に勉強する雰囲気で集中して取り組めます。
勉強が終わると、先生がその日の感想を聞いたり質問をしたり雑談をしたりします。電話だけでなく顔も見えるので、話が弾みやすくなります。
生徒がその日に音読したものは、録画して先生に送るようにしているので、音読の習慣もつきます。
こういう形で毎日勉強をしていると、確実に力がつきます。
勉強は、塾に週何日か通ったり、通信教材をひととおりやったりするよりも、毎日の自学自習を続けることで本当の力がついてくるからです。
なぜかというと、塾や通信教材の勉強は、わかることもわからないことも同じようにやるので、わかることをやっている時間は無駄になり、逆にわからないことはいつまでもわからないままになることが多いからです。
小学校低中学年のときは、勉強自体が易しいので、こういう勉強法でも力がつきますが、高学年になると塾や通信教材の勉強ではなかなか力がつきません。力をつけるためには、無駄を承知で勉強の時間を長くするか、自分なりにわからない問題を反復する仕組みを作らなければなりません。しかし、そういう仕組みを作れるような子は、自学自習で勉強できる子なのです。
寺オンは、この家庭での自学自習になるのです。自学自習を先生がアドバイスする形の勉強なので、家庭学習のいいところと通学教室のいいところを兼ね備えた勉強になります。
寺オンの応用形態として、作文の勉強と寺オンの勉強を結びつけることもできます。
作文の勉強で、10分間の事前指導を受け、そのまま寺オン上で作文を書き、作文が終わったら他の勉強や読書をし、勉強が終わったときにまた先生から10分間の話があるという形です。
その間、生徒は先生とずっとつながっているので、先生もその子がどういう感じで作文を書いているかがわかります。
また、ネットワーク環境があると、プレゼン作文発表会などの生徒どうしの交流の企画もすぐに行えるようになります。
夏合宿などのリアルな交流も並行して行えば、ほとんど自宅にいながらにして、勉強も交流もできる充実した教育環境ができます。
インターネットを利用した教育ですから、この寺オンの勉強を日本国内だけでなく、海外にも広げていくことができます。
作文指導は、既に海外の生徒を対象にして行っているので、時差の問題さえ解決できれば、寺オンも海外生徒対象に行うことができます。
海外の場合、最初は海外の日本人の子供が対象ですが、将来は、日本語を勉強したいという外国人も生徒の対象になります。
すると、そういう海外の生徒を、ホームステイなどで日本に滞在させる形で受け入れる場所も必要になります。
それが「森の学校」という構想です。
そこは、もちろん日本国内の生徒も、寺子屋合宿の場所として利用できます。
以上の作文と寺オンのシステムは、教材を送るのに宅急便を使うような場面以外は、ほとんどすべてインターネットを基盤としているので、どこでも立ち上げることができます。
例えば、世界中の生徒を、三浦半島の海と山に近い静かな場所に森の学校を作り、そこから教えるということもできるのです。(つづく)
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「教育が変わらなければならない」と考えている人は多いと思います。
しかし、何をどう変えるのかというと、それぞれの人が主観的に勉強の内容をどう変えたいかと言っていることが多いのです。
歴史の勉強をもっと人間的な感動のあるものにしたいとか、国語の教材をもっと明るく前向きなものにしたいとか、道徳の教科に力を入れたいとかいうことは、それぞれに大事なことです。
しかし、本当に変えなければならないのは、勉強の内容よりも勉強の方法です。
教えてもらう勉強ではなく、自ら学ぶ勉強にしなければ、教育の根本は変わらないのです。
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大人は、子供たちの勉強を見て、間違えたところをすぐに直そうとしたり、できなかったところをすぐに理解させようとしたりしがちです。
その気持ちはわかりますが、そういう勉強の仕方をしていると、まず教える人がくたびれてきます。そしてだんだん叱るようになってきます。
次に教えてもらう子の方が最初は真面目に聞いていますが、だんだん気分が乗らなくなってきます。
そして最後に、教える方も、教えてもらう方も疲れ果ててしまい、勉強が続かなくなるのです。
勉強の仕方で最も大事なのは、長続きさせることです。どんなによい教え方をしても、長続きしなかったら、その勉強は身につきません。長続きさせることを再優先して勉強させるというのが、勉強の仕方の鉄則です。
では、長続きさせるためにはどうしたらよいかというと、それはにこやかに見守るだけにするのです。
それでは、できなかったところがいつまでもできないままではないかと思う人もいると思いますが、できなかったことも繰り返しているうちに自然にできるようになるのです。
ただし、そのためには、できなかったところを繰り返し勉強する仕組みを作ることが大切です。
