国語力をつけるということについて、途方に暮れてしまうお父さんお母さんが多いと思います。
国語と言っても、普段使っている日本語です。わざわざ勉強しなければできないなんておかしい思うのが普通です。
漢字が読めないとか書けないとかいうのであれば、知識の問題ですから原因がわかります。しかし、読解の問題ができないとか、記述が書けないとかいうことになると、普段読み書きしている日本語なのになぜできないのか、ということになるのです。
実は、子供は、読めないのでも書けないのでもありません。
正解になるような読み方、書き方ができないのです。
それは、国語の問題の正解というものが、その文章を深く読み、深く書くことを要求しているからです。
ということは、国語は、浅く読むことも深く読むこともできるということです。
日常生活では、日本語は浅く読み取っても十分に間に合うことがほとんどです。
浅い読み方と深い読み方にそれほど大きな差はないからです。
しかし、国語の問題にされるような国語の文章は、浅く読んだら×になり、深く読むときに初めて○になるようにできています。
もちろん、普通の学校の国語のテストでは、そのようにややこしい問題は出ません。
入試問題レベルになると、そういう問題が出てくるので、塾で勉強していると、国語ができないということが出てくるのです。
では、どうしたらよいかというと、いちばんの対策は深く読める難しい文章を読むことに慣れることです。
普段、子供が読む文章、本とか教科書とか雑誌とかいうものは浅く読めるようにできています。こういう文章をいくら読んでも、深い読み方はできません。
そうではなく、直接、入試問題に出てくるような文章を読むようにするのです。
難しい文章でも、全く読み取れないわけではありません。国語の読み取りは、何パーセント読めるかという濃度の問題ですから、グレーの範囲が人によって違います。
これが、算数数学などほかの教科の勉強と違うところです。
算数数学であれば、できるとできないはある程度はっきりしています。途中の計算式によって点数が加算されることはありますが、本質的にできたかできないかの問題になっています。
国語はそうではありません。読み取れる割合によって、易しいからわかる、難しいけどわかる、難しいからわからないという差が出てきます。この「難しいけどわかる」から「難しいからわからない」の間にもさまざまな中間域があります。
このわかる度合いは、難しい文章を繰り返し読むことによって次第に増えてくるのです。
場合によっては、個々の文を取り上げて、その意味を先生に聞くということもあります。しかし、基本はあくまでも自分で読み慣れるということです。
そのための練習法が、問題集読書です。
小学3年生までは、そういう無理をする必要はまだないので、ただ読書をしっかりしていればよいのですが、小学5年生ぐらいになると、入試問題集のような難しい文章を読む勉強が必要になってきます。
ここで、国語の勉強の有利さが出てきます。日本語の文章は、繰り返し読んでいれば、自然に少しずつわかるようになってくるのです。
では、国語が得意になっている人は、もう国語の勉強をしなくてよいのでしょうか。
入試に関して言えば、そうです。国語は、いったん読む力がつき問題を解くコツがわかれば、もう勉強をしなくても必ず一定の点数は取れるようになります。
だから、受験勉強は、入試で差がつくような、そしてあとからの追い込みで間に合うような教科を中心に対策をしていけばいいのです。
しかし、入試という目標を離れて考えると、国語の難しい文章は、入試問題よりももっと先のものがあります。
それは、大学生になってから読むような、日本や世界の古典です。
話は、個人的なことになりますが、私が大学生のときに読んで、難しいので読むのをあきらめた本は、ハイデッガーの「存在と時間」でした。それは、特に、それを読み切ろうという決心がなかったからですが、もしそういう決心があったとしても読んで理解するまでにはかなり時間がかかったと思います。
もうひとつ苦労して読んで、うっすらとしかわからなかったのが、ヘーゲルの「精神現象学」でした。全部読んだので、全体像は頭に入ったのですが、意味が取れないところがあまりにも多かったのです。
しかし、その後、フランスの哲学者イポリットの「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」という本を読んで、初めて大体がわかるようになりました。大体と言っても、半分ぐらいだと思いますが。
このときに思ったのが、入門書が概論書というものは、原典とは全く違うものだということです。
「ヘーゲル入門」などという本はありますが、こういう本を読んでも教科書的な外側の知識がわかるだけで、ヘーゲルが考えた過程がわかるようなことはまずありません。だから、大学生の読書は、まず原典を(翻訳で)読んでみることです。
