子供の作文を、言葉の森を始めたときからずっときれいに保存していてくださる保護者の方がいます。
今の原稿用紙スタイルは、散逸しやすいので、ファイルをしておかないとばらばらになってしまいます。
だから、本当は、みんなにそうしてもらいたいのですが、毎週のことになるとつい後回しになってしまうことも多いと思います。
そこで、清書だけはテキスト化して、ウェブにアップロードしておくことをおすすめしています。
テキスト化して保存しておくと、子供が小さいころからの成長の記録がずっと残ります。
すると、成長の過程で語彙が豊富になっていくことがよくわかるのです。
その成長も一直線ではなく、いろいろなところで停滞があったり進歩があったりということがわかります。
作文の勉強というものは、テストの点数のように上達が目に見える評価がないので、長くやっていると飽きることも出てきます。
そういうときに、自分の作文の蓄積を見ると、進歩のあとがわかるのでやる気を取り戻すことが多いのです。
小学3年生になると、学校でローマ字を習うので、自分でパソコン入力ができるようになります。
アルファベットを教えるだけなら、小学1年生からでもできるので、もっと早くからパソコン入力をすることもできます。
しかし、せっかくパソコン入力した作文が増えても、そのままではまだバラバラです。
そこで、今考えているのは、kindleのセルフパブリッシングを利用して本という形にしておくことです。
テキストだけでなく、そのときの画像などもカラフルに入れられるので、子供にとっていい思い出になります。
これからは、子供だけでなく、お父さんやお母さんも、自分の個性を生かしてセルフパブリッシングをする機会が増えてくると思います。
日常的な記録であれば、ブログやfacebookに記事を投稿する形でいいのですが、本格的なまとまったことを書こうとすれば、やはり形として残るものにしていく方がいいのです。
そこで、言葉の森では、これから子供たちの記録をkindleのセルフパブリッシングで作品集にする企画を考えています。
これまで、プレゼン作文発表会をしたり、作文検定をしたり、作文の勉強を形のあるものとして生かす工夫をしてきましたが、今度はそれにkindle作品集の企画も加えていきたいと思っています。
【追記】
タッチタイピングに慣れるためには、自分の好きな歌を一曲歌いながら、その歌詞を入力する練習をすることをすすめています。
このやり方で毎日10分でもタッチタイピングの練習をしていると、すぐに手書きよりも早く打てるようになります。
しかし、書く過程はパソコン入力でいいのですが、考える過程には手書きが必要なので、構想図を書くときなど手書きの部分は残しておくことが大事です。
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日本には、万葉集という庶民が詩を書いた伝統があります。
同じように、これからkindleのセルフパブリッシングという庶民が本を書く文化が生まれてくるのではないかと思います。
これを子供たちの作文の作品集として作っていくことを考えています。
昔は子供たちの文集を作るとなると、文字だけで、モノクロで、手間がかかって、コストもかなりかかりました。
これからは、電子書籍の文集になるので、個人別の作品集が、カラフルな画像も入れて、ほとんど無料でできるようになります。そして、田舎のおじいちゃんおばあちゃんも、孫の作品集をすぐにスマホで見られるようになります。
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学力と成績は、同じもののように思われるかもしれませんが、ここで言う学力とは学ぶ力のようなもので、まだ成績として表れているとは限らない潜在的な学力です。
学力の根本は、日本語の力によって養われます。というのも、人間は言葉によって物事を理解し、言葉によって考えるからです。
だから、言葉を豊富に駆使できる人は、理解する力も、思考する力もあるのです。
同じ物事を見る場合でも、言葉のストックが豊富にある人は、その物事をより高い解像度で見ています。言葉のストックが少ない人は、より低い解像度で見ています。
同じものが同じように見えるのですから、差があることはなかなか自覚できませんが、そこにはやはり差があります。
料理の味でも、舌の肥えた人とそうでない人との差があるように、言葉による理解も言葉の肥えた人とそうでない人の差があるのです。
言葉のストックを豊富にするものは読書です。
