小さいころ勉強ができすぎることが、その子の将来の人生にとってマイナスにならないためにはどうしたらよいのでしょうか。
第一は、知的な勉強をできるだけ実物の体験と結びつけることです。
例えば、理科の本で、植物にはおしべとめしべがあり、虫や風がその受粉を仲介するというような記述があった場合、それを知識として理解するだけでも、確かにその子の物事に対する思考力は深まります。
しかし、ここで、知識を知っているだけで終わらせずに、実際にその現場を見に行くような機会を作るのです。
本を読んで得た知識は、単なる知識のコピーです。そのコピーをいくらたくさん知っていても、自分らしいものの見方は育ちません。将来大事になるのは、さまざまな知識を自分なりに生かせるような力を身につけることです。
実際に現場を見に行けば、そこで得た体験はコピーではなく自分だけのオリジナルなものになります。その体験が知識と結びつくことが大事なのです。
だから、勉強のよくできる子は、勉強以外の実際の体験もそれ以上にする機会を作ってあげるといいのです。
知識を能率よく吸収させるのではなく、体験を通して遠回りに吸収させることが、その子の知識を生きたものにするのです。
第二は、勉強的なことをするときに、自分から進んで喜んでやりたいという気持ちにさせることです。
つまり、本人が心から自分でやりたいと思うまでは、親の方から先にやらせようとしないことです。
そのために、親は、いろいろな工夫をして、本人がそれをやりたくなるようにさせる必要があります。
子供が小学校低学年のころは、親は簡単に子供に何かをさせることができます。しかし、それを抑えて、子供が自分からやりたくなるように時間をかけて工夫していくことが必要なのです。
また、本人がやりたいということは、できるだけそれをかなえてやるような条件を作ってあげることです。
子供が何か希望を言ったとき、親が、「それは○○だからだめ」と言ってしまえば、子供はそれ以上反論できません。
簡単にだめと言うのではなく、今の条件でできるようにするためにはどうしたらよいかということを考えてあげることです。
子供が将来社会に出てから活躍するときに最も大事なのは、意欲を持ち続けることです。
その意欲は、子供時代に自分の意欲を生かした経験から育っていくのです。
第三は、勉強がよくできることを自慢せず、いつも謙虚に生きるようにすることです。
人間が社会活動をするときには、人と人との協力が必要です。その協力に欠かせないのが、互いに相手を尊重することです。
自分に能力があったとしても、それは同じようにほかの人にもあるのだということを教え、特に自分の得意な分野があったとしたら、それは世の中の役に立たせるために、自分に与えられたものだという謙虚な姿勢を持たせることです。
今の世の中は、勉強面で競争をさせる環境があるので、よくできる子はできない子をバカにするような風潮があります。
成績でクラス分けをするような塾にいると、誰も教えるわけではないのに、できるできないという価値観だけで人を評価するようになります。
狭い価値観で人を見ることは、道徳的に問題があるだけでなく、その子の生きる世界を狭めてしまいます。
自分のよくできることを自慢せず、誰に対しても同じように相手を尊重して生きていくことの大切さを子供のころから教えることによって、その子の人生はより豊かになったいくのです。
昔の社会では、以上のようなことが自然に行われていました。
勉強のよくできる子でも、家の農作業を手伝わされたり、家庭の仕事の一部を分担させられたりしました。実物に触れる機会はふんだんにありました。
また、親の目が行き届かないところで、子供は自分の好きなことを自由にする機会がありました。
更に、近所の人に接すると、勉強は全然していないようなおじさんが仕事の達人だったり、人生の話をしてくれたりということがありました。
このような環境で、勉強のよくできる子も、自然にバランスの取れた生き方ができていたのです。
今は、そういう環境がなくなった分、親が子育ての工夫をしていく必要があるのです。
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昔、ある大きな会社が倒産し、社員の再就職の話が出たとき、次のようなことが言われました。
「東大卒の優秀な人間など、うちでも掃いて捨てるほどいる。ほしいのは自分だけのものがある人材だ」
こういう境遇になった人には同情するしかありませんが、しかし、これからの世の中は、多かれ少なかれこういう方向で動いていきます。
だから、成績という偏差値を少しでも上に上げて、誰かに認めてもらおうと思うのではなく、自分の個性を生かして自力で生きる力をつけることを第一に考えていくといいのです。
そのために必要なのが、体験と意欲と共感の力だと思います。
昔の子育ての基準は、健康で、人様に迷惑をかけずに、できれば世の中の役に立つように、ということでした。