そして、私は、数年間このように難しい文章を続けて読んでいるうちに、普通の難しい文章が楽に読めるようになったのです。
つまり、難しい文章を読むことによって、普通の難しい文章が簡単に読めるようになったということです。
こういう経験があるから、国語力の本質は思考力にあるということがわかってきたのです。
日本では、国語の勉強は、文化的な情緒の面があまりにも強調されすぎています。
それは、もちろん国語のひとつの面ですが、国語の本質とは少し違います。
世界のそれぞれの国に共通するその国の国語の本質は、その国語で考える思考力なのです。
だから、国語の勉強は、国語的なものにとらわらず、幅広く難しい文章を読み取る力ということで考えていくとよいと思います。
そのためのいちばん手に入れやすい教材が、実際の入試問題です。
その入試問題を読む勉強法でいちばんやりやすいものが問題集読書です。
そして、その問題集読書を楽に続けられるのが、寺子屋オンエアでの毎日の音読になると思います。
ただし、家庭で確実に音読の習慣ができれば、それでも十分です。
言葉の森の作文課題集には、毎週の長文が載っています。それを、感想文課題でない週も含めて、毎日1編音読していくのです。
1200字から1600字の文章ですから、3分ぐらいで読み終える分量です。
これを毎日読んでいると、1週間同じ文章を読むことになりますから、途中で文章の一部は暗記するぐらいになります。それぐらい繰り返し読んでいると、そこに書かれている難しい語彙が自然に自分のものとなり、読み取る力がついてきます。
この長文音読が最も重要になるのが小学5年生以降です。それは、考える力がついてくるのが小学5年生からであり、課題の文章がこの時期から難しくからです。
小学4年生までは、そのウォーミングアップとして、毎日音読する習慣をつける時期と考えておくとよいと思います。
しかし、学校の勉強が忙しくなるのも、この小学5年生あたりからです。
そのため、夜に音読の時間をすることにしていると、いろいろな用事が重なって毎日読むことが難しくなります。
だから、小学校低学年のうちから、朝ご飯前に音読をするという習慣をつけておき、小学5年生以降の多忙な時期も音読の習慣だけは崩さないようにしていくといいのです。
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問題集読書を真面目に続けている生徒は、作文に使う語彙も変わってくるようです。
問題集読書をつづけることで、難しい文章にも慣れます。
自分で時間を決めて、毎日問題集読書を行う習慣をつけたいですね。
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農業では、同じ土地に同じものを作り続けていると、連作障害が出てきます。
しかし、自然の山は、同じ土地に同じ植物が、何年どころか何千年も何万年も育ち続けています。
川田薫さんは、これを、自然の山には岩があり、岩石から出たミネラルが植物を活性化させるからだと考えました。
そして、その仮説を検証するために、岩石の溶液を液体窒素で凍らせ電子顕微鏡で観察すると、2ナノメートルの鉱物の超微粒子があることがわかったのです。(「地球農学の構想」より)
こういう実験の過程を聞いていると、子供だったらわくわくしてくると思います。
そして、いつか自分も科学者になっていろいろな発見をしたいと思うはずです。
しかし、子供たちの科学者の夢を砕くものがあります。
私は、それが、受験数学ではないかと思います。
数学が苦手だからという理由で、早々と理系をあきらめてしまう子がいるのです。
数学そのものは、理屈どおりに成り立つものですから、本来面白い勉強です。
しかし、受験で差をつけるために出される数学は、子供たちに数学に対する苦手意識を作り出しているだけのような気がします。
数学に限らず、勉強はもっとわかりやすく、本質的なものを教えていくべきです。
国語も英語も理科も社会もそうです。
勉強は、子供たちに差をつけるためにあるのではなく、みんなが理解するためにあるのです。
勉強がわかりやすければ、もっと多くの子供たちが科学の面白さに感動を持てるようになると思います。
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中学受験の段階で、「私は文系だと思う」「ぼくは理系だから」と文理を意識する子が多いです。勉強はこれからだというのに。
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言葉の森では、小学校2、3年生から勉強を始める子が多いです。
本当は、小学1年生から始めた方がいいのですが(それは、作文に合わせた音読や対話という家庭学習の習慣ができるからです)、小学3年生ぐらいまでに始めると、作文を書くという勉強が毎週の習慣のようになってきます。
