勉強をしない子を見ると、親はやきもきすると思いますが、親の言うとおりに順調に勉強しすぎている子の方が実はあとで問題になることが多いのです。
特に、低学年で勉強しすぎている子の場合はそうです。低学年のうちは、勉強などそっちのけで楽しく遊んでいるのが、実はいちばんいいのです。
低学年のうちは、誰でも親の言うことをよく聞きます。この段階で、親の言うことを聞かないという場合はまた別の問題がありますが、それはそう大して困ったことではありません。成長するにつれて、自然に直ってきます。
問題は、親の言うことをよく聞く低学年の時期に、親が子供に勉強をさせすぎてしまうことです。
特に、今は塾などで早期教育に力を入れているところがあるので、それに乗ってしまうと、子供は親と塾の両方で勉強をさせられすぎてしまいます。
言葉の森に来ている生徒の保護者は、全体に教育熱心な方が多いというせいもあると思いますが、勉強しない子の問題よりも、勉強しすぎている子の問題を感じることがよくあります。
勉強しない子は、それなりに楽しい子供時代を送っているので、バランスのよい成長をしています。この、楽しい時間が多いからバランスよく成長するというのが、人間の本来の姿です。
だから、そういう子供たちは、成長して社会に出て仕事をするようになると、それぞれ普通の社会人になっているようなのです。勉強が多少苦手だったとしても、社会生活に困ることがありません。
しかし、勉強しすぎた子の方は、無理を重ねて苦しい子供時代を送りすぎるせいか、社会生活にうまくなじめないこともあるのです。
もちろん、そういう極端な例はそれほど多いわけではありません。
しかし、小学校低学年の時期に、とてもいい子で、傍から見ればよすぎるほどいい子だった子が、成長して社会生活に適応できない状況を見ると、子供時代の過ごし方の大切さをつくづく感じるのです。
社会生活がうまく行かないというのは、ごく少数の例ですが、無理に勉強しすぎた子は、学年が上がると多かれ少なかれ親子の問題をかかえるようです。
その具体的な現れは、親の言うことに反発するようになるということです。低学年の時期に素直に我慢してやりすぎた分、自我が目覚め始める小学校4年生以上になると、親の言うことを急に聞かなくなります。
しかし、逆に、学年が上がっても素直に言うことを聞いてしまう子は、あとでもっと大きな問題が出てくるので、そのころに親に反発するようになった方がいいのかもしれません。
親子の協力が大切になるのは、子供が小学校高学年、中学生、高校生と学年が上がるようになってからです。この時期に、勉強も含めた重要な問題を親子で自由に話し合えるようになっていることが大事なのですが、子供が親に反発しているような状態では、そういう話し合い自体ができません。
そして、その原因は、小学校低学年の時期に、親の望むいい子でありすぎた場合であることが多いのです。
では、どうしたらいいかというと、親の基本姿勢は、子供の様子をよく観察して子供が望むことをさせてあげることです。
子供は、親の目から見て一見無駄なことによく熱中します。絵の好きな子は、どうでもいいような絵を何時間でも描いていることがあります。泥団子作りに熱中して何時間も団子を作り続ける子もいます。(「一魚一会」のさかなクンが、そういう子でした。)
その無駄に見える熱中を途中で打ち切らせて、勉強の時間を持ってくるようなことがいちばんよくないのです。しかも、その勉強が長時間となると、子供の自然な成長はかなり妨げられます。
低学年の時期は、できるだけ自然な楽しい時間を送れるようにし、勉強はごく短い時間で済ませ、勉強の習慣をつけるだけにとどめておくというのが、望ましい子供時代の過ごし方です。
では、その短い勉強時間で何の勉強をしたらいいかというと、それは単純に日本語の読み書きの力をつけておくことです。
算数の勉強は苦手にならない程度にやっておく必要がありますが、いちばん大事なのは日本語をできればやや高度に使えるようにしておくことです。
その最初の出発点は、親子の対話と、読み聞かせと、読書です。誰でもできることですから、難しいことはありません。
言葉の森では、今、読書実験クラブという企画で、オンラインで読み聞かせをする少人数のクラスを開いています。
また、小1から作文の勉強ができる、親子作文コースがあります。
こういうものを利用してもよいと思います。
勉強の中心を日本語に絞り、あとは楽しくたっぷり遊ぶというのが、子供時代の理想的な過ごし方になると思います。
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今、子育て真っ最中の方は、もっと遊んだ方がいいということに実感が持てないと思いますが、子供時代たっぷり遊んだ子は、それぞれ将来立派な社会人になるようなのです。
勉強は、学年が上がって、本人がやる気になってから本格的にやるのがいちばんで、それ以前は、何しろ楽しく遊んでおくのです。
たっぷり遊び、しっかり学んでいきたいですね。
核家族と少子化で、母と子だけが密着して暮らしていると、バランスを崩していることに気づきにくいという面もあります。