読書には質と量がありますが、まず量を確保することが先です。
本をたくさん読んでいれば、自然に語彙が豊富になり、その語彙を自分で自由に使えるようになります。
作文力の土台も、読書力です。
作文を作文の上だけで上手にすることはできません。
それは、根っこを育てないでいて、花だけを大きく咲かせようとするようなものです。
まず根っことなる読む力をつけることが基本なのです。
読む力がある子は、潜在的な学力を持っています。
成績を決めるのは、勉強の有無ですから、学力がある子が必ずしもその学力に比例して成績がいいわけではありません。
しかし、読む力があり、学力がある子は、いざ勉強が必要になり勉強に取り組むようになると、すぐに成績を上げることができるのです。
成績は、勉強の時間に比例します。
勉強の方法というのももちろん成績に影響しますが、もとになるのは勉強の量です。
特に、低学年のときほど、勉強の量はそのまま成績に表れます。
だから、成績のいい子は、よく勉強をしている子なのです。
成績は点数として表面に現れるので、誰でも関心を持ちます。
成績がよければ安心し、成績が悪ければ不安になります。
しかし、本当に関心を持たなければならないのは、学力の方です。
では、学力と成績は、どこで見るとよいのでしょうか。
学力と成績の違いは、漢字の力に表れます。
学力のある子は、漢字の読みがよくできます。その学年ではまだ習っていない漢字についても読みだけは知っているという子が多いのです。
しかし、漢字の読みがよくできる子が、漢字の書きがよくできるとは限りません。
漢字の書きは、書き取りの勉強量に比例します。
だから、成績は漢字の書きに表れると言っていいのです。
両方できるのが、もちろんいちばんいいのですが、大事なのは読む力の方です。
読む力のある子は、書く勉強を始めればすぐに書く力もついてきます。
しかし、その逆はありません。
だから、読む力は読書量によって独自に育てていく必要があるのです。
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子供は本さえ読んでいればいいというのは、読書が学力の土台になっているからです。
読書さえしっかりしていれば、小学校での勉強は、漢字の書き取りと計算の練習だけやっていればそれで十分なぐらいです。
作文の試験が多くなったのは、作文力は読書力に比例し、読書力は本当の学力に比例していることがわかってきたからです。
反対に、教科の成績は勉強時間に比例しているので、成績のよい子は勉強をよくしてきた子だということはわかりますが、そういう子が必ずしも高い学力を持っているわけではないということもわかってきたからです。
「生きる力」・「考える力」というのは、結局読書量に比例するということ。
高学年になると、授業時間数も宿題も増えるけれど、読書はしっかりと。生徒さんのご両親にもしっかりお伝えしていきたいです。
読書をしている子は、語彙力も豊富ですね。
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昔から、作文が苦手な子というのはいました。しかし、その数はそれほど多くはありませんでした。
ところが、最近作文が苦手だからという理由で、言葉の森に問い合せをしてくる人が増えています。
子供たちの作文力は、昔も今もそれほど変わっていません。
では、なぜ作文が苦手だという子が増えたのでしょうか。
それは、逆説的なようですが、作文を教えられる機会が増えてきたからなのです。
作文が苦手だという子には、共通点があります。それは、学校や塾で作文をよく教わっていることです。
それも、先生が熱心なほど苦手になる子が増えるのです。
反対に、自分で作文が好きだとか得意だとかいう子もときどきいます。
そういう子は、学校で作文の授業がほとんどないのが普通です。
つまり、作文は、教えられる機会が増えるほど苦手になってくるのです。
この理由は、はっきりしています。
子供たちが作文を書けば、どんな子でもどこかしらに欠点があります。
句読点がおかしかったり、主語と術語がねじれていたりするのはどの子も普通にあります。
厳しく見れば、同じ表現を繰り返していたり、言い回しが不適当だったりすることも、作文の欠点のうちに入ります。
すると、文章力に自信のある先生ほど、その欠点をそのまま指摘してしまうのです。
もし、作文の欠点を指摘して、それでその子の作文の欠点がなくなるなら、日本中の子供たちはみんな作文が得意になっているはずです。