そして、いったん毎週作文を書くことが習慣になると、学校の勉強や部活などが多忙になっても、作文を続けていこうとするようになるのです。
作文教室というものは、言葉の森以外にもあると思いますが、ほかの教室では、小学校低学年から始めて高校生まで続けるようなことはまずありません。そこまでの指導カリキュラムがないということもありますが、もしあったとしてもそのように長期間勉強を続ける生徒はまずないのです。
この継続率は、作文の提出率などにも表れてきます。
ある作文講座では、月2回ぐらいのペースで、作文の課題もカラフルでわかりやすいものになっていますが、提出率は80パーセントということです。
言葉の森では、月4回の課題で(うち1回は清書)、作文の課題は感想文も含めたかなり難しいものもありますが、小学1年生から中学3年生までの合計の提出率が94パーセントです。
この提出率の違いは、そのまま継続率の違いになっていると思います。
言葉の森で小学校低学年から作文の勉強を始めた生徒も、中学受験があったり、中学で部活が忙しくなったり、高校受験があったりすると、途中でやめることがあります。
しかし、やめたあとも、また作文や国語の勉強が必要になると、数年間のブランクのあと再開するという生徒がとても多いのです。
大学入試に向けた小論文の勉強では、予備校などでも講座が用意されていると思いますが、そういう予備校の小論文講座ではなく、言葉の森の作文の勉強を思い出して、「小学生のときに教わった○○先生に、また習いたいのですが」というような問合せがよくあります。
なぜ、このように長く続ける生徒が多く、またいったんやめても、必要があると再開する生徒が多いかというと、いちばんの理由は、担任の先生の毎週の電話指導があるからだと思います。そして、もうひとつの理由は、言葉の森独自の褒める指導を中心にしているからだと思います。
もちろん、中には、言葉の森の勉強をしても、あまり軌道に乗らず途中でやめてしまうという人もいるかもしれません。しかし、その理由の中には、家庭のフォローの不足もあるのです。
というのは、作文の勉強というものは、勉強の中でいちばん心理的負担の大きいものだからです。これは、大人の人が実際にやってみるとわかりますが、ほかの勉強に比べると作文の勉強は始めるときに一大決心のようなものが要るのです。
こういう負担の大きい作文の勉強を続けるためには、先生の電話指導だけでは不十分です。
課題に合わせて親子で対話してくるという事前の準備や、子供の書いた作文には直すところに目を向けるのではなくよいところを認めて褒めてあげるような配慮や、毎日の音読と読書を気長に続けるような家庭学習の習慣というものが必要になってくるのです。
こういう家庭での対話や読書や褒め言葉があれば、毎週の指導でどの子も必ず上達していきます。
ただし、作文の勉強は、国語力という大きな土台が下に隠れている氷山のようなものですから、勉強してすぐに成果が出る子もいますが、なかなか成果の出ない子もいます。しかし、長い目で見れば、どの子も必ず上達します。
だから、作文の勉強はまず長く続けられることが大事なのです。
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幼稚園から小学校、大学に進学するまで、ずっと担当する生徒さんもいます。自然に、作文が成長します。
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川田薫さんの本を読みました。「たましいよろこびっぱなしの生き方」という変わっった題名の本です。
(最初に入れた記事で、「よろこっびぱなし」と書いていました。失礼しました。)
川田さんは、世界で初めて(だと思いますが)、生命あるいは生命的なものの創造に成功した科学者です。ほかにも、さまざまな世界初の発明や発見があります。現在82歳。
川田さんのような新しい考えを生み出す人に共通していることは、自分が単独で存在しているのではなく他のものを同じひとつのものとして存在しているのだという確信です。
昔は、「人類はみな兄弟」などと言うと、気持ちはわかるが一種の冗談のように受け取られるところがありました。今でも、個体の境界ははっきりしているので、基本は個人的な存在として人間は生きています。
しかし、同時に、人は個人として終わるものではなく、過去や未来も含めて全体の世界の一部として生きているのだという感覚が、だんだんと多くの人に共感されるようになってきたように思います。
これは、子供の教育については更に重要になってきます。
今の受験勉強は、友達と競争して、その競争に勝つことが目標のようになる勉強です。
競争は確かに人間の活力の動機にもなりますが、それは子供たちのゲームのような遊び的なものであるときはマイナス面はありませんが、真剣に利害が絡むようなものになると、しかも大人的な利害がからむようになると、弊害が大きいのではないかと思いました。