「作文が書けない」「書くことがない」「どう書いていいかわからない」などという質問を体験学習の子供たちから時どき受けます。
そのときに、教える側が真面目になって、書くことを引き出そうといろいろアドバイスをすると、ますます書けなくなります。
書けない原因の第一は、読書不足です。第二は、これまで注意されすぎてきたことです。
だから、アドバイスの方法でいちばんいいのは、口頭でアドリブで書くことを言ってあげることです。
「じゃあ、今から先生が言うとおりに書いてね。『きょう、ぼくはあさ6じにおきました。あさごはんは、なっとうとたまごやきでした。』はい、書いてごらん」
こういう感じで言ってあげると、子供たちは、安心して素直に書き出します。そして、途中から、「なっとうとたまごやきじゃなくて、パンとぎゅうにゅうだったんだけど」などと言いながら自分で書くようになるのです。
書き終えたら、たとえそれがほとんど先生の言ったとおりであっても、褒めてあげて、それでおしまいです。
言葉の森に体験学習に来る生徒の中には、作文が超苦手という人もよくいます。
そういう子供たちが、体験学習の1回めから苦もなく書き出し、やがてどんどん書けるようになり、作文が得意になっていきます。
それは、作文に慣れるように教えているからなのです。
音読も同じです。
国語があまり得意でない子は、つっかえつっかえ読んだり、読み間違えたりします。それを近くで聞いているお母さんが、注意して直そうとすれば、音読はますます苦手になり下手になっていきます。
何も言わずににこやかに聞いていれば、やがて上手に読めるようになります。
これも、慣れです。慣れれば誰でも上手になるものなのです。
勉強も同じです。
算数や数学でできない問題があったとき、教える側はついわかりやすく説明してその場で理解させることがよいことだと思ってしまいます。
しかし、いちばんよいのは、子供が自分で苦労して、「あ、わかった」というわかり方をすることです。
だから、できなかった問題は、少し説明してわからないときは、それ以上説明をせずに、次の日にもう一度同じところをやって、解法と答えを読ませるといいのです。
それを何度か繰り返し、それでもわからないときは、問題と解法と答えを書き写し、それを覚えてしまうぐらいにします。
そうすると、ほとんどの場合、その問題に慣れて自然に理解できるようになります。
それでもどうしてもわからないときは、生徒掲示板に書いて、先生に聞けばいいのです。
音楽や運動は、頭での理解よりも身体の慣れだということをみんな知っています。
知的な理解も大切ですが、そこに使う時間はわずかで、練習量のほとんどは身体が慣れるための時間です。
勉強もそうです。
特に、国語や作文の勉強は、他の教科よりもずっと運動や音楽の習得に近い勉強です。
慣れるためには、いつもにこやかに褒めて、長続きさせていくことが大事なのです。
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戦後教育を受けたお父さんお母さんの世代には、理解というものに対する信仰のようなものがあります。
「丸暗記ではなく、理解することが大事だ」と言う人が多いのですが、本当は、理解よりももっと大事なものが慣れなのです。
赤ん坊は、歩き方を理解してから歩くのではありません。まず歩き始めて、何度もころんでいるうちに歩けるようになります。
その場合、大事なのは歩いて向こうに行きたいという目的です。
勉強の場合は、正解という目的があります。目的さえわかっていれば、ほとんどは慣れでできるようになるのです。
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寺子屋オンエアで、子供たちが家庭学習をしている様子を見ると、みんなの勉強の仕方の長所短所がよくわかります。
今回はその中で、いくつか問題に感じたことを紹介します。
今後の家庭学習の参考にしてください。
●勉強は長時間やらせすぎない
せっかく先生が見ていてくれるのだからと、長い時間勉強させようとするお母さんがいます。
長くやってくれると、親は確かにうれしい気がすると思いますが、長くやることによって子供の負担感が少しずつ蓄積されてくると、結局長続きしなくなります。
勉強は、短い時間でよいので、毎日同じようなことを長く続けることで力がついてきます。どんなに集中して長時間やったとしても、その結果長続きがしなかったら何の成果もありません。
親から見て、ものたりないと思うぐらいの時間が、子供にとっては最適の時間なのだと考えていってください。
本人に勉強の自覚ができる中学3年生ぐらいになると、親が何も言わなくても長時間集中してやるようになります。長時間の勉強は、本人が自覚してからでいいのです。
●問題集に直接答えを書かない
問題集に直接答えを書く子がよくいます。問題集の方も、空白が広くとってあり、そこに計算式と答えが書けるようになっているものが多いようです。