しかし、作文に現れた欠点は、その子の日本語生活という土台から来ているものですから、口で言っただけで直ることはないのです。
ところが、集団指導をしている先生は、そのことに気がつきません。
同じことを指導して、一方の子はできて、他方の子ができないとなると、それはできない子の努力不足だと考えてしまうのです。
では、作文の苦手な子には、どういう指導をしたらいいのでしょうか。
それは、その子の実力にあったことを事前の個別指導をするしかありません。
その子が努力すればすぐにできることだけに絞って指導し、すぐにはできないことは指導からはずしておくのです。
指導からはずしておくのですから、それはできなくてもかまいません。
できることだけをしっかり書けばいいので、子供は安心して書き出せます。
そして、指導したことがそのとおりにできたら、先生はそれをたっぷり褒めてあげることができます。
言葉の森の個別指導はこういうやり方ですから、作文が苦手だという子もすぐに書けるようになります。
子供の作文を見て注意するだけであれば、普通に文章を書ける大人であれば誰でもできます。
しかし、その注意によって、子供は上達するどころか、作文に対する苦手意識を持つだけになることが多いのです。
では、作文はただ褒めればいいのかというと、それも違います。
何を書いても褒められるだけであれば、上達もしないし、意欲もわかなくなります。
注意することでも、褒めることでもなく、作文指導のカリキュラムに沿って科学的に指導していくことが大切なのです。
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作文が苦手な子が増えているのは、作文を教わる機会が増えたからです。
それは、受験で作文試験を課すところが多くなってきたために、学校も塾もそれに対応するようになってきたからです。
作文は、教えられる機会が増えるほど、苦手な子が増えてくる不思議な勉強なのです。
作文力は、氷山の表面に見えているごく一部です。
その底には、日常の日本語生活の大きな土台があります。
作文添削は、その目に見える表面だけを削っているようなものですから、いくら添削しても上達はしないのです。
作文の勉強の基本は、第一に読む力をつけること、第二は焦点を絞った事前指導をすること、第三はできたところを褒めること、です。
娘が中学生になり、作文に対して再びやる気を失っています。原因は、学校の先生による評価に仕方にあるようです。
娘の通う地元中学では、行事の後に作文を書かされます。そして、教師が「優秀」と認めたものは学年だよりなどに掲載されます。掲載された「優秀」作文にはある共通点が見られます。事実とは異なる、パターン化した美談であるということです。
子どもが自ら悩み考えたことを作文に書いても認められません。教師は事実をありのまま見ることをせず、自分が見たいことを見たいようにしか見ない傾向があります。いじめが起きていても、「我がクラスにはいじめはない」と思い込むのと同じだと言えます。
何につけてもそういった評価の下され方をされるので、教師の前でうまく取り繕うことが上手な生徒のほうが評価されてしまいます。評価されたいなら嘘をつけばよいと娘に言うこともありました。世の中をうまく生きていくには確かに必要なのですが卑怯なことをすすめているようで心苦しく、また、正直ものの娘にはとうてい受け入れがたいことです。そういったことの繰り返しで、中学になってから、主観的評価になりがちな作文に関して特にやる気を失っています。
また、多くの子どもたちが、嘘がうまくなっていきます。小学校時代は素直な作文を書いていた子も、どんどん嘘つきになっていきます。このような学校教育の在り方に、改めて危機感を抱きます。
学校教員のすべてがこのような傾向を持つとは思いませんが、ある一定数いるのは確かです。本人のやる気を再喚起していく方法を模索中です。
お返事遅れてすみませんでした。
これは、学校の評価の仕方もあると思いますが、子供の年齢的なことが大きいと思います。
小6から中2にかけては、読解力と作文力が一生のうちで最も乖離する時期で、読む力があるほどには書けないという状態が続きます。
だから、自分の書く作文が自分で見て上手には思えないので、どの子も作文が苦手になりやすいのです。
しかし、作文の評価というのは曖昧なところがありますから、身近な人がその子の作文のいいところを褒めてあげると、それが自己評価になります。
学校の評価などは、内申点があろうがなかろうが、長い人生から見たら何にも影響しません。評価など気にせずに自分らしいことを書いていけばいいです。