子供たちの教育の出発点は、自分は他人と同じだということを教えることであって、他人との競争に勝つことで自分があると教えることではないと思います。
世の中の意識が進んでいるのに、教育の方がまだ一歩遅れているような現状があるのではないかとこの本を読んで思ったのです。
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先日、岐阜県の位山というところに行ってきました。ちょうど熱帯低気圧が来ているときで、山頂まで歩いて数時間で往復してきましたが、その間誰ひとり会わないぐらいの大雨と大風でした。(そんなときに行くなって)
それはそれでいいのですが、その位山までに行く道路を運転しているときに、ただ長時間運転しているだけで暇なので、いろいろ考えました。
まず左右に広がる田んぼや畑とまばらに点在する人家です。
私は、普段あまり外出することはしませんが、横浜のはずれの港南台周辺を歩いていると、人も家も隙間なく並んでいます。混雑しているということはありませんが、どこに行っても人がいて、家があり、お店があるという感じです。
そういう環境から比べると、この田舎の(岐阜県の中津川市は私の父の実家で、時どき行ったことがあるので親しみを感じる街です)風景は、いかにも人口密度が少ないように感じられたのです。
今住んでいる港南台は、飲食店が結構あり、それぞれ活発な競争をしているようですが、それはそこに需要があるからです。しかし、人口密度の少ないところでは、顧客を獲得する競争以前に、顧客がたぶん一定数しかいないので、店と顧客が親しい間柄で共存しているのだと思います。
こういうところで、若い人が何か新しいベンチャー的な仕事を始めようと思っても無理があります。それは、今の仕事が工業的なものからサービス的なものに移り変わっているために、人口密度が低いとサービスそのものが成り立たないからです。
港南台には、ヒーリングとか健康とかマッサージとかを提供する店があり、いろいろな人が利用しているようですが、これも人口密度がある程度あるから成り立っているサービスであり、田舎では単独では成り立たないのではないかと思います。
昔は、こういう田舎でも仕事を作ることができました。それは、工業生産が主流だった時代です。工業製品という物は、運ぶことができますから、田舎で立地して生産をしても成り立ったのです。
しかし、工業生産は、人件費の低い新興国に移ってしまったので、日本ではもう新しい雇用を生み出すことはできなくなっています。日本の工業生産は、今後人に頼らずロボット化されていくので、生産が成り立っても雇用を生み出すような生産ではなくなっていくのです。
工業は新興国に奪われ、サービス業は人口密度が低いために成り立たないとなると、田舎では基盤になる産業が生み出せないことになります。
だから、いったん過疎化が進行すると、その過疎化は更なる過疎化を生み、中には人が住まなくなるような田舎も出てきます。
日本の少子化は、平均的に進むのではなく、人口密度の低いところでは更に加速して進んでいるのだと思います。
しかし、田んぼが広がり、人家が点在する田舎の光景は、日本人の田舎の原風景です。
この田舎でも成り立つような新しい仕事があるかどうかと考えて、ネットを利用したサービス業の可能性ということを考えました。
ここからが本題です。
言葉の森では、現在、オンエア講座や寺子屋オンエアやオンエア作文というネットを使ったオンラインの教育を行っています。
ネットを利用した教育というと、MOOCやスタディサプリに見られるように、良質の授業を無料又は低価格で広範に提供するサービスが脚光を浴びていますが、その教育サービスは、マスメディア的なものです。
低価格で大量に良質なものをというと、昔のダイエーの「よりよい品をより安く」というキャッチフレーズを思い浮かべます。また、昔の製造業も、便利な家電製品を水道のように低価格で豊富に使えることを目標にしていました。
この低価格で大量にというのは、生活のインフラ作りという点では、最初に必要とされるものです。
しかし、消費者は、やがてそういう大量生産に飽きてきます。
人間の喜びは、豊かな生活ができることだけでは満足できず、そこに更に、自分なりの個性的な関わりを求めるようになるのです。
今、街の書店は、ネットの書店に押されて、年々縮小されています。確かに、便利さだけから考えれば、ネット書店を利用した方が、本も見つけやすいし、自宅でいながらにして購入できるので便利です。
しかし、人間には、ふらっと近所の書店に立ち寄って、新しい本との出会いを経験したり、本屋を待ち合わせの場所に指定したり、人を待っている間に立ち読みをしたり知人に出会ったリというような、ほっとする感覚を求める気持ちもあります。
だから、街に書店があるということは、そこがひとつの明るい開かれた空間となっているような感覚があるのです。