しかし、問題集に答えを書くと、結局その問題集は1回やっただけで終わりになってしまいます。
問題集には、○と×だけをつけておき、計算と答えは別にノートに書きます。これなら、間違えたところだけを何度も繰り返しできるので、その問題集を完璧に仕上げることができます。
ところで、こういう説明をすると、ノートの方に○と×をつけるだけで、問題集には何も書いていないという子がいました。それでは、どの問題ができてどの問題ができなかったかわかりません。
問題集には○と×、ノートには計算と答えと○と×をつけておいてください。
●面白く読める本を優先、しかし少しずつ難しい本に触れる機会も増やす
読書は、勉強よりも優先して毎日取り組む必要があります。特に小学生の場合はそうです。
読書さえしっかりしていれば、今の成績が普通程度であっても、学年が上がって本気で勉強に取り組むようになればすぐに力がつきます。
逆に、今の成績がどんなによくても、読書を後回しにしている子は、学年が上がると成績が伸びなくなります。
今の成績よりも将来の学力を考えて、読書を毎日欠かさずに行うようにしてください。
本の選び方で、よく「○年生の読み物」などとなっている本がありますが、こういう細切れの名作が載っているようなものは、没頭して読む本にはなりません。
物語文であればストーリーの面白い本、説明文であればその子の興味のあるジャンルの本を選んでいくようにしてください。
小学校低学年で読む本として、「怪傑ゾロリ」のような本は、大人から見れば品がないように見る人もいると思いますが、文章はしっかりしているし内容も面白いのでおすすめです。
漫画や学習漫画や絵本や図鑑のような絵に頼るものでなければ、子供が夢中になって読む本をいちばんいい本だと考えていってください。
しかし、大人が新しい別のジャンルの本の面白さに触れる機会を作ってあげなければ、子供はいつまでも同じレベルの本にとどまります。
その子の興味や関心や読書力を考慮しながら、少しずつ興味の持てる説明文の本を読む機会を作っていくようにしてください。
難しい本というと、大人はすぐに難しすぎる名前だけ有名な本を読ませがちです。
その子の読書力を考えて、無理のない難しい本を選ぶようにしてください。
また、1冊を最後まで読む形の読書だと、その本に興味が持てない場合、ずっと同じ本でとどまるようになります。
読書は、読んでいるところに付箋をつけ、何冊かの本を並行して読むようにすると、1冊の本だけを読むよりも読書量が増えます。
また、子供に本を読ませるだけでなく、お母さんお父さんも毎日必ず本を開くようにしてください。
●問題集読書の音読と感想
問題集読書は、答えを先に書き込み、音読し、感想を書くという流れで勉強しています。
この中で最も大事なのは音読です。しかし、音読は形に残らないので、形の残る感想を書くようにしています。
感想は、50字ぴったりに書くことと、たとえ又は自作名言(「○○はAでなくBである」のような表現)を入れて書くことを目標にすると、より高度な書き方になります。
ただし、たとえや自作名言を毎回入れるのは難しいので、とりあえずは50字ぴったりに書くことを目標にしていくといいと思います。
感想は形に残るので、子供も親もつい感想に力を入れがちですが、勉強の中心はあくまでも音読で、感想はやり終えたという形を作るためのものと考えていってください。
音読は、これまでは本人任せでしたが、skypeのビデオメッセージで先生あてに送れるようになったので、音読も形の残る勉強になりました。
音読も感想も、長く続けることが大事ですから、近くで見たり聞いたりしているお母さんは、どのような音読や感想であっても、細かい注意はせずに、続けることが第一と考えて見ていってください。
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題名長すぎ(笑)。
寺子屋オンエアで子供たちの勉強の様子を見ていると、いろいろなことに気が付きます。
いちばん多いのが、形にとらわれて、中身のあまりない勉強をしていることです。
例えば、問題集の解きっぱなし。
子供はつい解くことが勉強だと思ってしまうのです。
本当は、解いたあと間違えたところを理解し、それを反復して練習する仕組みを作るのが勉強なのですが。
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江戸時代の日本の各地で広がっていた寺子屋は、自学自習のシステムでした。
共通の場で勉強するので、自然に勉強する雰囲気ができますが、先生は一斉指導で教えるわけではありません。
勉強の方向性はありますが、何を勉強するかは生徒一人ひとりに対応して、先生がアドバイスする形でした。
寺子屋オンエア(以下寺オン)は、この寺子屋方式の自学自習を家庭にいながらにして、先生のコントロールのもとで、インターネットを利用して自由な時間できるようにしたものです。
寺オンを始めるようになった生徒の中に、すぐに驚くような成果が現れることがあります。