子供の様子をよく観察して、できるだけ子供が楽しい時間を過ごせるように(つまり苦しい時間を過ごさないように)工夫しておくことが大事なのだと思います。
明らかに親がやらせすぎている子供は、作文に取りかかるまでとても時間がかかったり、途中で気が散ったりすることが多いように感じます。
大人になったわが子と話していると、なにかのきっかけで「あの勉強はしてもしなくても、結果は同じだったと思うよ。」と言われてどっきり。どうしてそのとき言わなかったのと問うと、予想通り「だって、怒るにきまってるもん。」と。
子どもは自分のことをちゃんと把握しているのに、親だけ焦っていたことが多いようです。
秋は、運動会のお弁当、もみじがり、遊んだ思い出もあってほっとしました。
伸び代を残しておくということは大事ですね。
子育てが終わってから気づくことも多いものです。
今日、小4の娘の保護者会で、読んだことのある教科書の長文の内容について問うテストはある程度できるが、全く新規の長文について問うテストについては結果が悪かった、というお話がありました
先生はそこで、読書がいかに大切かという話をされていましたが、それに加えて、やはり親子の対話、そして読み聞かせも大切だと感じました。
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性格もよくて、成績もよくて、スポーツも得意で、友達関係もうまく行ってというような何拍子もそろった子がいます。
そういう子のお母さんは、なぜかあまり教育論をぶたないのです。
教育について自分なりの考え方はあるのだと思いますが、その教育論を取り立てて論じるようなことがあまりないのです。
誰でも、子育ては初めての経験ですから、子供の育て方についていろいろな試行錯誤があるはずです。
しかし、そういうお母さんは、周囲の声に流されるようなこともなく、自分の方針を淡々と貫いているような印象を受けます。
そのような家で育った子が、勉強も、運動も、性格も、バランスの取れた子になるようです。
話は少し変わりますが、昔読んだ本で、「経営者が本を書くようになると、経営がうまく行かなくなる」ということが書いてあるのを読んだことがあります。これは、納得できるところがあります。
それまでうまく行っていた人が、何かを論じるようになると、だんだんと実行の方がうまく行かなくなることがあるのです。
クロネコヤマトの中興の祖と言われる小倉昌男さんも、確か、最初の著書である「小倉昌男経営学」にそのようなことを書いていたと思います。自分が書くのはこの1冊だけだ、というようなことを書いていたのです。
しかし、その後何冊かの本を出しているのを見ると、その後の数冊は、依頼を断りきれないような事情もあったのだと思います。
では、なぜ論じることと実行することが違うかというと、実行にはさまざまな例外があるからだと思います。
子供の成長には、多様な逆説のようなものがあります。褒めて育てることがよいという原則があったとしても、厳しく叱られることで急に成長する子もいます。
決められたルールどおりに真面目にやることが正しいとしても、たまに脱線することによって人間の幅が広がることもあります。
そういう多様な例外や逆説を見ていると、子育てを一律に論じるようなことはとてもできません。
だから、子供の成長を真面目に考えていると、子育て中のお母さんは、教育を論じるようなことは自然にしなくなるのではないかと思います。
本を読んで、本のとおりに子供を育てるようなことはできません。
いろいろないい話を聞いたとしても、大事なことはその話の方ではなく、実際に生きて動いている子供の方にあります。
子供の様子をよく見て、子供に合ったことをときどき軌道修正をしながら行っていくというのが、平凡ですがいちばんまともな子供の育て方になるのだと思います。
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「子供が素直に育っているなあ」と思う子育てをしているお母さんは、なぜかもの静かな人が多いです。
聞けばいろいろ話してくれますが、自分から積極的に教育論をぶつようなことはないのです。
たぶん実践に専念している人は、現実は理屈で割り切れるものではないという大きな教育観があるのだと思います。
どうして、実践家はあまり理屈や理論を言わないかというと、自分の言った理屈に実践が引っ張られてしまうことがあるのを知っているからです。
だから、日本では、そして昔の中国では、巧言令色鮮し仁なのです。
しかし、欧米では、口も達者で実践も達者という人が多いような気がします。
その理由は何かというと、たぶん日本人は、言葉に引っ張られやすいところがあるのだと思います。
だから、何かに真剣に取り組んでいるときは、無口になりがちなのです。
情報に流されず、自分が納得する子育てをしたいですね。
単純にひとことで割り切れると思うときが危ない。これは、自戒の言葉。
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