垂直統合から水平分業へということで、コンピュータ産業が構造転換したときの様子を図解でわかりやすく説明しているページがありました。
パラノイアだけが生き残る
(池田信夫氏のブログより)
この記事の趣旨は、自動車産業においても、EV化が水平分業の形で進むということです。
しかし、私は、ここから連想して、教育産業にも同じことがあてはまると思いました。
今の教育の本流は、垂直統合です。
学校という場が、教材も先生も教室も用意して、垂直統合的に子供の教育を行っています。
部分的に、学校とは別の習い事に行ったり、学習塾に行ったりする面はありますが、それは本流ではありません。
しかし、インターネットの活用が、今後、教育においても、水平分業を進めていくと考えられます。
そのひとつの象徴が、年々増加する不登校という現象です。
平成27年度の調査によると、小学生の生徒数は654万人と、前年度よりも6万人減っています。
しかし、不登校の数は2万6千人と2千人も増えています。
中学生の場合は、347万人と前年度よりも4万人減っています。
しかし、不登校の数は9万7千人と2千人も増えています。
平成27年度学校基本調査(確定値)の公表について
ありえないことですが、このグラフをずっとそのまま延長していけば、やがて生徒数よりも不登校の数の方が多くなる時期が来るということです。
不登校というと、まるで学校に登校することが当然のことで、登校しないことが例外的なことのように思われがちですが、そういうことはありません。
私自身の子供時代をふりかえっても、学校の勉強は本当に退屈でした。
いつも、窓から外を見ては、スズメなどの小鳥は自由でいいなあと思っていたものです。
ただ、当時は不登校という選択肢があるとは知らなかったので、つまらなくても我慢して学校には行くものだと思って行っていただけです。
そのときに自分を励ます言葉が、「○○ちゃんに会うために行くんだ」ということでした。
もちろん、中には学校が好きでたまらないという人もいると思いますが、私は自分の経験から、不登校というのはごく普通のことのように思っています。
ところが、昔は、学校の垂直統合度が今よりも高かったので、学校に行かないと勉強がわからなくなるという心配がありました。
学校以外の選択肢というものが、あまりなかったのです。
しかし、今は、学校以外の選択肢はかなりあります。
それにも増して重要なことは、フリースクールなどのやはり垂直統合型の学習の場を選ぶ以外に、水平分業型の勉強もできるようになっていることです。
それを可能にしたのは、やはりインターネットによる情報流通と交流機会の増加です。
今は、家庭でいながらにして、教材と先生と教室を水平分業的に選べるようになっているのです。
この水平分業的な選択がこれから増えてくると思われるのは、勉強の目的がこれまでの単線型の受験中心から、それぞれの生徒の関心や希望に応じたものになっていくからです。
ここでコンピュータ産業が、水平分業型に移行した際、主要なプレーヤーがIBMからマイクロソフトに移ったのと同じようなことが、教育産業においても起きてくると思われます。
それを私は、教材でも、先生でも、教室でもなく、一緒に勉強する友達ではないかと考えています。
人間にとって、最も重要な選択の基準は、居心地のいい仲間と一緒にいることです。
それは、勉強のような、それ自体は友達との交流が不可欠ではない分野についても言えることです。
言葉の森も、そういう友達との交流ができるような学習機会を通信教育の中で作っていきたいと思っています。
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今はまだ、学校のような勉強全体を見てくれるところに頼らなければ、家庭だけで子供を教育するのは難しいと感じている人が多いと思います。
しかし、条件としては、家庭学習だけで、学校と同じ勉強をすることは十分に可能になっています。
と考えてみると、最後に残る重要な要素は、友達の存在ではないかと思いました。
コンピュータ産業においては、グローバル化が進みました。
それは、IT技術が基本的にコピーが可能なものを対象にしていたからです。
しかし、これからの教育文化産業においては、対象はコピーできない個々の人間になります。
だから、これからの産業は、ネット上のローカル化が進んでいくのです。
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問題集読書は、飽きて続けにくくなることが多いので、家庭でどう続けるかということが大事になります。
