「自分の勉強なんだから、自分でやりなさい」という言い方をしてしまう人が多いと思います。
しかし、子供がなにか助けを求めてきたときは、すぐに助けてあげるといいのです。
作文には特に、子供が手助けを求める場面が多くあります。
子供が、「書くことがない」とか、「何を書いていいかわからない」というときは、親や先生とのコミュニケーションを求めています。
なぜコミュニケーションを求めるかというと、自分のやることに自信が持てないからです。
例えば、たくさん書けそうもないとか、書いてもすぐに注意されそうだとかいうことを思い浮かべるからです。
そのときに、親や先生が手助けをしてあげると子供は安心します。
この安心感が、勉強を続ける上で大切なのです。
作文の手助けのコツは、子供と話を交わしながら、構想図を書いてあげることです。
10分ぐらい話をしながら構想図を書くと、作文に書く内容のほとんどが埋まります。
子供は、それをもとに作文を書いていけばいいのです。
そのときに、ただ手助けをするだけでなく、手助けを生かすことを考えていくと、二重の効果があります。
それは、勉強を教えるだけでなく、勉強を楽しむ雰囲気を教えることです。
多くの子供は、勉強は義務感でやる退屈で面倒なものという感覚を持っています。
それは、小中学校の勉強の中身は、もともとそういう面があるからです。
しかし、これを我慢してやるのではなく、楽しんでやるように工夫するのです。
大人の人であれば、退屈な仕事を楽しくやるコツをいくつも知っています。
例えば、単純作業でも、タイマーをセットして自分が決めた時間内にやれば、意欲的に取り組めます。
面倒な仕事のあとには、自分にちょっとしたご褒美をあげようと思えば、これも意欲的に取り組めるコツになります。
しかし、大事なことは、こういう楽しくやるコツを子供にさせるのではないということです。
例えば、タイマーをセットして、子供に制限時間内にやるように要求すれば、それは単に子供をコントロールしていることでしかありません。
そうではなく、親が、「よし、お母さんはこれを5分以内にやるからね」という感じで、喜び勇んでやる姿を見せるのです。
こういう後ろ姿の教育ができるところが、親が手助けをする勉強の大きな副産物です。
そして、子供の心の中に残るのは、勉強の内容よりも、こういう親の生きる姿勢の方なのです。
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「自分でやらせるか親がやってあげるか」
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先日の小1~小3の保護者の懇談会で、次のような質問がありました。
「作文の構想図を子供がまだ書けないので、親が書いてやっているが、それでいいのか」ということでした。
小学1年生から3年生ぐらいの子は、まだ自分で要領よく構想図が描けない方が多いものです。
そのときは、親が子供と話をしながら構想図を書いてあげ、それを参考に子供が作文を書くということでいいのです。
しかし、その質問のお母さんは、「子供がこれまで曲がりなりにも自分で作文を書いていたのに、親が構想図を書いてやるようになってから、親の書いたものをそのまま写すようになっている」ということを問題にしているのでした。
けれども、私の答えはそれでいいということです。
「それでいい」という理由は、二つあります。
第一は、子供は学年が上がれば必ず自立するようになるからです。
親は、その子が自立するときの手本を教えていると考えるとよいのです。
勉強に限らずどんなことでも、誰でも最初の自信がないうちは、見ているだけのことが多いものです。
見ているうちに自分でもできそうだという自信がつくと、自然にやってみたくなるという流れがあるのです。
第二の理由は、勉強というものの考え方がこれから変わってくるからです。
それは、いい手本を見ることが勉強になるという考え方です。
例えば、算数数学の難問を解く場合、自分で何時間も考えるという方法と、すぐに解法を見て解き方を理解するという方法があります。
自分で考えるというのは、一見正道のように見えますが、難点は時間がかかることです。
ノーベル賞級の最先端の数学の世界であれば、自分で何ヶ月も何年も考えるというのは価値があることでしょう。
しかし、入試問題のレベルの算数数学で、自分で何時間も考えるという無駄な勉強だと考えた方がいいのです。
勉強は、答えや解法を見て理解して、すぐにできるようになることで基礎力がつきます。
その基礎力の土台の上に、自分で考える実力がついたところで、その子にとって答えのない世界で考える機会が出てきます。
その答えのない世界とは、遊びであったり、勉強であったり、又は将来の仕事であったりするのです。