こういう人間の関わりが、これからのサービス業には必要とされるようになります。
教育の分野についても、ただ優れた教材が低価格で利用できるだけでなく、そこに友達や先生との個人的な関わりが必要とされるようになってくるのです。
しかし、今skypeで行われているようなマンツーマンの授業では、深い関わりの対価として高額な受講料が必要となります。
英会話のオンライン授業では、その価格を抑えるために、人件費の低いところの先生が教えるような工夫がされていますが、それは英語だからできることであって、そのほかの教科では、マンツーマン指導は高額にならざるを得ません。
ネット利用の低価格なマスサービスと、同じくネット利用の高額なマンツーマンサービスとの中間にあるのは、これまでは地域の教室でした。少人数の教室に生徒が実際に通うことによって成り立つようなリアルな教室や、あるいは学校が、教育の中核部分を担っていたのです。
ところが、リアルな教室は、今行き詰っています。
それは、生徒の多様化と一斉指導という方式が結びつかなくなってきたからです。
そのリアルな数人から十数人の生徒を、多様性を生かしながら個別に指導し、しかも生徒どうしの交流や先生との人間的な関わりを実現するのが、言葉の森の考えているオンエア講座などのネット利用の教育です。
ネットを利用して数人から十数人の生徒を一人の先生が教えるという授業形態であれば、この教育は、田舎のような人口密度の低いところでも成り立ちます。
例えば、過疎化の進んでいる村で、小学1年生の子供が一人しかいないような場合でも、その子はネットの授業で、全国の同じ小学1年生の子と机を並べて、というかパソコンの画面を並べて、一緒に勉強することができます。担任の先生がいる固定したクラス制なので、席替えやクラス替えはありますが、長期間同じ友達や先生と一緒に勉強ができるので、人間的な関わりも持てるようになります。
しかも、そのネット授業を行う教室が田舎の場合、そこには自然が豊富にありますから、年に数回、生徒の合宿を行い、リアルな交流を深めるということもできます。
年に数回というのは、距離がかなり遠い場合ですが、もしこれが電車やバスで30分から1時間程度の距離にある教室であれば、週に1回合宿教室に参加するという形もとれます。こういう実際の交流があれば、それはそのままネットでの交流にもつながるので、ネット上の教育も自然に活性化します。
日常的には、自宅でネットを利用した能率のよい教育を受け、週に1回は合宿のようなリアルな深い交流を豊かな自然のある場所で行うということができれば、こういうサービスは田舎でも十分に成り立つとともに、日本中の子供たちが利用できるものになるのです。
以上のようなことを、車で数時間運転している間に考え、それを実現するために今いろいろ工夫をしているところです。
言葉の森では、既に森林プロジェクトという、作文指導の講師を養成する講座があります。この作文指導というのは、実はかなり奥が深いので、言葉の森のように30年以上の指導の実績がなければできないものだと思います。
その作文指導の資格講座に加えて、今後は寺子屋オンエアやオンエア講座の講師養成講座も行っていきたいと思います。
現在行っているオンエア講座の中でも、小学1年生から3年生対象の読書実験クラブは、教わる生徒も教える先生もすぐに楽しくできるという見通しがあります。
小学4年生から6年生対象の思考国算講座は、指導内容が高度で、まだ教える側の負担が大きいため、今後これを改善していく予定です。
同じく中学1年生から3年生対象の先行国数講座も、指導内容が高度で教える側の負担がまだ大きいので、これも今後改善していく予定です。
いずれにしても、将来は、全国の志ある先生が自宅でネット教育を行い、全国の子供たちがネットとリアルの両方でその教育に参加できるという仕組みを作っていきたいと思っています。
このやり方ができれば、海外にいる邦人子弟も、このネット教育に参加できます。海外の生徒の教育が、日本国内の生徒の教育と違うのは、時差の問題だけですから、教える先生が例えば日本で早朝に教えるような体制を作れれば、日本の先生がヨーロッパにいる生徒の授業を行うなどということも十分にできるのです。
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高木善之さんの本に、「反抗期は先進国にしか起こらない」と書いてあるのを見て、確かにそうかもしれないと思いました。
もちろん動物にも、自立期というものはあります。しかし、それは子供の側から反発して自立するというよりも、親が子供を追い出すような形で自立させるのが多いようです。
人間は逆です。親がなかなか子離れせずに、子供をいつまでも自分のコントロール下に置いておきたいと思ってしまうのです。それに反発するのが子供の反抗期です。
