小学校1年生から3年生の時期は、まだ学校の勉強は全然難しくありません。教科書でやっていることをそのまま理解して練習すれば誰でもできるようになります。
だから、この時期は難しい勉強をしたり、先取りをしたり、長時間勉強したりという無理をする必要は全くないのです。
小学校3年生までは、何でも吸収できる時期です。
だから、味気ない勉強を吸収するのではなく、読書と対話と経験という生きた時間をたっぷり吸収していく時期です。
この時期に、そういう楽しい経験をたっぷり味わった子は、向上心と創造性が育ちます。
学年が上がり、自分で自覚して勉強するようになったときに最も必要なのは、自分の力でやっていこうとする意欲と、自分なりに工夫してやっていこうとする独創性です。
そのときに、小学校低中学年までに培った土台が生きてくるのです。
ところが、子供たちが、本を読んだり、家族で対話をしたり、いろいろな新しい経験をするという機会は、それぞれの家庭に任されています。
勉強的なことは学校でみんなと一緒に教わりますが、勉強以外のことは、家庭の守備範囲になっています。
そこで、言葉の森では、子供たちが、読書や対話や経験をみんなと交流できる場を作るために、オンエア講座の読書実験クラブを始めました。
ここで行っていることは、読んでいる本の紹介、読み聞かせ、それぞれの経験の発表、構想図を書く練習などです。全体の時間は約45分間です。
この時間は、普通の勉強的なことよりも、もっと頭の中身を使うような時間になっているのではないかと思います。
読書実験クラブの紹介(動画は一部。子供たちが映っている部分はカットしてあります。)
https://www.youtube.com/watch?v=OFSzXSlBq-Y
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これまで、説明文の本というと、知識の羅列のようなものが多かったのですが、最近、子供たちが楽しく読める説明文の本が少しずつ出てきました。
説明文の本のよいところは、読んだことをそのまま現実生活にあてはめて実験や観察ができることです。
また、そこに出てくる話をもとに、お父さんやお母さんと知的な対話を楽しむことができます。
こういう本を読む場が、これから広がっていくといいと思ってます。
例えば、このクラゲの話を読んだあとに、お母さんがクラゲを買ってきてそれを料理して食べさせてくれたとします。
すると、子供にとって、このクラゲの味わい方は本を読まなかったときよりもかなり深いものになっているはずです。
説明文のよいところは、このように自分の経験によって読書の内容が深まっていくことです。
小学校低中学年の子の学力は、勉強ではなくこういう読書と経験によって育つのです。
真剣で、しかも楽しい時間になっています。読書が自然と習慣になりますね。
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読書を全然していないように見える子供のお母さんに、
「 家庭で毎日10ページでいいから本を読むようにしてください」
というときがあります。
すると、こういう対応してしまう人も多いのです。
「ほら、聞いた。ちゃんと本を読まなきゃだめなんだって。言ってるでしょ」
それは、子供の問題ではなく、お母さんの問題なのです。
自分以外の他の人のせいにしているうちは、物事は進みません。
これは、子供が勉強するときも、大人が仕事をするときも同じです。
読書について言葉の森が今進めているのは、寺子屋オンエアで家庭学習と読書を兼ねて行うことです。
先生や友達といる中では、子供は自然に読書ができます。
1時間の枠の勉強時間ですから、あまった時間は自然に読書になります。
先生が電話をする時間まで、どの子も(もちろん、普段本を読まなかった子も)黙々と読書をしているのを見ると、結局読む環境を作れば誰でも本を読むようになるということだと思います。
そして、読むことに慣れて、読む力がついてくれば、自然に読書が好きになるのです。
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人間は弱いので、うまく行かないことがあると、つい人のせいにいしたくなります。
人の代わりに、マスコミや政治のせいにすることもあります。
しかし、すべての問題は自分の問題として対処していかなければならないのです。
特に、子供の教育については、親が第一の当事者です。
問題があったら、答えはどこか別のところにあるのではなく、問題自身の中にあるのです。
強すぎる親も問題ですが、弱すぎる親も問題です。
いちばんいいのはバランスが取れていることですが、一人ではそれは難しいので、父母の役割分担になります。
古い家庭観かもしれませんが、私は、父親は頑固で融通がきかないぐらいでちょうどよく、母親は無条件に優しいぐらいちょうどよいのではないかと思います。