したがって、親が子供の勉強や作文の手助けをするときは、親自身がそれを不本意な手助けだと思ってやるのではなく、逆に親が楽しめるくらい積極的にやっていくといいのです。
それは例えば、構造図を書くときに、ダジャレを使ったり、たとえを入れたり、親の感動的な体験実例を教えてあげたりすることです。
それを、子供に対する押し付けではなく、親が楽しむような余裕を持って行っていくのです。
余裕を持つということは、ほとんどアドリブで手助けをするということです。
もちろん余裕があれば、下準備をして手助けをしてあげることもいいのです。
しかし、準備しすぎるとつい子供にもそれに対応した努力を要求するようになりがちです。
それは、子供の自主性にとっては逆効果です。
子供が小学1年生や2年生のときは、親の子供に対する見方を次のように変えていく必要があります。
「今ここで親の最良の手本を見せておけば、その土台の上に、子供が高校生になったときにやがて親の今のレベルを超えるような考え方をするようになるはずだ」という見方です。
できるだけ視野を遠くに置いて、子供の成長を見ていくとよいのです。
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教育の方法には、叱る教え方と褒める教え方とがあります。
しかし、本当に大事なのは、叱るか褒めるかということではなく、叱るような状況を作るか褒めるような状況を作るかということです。
叱る状況になったら、それは叱られる子供が悪いのではなく、叱るような状況を作ってしまった大人が悪いのです。
褒める状況になったら、それは褒められる子供も偉いのですが、それ以上に褒めるような状況を作った大人が偉いのです。
子育ての理想は、朝から晩までいつも褒めるような状況で子供を育てることです。
子供は、親の苦労を知らないように見えます。
しかし、成長すれば必ずあとからいろいろなことがわかってきます。
個人的なことですが、私の母はいつも笑顔で何でも許してくれました。
それが普通のことだと思っていましたが、自分が大人になってみると、それはかなり難しいということがわかってきました(笑)。
親の教育は、そういう後ろ姿の教育なのです。
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子供が何かを吸収するのは、それが楽しいからです。
子供が興味を持たないものは、いくらすすめてもなかなか身につきません。
強制されてやるときの吸収力は、自分から進んでやるときの吸収力に比べてはるかに小さいのです。
しかし、楽しいからといって、甘いお菓子だけを食べていては体が成長しません。
楽しいと同時に、それによって子供が成長するようなものを吸収させる必要があります。
それが、楽しいけれど難しいというものです。
その第一のものは、子供が興味を持って読めるような説明文の読書です。
物語文の読書も子供の心を成長させる上で大切ですが、今の日本の読書環境では物語文の本の豊富さに比べると、説明文の本を読む環境はかなり限られています。
子供の興味や関心のある分野を考えながら、少し難しい説明文の読書をすすめていくというのが、子供の身近にいる大人の役割になります。
楽しいけれども難しいという第二のものは対話です。
高校生以上になれば友達との対話が中心になりますが、小学生の場合は、主に親子の対話です。
子供たちは、お父さんやお母さんと楽しい話をするのが好きです。
話の内容ももちろん大事ですが、それ以上に家族で話をするという雰囲気が好きなのです。
この楽しい話の中で、親が少し難しい言葉、少し難しい説明をしていくと、子供たちはその話を一生懸命に聞き取ろうとして自然に難しい言葉や難しい考え方を身につけていきます。
小学校低学年の間に、こういう親子の楽しい対話の習慣を身につけた子は、学年が上がっても親子の対話を続けていけます。
低学年のころは親もあまり準備せずに楽しく難しい話ができますが、子供が小学校高学年になり難しい作文の課題に取り組むようになると、親もその分野について勉強し直したり考えを深め直したりする必要が出てきます。
楽しいけれども難しいという第三のものは、子供自身が挑戦する経験です。
この挑戦する経験には、初めて取り組む遊びのようなものも含まれます。
難しそうだがやってみたいというものは、すべて子供を成長させます。
子供たちは、勉強によって成長するのではなく、読書と対話と経験によって成長するのです。
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世の中には、楽しくて易しいものや、つまらなくて難しいものはよくあります。
楽しいけれども易しいことだけをやっていては成長しません。
しかし、難しいけれどもつまらないことだけをやっていても同じように成長しません。
楽しいけれども難しいものを見つけていくことが大事なのです。