それは、農業社会だからこそできたことかもしれませんが、基本は今でも同じです。
子供の勉強のことで悩んだら、時々この基本に戻るといいのだと思います。
今は、低学年の子に「勉強、勉強」という周囲からの雑音が多すぎます。
昔は、勉強の「べ」の字も言われずに、みんな勉強もでき仕事もできるようになっていきました。
勉強よりも大事なのは、実物と世間の荒波なのです。
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小学校低学年から作文の勉強を始めようという子は、一般的にかなりよく勉強のできる子です。
学校の普通の勉強は、もうすっかりできるので、それ以外の面白い習い事をしたいということで作文教室に来ることが多いのです。
もちろん、反対に超がつくほど苦手という子も来ます。しかし、そういう子供たちは特に問題がありません。
毎日の読書と長文音読の習慣をつけて、毎週書く作文のいいところを褒めていけば、必ず上達していくからです。
問題は、よくできる子の方にあります。
小学校低学年でよくできるのですから、学校のテストなどは常に百点です。
何をやってもよくできるので、家庭で学年よりも先に進んだことをしています。そして、その先の学年のこともすっかりできるのです。
勉強ができるだけでなく、態度もしっかりしているので、学校のクラスでも自然にリーダーのような役割を果たしています。
そういう模範的なよくできる子のどこが問題になるかというと、そのよくできすぎるところなのです。
第一は、知的な理解が進んでいるので、実際の行動よりも理解が先になりがちなところです。
世の中には実際に体験してみなければわからないことがあり、その体験の中で予想とは違ったトラブルや失敗に遭遇するのが普通です。そして、その予想とは違った失敗の経験から、知的な理解以上に多くのものを学んでいくのです。
しかし、理屈による理解が先行している子は、やらなくてもわかったつもりになるので、実際の行動を省略しがちです。
小学生のころは、知的な理解が早い子の方が進んでいるように見えるのですが、学年が上がるにつれて、そして将来社会で活躍するようになる時期になると更に、理解よりも行動を優先する人の方が成長が早くなってくる傾向があるのです。
だから、勉強のよくできる子は、特に、勉強以外の実際の行動の時間を確保してあげる必要があります。
本をよく読む子の場合は、本に書かれていることの理解で終わらせずに、その本に書かれていることを実際にやってみるような経験を用意してあげるといいのです。
第二の問題は、勉強が同じ学年の子供たちよりも先に進んでいる子は、クラスの中で浮いてしまう場合があることです。
そういう子は、子供どうしで遊ぶよりも、大人と話している方が楽しいということがあります。
しかし、大人は節度を持った話し方をしますから、子供どうしでよくありがちないざこざというものがありません。
子供は、周囲との時には理不尽なやりとりの中で成長していきます。子供どうしで遊ばない子は、そういうやりとりの機会が少ないまま、大人の中でいい子のまま成長してしまうことがあるのです。
しかし、もちろんこれは、成長とともに友達どうしの交流は必ず増えてきますから、次第にその子なりに人間関係のバランスが取れるようになります。
それでも、そこまでの苦労は、本人にとってはかなりあるのです。
第三の問題は、よくできる子は、傍目にはそう見えなくてもやはり無理をしてよくできる子になっていることが多いことです。
子供は、本当はくだらない漫画などをだらだら読むような生活もしたいのです。しかし、いい子でいるためには、親が喜ぶようないい本を読まなければなりません。いい本はもちろん面白いのですが、本当はそういう本ばかり読むとか、そういう本しか読まないということは不自然なことなのです。
今は少子化が進んでいるので、子供は親の目を離れて自由な時間を持つということがなかなかありません。その自由に脱線する時間がないということが、あとで無理として出てくるのです。
その無理は、軽い場合は、親への反発として出てきます。小学校低学年でいい子であった子ほど、小学4、5年生の自立意識が目覚めるころになると、親の言うことを聞かなくなるのです。
しかし、親への反発は成長とともに、自然に元に戻ってくるので、それほど大きな問題ではありません。
無理な生活を続けたもっと大きな問題は、学年が上がるにつれて次第に無気力になってくることです。
この無気力も軽い場合は、勉強に対する無気力で済みます。小学校低学年のころ勉強のよくできた子が、中学生、高校生となるにつれて次第に勉強に対する関心を失っていくのですから、問題と言えば問題ですが、それは生活に差し支えるほどではありません。しかし、重い場合は、生活そのものが無気力になってしまうことがあるのです。
今の家庭は、親子だけの核家族で過ごす時間が多いので、祖父母や近所の家族との交流があまりありません。