ひとつには、家庭で勉強をしたり読書をしたりする習慣がほとんどなかった子が、毎日勉強や読書をするようになることです。
またもうひとつには、既に家庭学習の習慣のあった子は、それまでひとりで又は親子で勉強していたときに比べて、より集中度の高い勉強をするようになることです。
しかも、寺オンの勉強法は、よくありがちな家庭学習の次々と新しいプリントをやる形ではなく、1冊を徹底反復する形ですから、確実に実力がつくのです。
例えば、中学生のある生徒は、小学6年生から寺オンを始め、塾には行かずに家庭だけで勉強しています。中学生になってからの成績は全教科ほとんど5を維持しています。
小学3年生のある生徒は、それまで家庭で勉強したり読書をしたりする習慣がほとんどありませんでした。しかし、寺オンを始めるようになってからすぐに、毎日の勉強と読書の習慣がつくようになっています。
しかし、このような例がある一方、寺オンのコンセプトが新しいこともあって、時々勘違いした受け止め方で勉強している人もいます。
例えば、勉強する習慣のなかった子が、寺オンで勉強するようになったから、もっと勉強させるために塾に行かせるというようなことがありました。
寺オンを週4日やっていたのを、週2回にして、残りの2回は塾に行かせるというような形です。
そのようなことをすれば、塾に行っている2回分は家庭学習ができなくなります。そして、結局勉強の方向が定まらなくなるので、どちらも中途半端にしかできなくなってしまうのです。
子供が家庭で勉強するのを見ていると、時どき飽きたり、遊んだり、ふざけたりすることがあります。
それが気になると、つい塾に行かせてもっと集中して勉強させるようにしようなどと思いがちですが、子供は塾でも同じように、飽きたり遊んだりふざけたりしています。塾に行かせると、それが親の目から見えなくなるだけなのです。
だから、家庭で、時どき飽きたり遊んだりするのを許容しながら、毎日の習慣として勉強を続けさせていくというのが最もよいやり方なのです。
寺オンを、週に1回か2回見てくれる家庭教師のようなものを考えてしまう人もいます。
勉強は、毎日同じことを同じようにやるのが大切なのですが、寺オンのときだけ、せっかく先生が見てくれているのだからと、普段できない勉強をするという人もいました。
これは、寺オンも、その特別の勉強も、どちらもやりたがらなくなる最悪のやり方です(笑)。
特別の勉強をさせるのであれば、それは、その特別の勉強を専門とする特別の先生に頼んで、より高い月謝で本格的に取り組むべきです。
寺オンは、低価格で日常の勉強の習慣をつけ、実力をつけるという、言わば「凡事徹底」の勉強ですから、そういう特別の勉強をする場ではないのです。
勉強は、平凡なことを継続するということが大事ですから、寺オンの回数が、週に1回や2回の場合でも、同じ勉強の仕方を寺オンのない日もやっていく必要があります。
ほかの曜日はそれぞれほかの習い事をして、寺オンのある日は国語の勉強というやり方では、国語もほかの勉強も力がつきません。
寺オンのある日の国語・算数数学・英語・読書の勉強の仕方を基準にして、寺オンのない日も、土曜日曜も含めて毎日同じような家庭学習を続けていくというのが、最も能率よく実力をつける道なのです。
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受験作文コースの取り組みで大事なことは三つあります。
第一は、自分らしい個性や感動のある実例を見つけていくことです。
受験コースのそのときどきの課題で、いい実例を見つけていると、それが試験の本番でも応用できるようになります。
実例は、子供が自分で考えるだけでなく、親が似た例を話してあげることも大事です。親の似た例にヒントを得て、子供が更によい例を考えつくということも多いからです。
第二は、深い感想や意見を書く練習をすることです。
作文の課題が、例えば「これまでの学校生活の思い出」のような身近なものであったとしても、身近な話をそのまま書いたのでは、受験用の作文とはなりません。
自分の書いた文章の中に、必ず大きい視点、深い見方、個人の実例を超えたより一般的な考え方というものが必要になってきます。
これは、小学6年生の課題で「一般化の主題」として勉強してきたものです。
ところが、この一般化した感想や意見は、子供にはなかなか見つけにくいものなのです。
それは、その子の日常生活の中で、そういう一般的な話を論じる必要がないために語彙が不足しているからです。
そこで出てくるのが、やはり両親です。
毎回の作文の課題に応じて親子で話をし、そこに親が大人としての大きい見方から話をする機会を増やしていきます。
例えば、「私の友達」というテーマで書く場合は、個々の友人の話を超えて、「友情というもの」について話をするということです。
一般化した、より抽象的な語彙を使えるようになるためには、親子の対話が最も役に立ち、また楽しく続けられるものなのです。
第三は、切れ味のよい表現を作っていくことです。