子供は、そのギャップで成長するのです。
なぜ、こういうことを書いたかというと、読書ができない子に読書をさせるには、最初はある程度の強制が必要だからです。
どんな子も、短い時間でいいので毎日読書をさせれば、必ず本を読む習慣がつくからです。
お母さんもいっしょに読書できるといいですね。
読書をしない子供に読書をさせるには、親の強制と読書が捗るような環境が必要ですね。でも、一度軌道に乗れば自然に本を読むようになると思います。もともと読書は楽しいもののはずなので。
プレジデントファミリー2016[秋]号より、
東大生が小学生の頃読んで、面白かった本は、下記の通りだそうです。
<男子>
1位かいけつゾロリシリーズ
2位ハリーポッターシリーズ
3位ダレン・シャンシリーズ
4位デルトラ・クエストシリーズ
5位ズッコケ三人組シリーズ
6位三国志
6位星新一の本
8位エルマーのぼうけん
9位バッテリー
<女子>
1位ハリーポッターシリーズ
2位黒魔女さんシリーズ
2位星新一の本
4位ダレン・シャンシリーズ
4位バッテリー
4位シャーロック・ホームズ
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言葉の森では、さまざまなテーマについて自由に話し合える場を作るためにFacebookグループを運営しています。
これらのグループは公開で、誰でも自由に参加できます。
それぞれのテーマに関心をお持ちの方は、いつでも自由にご参加ください。
グループでの情報交換をそれぞれの家庭の実践に生かしていただければと思います。
シェアさせていただきます。
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暗唱検定の一つの級は、約3000字の文章を5分間で暗唱することです。
その間、どの子も1文字も間違えず、よどみなく暗唱していきます。しかも、その内容が日本の古典からとった文章ですから、意味のわからない言葉や普段使うことのない言葉もふんだんに盛り込まれています。それをほぼ完璧に暗唱してしまうのです。
しかし、この暗唱の勉強は、毎日10分の時間を取って練習すれば、誰でも(もちろん大人でも)できます。
江戸時代の寺子屋で素読が勉強の中心であったのは、それが誰でもできる勉強法だったからです。
先生に教えてもらう形の勉強では、理解の早い子と遅い子の差が出てきます。そこでクラス分けをしたり、テストをして競争させたりすることが必要になります。
寺子屋の勉強は、そういう勉強法ではなく、誰もが自分のペースでやれるところまでやればいいという勉強法だったのです。
ところが、誰でもできるとは言っても、そのかわり毎日やらなければなりません。
しかも、やる内容はただ音読を回数を決めて繰り返すだけという単純なことです。
誰でもできる単純なことを毎日10分続けるというのは、今のような変化や刺激の多い時代には、実はかえって難しいのです。
だから、子供が親の言うことを聞いて、毎日10分音読や暗唱の練習を続けることができるかどうかが、その家庭の家庭学習がうまく行っているかどうかの目安になると思います。
もちろん、この場合、学校の宿題としてやるのではなく、家庭で独自に取り組む課題であることが大事です。
「宿題だからやりなさい」ではなく、「決めたことだからやろうね」ということで毎日の勉強を続けられるかどうかが大事なのです。
暗唱のほかに、問題集読書の音読を毎日している子もいます。
これは、1200字程度の長い問題文の文章でも、普通に読めば2、3分で読めます。ところが、この3分間の毎日の音読を続けられる子がなかなかいないのです。
言葉の森では、寺子屋オンエアという仕組みの中で、毎日音読を先生にskypeで送るというオプションを選択できるようにしています。
親子だけで音読を続けるのが難しくても第三者が入ると、続けやすくなるからです。
ここで毎日、問題集の音読を続けている子は、ほぼ必ず国語の成績が上がります。それは当然と言えば当然です。その学年の生徒が日常的に読まないようなやや難しい語彙のある文章を毎日音読するのですから、自然に語彙力も思考力も付いてくるからです。
今は、何でも人に教わる形の勉強が主流ですが、教わる勉強はやりやすい代わりに、意外と身につきません。
学習塾で国語の成績を上げるのは難しいのは、このためです。塾で何時間か勉強しただけでは、国語力をつけるということはできないのです。
勉強が本当に身につくのは、家庭で自分が納得できるまでやることによってです。だから、家庭の学習が大事になるのですが、その家庭学習の基本は、単純なことを毎日平凡に続けることなのです。
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勉強に王道があるとしたら、それは実に平凡なことです。