そうすると、どうしても親の価値観だけで子育てが進んでしまいがちです。
だから、親はいつも全体のバランスを考えて子育てをしていく必要があります。
そのひとつのポイントは、いいことも悪いことも度を過ぎない程度にやることです。
そして、子供が親の価値観から離れて自由に生活できる時間や場所を必ず確保してあげることです。
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子育てのバランスを取るためには、父と母の価値観が多少違っていた方がいいように思います。
勉強熱心な母と遊び熱心な父との拮抗の中で、子供はバランスよく成長していきます。(ややパターン化された設定だとは思いますが)
両親が同じ価値観だと、今の核家族の中では子供は逃げ場がなくなってしまうことがあるのです。
勉強ができない子は、全く問題がありません。
やれば必ずできるようになるからです。
問題はむしろ勉強がよくできすぎる子の方にあることが多いのです。
これは、そういうよくできる子供たちを見てきた私の実感です。
何事も、できるだけ自然に近い子育てをしていくのがいいのです。
子どものためにといろいろなプランを立てますが、大人の価値観になっていたような気がします。
勉強さえできればいいわけではないことは、みんなわかっていると思いますが、具体的に何が問題なのかという点はあまり取り上げられていませんよね。
親は、自分の価値観から離れて、子供の視野を広げることを考えるといいかもしれませんね。
勉強ができると、つい、もっともっととなってしまうのが親心ですが、違う分野ちがう方角への発展を促ずべきだ、と目からうろこが落ちる思いです。
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世界的な数学者でも、計算ミスをすることがあります。
文章を仕事としている人でも、漢字をど忘れすることがあります。
計算と漢字の力は、人並みにあった方がいいものですが、それ以上のものではありません。
人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになりました。
これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってきました。
すると、人間に残された真の学力とは何なのでしょうか。
それは、生きる希望や、未来へのビジョンや、新しいものを作り出す力、つまりまだ答えのないものを創造する力です。
その創造力の土台として、これまでの勉強と思われていたものがあるのです。
決してこれまでの勉強がゴールなのではありません。
これからの子育ては、この新しい価値観で子供を見ていくことから始まります。
しかし、その新しい価値観の教育は、まだ多くの人が模索中です。
私は、この新しい価値観の子育ては、作文を中心とした読書と対話と経験に結びついていると思っています。
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将来の入学試験は、辞書持ち込み可、電卓持ち込み可、それよりもパソコン持ち込み可になると思います。
日常生活で、辞書や電卓やパソコンなしに仕事をしたり勉強をしたりすることはないからです。
人間の能力は、辞書や電卓になることではなく、それらを使うことです。
やがては入学試験そのものもなくなるかもしれませんが、当面試験が必要だとしたら、それらは作文と面接が中心になっていくと思います。
これからの勉強のゴールは、受験に合格することではなく、その先にあるものです。
それは、自分の個性を生かして、その分野で世界の第一人者になることです。
子育ても、こういう大きな枠組みで考えていく必要があります。
偏差値の輪切りの少しでも上に行こうなどという小さなことは考えないのです。
「人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになり」「これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってき」た今、「人間に残された真の学力とは」また、人間とは何なのかという問いを根本的に問う必要がありそうですね。
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7月の森リン大賞で90点を取り、高校生の部で第1位となった高1の生徒の作品です。
意見の焦点が絞られていると同時に、その意見の裏付けとなる実例が具体的に書かれています。
構成も、複数の方法という形でわかりやすく書けています。
森リン点で90点以上を取るのはかなり難しいので、ときどき90点の作文が書ける実力があれば、大学入試の小論文はどこでも合格できる力があります。
テレビアニメから考える深い思考の意義