難しい話をしたり、難しい本を読んだりすることは大切ですが、その難しさの基準は知識の難しさではありません。
考え方の難しさです。
考え方の難しさは、理解できたときに目を輝かせるような喜びがあるのです。
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この世の中で価値あるものは、お金でも食料でも資源でも知識でもありません。
真に価値あるものは、創造です。
創造とは、単に耳当たりのよいキャッチフレーズのようなものではありません。
創造とは、すでにあるものを組み合わせて、まだないものを作りだすことです。
この単純な定義から、子供たちの創造力というもも考えていく必要があります。
既存のものただ並べるだけであれば、それは創造ではなく、単に知識を詰め込んだことにすぎません。
それらの既存の知識を組み合わせて新しいものを作り出したときに創造が生まれます。
その既存のものを組み合わせて新しいものを作り出す力を創造力と呼ぶとすると、創造とは、既にある知識を横軸とし、縦を創造力とする三角形の面積と同じように考えることができます。
現在、子供たちが校で学ぶ知識の多くは、国数英理社のような主要教科の知識です。
これをメジャーな知識と呼ぶとすると、メジャーな知識を底辺とした創造を作り出すためには、極めて高い創造力を持つことが必要になります。
世の中には、既に大きな三角形が作られているので、その三角形の枠の中に収まるものは、すべて二番煎じ三番煎じの小さな三角形です。
プログラミングの世界では、「車輪を自分で作る必要はない」という言葉があります。
最初に車輪を作った人は、確かに創造者でした。
しかし、今新しく車輪を作ろうとする人はいません。
今は、既にある車輪を生かして、ほかの新しいものを作り出す時代だからです。
学校教育で行われていることは、既に作られたことのある車輪の作り方を学び直すことです。
現代の社会では、学ぶことがあまりにも多いため、学ぶこと自体が目的のようになりがちです。
しかし、本当に大事なことは、既存のものを学ぶことではなく、既存のものの上に新しいものを作り出すことです。
ほかの人と同じ知識の横軸にとどまっているかぎり、創造に参加できる人はほんのわずかで、そのほかの大多数の人は追随者の役割しか果たせません。
子供時代に何かに熱中することが大切だというのは、この創造の文脈で考える必要があります。
何かに熱中するとき、人はそれがどのように役に立つかということを度外視して熱中します。
何かに役立つということがわかるものは、ほとんどが既にある横軸の上に存在するものです。
何に役立つかわからないものに熱中することが、新しい横軸を広げることになります。
これからの世界の教育を考えた場合、みんなと同じことを同じようにできるというのはあまり意味がありません。
みんなと同じことができるというのは、ロボットでも人工知能でもできるようになることだからです。
大事なことは、みんなのできないことで自分にできることがあるということです。
そういう新しい熱中できる分野を、子供時代から作っていく必要があるのです。
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経済が一つの方向に成長している時代は、メジャーな分野に行くことが潰しの利く道でした。
今は、経済が停滞しているのではなく、多方向に分散している時代です。
そういう時代には、マイナーな分野に行くことが潰しの利く生き方になるのです。
創造ということを考えた場合、役にも立たないことをやっているということが意外と大事です。
役に立つことというのは、ほとんどが既にあることだからです。
子供が何かに熱中しているときは、役に立つか立たないかということを度外視して考えることです。
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作文力をつけるのは、一般にかなり時間がかかります。。
算数や英語など、主に知識の勉強は、始めてからすぐに成果が上がり、三ヶ月も一生懸命やれば見違えるほどできるようになります。
苦手だった科目が得意になるぐらいの大逆転の成果が出ることもあります。
ところが、作文の場合はそうではありません。
上達することは、もちろん必ず上達しますか、普通の勉強よりもずっと時間がかかります。
しかし、上達させる方法ははっきりしています。
第一は、事前の指導をしっかり行うことです。
何をどのように書くかという指示をもとに、目標を持って書く練習をすることです。
ただ漠然と作文を書いて、赤ペンの添削を受けただけでは、作文力はつきません。
例えば、学校から日記を書く宿題が出されたときも、ただその日にあったことを書くのではなく、たとえを入れて書くとか、会話を思い出して書くとか、「どうしてかというと」という理由がわかるように書くとかいう目標を決めて書く練習をするのです。