毎日同じことを同じように続けるだけなのです。
小学生の勉強の習慣作りは、その毎日続けることを定着させられるかどうかにあると思います。
言葉の森を長く続けている生徒さんは、その習慣を身につけていますね。
どこの塾がよいとかダメだとかいう情報が飛び交っていますが、本当に大切なものは家の中にあるのですね。
チルチルミチルみたいです。
勉強とというと、構えて、何か特別なことをやらなくてはいけないような気になりますが、本来の勉強は「毎日平凡なことをコツコツと」が大事なのですよね。
暗唱をがんばっている海外在住の小2の女の子、今、百人一首に取り組んでいるのですが・・・
最近の作文の結びを、
「さいごに一句。
地中海 ふりさきみれば・・・ 」と 川柳でしめくくってくれました。
暗唱から、古語への理解に発展して、その言葉を使って自作川柳ができるようになるなんて・・・
暗唱の力って本当にスゴイナぁ・・・と感慨一入です。
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勉強をしない子を見ると、親はやきもきすると思いますが、親の言うとおりに順調に勉強しすぎている子の方が実はあとで問題になることが多いのです。
特に、低学年で勉強しすぎている子の場合はそうです。低学年のうちは、勉強などそっちのけで楽しく遊んでいるのが、実はいちばんいいのです。
低学年のうちは、誰でも親の言うことをよく聞きます。この段階で、親の言うことを聞かないという場合はまた別の問題がありますが、それはそう大して困ったことではありません。成長するにつれて、自然に直ってきます。
問題は、親の言うことをよく聞く低学年の時期に、親が子供に勉強をさせすぎてしまうことです。
特に、今は塾などで早期教育に力を入れているところがあるので、それに乗ってしまうと、子供は親と塾の両方で勉強をさせられすぎてしまいます。
言葉の森に来ている生徒の保護者は、全体に教育熱心な方が多いというせいもあると思いますが、勉強しない子の問題よりも、勉強しすぎている子の問題を感じることがよくあります。
勉強しない子は、それなりに楽しい子供時代を送っているので、バランスのよい成長をしています。この、楽しい時間が多いからバランスよく成長するというのが、人間の本来の姿です。
だから、そういう子供たちは、成長して社会に出て仕事をするようになると、それぞれ普通の社会人になっているようなのです。勉強が多少苦手だったとしても、社会生活に困ることがありません。
しかし、勉強しすぎた子の方は、無理を重ねて苦しい子供時代を送りすぎるせいか、社会生活にうまくなじめないこともあるのです。
もちろん、そういう極端な例はそれほど多いわけではありません。
しかし、小学校低学年の時期に、とてもいい子で、傍から見ればよすぎるほどいい子だった子が、成長して社会生活に適応できない状況を見ると、子供時代の過ごし方の大切さをつくづく感じるのです。
社会生活がうまく行かないというのは、ごく少数の例ですが、無理に勉強しすぎた子は、学年が上がると多かれ少なかれ親子の問題をかかえるようです。
その具体的な現れは、親の言うことに反発するようになるということです。低学年の時期に素直に我慢してやりすぎた分、自我が目覚め始める小学校4年生以上になると、親の言うことを急に聞かなくなります。
しかし、逆に、学年が上がっても素直に言うことを聞いてしまう子は、あとでもっと大きな問題が出てくるので、そのころに親に反発するようになった方がいいのかもしれません。
親子の協力が大切になるのは、子供が小学校高学年、中学生、高校生と学年が上がるようになってからです。この時期に、勉強も含めた重要な問題を親子で自由に話し合えるようになっていることが大事なのですが、子供が親に反発しているような状態では、そういう話し合い自体ができません。
そして、その原因は、小学校低学年の時期に、親の望むいい子でありすぎた場合であることが多いのです。
では、どうしたらいいかというと、親の基本姿勢は、子供の様子をよく観察して子供が望むことをさせてあげることです。
子供は、親の目から見て一見無駄なことによく熱中します。絵の好きな子は、どうでもいいような絵を何時間でも描いていることがあります。泥団子作りに熱中して何時間も団子を作り続ける子もいます。(「一魚一会」のさかなクンが、そういう子でした。)
その無駄に見える熱中を途中で打ち切らせて、勉強の時間を持ってくるようなことがいちばんよくないのです。しかも、その勉強が長時間となると、子供の自然な成長はかなり妨げられます。
低学年の時期は、できるだけ自然な楽しい時間を送れるようにし、勉強はごく短い時間で済ませ、勉強の習慣をつけるだけにとどめておくというのが、望ましい子供時代の過ごし方です。