きろる
テレビアニメ「それいけアンパンマン」や「ドラえもん」は、水戸黄門のようなワンパターンを繰り返している。問題を根っこから解決しようとする場面が存在しない。テレビアニメの短絡さが気になって仕方ない。この二つの誰もが知っているアニメ番組ですら人と人がじっくり向き合い、どうすれば問題が解決するのか、掘り下げて考える場面が出てこない。少なくなっていく子供たちの体験の場所を補うのではなく、短絡的なワンパターンを繰り返すことで、長寿番組になっている。僕たちは物事について短絡的にではなく深く考える機会を持つべきである。そのために考えられる方法は二つある。
第一の方法としては、テレビアニメなどの既製品の中に答えを見出そうとするのではなく、自分で考えられるようにすることだ。僕自身も、学校での課題の発表や様々なスピーチなどが多く、それに伴って想定外のアクシデントもたくさん体験した。もちろん現実ではそのようなことが起こってもドラえもんが素敵な道具を持ってきてくれるわけではないし、アンパンマンのような正義のヒーローがやって来てその状況を打開してくれるわけではない。だからこそこちらも対策をしておかねばならないのである。例えば僕は中学生の頃、新入生に対する部活動紹介のプレゼンテーションで自分の所属する部活動を紹介するという体験をした。当時科学部の部長であった僕は、プレゼンテーションと同時に行う科学実験が失敗したときに備えて予め成功した時の動画を用意しておいた。また、学校での調べ学習の最後に行う発表では、制限時間内に終わりそうにない時に切る文章や逆に時間が余った時に足す文章を考えておくようにしている。そうすれば、多少の事故なら対応できるというものだ。
第二の方法としては、様々な人が関わり合えるような環境を整え、その中で生き方の知恵を学ぶような場をつくることだ。人間は、自分一人で考えるだけでなく、他人の経験を参考にすることができる。例を挙げるならば、生き方の知恵ではないが学校のイベントなどが当てはまる。イベントは異なる世代が交わる機会が多くなり得るからである。特に体育祭や文化祭では毎年構成を一から考え直すのではなく、前年度までの内容を参考に企画することが多い。こういうイベントは、先輩方が創り上げてきたものを踏襲しつつも新たな仕組みをもって革新するものである。ちなみに僕の学校の文化祭のスローガンは、少し味気ない気もするがこれに準じて「踏襲と革新」となっている。
確かに、手本があることで大胆な解決を図ったり落ち着いた対応をすることもできる。しかし、僕たちは様々な問題の持つ複雑な側面を自ら見つめ、それについて考えていかねばならない。想定外の事故に対応するために必要なのは初めから与えられていた手本ではなく自分で物事についてしっかりと考えられる力である。僕たちは物事について手本に与えられたような考え方で考えるのではなく、自ら深く考えるようにするべきだ。
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中学生以上の生徒が気合いを入れて書いた作文の中には、大人でも書けないような優れたものがよくあります。
当の本人が、大学生や社会人になったあと、自分が中高生だったころの作文を読んで、「僕って、すごくいい作文を書いていたんですね」と感心するぐらいなのです(笑)。
7月の森リン大賞の高校生の部で1位となった作品です。
小学1年生のころは、どの子も、「きょうは こうえんで ともだちとあそびました。」などという、のどかな作文を書いていますが、そういう子供たちが、その後の読書と経験の中で成長し、やがて立派な論説文を書くようになるのです。
やはり自分の考えだけで書き進めるのではなく、体験実例をどうやって入れてゆくかで個性が引き立つ光る文章になりますね。
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意欲を持って勉強する時間は、意欲を持たずに勉強する時間の何倍もの価値があります。
だから、受験勉強なども、早めにコツコツ始めるのはいいのですが、最後までそのペースでコツコツ続ける子よりも、最後の半年から1年で意欲的に集中して取り組む子の方が成果が出ることが多いのです。
だから、子育てで大事なことは、小さいころからその意欲を育てるようにしておくことです。
そのためには、ニーズの時間だけでなくウォンツの時間も大切にすることです。
子供の生活を、必要だと思われることばかりで埋めずに、全然必要ではないし将来役に立ちそうもないが本人が熱中していることがあればその時間をしっかり確保し尊重してあげる、ということです。
さて、作文の勉強に対する意欲の話ですが、作文というのはかなり精神的エネルギーを必要とする勉強です。
普通の勉強であれば、食後すぐでもできますが、作文を書くというのは食後すぐではできません。
特に、高学年の考える作文の場合は、ある程度空腹でないといいのは書けません。