損をしても正直な生き方をする方が格好いいと言っておくといいと思います。
お忙しい中お返事ありがとうございました。
受験が視野に入ってくる時期、母親の立場になると、どうしても大事なことを忘れがちになります。
「長い人生から見れば」
はっとしました。
長く生きている大人だからこそ、学校の評価なんて気にしなくていいと自信を持って、子にアドバイスすべきですよね。
親という生き物は・・・苦笑。
子どもをもっと褒めるように努力します。
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小学生時代は、頭も体もぐんぐん成長する時期です。
この時期に、頭をよくし、体を丈夫にするのが、子供の教育の基本です。
頭をよくするためには、好きな本をたっぷり読むことです。
体を丈夫にするためには、体を使ってたっぷり遊ぶことです。
勉強は、学校でしているから、それで十分です。
家では、遊びと、お喋りと、読書と、それからちょっとだけ学校でしたことの復習です。
本さえ読んでいれば、子供の頭脳はしっかり育ちます。
それ以外は、本当は何もしなくてもいいのです。
これは決して極端な話ではなく、数十年前の子供はみんなそうでした。
学校から帰ると、すぐにランドセルを家の中に放り投げて、走って遊びに行きました。
そして、夕方の食事の時間までたっぴり遊んでいたのです。
昔は、本は今ほど豊富にはありませんでした。
しかし、たまに買ってもらう本や、月に1回届く雑誌などが子供の読書の喜びで、同じ本を何度も繰り返し読みました。
そして、この遊びと読書で、みんな立派に成長し、学校を卒業して、立派な社会人になっていったのです。
先日、私立の小学校に通っている子に聞いた話に驚きました。
家では勉強が忙しいから、本は学校の行き帰りの電車の中でしか読めないというのです。
また、こういう子もいました。
読書は、朝の10分間読書で学校でやっているから、家ではやらなくていいことにしているというのです。
それで、家では勉強をしているというのです。
勉強は、小学生のころの子供にとって決して面白いものではありません。
勉強が面白くなるのは、もっとあとの高校生以上になってからです。
読書は、子供にとっては遊びと同じように面白いものです。
だから、読書はいくらしても無理がないのです。
中学生、高校生になり、勉強がよくできるようになる子は、小学生時代に読書をたっぷりした子です。
だから、子育ての基本は単純です。
子供を読書好きにすればいいのです。
もうひとつついでに、言葉の森の立場で言うと、読書と作文を好きにしていけばいいのです。
しかし、それも楽しくさせることが絶対の条件です。
ただし、読書さえしていれば、漢字の書き取りも計算の練習もよくできるようになるというのではありません。
読書している子は、勉強が必要になったときにすぐ追いつくことができ、すぐに追い越すぐらいになるということなのです。
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なぜ昔の子が家では勉強をしなかったかというと、問題集やプリントが今のように簡単に手に入らなかったからです。
(今は、塾から消化し切れないほどのプリントが渡されますが)
それで、同じ本を繰り返し読んで頭脳を成長させていったのです。
学力の基本は今も変わりません。
問題を解くことによってではなく、本を読むことによって、子供は成長していくのです。
うちの子2人が、家でやっていたのは、読書と音読と作文だけ。
塾にも予備校にもどこにも行きませんでした。
それで、小中高と楽しく学校生活を送り、全く問題なかったのです。
今の子供たちは、早期からの塾通いに健気に耐えていますが、本当はもっとたっぷり遊びたいはずです。
遊ぶことと同時に大事なのは読書。
言葉は悪いですが(笑)、これまでの経験上、大化けするのは、勉強ばかりしている子供ではなく、読書ばかりしている子供です。
シェアさせていただきます。
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小さいころ勉強ができすぎることが、その子の将来の人生にとってマイナスにならないためにはどうしたらよいのでしょうか。
第一は、知的な勉強をできるだけ実物の体験と結びつけることです。
例えば、理科の本で、植物にはおしべとめしべがあり、虫や風がその受粉を仲介するというような記述があった場合、それを知識として理解するだけでも、確かにその子の物事に対する思考力は深まります。