では、その短い勉強時間で何の勉強をしたらいいかというと、それは単純に日本語の読み書きの力をつけておくことです。
算数の勉強は苦手にならない程度にやっておく必要がありますが、いちばん大事なのは日本語をできればやや高度に使えるようにしておくことです。
その最初の出発点は、親子の対話と、読み聞かせと、読書です。誰でもできることですから、難しいことはありません。
言葉の森では、今、読書実験クラブという企画で、オンラインで読み聞かせをする少人数のクラスを開いています。
また、小1から作文の勉強ができる、親子作文コースがあります。
こういうものを利用してもよいと思います。
勉強の中心を日本語に絞り、あとは楽しくたっぷり遊ぶというのが、子供時代の理想的な過ごし方になると思います。
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今、子育て真っ最中の方は、もっと遊んだ方がいいということに実感が持てないと思いますが、子供時代たっぷり遊んだ子は、それぞれ将来立派な社会人になるようなのです。
勉強は、学年が上がって、本人がやる気になってから本格的にやるのがいちばんで、それ以前は、何しろ楽しく遊んでおくのです。
たっぷり遊び、しっかり学んでいきたいですね。
核家族と少子化で、母と子だけが密着して暮らしていると、バランスを崩していることに気づきにくいという面もあります。
子供の様子をよく観察して、できるだけ子供が楽しい時間を過ごせるように(つまり苦しい時間を過ごさないように)工夫しておくことが大事なのだと思います。
明らかに親がやらせすぎている子供は、作文に取りかかるまでとても時間がかかったり、途中で気が散ったりすることが多いように感じます。
大人になったわが子と話していると、なにかのきっかけで「あの勉強はしてもしなくても、結果は同じだったと思うよ。」と言われてどっきり。どうしてそのとき言わなかったのと問うと、予想通り「だって、怒るにきまってるもん。」と。
子どもは自分のことをちゃんと把握しているのに、親だけ焦っていたことが多いようです。
秋は、運動会のお弁当、もみじがり、遊んだ思い出もあってほっとしました。
伸び代を残しておくということは大事ですね。
子育てが終わってから気づくことも多いものです。
今日、小4の娘の保護者会で、読んだことのある教科書の長文の内容について問うテストはある程度できるが、全く新規の長文について問うテストについては結果が悪かった、というお話がありました
先生はそこで、読書がいかに大切かという話をされていましたが、それに加えて、やはり親子の対話、そして読み聞かせも大切だと感じました。
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性格もよくて、成績もよくて、スポーツも得意で、友達関係もうまく行ってというような何拍子もそろった子がいます。
そういう子のお母さんは、なぜかあまり教育論をぶたないのです。
教育について自分なりの考え方はあるのだと思いますが、その教育論を取り立てて論じるようなことがあまりないのです。
誰でも、子育ては初めての経験ですから、子供の育て方についていろいろな試行錯誤があるはずです。
しかし、そういうお母さんは、周囲の声に流されるようなこともなく、自分の方針を淡々と貫いているような印象を受けます。
そのような家で育った子が、勉強も、運動も、性格も、バランスの取れた子になるようです。
話は少し変わりますが、昔読んだ本で、「経営者が本を書くようになると、経営がうまく行かなくなる」ということが書いてあるのを読んだことがあります。これは、納得できるところがあります。
それまでうまく行っていた人が、何かを論じるようになると、だんだんと実行の方がうまく行かなくなることがあるのです。
クロネコヤマトの中興の祖と言われる小倉昌男さんも、確か、最初の著書である「小倉昌男経営学」にそのようなことを書いていたと思います。自分が書くのはこの1冊だけだ、というようなことを書いていたのです。
しかし、その後何冊かの本を出しているのを見ると、その後の数冊は、依頼を断りきれないような事情もあったのだと思います。
では、なぜ論じることと実行することが違うかというと、実行にはさまざまな例外があるからだと思います。
子供の成長には、多様な逆説のようなものがあります。褒めて育てることがよいという原則があったとしても、厳しく叱られることで急に成長する子もいます。
決められたルールどおりに真面目にやることが正しいとしても、たまに脱線することによって人間の幅が広がることもあります。
そういう多様な例外や逆説を見ていると、子育てを一律に論じるようなことはとてもできません。
だから、子供の成長を真面目に考えていると、子育て中のお母さんは、教育を論じるようなことは自然にしなくなるのではないかと思います。