それは、それだけ頭脳に酸素を供給する血液の流れが必要になるからです。
また、作文の勉強は、小学校低学年のころはある程度行われますが、高学年になるとだんだん学校では行われなくなります。
本当は、高学年ほど作文の勉強が必要なのですが、大勢の人数の添削の負担を考えると、どうしても作文の指導というのは後回しになってしまうのだと思います。
学校で作文をやらなくなり、しかも負担の大きい勉強だということになると、高学年から次第に、作文の勉強をすることに意欲的になれない子が出てきます。
その時期は、小5から中2にかけてです。
ちょうどこの時期は、文章を読む力と文章を書く力が最もかけ離れる時期に相当します。
つまり、読めるほどには書けないという状態になるので、自分の書いた文章を読んで自分でうまく書けたとは思えなくなるのです。
だから、この時期は、作文の勉強に対する意欲が最も低下する時期だとも言えます。
では、この時期には、どういう取り組みをしたらよいのでしょうか。
第一は、書くことよりも読むことに力を入れることです。それは読書と音読です。
特に、課題の長文の音読を毎日2、3分続けておくと、そこに使われている表現に慣れて、作文に書くための語彙力が育ってきます。
すぐに成果を上げることを期待するのではなく、気長に底力をつけておくようにするといいのです。
第二は、パソコンを使って書くようにすることです。
なぜパソコンがよいかというと、手書きのものよりも、テキストとして入力されたものの方が作品として完成されている印象があるからです。
作品としての完成感があると、書いたあとに、やり遂げたという気持ちになりやすいのです。
また、言葉の森では、パソコンで書いた作文は、自動採点の森リンで点数が出るようになっています。
この点数はある程度の字数以上でないと誤差も大きいので、小学校高学年で長く書けるようになってからの取り組みにちょうど合っています。
自分の書いた文章がその場で点数になるというのは手応えがあるので、高学年の生徒も意欲的に取り組みやすくなるのです。
そして、第三に、作文の勉強の大切さを親子で話し合っておくことです。
将来必要になる学力は、ただ知識を覚えて再現するような学力ではなく、自分で文章を読み取り、自分なりに考えて、それを文章に書き上げる力になるからです。
高学年の生徒は、こういう理屈をしっかり話してあげると、それで納得します。
ただし、そのためには、お父さんやお母さんがその理屈を自分の言葉としてしっかり話してあげることです。
そして、本人が書いた作文のよいところをいつも認めていくようにしていくといいのです。
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勉強でも、仕事でも、最も大切なのは意欲です。
賞罰や競争で外側から持たせた意欲は長続きしません。
子供のころから、何かに熱中することを通して意欲の土台を作っておくとよいのです。
テストのための勉強の中には、役に立つものもありますが、役に立たないものも結構あります。
そういう勉強は、テスト直前の短期間の集中学習で仕上げてしまう方がいいのです。
そのかわり、自分の関心のある事柄や読書に、普段からコツコツ取り組んでいくのです。
これからは、勉強力だけでなく、勉強力+個性力が重要になってくるからです。
ダラダラ勉強することは、逆効果ですね。
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(△こんな岩の隙間に、めげずに)
私が小学生のとき、塾に行く子などはほとんど誰もいませんでした。
みんな、遊びが楽しくて、学校が終わってまで勉強しに行くというのは、よほどできない子か、ごくまれに中学を受験するらしい子だけだったのです。
だから、感じとしては塾に行くような子は百パーセントいないという雰囲気でした。
しかし、今は多くの子が塾に通っています。
中学生で塾に行かないというのは、かなり珍しいと思います。
そして、子供自身も高学年になると、友達も行っているからという理由で自然に塾に行きたくなるのです。
なぜそういう大きな変化があったかというと、私が先日気がついたのは、遊びが面白くなくなったからです。
小学生のころは、本来遊びに熱中する時期です。
朝から晩まで遊びっぱなしでも飽きないのが、この時期の子供たちです。
しかし、今の遊びは、家で暇つぶしにゲームをやるような惰性的な遊びになっているのです。
勉強自体は、決して悪いことではありません。
しかし、勉強の面白さがわかるのは、一般的に高校生になったあたりからです。
小中学生の時期に勉強が面白いということは、まずありません。
もし、この時期に勉強が面白いとしたら、それはその子のほかの生活がよほどつまらないのです。
そして、小さいころから塾通いしている今の子供たちが、小学生のころ遊びっぱなしだった昔の子供たちよりも賢くなっているようには到底思えません。