しかし、ここで、知識を知っているだけで終わらせずに、実際にその現場を見に行くような機会を作るのです。
本を読んで得た知識は、単なる知識のコピーです。そのコピーをいくらたくさん知っていても、自分らしいものの見方は育ちません。将来大事になるのは、さまざまな知識を自分なりに生かせるような力を身につけることです。
実際に現場を見に行けば、そこで得た体験はコピーではなく自分だけのオリジナルなものになります。その体験が知識と結びつくことが大事なのです。
だから、勉強のよくできる子は、勉強以外の実際の体験もそれ以上にする機会を作ってあげるといいのです。
知識を能率よく吸収させるのではなく、体験を通して遠回りに吸収させることが、その子の知識を生きたものにするのです。
第二は、勉強的なことをするときに、自分から進んで喜んでやりたいという気持ちにさせることです。
つまり、本人が心から自分でやりたいと思うまでは、親の方から先にやらせようとしないことです。
そのために、親は、いろいろな工夫をして、本人がそれをやりたくなるようにさせる必要があります。
子供が小学校低学年のころは、親は簡単に子供に何かをさせることができます。しかし、それを抑えて、子供が自分からやりたくなるように時間をかけて工夫していくことが必要なのです。
また、本人がやりたいということは、できるだけそれをかなえてやるような条件を作ってあげることです。
子供が何か希望を言ったとき、親が、「それは○○だからだめ」と言ってしまえば、子供はそれ以上反論できません。
簡単にだめと言うのではなく、今の条件でできるようにするためにはどうしたらよいかということを考えてあげることです。
子供が将来社会に出てから活躍するときに最も大事なのは、意欲を持ち続けることです。
その意欲は、子供時代に自分の意欲を生かした経験から育っていくのです。
第三は、勉強がよくできることを自慢せず、いつも謙虚に生きるようにすることです。
人間が社会活動をするときには、人と人との協力が必要です。その協力に欠かせないのが、互いに相手を尊重することです。
自分に能力があったとしても、それは同じようにほかの人にもあるのだということを教え、特に自分の得意な分野があったとしたら、それは世の中の役に立たせるために、自分に与えられたものだという謙虚な姿勢を持たせることです。
今の世の中は、勉強面で競争をさせる環境があるので、よくできる子はできない子をバカにするような風潮があります。
成績でクラス分けをするような塾にいると、誰も教えるわけではないのに、できるできないという価値観だけで人を評価するようになります。
狭い価値観で人を見ることは、道徳的に問題があるだけでなく、その子の生きる世界を狭めてしまいます。
自分のよくできることを自慢せず、誰に対しても同じように相手を尊重して生きていくことの大切さを子供のころから教えることによって、その子の人生はより豊かになったいくのです。
昔の社会では、以上のようなことが自然に行われていました。
勉強のよくできる子でも、家の農作業を手伝わされたり、家庭の仕事の一部を分担させられたりしました。実物に触れる機会はふんだんにありました。
また、親の目が行き届かないところで、子供は自分の好きなことを自由にする機会がありました。
更に、近所の人に接すると、勉強は全然していないようなおじさんが仕事の達人だったり、人生の話をしてくれたりということがありました。
このような環境で、勉強のよくできる子も、自然にバランスの取れた生き方ができていたのです。
今は、そういう環境がなくなった分、親が子育ての工夫をしていく必要があるのです。
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昔、ある大きな会社が倒産し、社員の再就職の話が出たとき、次のようなことが言われました。
「東大卒の優秀な人間など、うちでも掃いて捨てるほどいる。ほしいのは自分だけのものがある人材だ」
こういう境遇になった人には同情するしかありませんが、しかし、これからの世の中は、多かれ少なかれこういう方向で動いていきます。
だから、成績という偏差値を少しでも上に上げて、誰かに認めてもらおうと思うのではなく、自分の個性を生かして自力で生きる力をつけることを第一に考えていくといいのです。
そのために必要なのが、体験と意欲と共感の力だと思います。
昔の子育ての基準は、健康で、人様に迷惑をかけずに、できれば世の中の役に立つように、ということでした。