では、なぜ先進国で反抗期が起こるかというと、それは先進国の生活が不自然だからです。
特に不自然なのは教育ではないかと思います。
その中でも、更に不自然なのが入試問題ではないかと思います。
不自然な入試問題に対応できる力を身につけるため不自然なことをさせられている子供たちが、そういう不自然なことを要求する社会に対して反発するのが反抗期だと言ってもよいでしょう。
では、入試問題のどこが不自然なのかというと、問題作成の目的が、その子の人生や社会にとって有益なことが身についているかどうかを見るのではなく、受験する子供たちに点数で差をつけて選抜することに置かれているからです。
差をつけることを目的とした試験は、必ずその差を埋める努力で対策を立てられます。すると、差をつけることと、その差を埋める努力のいたちごっこによって、試験の内容は、本当に必要な学力をつけることからどんどん遠ざかっていってしまうのです。
これは、学校の入学者に定員がある以上、仕方がないことと思われてきました。
しかし、将来、この定員制というものはなくなっていくと思います。
それは、現在MOOCなどに見られるように、その勉強を希望する生徒は、世界中のどこからでも定員に関係なく、その勉強の優れた授業を受けることができるようになっているからです。
このネット型の勉強方法が広がれば、今の入りにくくて出やすい学校から、入りやすくて出にくい学校というものに変化していくと思います。
そして、「出にくい」というのではなく、自分の希望する出口から自由に出られるようになるのです。これを裏口卒業と言うかどうかはわかりませんが、本人が自分なりの目標を持って授業を受けるのであれば、その目標を達成することが卒業ということで全くかまわないのです。
未来の社会は、今よりももっと自然に近いものになっていくと思います。
しかし、当面、不自然な状況がある以上、親にできることは、子供の自由は意思決定を尊重する姿勢を身につけることです。
昔は15歳で元服でした。これは、年齢的にも妥当な時期だったと思います。今の学年で言えば、中学3年生あたりが子供の自立の始まりです。
親は、中学3年生を子供の自立の目標の時期として、その前から徐々に子供が自分の判断で行動することを認めてあげるようにしていくといいのだと思います。
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知識も大切ですが、今しかできないことを、思いっきり体験し、失敗しながら学んでいく経験こそ、将来役に立つのかもしれませんね。
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入試で、記述式の問題を出すところが増えています。
理由はいろいろありますが、選択式の問題では、ある程度考えて読む力を身につけた生徒は、ほぼ全部正解になってしまうからです。言葉の森のセンター試験満点講座を受ければ、それがすぐわかります(もう募集はしていませんが)。
だから、選択式の問題で難しい良問を作るのはかなり大変です。センター試験の問題作成者は、よくがんばっていると思います。問題を解くことに比べたら、選択式の問題を作ることは何倍も(かかる時間でいったらたぶん十倍以上)難しいのです。
それに比べると、記述式は問題作成が簡単です。そのかわり、採点が難しくなります。
そして、記述式の字数が長くなると、採点はその字数の自乗に比例する形で難しくなってきます。
小論文の試験になると、採点者は読むだけで大変です。
高校入試の作文試験というものの中には、かなり短いものもあります。200字ぐらいのものでは、作文というよりも長めの記述試験と言った方がよいと思います。
これも、長い文章を書かせる形にすると、採点が難しいからとい事情があるからだと思います。
しかし、生徒の実力が最もわかるのは、この小論文なのです。
それも、1本だけでなく、複数の小論文をそれぞれ1200字以上書くような試験であれば、実力はかなりはっきり出てきます。だから、森リンで採点しても、人間の評価と同じような結果になってくると思います。
昔の東京大学の小論文が、一時そうなったことがあります。かなり長い小論文課題を複数書かせるよな問題でした。
しかし、やはり採点の負担が大きかったのでしょう。その方式は、長続きしませんでした。
記述式の問題が増えてきた背景には、以上の、(1)選択式では問題作成が大変なわりに、実力のある生徒はほとんどできてしまう、(2)小論文では生徒の実力はよくわかるが、多数の生徒を短期間で採点するのはほぼ不可能、ということがあると思います。
さて、この記述試験(大体が50字から150字程度)にどう対処するかです。
毎年、今ごろの時期になると、言葉の森の受験作文コースに、記述式の対策をしてほしいという要望が寄せられます。又は、ごく短い作文試験(という名前の実際は記述試験)を見てほしいという要望が寄せられます。