今の大人たちがすべきことは、もっと短時間で実力のつく勉強の仕方を教えるとともに、子供たちが多様な遊びの楽しさに気がつく環境を作ることです。
小学生のころ、しっかり遊びに熱中できてこそ、高校生、大学生になってから真の学力が身につくのだと思います。
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子供たちの勉強と遊びの環境は、これからますます狭まっていきます。
それは、少子化の進展によって、近所で一緒に勉強したり一緒に遊んだりすることのできる気の合った友達を見つけることが難しくなるからです。
それを、言葉の森では、寺子屋オンエアでカバーしていくことを考えています。
これからの教育は、プロに任せてやるようなものではなくなります。(特に小中学生は)
家庭どうしが協力して、子供たちをバランスよく育てていくようになるのです。
缶詰状態で勉強をさせれば、誰でも成績は上がります。
大学入試までは、そういう勉強法で通用します。
しかし、人生のゴールは大学に合格することではありません。
そのあとに、もっと長い創造的な社会生活があります。
そのときに必要な学力は、小学生時代までの熱中できる遊びによって育っていることが多いのです。
「よく学び、よく遊べ。」
ではなく、
「よく遊び、よく遊べ。」でいいのです(笑)。
情報や周りの意見に流されてしまう世の中ですが、しっかり自分の子育てを見直し、よく遊び、よく学び、いい大学に入るのではなく、いい人生を歩んでいきたいですね。
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(△本文とは関係ない写真ですが、立石海岸にいるゆめ)
言葉の森は1981年に開設され、教育分野のIT化をどこよりも先駆けて行ってきました。(前身の作文教室は1977年ごろ)
言葉の森では、1996年に初めてホームページを開設しました。当時、ホームページを持っている企業はほとんどなく、ヤフーの学習塾のカテゴリーで言葉の森が全国のトップを占めているような状態でした。
このころは、慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスで、大学生が授業の中でホームページ作りが行われていることが先進的な取り組みとして新聞で話題になっていたような時代です。
言葉の森では子供たちの作文を生徒自身がパソコン入力することに取り組んでいましたが、当時は、駅の売店にワープロで文章を入力してくれるコーナーがあり、ワープロ入力が職業として成り立っていた時代でした。
その後、作文指導をより科学的にするために、当時アメリカで開発されていたeraterという自動採点ソフトの記事を参考に、PHPとMySQLと茶筅というソフトを利用して、日本語の小論文自動採点ソフト「森リン」を独自に開発しました。
これは、人間による評価とかなり相関が高く、2005年に国際特許を取得しました。(特許第4584158号)
しかし、その後、経営の仕事が多忙になったため、この自動採点ソフトの開発は一時休止しました。
近年、MOOCなどアメリカ発の教育のネットワーク利用が盛んになってきました。日本でも同じような教材のネット配信などの事業がいくつか立ち上げられています。
しかし、これらの教育のICT化は、結局世界規模で最も大きい数社の寡占状態になることが見込まれるので、今後の可能性はないと考えられます。
また、もう一つのICT化として、skypeなどを利用したグローバルなマンツーマンの英会話学習なども行われています。しかし、これは、高額なマンツーマン指導をグローバル化することによって低価格で提供できるようにしているだけなので過渡的なビジネスモデルと考えられます。
そこで、言葉の森では、これらの方向とは別に、少人数のグループ活動による生徒どうしの交流を活かした自学自習形式のネットワーク教育を目指しました。
今後のネットワーク利用は、独自のソフト開発よりも、クラウドサービスの活用になると考えられるので、まずfacebookなどソーシャル・ネットワーキング・サービスの活用に力を入れました。
また、googleハングアウトを利用して、10名以内の生徒指導の仕組みを寺子屋オンエアという名称で作りました。(寺子屋オンエアは登録商標)
今後、日本の社会に求められているものは、内需の拡大と考えられるので、ネットワークを利用した作文指導の講師養成講座「森林プロジェクト」を作り、全国にネットワーク教育を広げていく方向で取り組んでいます。
現在のネットワーク教育は、まだテキストと画像と動画の利用にとどまっていますが、今後バーチャル・リアリティ技術が進むと、身体的な教育もネットワークで行われるようになると考えられます。
最近、人工知能や深層学習が、一般にも利用できるようになってきました。