その問題集読書を続ける方法はあとで書くことにして、まず問題集読書の意義にについて説明していきます。
国語の問題集は問題を解くものではなく、問題文を読むために使うものと考えることです。
それはなぜかというと、問題を解くと、答えが合っていたかどうかということに終始してしまうからです。
こういう勉強の仕方では、国語の問題をいくら解いても、国語の力はつきません。
国語の読解問題で大切なことは、正しい答えがわかることではありません。
正しくない答えがなぜ正しくないかわかることです。
易しい国語の問題であれば、正しい答えがわかる程度でも正解になります。
しかし、入試問題レベルのテストになると、正しくない答えがなぜ正しくないかがわからなければ、正解にはなりません。
国語の点数にムラがある子の多くは、正しい答えがわかるという勉強の仕方をしています。
正しくない答えがわかるためには、問題文をじっくり読む必要があります。
問題文をじっくり読むためには、問題文の文章に書かれている内容や語句に慣れている必要があります。
特に、難関校の国語の問題の文章は長いものが多いので、難しい文章を読み慣れていることが国語力をつける大前提になるのです。
問題集読書では、問題を解くのではなく、問題集にあらかじめ答えを書き込んでおき、その問題でなぜそういう答えになるのかを読むようにしていきます。
最初は、ただ問題文と設問と答えを読むだけでかまいません。
慣れてきたら、正しくない答えがなぜ正しくないかも考えながら読んでいきます。
それを1冊の問題集について、5回繰り返します。
同じものを繰り返すということが大事で、これは国語の勉強に限らずすべての教科について言えることです。
この繰り返しの勉強を形骸化させないために、問題集読書は音読が基本です。
子供は音読を嫌がり、黙読で済ませようとしますが、黙読では繰り返しているうちに斜め読みになり、やがて表面だけの読み方になります。
子供が音読を嫌がらないようにするためには、親がその音読の仕方を絶対に注意しないことです。
子供の音読というものは、近くで聞いていると、必ず何かひとこと言いたくなるものです。
それをじっと我慢して、音読したことを褒めてあげるだけにするのです。
問題を解くとか、書いて覚えるとかいうやり方よりも、ただ読むだけでというやり方がなぜよいかというと、読む勉強は、解く勉強や書く勉強に比べて何倍も能率がよいからです。
国語の問題を1問解く時間があれば、その同じ時間でその問題と答えを5回以上読むことができます。
これが読む勉強を優先させる理由です。
ところが、この長文の音読をしたり問題集の読書をしたりというのは、実は子供にとってはかなり張り合いのない勉強なのです。
また、そばで見ている親にとっても、ただ読むだけ勉強は、それがどういう力になるのかあてのない気がするものです。
鉛筆を動かしているような勉強の方が、子供も親も、勉強しているという実感がわくからです。
このため、長文音読や問題集読書を始めてはみたものの、じきに飽きてやめてしまうという人が圧倒的に多いのです。
そこで、言葉の森が行っているのが、自主学習クラスで問題集読書に取り組むという勉強方法です。
これは、国語の問題集読書を中心として、その他の教科の勉強や読書もオプションで付け加えられるようにして、その日の国語問題集読書を先生がオンラインでチェックするというものです。
この自主学習クラスを受講をして、毎日の問題集読書をしている子は、確実に国語の成績が上がっていきます。
家庭だけでは続けにくい問題集読書を、家庭と先生との連携で、オンラインで子供の勉強をチェックしながら続けていくというのが、これからの国語の勉強の新しいやり方になると思います。
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勉強のやり方というものは、誰でもわかっています。
しかし、それが続かないことが多いのです。
特に、国語の勉強ではやり方はかなり単純です。
ただ難しい文章を読み慣れておけばいいのです。
ところが、それがなかなか続かないのです。
簡単で無駄のない勉強法は、問題と答えをただ読むという勉強です。
それを繰り返していれば確実に力がつきます。
特に国語ではこれが当てはまります。
しかし、それが惰性に流れないようにするためにはやはり工夫が必要です。
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