それは、農業社会だからこそできたことかもしれませんが、基本は今でも同じです。
子供の勉強のことで悩んだら、時々この基本に戻るといいのだと思います。
今は、低学年の子に「勉強、勉強」という周囲からの雑音が多すぎます。
昔は、勉強の「べ」の字も言われずに、みんな勉強もでき仕事もできるようになっていきました。
勉強よりも大事なのは、実物と世間の荒波なのです。
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小学校低学年から作文の勉強を始めようという子は、一般的にかなりよく勉強のできる子です。
学校の普通の勉強は、もうすっかりできるので、それ以外の面白い習い事をしたいということで作文教室に来ることが多いのです。
もちろん、反対に超がつくほど苦手という子も来ます。しかし、そういう子供たちは特に問題がありません。
毎日の読書と長文音読の習慣をつけて、毎週書く作文のいいところを褒めていけば、必ず上達していくからです。
問題は、よくできる子の方にあります。
小学校低学年でよくできるのですから、学校のテストなどは常に百点です。
何をやってもよくできるので、家庭で学年よりも先に進んだことをしています。そして、その先の学年のこともすっかりできるのです。
勉強ができるだけでなく、態度もしっかりしているので、学校のクラスでも自然にリーダーのような役割を果たしています。
そういう模範的なよくできる子のどこが問題になるかというと、そのよくできすぎるところなのです。
第一は、知的な理解が進んでいるので、実際の行動よりも理解が先になりがちなところです。
世の中には実際に体験してみなければわからないことがあり、その体験の中で予想とは違ったトラブルや失敗に遭遇するのが普通です。そして、その予想とは違った失敗の経験から、知的な理解以上に多くのものを学んでいくのです。
しかし、理屈による理解が先行している子は、やらなくてもわかったつもりになるので、実際の行動を省略しがちです。
小学生のころは、知的な理解が早い子の方が進んでいるように見えるのですが、学年が上がるにつれて、そして将来社会で活躍するようになる時期になると更に、理解よりも行動を優先する人の方が成長が早くなってくる傾向があるのです。
だから、勉強のよくできる子は、特に、勉強以外の実際の行動の時間を確保してあげる必要があります。
本をよく読む子の場合は、本に書かれていることの理解で終わらせずに、その本に書かれていることを実際にやってみるような経験を用意してあげるといいのです。
第二の問題は、勉強が同じ学年の子供たちよりも先に進んでいる子は、クラスの中で浮いてしまう場合があることです。
そういう子は、子供どうしで遊ぶよりも、大人と話している方が楽しいということがあります。
しかし、大人は節度を持った話し方をしますから、子供どうしでよくありがちないざこざというものがありません。
子供は、周囲との時には理不尽なやりとりの中で成長していきます。子供どうしで遊ばない子は、そういうやりとりの機会が少ないまま、大人の中でいい子のまま成長してしまうことがあるのです。
しかし、もちろんこれは、成長とともに友達どうしの交流は必ず増えてきますから、次第にその子なりに人間関係のバランスが取れるようになります。
それでも、そこまでの苦労は、本人にとってはかなりあるのです。
第三の問題は、よくできる子は、傍目にはそう見えなくてもやはり無理をしてよくできる子になっていることが多いことです。
子供は、本当はくだらない漫画などをだらだら読むような生活もしたいのです。しかし、いい子でいるためには、親が喜ぶようないい本を読まなければなりません。いい本はもちろん面白いのですが、本当はそういう本ばかり読むとか、そういう本しか読まないということは不自然なことなのです。
今は少子化が進んでいるので、子供は親の目を離れて自由な時間を持つということがなかなかありません。その自由に脱線する時間がないということが、あとで無理として出てくるのです。
その無理は、軽い場合は、親への反発として出てきます。小学校低学年でいい子であった子ほど、小学4、5年生の自立意識が目覚めるころになると、親の言うことを聞かなくなるのです。
しかし、親への反発は成長とともに、自然に元に戻ってくるので、それほど大きな問題ではありません。
無理な生活を続けたもっと大きな問題は、学年が上がるにつれて次第に無気力になってくることです。