本を読んで、本のとおりに子供を育てるようなことはできません。
いろいろないい話を聞いたとしても、大事なことはその話の方ではなく、実際に生きて動いている子供の方にあります。
子供の様子をよく見て、子供に合ったことをときどき軌道修正をしながら行っていくというのが、平凡ですがいちばんまともな子供の育て方になるのだと思います。
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「子供が素直に育っているなあ」と思う子育てをしているお母さんは、なぜかもの静かな人が多いです。
聞けばいろいろ話してくれますが、自分から積極的に教育論をぶつようなことはないのです。
たぶん実践に専念している人は、現実は理屈で割り切れるものではないという大きな教育観があるのだと思います。
どうして、実践家はあまり理屈や理論を言わないかというと、自分の言った理屈に実践が引っ張られてしまうことがあるのを知っているからです。
だから、日本では、そして昔の中国では、巧言令色鮮し仁なのです。
しかし、欧米では、口も達者で実践も達者という人が多いような気がします。
その理由は何かというと、たぶん日本人は、言葉に引っ張られやすいところがあるのだと思います。
だから、何かに真剣に取り組んでいるときは、無口になりがちなのです。
情報に流されず、自分が納得する子育てをしたいですね。
単純にひとことで割り切れると思うときが危ない。これは、自戒の言葉。
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受験作文には、コツがあります。
それは、わかりやすく書くことです。何を今更と言われそうですが、わかりにくく書いてある作文も意外と多いのです。
わかりやすさのいちばんのポイントは、構成がすっきりしていることです。
起承転結でも、序論本論結論でも、どういう形でもいいのですが、自分が意図した構成で書かれていることが大事です。
ところが、学校の作文では、構成を意識して書くということはあまりやりません。
構成メモを書いてから作文を書くというやり方はよくやられていますが、その内容の多くは、メモを先に書くよりも直接書いた方が早くできるというようなあまり意味のないものになっているようです。
特に、小学校低中学年では、構成メモを書く意味はほとんどありません。
それは、作文に書くことが事実に基づいたものであることが多いので、時間の順に書いていけばそれで間に合うからです。
言葉の森の作文構成指導も、低学年のときは、中心を決めて書くということだけです。
中学年になると、構成を立体的にするために、途中でお父さんやお母さんに取材した話、又は、自分の昔の話などを入れたりします。
しかし、基本は時間の順序で書いていく形です。
小学校高学年になると、構成の意識をもっとはっきり持てるようになります。
それは、小学5年生ぐらいになると、全体の構造を考える能力がついてくるからです。
文章を要約する力がつき始めるのも、この小学5年生からです。
この時期には、複数の実例を組み合わせて、一つの感想でまとめるという書き方になります。
複数の実例を書くときは、できるだけ、それらの実例の長さが大きく違わないようにすると読みやすくなります。
中学生以上になると、実例ではなく、理由や意見や方法や原因を複数に分けて書く形になります。
このころになると、構成をもとにして考えること自体に頭を使うようになります。
言葉の森で作文を勉強している生徒が、予備校の模試などを受けると、構成のところがよい点になることが多いのは、普段から構成を意識して書く練習をしているからだと思います。
構成をわかりやすく書いたあとで大事なことは、実例と表現の工夫です。
意見文の場合、意見で個性を出すということはまずできません。意見というものは、誰が考えても同じようなものになることが多いからです。
では、どこで個性を出すかというと、その意見の裏付けとなる実例と、その意見をどう表現するかという表現の工夫の部分です。
意見は、あまり凝ったことは考えずに、自分が最初に思いついた平凡なことでかまいません。その平凡な意見の実例として、自分らしい実例を入れていくのです。
自分らしい価値ある実例の要素は、個性、感動、挑戦、共感などがあることです。
あまりよくない実例は、「最近、テレビを見たが、こんなことがあった」というような、ただ見ただけ聞いただけの実例です。
やはり、自分が何かしたという要素が大事なのです。
また、社会実例の場合でも、誰でも思いつくようなよくある話ではなく、自分なりに本を読んで得た知識などが書いてあれば、それが価値ある実例になります。
表現の工夫とは、輪郭のはっきりした光る表現を入れることです。
光る表現は、「○○はAではなくBである」というような形になることが多いのですが、特に形にこだわる必要はありません。