以前は、その対策をしたこともあるのですが、あまりにも簡単で、わざわざ1時間近く時間をかけて教える内容でもないので、記述式の対策は家庭でやってもらうことにしました。
教室で教える形であれば、週に1回だけになってしまいますが、家庭でやれば毎日でもできます。
記述式の試験は、やり方がわかっているだけでなく、書くことに慣れていることも大事なので、家庭で毎日できればその方がずっといいのです。
そのやり方は、こういう形です。
まず、教材は昨年度の国語入試問題集です。
その問題集の中の記述の問題を選んでももちろんいいのですが、ランダムにどの問題文でもよいから、その文章を読んで感想又は論旨を書く、というやり方の方が簡単だと思います。
文章を読むだけなら5分もかかりません。その上で、その文章に対する感想又は論旨を字数を決めて書くのです。その字数は、自分が受けようとする志望校の過去問の傾向に合わせておくとよいと思います。
この場合、大事なことは、
(1)読んで、考えて、一気に書くということです。書いている途中で考えたり、書いたあと消しゴムで消して直したりということはしません。頭の中で書くことを考えたら、一息で書くように練習するのです。
(2)一文の字数は、50字を平均としておきます。ですから、150字の記述であれば、3文でまとめるということになります。
(3)できるだけ字数ぴったりに書くようにします。50字の記述であれば、50字目の最後のマスに句点が来るぐらいに書きます。マス目がなく全体の枠があるだけならば、その枠に普通の字数でいっぱいまで書くようにします。
(4)説明文の場合は文章の輪郭がはっきりするように、物事を対比させる形で書いていきます。「AではなくBである」という形です。物語文の場合は文章の深みが出るように、物事の二重の面を浮き彫りにさせる形で書いていきます。「AでありながらBであった」という形です。しかし、これは難しければパスしてもかまいません。
さて、このように書いたあと、お父さんやお母さんはどう評価したらいいかというと、書かれた文章がスムーズに読めるように書いてあればいいということで見ておけばいいのです。
お父さんやお母さんも問題文を読んで、その記述が問題文に対応したものになっているかどうかを見られればその方がもちろんよいのですが、そういう評価の仕方を決めてしまうと、親の方が億劫になってきます。
大事なことは、毎日練習して書き慣れるということですから、苦労するのは子供だけでよく、親はその外側だけ見て、きちんと読めるように書いてあればそのことを褒めてあげるだけでいいのです。
このように毎日練習をしていると、書くスピードも上がり、読む力もつき、字数ぴったりにまとめる力もついてきます。
ですから、こういう勉強は普段から行えればいちばんいいのですが、実は記述の勉強や作文の勉強は、生徒の心理的な負担が大きいので、受験という目標がなければなかなかできません。
だから、受験をきっかけにして、家庭で記述式の勉強ができるというのはとてもよいことなのだと思います。
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つめこみ式の教育から脱出できそうですね。
記述式が増えているのは、選択式と小論文の間をとっているからなのですね。
それにはそれなりの対策を。
4つのポイント、とてもわかりやすく、続けられそうです。
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作文のすごく苦手な子がいたとします。
「何でもいいから、自由に思ったことを書いてごらん」
と言われても、もちろん一文字も書けません。原稿用紙を前に、じっと動かないままです。
こういうとき、お母さんやお父さんが、なだめてもすかしても、もちろんおどしても、子供に作文を書かせることはできません。
それどころか、時間がたてばたつほど、ますます書けなくなるのです。
そして、書けない時間を長引かせれば長引かせるほど、子供の苦手意識は強化されていきます。
では、こういうときは、どうしたらよいのでしょうか。
言葉の森の通学教室では(通信教室の指導も基本は同じですが)、書き方の流れと、その作文に盛り込む表現項目を先に言ってあげるのです。
「最初に、こう書いて、次にこう書いて、そのあとはこう書いて、最後にこう書くんだよ。そして、この2番めの段落にもし会話が思い出せたら入れて、最後は自分の思ったことを書いていく。途中でお母さんやお父さんに聞いた話があれば入れていこう。」(たとえを入れる指導をする場合もありますが、その子の苦手度を判断して、何を教えるかは柔軟に決めていきます)
という感じです。
苦手意識の強い子には、具体的な文まで言ってあげるので、そのとおりに書き出すことができます。
そして、いったん書く手が動き始めると、あとは自分なりに書いていけるようになるのです。