この無気力も軽い場合は、勉強に対する無気力で済みます。小学校低学年のころ勉強のよくできた子が、中学生、高校生となるにつれて次第に勉強に対する関心を失っていくのですから、問題と言えば問題ですが、それは生活に差し支えるほどではありません。しかし、重い場合は、生活そのものが無気力になってしまうことがあるのです。
今の家庭は、親子だけの核家族で過ごす時間が多いので、祖父母や近所の家族との交流があまりありません。
そうすると、どうしても親の価値観だけで子育てが進んでしまいがちです。
だから、親はいつも全体のバランスを考えて子育てをしていく必要があります。
そのひとつのポイントは、いいことも悪いことも度を過ぎない程度にやることです。
そして、子供が親の価値観から離れて自由に生活できる時間や場所を必ず確保してあげることです。
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子育てのバランスを取るためには、父と母の価値観が多少違っていた方がいいように思います。
勉強熱心な母と遊び熱心な父との拮抗の中で、子供はバランスよく成長していきます。(ややパターン化された設定だとは思いますが)
両親が同じ価値観だと、今の核家族の中では子供は逃げ場がなくなってしまうことがあるのです。
勉強ができない子は、全く問題がありません。
やれば必ずできるようになるからです。
問題はむしろ勉強がよくできすぎる子の方にあることが多いのです。
これは、そういうよくできる子供たちを見てきた私の実感です。
何事も、できるだけ自然に近い子育てをしていくのがいいのです。
子どものためにといろいろなプランを立てますが、大人の価値観になっていたような気がします。
勉強さえできればいいわけではないことは、みんなわかっていると思いますが、具体的に何が問題なのかという点はあまり取り上げられていませんよね。
親は、自分の価値観から離れて、子供の視野を広げることを考えるといいかもしれませんね。
勉強ができると、つい、もっともっととなってしまうのが親心ですが、違う分野ちがう方角への発展を促ずべきだ、と目からうろこが落ちる思いです。
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世界的な数学者でも、計算ミスをすることがあります。
文章を仕事としている人でも、漢字をど忘れすることがあります。
計算と漢字の力は、人並みにあった方がいいものですが、それ以上のものではありません。
人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになりました。
これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってきました。
すると、人間に残された真の学力とは何なのでしょうか。
それは、生きる希望や、未来へのビジョンや、新しいものを作り出す力、つまりまだ答えのないものを創造する力です。
その創造力の土台として、これまでの勉強と思われていたものがあるのです。
決してこれまでの勉強がゴールなのではありません。
これからの子育ては、この新しい価値観で子供を見ていくことから始まります。
しかし、その新しい価値観の教育は、まだ多くの人が模索中です。
私は、この新しい価値観の子育ては、作文を中心とした読書と対話と経験に結びついていると思っています。
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将来の入学試験は、辞書持ち込み可、電卓持ち込み可、それよりもパソコン持ち込み可になると思います。
日常生活で、辞書や電卓やパソコンなしに仕事をしたり勉強をしたりすることはないからです。
人間の能力は、辞書や電卓になることではなく、それらを使うことです。
やがては入学試験そのものもなくなるかもしれませんが、当面試験が必要だとしたら、それらは作文と面接が中心になっていくと思います。
これからの勉強のゴールは、受験に合格することではなく、その先にあるものです。
それは、自分の個性を生かして、その分野で世界の第一人者になることです。
子育ても、こういう大きな枠組みで考えていく必要があります。
偏差値の輪切りの少しでも上に行こうなどという小さなことは考えないのです。
「人工知能のロボットが、センター試験で偏差値57.8まで取れるようになり」「これまで人間の学力と思われてきたかなりの部分が、機械でも代替できる学力だということがわかってき」た今、「人間に残された真の学力とは」また、人間とは何なのかという問いを根本的に問う必要がありそうですね。