これは、普段から書く練習をしていると、たまに、「われながらいい表現になった」と思うものが時どき出てきます。それを覚えておいて、使えるようにしておくといいのです。
小学生の場合は、たとえやことわざが光る表現に近いものになりますが、これらは中学生以上の意見文で使ってもあまり効果はありません。
事実中心の作文で書くときには、光る表現になるのです。
入試で作文試験がある場合の対策ですが、この実例と表現をたくさんストックしておくことがいちばんの準備になります。
準備があれば、作文試験のような出来不出来が不安定になりがちなものも、コンスタントに自分の実力が発揮できるようになるのです。
」
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日常生活の中で、光る表現を作る練習をするのも楽しそうですね。
実例と光る表現をストックしておくと、安心して試験に臨めますね。
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国語の読解問題で選択肢がいくつかある場合、簡単な問題であれば、合っていそうなものを選べば○になります。
しかし、そうすると、普通に日本語の文章を読み取れる生徒だと、みんなが○になってしまいます。
本当はそれでいいのですが、受験で選抜するテストの場合は、みんなが○になったらテストになりません。
そこで、読解問題を難しくするために、選択問題の出し方を工夫します。
それが、「合っているものを選ぶのではなく、合っていないものを選ばない」という問題の出し方です。
これは、その問題を出す学校がどの程度の難しい問題を出すかという傾向によってもかなり変わってきます。
難しい問題だと思って深読みすると、実は易しい問題だったので、深読みしすぎて×になるということもあります。
だから、志望校の過去問は、あらかじめやっておかないと作戦が立てられないのです。
しかし、全体に、「合っていないものを選ばない」という発想で問題を見ると、選択問題は正解率が高くなります。理詰めで読むことができる人は、どういうテストでも読解問題は満点近く取れるようになります。
この選択の仕方は、一般に消去法を呼ばれています。
合っていないものを消していって、残ったものが合っていることにするという選び方だからです。
現在、中学生対象のオンエア講座では、この消去法の演習をしています。
答えが合っているかどうかというのは、二の次で、自分が合っていないと思って消去した選択肢が、なぜ合っていないかを言うのです。
これを単なる勘で答えたのでは勉強になりません。理屈が通るように、「この選択肢の文のここのところがこういう点で合っていない」と言うのだから大変です。
これは、考える勉強とともに、語彙力の勉強にもなります。
昔、ワインの話が題材になっている漫画で、ワイン通の人が、ワインを飲みながら、「フランスの田園の暖かな春の日差しの味わいがする」とか何とか言っているのを見ましたが、ヨーロッパでは、そのように言葉にしにくい感覚を言葉にして表そうとする伝統があるようです。
日本の文化は、言挙げをしない文化なので、そういうことを言葉であれこれ言おうとする人は、どちらかと言えば敬遠されます。
昔、「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがありましたが、何も言わずに不言実行というのが好まれる文化があるのです。
しかし、消去法の場合は、理詰めで考えることが第一ですから、合っていない理由をちゃんと言葉で言わなければなりません。
この言葉にしにくいことを言葉にしようとすることが、ある意味で思考力を育てていることになるのでず。
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読解問題の解き方には、コツがあります。それは、合っているものを選ぶのではなく、合っていないものを選ばないという選択の仕方です。
合っていないものを消していって、残ったものが合っているものにするのです。
このコツを知るだけで、国語の成績はかなり上がります。
また、そういう読み方をして読むと、文章を深く読み取る練習になります。
しかし、日本の社会は、言挙げをしない文化なので、合っていないものの合っていない理由をわざわざ言うという習慣があまりありません。
だから、多くの人が、国語は勘で解くものだと考えているのです。
過去問は早めに着手し、選択問題は、合っていないものを見つける練習をしていくとよさそうですね。
※国語の成績を上げたいとおっしゃる親御さんへ面談でのアドバイス。
覚え書きとして。
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