この深層学習の仕組みを見ると、これが自動採点ソフト「森リン」のより高度な開発に使えることがわかったので、今後、森リンの開発を再開していく予定です。
現在の見通しでは、大学入試の小論文採点のレベルまでは、この深層学習を取り入れた森リンで十分対応できるのではないかと考えられます。
現在、プログラミング教育が話題になっていますが、現在のプログラミング学習は、プログラミング言語の学習と同じようなものと考えられています。
しかし、このプログラミング言語の学習は、コンピュータの現在の計算速度を前提にした過渡的なものです。
今後、計算速度や記憶容量が量的に著しく拡大するようになると、現在のプログラミング言語は限りなく自然言語に近づいてくるようになります。
これは、これまでのプログラミング言語の発達の歴史を見れば誰でも推測できることですが、ITに詳しい人ほど現在の過渡的なプログラミング環境を今後も変わらない前提のように考えがちです。
したがって、将来のプログラミング教育は、言語を学ぶ教育ではなく、言語はどのようなものであってもよいので(場合によっては日本語でもよいので)、その言語によってビジョンを作る力を育てる教育に発展していくと考えられます。
現在のプログラミング学習においても、優れたプログラミングを書く人は、ただ言語をうまく使える人ではなく、何を作るかという大きな方向を考えられる頭のよい人になっています。
今後、この傾向は更に加速していくと考えられます。そこで、言葉の森では、作文教育と結びつけたプログラミング教育も開発していく予定です。
(補足というか蛇足)
作文教育という文学的なことをしているのに、なぜIT化のようなことに関心があるのかというと、私は高校生のときは理系の選抜クラスにいて数学が得意だったのです。
しかし、数学と物理の勉強自体はあまり好きではなく、特に物理は先生が好きでなく(ごめん)、いちばん好きだったのは立原道造や中原中也の詩集でした。
そして、そういう詩的なロマンチックな気持ちのまま、当時は花も好きだったので、絶対にここだと思って千葉大学園芸学部に入学しました。
しかしすぐに、自分が好きだったのは花の栽培のようなことではなく、ただきれいな花を見ることだけだったのだとわかり(遅い)、紆余曲折の上、作文教育に未来があると思って言葉の森を始めたのです。
日本でいちばん最初に作文教室というものを始めたので、苦労はいろいろありましたが、いちばんよかったことは、仕事の一環として好きな本をたくさん読めるということでした。もちろん、作文教育関係の本も、二百冊は読みました。
しかし、何だか脱線の多い人生だったような……いまだに(笑)。
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多くの人は、人工知能というものを過大評価しがちです。
人工知能は、単に答えを出すための知能です。
人間の知能は答えを出すための知能ではなく、希望を持って生きるための知能です。
人間は、答えを出したいから考えるのではなく(試験ではそういうこともありますが)、何かをしたいから考えるのです。
この「何かをしたい」ということが、人工知能と人間との決定的な違いなのです。
人工知能の発達が人間の仕事を奪うと言われていますが、それは何も問題がありません。
一時的、局所的にそういう事態は生まれますが、大きく見れば人間はより人間らしい仕事ができるようになるのです。
人工知能が本質的にできないことは、楽しく生きるということです。
だから、人間の仕事は楽しく生きることに結びついたものになっていくのです。
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(△水引草:高校生のとき、立原道造の詩集に、「水引草に風が立ち」と書いてあるのを見て、どういう草なのかと思っていました。だから、最初に水引草を見たときは、初めてなのに懐かしい気がしました。)
作文指導というものは、実はかなり難しいものです。
書けない子の原因はさまざまです。また、上手に書ける子も、どこを更に上手にできるかということは人によって違います。
そのように教え方の難しい作文指導を、言葉の森以外ではどう教えているのでしょうか。
多くの場合、多数の生徒に対する一斉指導の形で教えられています。
一斉指導をすれば、当然上手に書ける子がいます。しかし、それは指導をしなくてももともと上手に書けた子です。
そして、多くの子は上手に書けません。その子たちは努力不足だから上手に書けないのではありません。上手に書く力がまだないから書けないのです。
しかし、教える側の先生は、同じように教えて、上手に書ける子がいるのだから、上手に書けない子は本人のせいだと思ってしまうのです。
もちろん、赤ペンによる個別の添削はあるかもしれません。しかし、赤ペン添削を見て上手に書けるようになる子は一人もいません。赤ペン添削で上手になるのは少なくとも高校生以上になってからです。