この事前の目標のひとつに、身近な人への取材というものがあります。
作文に何かを書く場合、それと似た話を身近な両親に取材します。
すると、そこで生まれる親子の対話の中で、題材力、語彙力、主題力がついてくるのです。
第二は、音読、暗唱、読書など、生活の中で自然にできる日本語の読み取りの練習をしていくことです。
作文力の土台にあるのは、書く力よりもむしろ読む力です。
音読については、学校や塾でも取り上げられるようになってきましたが、やり方はまちまちです。
音読に必要な文書は、やや難しい説明文的な文章にしていく必要があります。
そして、2、3回読めばいいというのではなく、同じものを何度も繰り返して半ば暗唱できるぐらいまで読んでいくことが大切です。
この音読の練習の延長に、暗唱があります。
また、生活の中で、自然にできるのは読書です。
日常生活の中で、毎日の習慣として無理なく行える勉強が、音読、暗唱、読書なのです。
第三は、作文をほかの人の前で発表する機会を作ることです。
子供たちは、無機的なテストの点数で成長するのではなく、人間との関わりの中で成長していきます。
小学校低学年のうちは、親や先生の励ましによって、小学校中学年からは友達との関わりの中で、作文の勉強に対する意欲を持ち続けていくようになります。
だから、子供の作文を見たり聞いたりする機会があったら、親は必ずその作文のいいところを見て励ましてあげることが必要なのです。
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読書力は、ただ何でも読めば身につくというものではありません。
本人が好きなものを読むのが基本ですが、そこに、語彙と文章のレベルも考慮する必要があります。
作文力も同じです。ただ何でも書けば身につくというものではありません。
やはり、それなりに努力する目標が必要です。
そして、そういう目標があった方が、子供たちは作文に意欲的に取り組むようになるのです。
作文力の本質は思考力です。
小学生の間は、まだ「正しい書き方を身につける」というような表記の練習が中心になりますが、そういう段階はすぐに終わります。
中学生、高校生になると、上手な作文を書くためには、深く考える力が必要になります。
だから、作文力の土台は、難しい文章を読み取る力になります。
そのためには、小学生の間から読書に力を入れていく必要があります。
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△鎌倉の朝の海
英語の勉強が、小学生の段階から本格的に始められるようになります。
しかし、これまで中学生になってから始めていた英語の勉強を、同じように小学生の頃から始めるというのでは工夫がありません。
中学生は、文法的な知識をもとにした英語の勉強をします。
小学生は、文法の知識以前にもっと身体感覚的な英語の勉強をしていく必要があります。
それが英語の暗唱です。
言葉の森では、現在、日本語の暗唱検定試験を行っています。
この暗唱検定の最初の文章は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ですから、誰でも多少は聞いたことがあるのですぐに暗唱できるようになります。
暗唱検定の級が進み、途中から古事記の一部が暗唱に出てくるようになると、中には初めて聞くような神様の名前が次々と出てくる文章にになります。
しかし、暗唱に慣れた生徒は、それをいとも簡単に暗唱できるようになってしまうのです。
言葉の勉強は、知識の勉強よりも前に、運動感覚的な慣れのようなものが必要です。
英語の場合も、文法的な理屈を通して理解するのは中学生から上の段階であって、小学生まではもっと感覚的に身につけていく土台が必要なのです。
英語の文章の流れに慣れるという意味で、英語の暗唱は小学生段階で最初に取り組んでいく勉強になると思います。
言葉の森では、以前アメリカの出版社の英語の教材をもとに、希望する生徒に暗唱の練習を行っていました。
ところが、最近、日本でも子供向けの優れた英語の教材とその音声ファイルがそろうようになりました。
そこで、現在日本語の暗唱検定の5級が終わった生徒は、英語の暗唱も選択できるようにしています。
この英語の暗唱の音声は、その出版社のホームページからダウンロードして聞くことができます。
「暗唱のよさはわかるが、家でやらせるのは難しい」と思われるお母さん方は多いと思います。
その場合は、寺子屋オンラインの少人数クラスに参加すれば、すぐに暗唱ができるようになります。
ただし、現在、寺子屋オンラインはクラスの再編成を行っていますので、その受け入れ体制が整いましたら、また改めて募集を行う予定です。
▽英語暗唱のページ