この最初に手を動かすということが大事で、苦手意識の強い子は、最初の手が動き出さないのです。
ところが、もっと苦手な子もいます。
それは、小学校の低学年で、まだ書くことに全然慣れていないようなときです。
このときは、書き方の流れを具体的に言っても、まだ書き出せないことがあります。
大人から見れば、文章を書くということは、文章を口で言うことと同じように思うのですが、書くことと言うことは、全く別のことです。
口で話すことは、誰に教わる必要もなく、自然にできるようになります。ちょうど、鳥が自然に空を飛べるようになるのと同じです。聞くことと話すことは、本能のようなもので、人間には誰でもできるようになるのです。
しかし、読むことと書くことは、自然に任せていたのではできるようにはなりません。読む練習と、書く練習がなければできるようにはならないのです。
その中でも、特に書くことは、人間が人類の歴史のかなり後半になってから獲得した能力ですから、低学年の子にとってはかなり難しいことなのです。
ここで、よくある指導上のミスは、子供から書くことを引き出そうとすることです。
大人はつい、書く内容がわかれば書けると思ってしまうのですが、実は、内容よりも書くという動作自体がまだうまくできないという段階であることが多いのです。
そういうときの教え方のコツは、子供には口で言わせて、お母さんやお父さんがそれを文として書いてあげることです。
これが、親子で書く構想図という勉強法です。
親「今日は、何があったのかな」(と、さらさらと、「今日は何があったかな」と書く)
子「えーと、サッカーをした」
親「そう。どこでサッカーしたのかな」(と、さららさらと、「ぼくはサッカーをした」と書く)
子「公園で、けんちゃんたちと」
親「けんちゃん、サッカー好きだもんね」(と、さらさらと、「いっしょにやったのは、けんちゃんです」「けんちゃんはサッカーが好きです」と書く)
子「うん、でも、今日はぼくがシュートをいれたんだよ」
親「へえ、すごい。靴ぬげなかった」(と、さらさらと、「今日はぼくがシュートをしました」「このあいだみたいに、くつだけ飛んでいくことはありませんでした」と書く)
こういう調子で、親子で対話をしながら、子供が口で言ったことを、お母さんやお父さんがどんどん文章化して書いていくのです。
すると、子供はそれを見て、作文を書くという全体的なイメージを身につけます。
この全体像がわかるということがまず大事で、全体の流れがつかめると、だんだん自分でもできる気がしてきます。
そして、人間はもともと、人がやっているのを見るだけよりも、自分がやってみる方が好きですから、何も言わなくても、できそうな自信がついてくれば自分でするようになるのです。
この自分でやる気になるまで待つ、そのためにどういう感じでやるのかを何度も見本として見せる、というのが作文指導のコツです。
これは、作文に限らず、あらゆる習い事に共通することだと思います。
作文の勉強は、他の教科の勉強に比べると敷居が高いので、とくにこういう見本を見せるという準備が必要になることが多いのです。
この記事に関するコメント
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作文が苦手な子を見ると、どう指導していいか途方に暮れることがあると思いますが、そういうときの教え方は実は簡単です。
大人が書いて見せてあげればいいのです。
見本を見せて、全体のイメージがつかめるようになると、子供はだんだん自分でもできるような気がしてきます。
自分でもできるという気持ちが持てるようになって初めて書かせる指導を開始すればいいのです。
見本を見せるというやり方は、生徒も先生もストレスが溜まらないところがいい点だと思います。どんなに苦手な生徒でも、安心して勉強できるので、暗い雰囲気になりません(笑)。
「して見せて 言って聞かせて させてみて できたところをホメてやらせる」
ですね(笑)
中学生の子が、全く書けない場合はどうすればよいでしょうか?
体験文、意見文、感想文、どれをとっても全くといっていいほど書けません。対話、型を決めることも試みてみましたが、うまくいきませんでした。
書いても、話のすじが通っておらず、矛盾点や、テーマからずれてしまうことが多いです。
春夏秋冬さん、こんにちは。
それは、実はほぼ99%、全く心配要りません。
対話をするとか、型を決めるというレベルでは、まだ難しすぎるのです。
親子で構想図を書いて、それをもとに作文を書くようにすれば、10分ほどですぐに書けるようになります。
しかし、当面の作文や感想文はそれでよいとしても、今後のことを考えると、やはり本格的に作文の勉強をしておくといいと思います。
中学生は、本人が自覚しているので、上達は早いです。
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