受験の作文を採点するのは人間ですから、単に正しいことを書いてあるだけでなく、読む人の心にひびくような表現が使われていることが大事です。
この切れ味のよい表現が、作文の結びの5行以内に入っていると、読んだあとの印象がかなり上がります。
同じレベルの作文であれば、結びの5行に切れ味のよい表現があるかどうかで、合否もほぼ決定するのではないかと思います。
ところが、この切れ味のよい表現は、作文をいくつも書く中で、偶然に出てくる面があります。
だから、毎回表現の切れ味を意識して書き、そこに両親も参加してアドバイスするという形をとっていくといいのです。
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受験コースの方針は、出そうなテーマで10本書いたら一応安心、ということです。
その10本をすべて力作で書くのです。
しかし、言う方は簡単ですが、書く方は大変(笑)。
作文というのは、心理的負担の大きい勉強なので、ひとりでやるのは難しいのです。
受験作文は本人がひとりで突破するものではないのですね。
家庭の力、親子の風通しのよさ、いろいろなことが試されてしまいます。
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天外伺朗さんの「『教えないから人が育つ』横田英毅のリーダー学」を読んでいて、ふと、中室牧子さんの「学力の経済学」という本のことを思い出しました。
天外さんは、本名土井利忠さん。元ソニーの常務で、これまでにCD、ワークステーションNEWS、ロボット犬AIBOなどを開発した人です。
天外さんは、「教えないから人が育つ」の中で、全面的な受容の大切さを述べています。
一方、「学力の経済学」は、データの裏づけによって、何が学力にとってプラスになるのか、あるいはマイナスになるのかを分析した本です。
この本を見ると、例えば、ある程度のご褒美は子供のやる気を引き出し、学力を高めることに結びつくというようなことが書かれています。
この2冊を並べて考えると、教育の距離とか、人間の成長の距離とかいうものが、両者で大きく違っていることがわかります。
昔、和田秀樹さんと森毅さんの教育観の比較を考えたことがあります。
和田さんは、「数学は、わからなかったらすぐに答えを見て、その解答を理解すること」と述べていました。
この方法で勉強すると、誰でも数学が得意になります。大学入試までのレベルの数学は、考える勉強ではなく理解する勉強だからです。
一方、森さんは、それとは反対に、「数学は、答えを見ずに、まず自分で考えること」と述べていました。
森さんと同じ数学者の岡潔さんは、朝起きてから夜寝るまで一つの問題だけを何ヶ月も考え続けていたそうです。
これは、受験の数学ではなく、学問の数学です。
この両者の説は、どちらも正しいのであって、違いは、数学というものの距離をどこまでと考えているかによって表れてくるのです。
同じことは、教育一般についてもあてはまります。
よく教育の逆説ということが言われます。よい環境とよい育て方で、よい子が育つというのは、多くの場合妥当性がありますが、時には、よい環境とよい育て方で、それに反発して悪い子が育つという例もあります。
逆に、悪い環境と悪い育てられ方をバネにして、よい子が育つという例もあるのです。
天外さんの言う全面的な受容というのもそうです。
世の中で活躍している人や、学問で業績を上げている人の中には、親から勉強しろなどと言われたことはないという人が意外と多いのです。
そのかわり、全面的な受容の中で、自分の好きなように成長し、はたから見れば遊びすぎだと思われるような子供時代や学生時代を送ってきたという例が多いのです。
褒めて育てるということは、この全面的な受容というところから考える必要があります。
褒めることを、「褒めてコントロールする」という短い距離の方法として考えると、それは受容とは正反対のものになります。
褒めるというのは、やる気を出させるために褒めるのではなく、自然によいところに目が向いてしまうという、褒める人自身の生き方としての褒めることなのです。
このように生き方として相手を褒めることができる人は、自分自身も受容しています。その受容の根源は、たぶんその人の親から受け継いだものです。
社会に出てから自分なりの人生を楽しく送れる人は、受容性の高い人です。
そこで、教育の距離というものが出てきます。
数ヶ月先のテストでいい点を取るために、ほめたり、叱ったり、うまくコントロールしたりするというのは、短い距離の話です。
そういう距離感も、もちろん少しは必要です。
しかし、もっと大事なのは、その子が将来社会に出たときに、社会の中で自分らしく自信を持って楽しく生きていける人間になってほしいという長い距離感の子育てです。
その長い距離感のもとになるものが、曖昧な概念のようにも見える全面的な受容なのです。
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