だから、上手に書けない子が、先生のところに相談に行ってもまず具体的なアドバイスはありません。
また、上手に書けている子が更に上手に書くにはどうしたらよいかという相談に行っても、なおさら具体的なアドバイスはありません。
つまり、指導と評価が結びつかないような指導が延々と行われているのです。
言葉の森の作文指導は、こういう一斉指導+事後の赤ペン添削とは正反対のものです。
言葉の森の指導は、個別指導+事前の電話説明です。
ひとりひとりにその生徒に応じた難しさで事前に説明をして書いてもらうのです。そして、評価はその事前指導に基づいて行います。だから、褒める評価が多いのです。
言葉の森の作文は事前指導ですから、当然生徒の側も事前の準備が必要です。
準備といっても大したことではありません。あらかじめ課題の長文を読んで内容を理解し、その上で親子でそのテーマについて話をしておくことです。
言葉の森の小3以上の課題は、題名課題と感想文課題です。感想文課題の場合は特に、自分なりの体験と結びつけて内容を理解しておくことが必要です。だから、親子でそのテーマについて話をしておくことが大事なのです。
それさえできていれば、誰でも難しい課題に取り組むことができ、上手に書けるようになります。
たまに、ヤフー知恵袋などの掲示板で、「言葉の森はどうですか」「うちの子には役に立ちませんでした」などという応答が書いてあることがあります。
普通、こういうことをわざわざ書くのはよほど暇な人です。多くの場合、こういうネガティブなやりとりはライバル企業の手によって行われているものです。どことは言いませんが(笑)。
というのも、言葉の森では、うまく書けない子の相談にはいつでも乗っているからです。
そして、もし本当に言葉の森の指導でうまく書けなかったという場合、その子はどこで教えてもらってもうまく書けるようにはなりません。
なぜなら、うまく書けるようにならなかった原因は、家庭における事前の準備(といってもただ課題を読んで親子で話をするだけです)がなかったからです。
そして、特に苦手な子の場合は、こちらで指示している毎日の読書や音読ができていない場合がほとんどだからです。
その毎日の読書や音読についても、寺子屋オンエアなどで容易にできるようにしていますが、それもせずに、家ではできないという人もいるのです。
言葉の森は、30年以上子供たちの作文を見てきました。
中には、どうしようもなく書けない子もいました。学校では全く書けないという子もよくいました。
また、反対に最初から最初から上手に書ける子もいました。
よく書ける子は、小学生新聞で年間盾賞をもらったり、全国の作文コンクールで選ばれたりしました。また、大学入試でも、東京大、京都大、早稲田大、慶応大などに多くの生徒が合格しました。
そういう苦手な子から得意な子まで、何万人もの生徒をそれぞれの生徒に応じて個別指導をしてきたのです。
だから、言葉の森で作文の勉強をしている人は、安心して決められた課題に取り組んでいってください。
そして、毎日の読書と音読と事前の準備をして、電話のあとすぐに始めるように心がけてください。
もしすぐにできない日があって課題がたまってしまったら、まとめてやろうなどとは思わずに新しい課題だけに取り組むようにしてください。
言葉の森では、今度、毎週土曜日に、保護者のオンエア相談コーナーを設けます。
当面は、受験作文コースという切実な課題に取り組んでいる生徒の保護者を中心に行っていきます。
もし、苦手でうまく書けないとか、上手に書けるがもっとうまく書きたいという要望があれば、こういうオンエアコーナーでご相談いただければと思います。
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本文の内容とは全然関係ありませんが(笑)、写真は、三浦半島の最高峰大楠山、標高241mに咲いていた水引草。
立原道造の詩集に、水引草とかワタスゲとか萱草(わすれぐさ)とかいう植物の名前が出ていて、また、そのころ秋のススキの中に咲いていた紫色の野菊の花があまりにきれいだったので、それで千葉大学園芸学部に行くことにしたのです。
でも、入ってみたら、自分は植物を観念的に好きだっただけだということがわかりました。それで、紆余曲折の末、言葉の森を始めたのです。
同じ園芸学部の中には、小黒君のように道端のどんな植物でも名前を知っている本当に花好きの人がいました。先日同窓会をやったら、みんなそれぞれ植物に関係のあるようなことをしていました。えらいなあ。
入会したときはとても苦手だった生徒が、1年後には新聞に掲載されるようになったというケースもあります。体験学習のときに全く書けなかったのが嘘のようです(笑)。
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