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7月の森リン大賞で90点を取り、高校生の部で第1位となった高1の生徒の作品です。
意見の焦点が絞られていると同時に、その意見の裏付けとなる実例が具体的に書かれています。
構成も、複数の方法という形でわかりやすく書けています。
森リン点で90点以上を取るのはかなり難しいので、ときどき90点の作文が書ける実力があれば、大学入試の小論文はどこでも合格できる力があります。
テレビアニメから考える深い思考の意義
きろる
テレビアニメ「それいけアンパンマン」や「ドラえもん」は、水戸黄門のようなワンパターンを繰り返している。問題を根っこから解決しようとする場面が存在しない。テレビアニメの短絡さが気になって仕方ない。この二つの誰もが知っているアニメ番組ですら人と人がじっくり向き合い、どうすれば問題が解決するのか、掘り下げて考える場面が出てこない。少なくなっていく子供たちの体験の場所を補うのではなく、短絡的なワンパターンを繰り返すことで、長寿番組になっている。僕たちは物事について短絡的にではなく深く考える機会を持つべきである。そのために考えられる方法は二つある。
第一の方法としては、テレビアニメなどの既製品の中に答えを見出そうとするのではなく、自分で考えられるようにすることだ。僕自身も、学校での課題の発表や様々なスピーチなどが多く、それに伴って想定外のアクシデントもたくさん体験した。もちろん現実ではそのようなことが起こってもドラえもんが素敵な道具を持ってきてくれるわけではないし、アンパンマンのような正義のヒーローがやって来てその状況を打開してくれるわけではない。だからこそこちらも対策をしておかねばならないのである。例えば僕は中学生の頃、新入生に対する部活動紹介のプレゼンテーションで自分の所属する部活動を紹介するという体験をした。当時科学部の部長であった僕は、プレゼンテーションと同時に行う科学実験が失敗したときに備えて予め成功した時の動画を用意しておいた。また、学校での調べ学習の最後に行う発表では、制限時間内に終わりそうにない時に切る文章や逆に時間が余った時に足す文章を考えておくようにしている。そうすれば、多少の事故なら対応できるというものだ。
第二の方法としては、様々な人が関わり合えるような環境を整え、その中で生き方の知恵を学ぶような場をつくることだ。人間は、自分一人で考えるだけでなく、他人の経験を参考にすることができる。例を挙げるならば、生き方の知恵ではないが学校のイベントなどが当てはまる。イベントは異なる世代が交わる機会が多くなり得るからである。特に体育祭や文化祭では毎年構成を一から考え直すのではなく、前年度までの内容を参考に企画することが多い。こういうイベントは、先輩方が創り上げてきたものを踏襲しつつも新たな仕組みをもって革新するものである。ちなみに僕の学校の文化祭のスローガンは、少し味気ない気もするがこれに準じて「踏襲と革新」となっている。
確かに、手本があることで大胆な解決を図ったり落ち着いた対応をすることもできる。しかし、僕たちは様々な問題の持つ複雑な側面を自ら見つめ、それについて考えていかねばならない。想定外の事故に対応するために必要なのは初めから与えられていた手本ではなく自分で物事についてしっかりと考えられる力である。僕たちは物事について手本に与えられたような考え方で考えるのではなく、自ら深く考えるようにするべきだ。
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中学生以上の生徒が気合いを入れて書いた作文の中には、大人でも書けないような優れたものがよくあります。
当の本人が、大学生や社会人になったあと、自分が中高生だったころの作文を読んで、「僕って、すごくいい作文を書いていたんですね」と感心するぐらいなのです(笑)。
7月の森リン大賞の高校生の部で1位となった作品です。
小学1年生のころは、どの子も、「きょうは こうえんで ともだちとあそびました。」などという、のどかな作文を書いていますが、そういう子供たちが、その後の読書と経験の中で成長し、やがて立派な論説文を書くようになるのです。
やはり自分の考えだけで書き進めるのではなく、体験実例をどうやって入れてゆくかで個性が引き立つ光る文章になりますね。
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