https://www.mori7.net/teraon/tanngenn_eiann.php
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野口悠紀雄さんは、中学生のときに英語の弁論大会に出たことをきっかけに、英文の丸暗記を始めました。
中学、高校の英語の教科書も同じように暗記すると、英語の勉強は苦労もせずに得意になったそうです。(「超英語法」P226<私は英語をどう勉強してきたか>)
「暗唱」と聞くと、難しそうと思う人が多いと思いますが、実は暗唱はとても簡単で、大人でも子供と同じようにでき、しかもやっていると楽しくなります。
寺子屋オンラインのクラスでは、親子で暗唱に取り組んでいる家庭もあります。
本当はこれが理想で、子供ひとりにさせるより、兄弟も、お母さんも、家族みんなで一緒にやっていくといいのです。
小学生時代に暗唱力をつけておけば、国語だけでなく、数学も、英語も、勉強的なことはどれも簡単にできるようになります。
それは、今の受験勉強のほとんどは、記憶力でカバーできるからです。
そして、人間は、もっと大事な創造力を発揮することに時間を費やしていくべきなのです。
よく、「思考力を問う問題」などと言われるものがありますが、その対策は、解き方のパターンを覚えることだけです。
これからの子供たちは、そういうところに力をいれるのではなく、もっと自分らしい考えを深めることに力を入れていくことです。
だから、暗唱と創造は、ひとつのセットとして取り組んでいく勉強なのです。
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先日、92歳で亡くなられた西澤潤一さんの本を読みました。
「背筋を伸ばせ日本人―『信念』と『創造力』の復活」という本で、教育の問題についてもかなりスペースがさかれていました。 西澤さんは、現在の日本の社会の問題を、大きく教育の問題として捉えていたようです。
私がこれまで関心を持って読んでいた著書のほとんどが、やはり日本の教育の問題を提起しています。
そこに共通するものは、ひとつが煩瑣な知識の詰め込み勉強の弊害、もうひとつが勉強以外の人間教育の不足です。
人間教育とは、例えば勇気とか思いやりとか向上心とかいったものに対する教育です。
つまり、今の教育では、成績として表れる勉強ばかりが優先され、成績に関係しない部分が忘れ去られているというのです。
成績に関係しないものは、例えば、勇気です。
いくら成績がよくても、戦う必要があったときにが戦う力がなければ、その成績は価値あるものにはなりません。
特に男の子は、いじめられたらやり返す力が必要です。
それが社会人として生きるために必要なことだからです。
またいくら成績がよくても、弱い者に対する思いやりがなければ、やはりその成績は価値あるものにはなりません。
思いやりは人間として当然のことで、社会はその思いやりで回っているからです。
またいくら成績がよくても、成績に表れる以外のことに対する向上心がなければなりません。
テストが終わったら、又は志望校に合格したら、あとは遊び呆けるというような姿勢ではなく、テストが終わったら、又は合格したら、本当に自分でやりたかったことに取り組むというような子でなければならないのです。
私はこれまでいろいろな子供たちを教えてきて、成績だけの一面的な教育というものの弊害をいくつも見ています。
成績が悪くてもそれが問題になることはほとんどありませんが、成績だけがよくて他の人間力が不足している場合、つまり成績がよすぎる場合は、かえって大きな問題になってしまうことがあるのです。
今の子供たちの父母や祖父母の世代は、いい学校に入ることが、いい社会生活を送る前提になっていた世代ですから、いい学校に入ることだけが目的のようになっています。
しかし本当の目的は、いい社会生活を送ることで、学校生活はそのひとつの通り道にすぎません。
理屈ではこういうことがわかっているはずなのに、実際に子供がテストの結果を持ってくると、それに目を奪われて成績だけを考えてしまう親が多いのです。
それが例えば、成績さえよければ勇気などはなくてもどうにかなるとか、成績さえよければ思いやりなどなくてもなんとかなるとか、成績さえよければ成績以外のことに対する向上心などは特に必要ないとかいう考え方になるのです。
ところが、社会人になって仕事をするときに最も大事になるものは、勇気や思いやりや向上心の方であって、決して学校生活で獲得した成績ではありません。
成績はその子の全体の向上心のひとつですから、本人に向上心があれば、成績は必要になったときすぐに上げることができます。
成績がなかなか上がらないというのは、成績が上がらないのではなく、その子の向上心が不足しているからか、向上心が成績以外方に向いているからかだけなのです。
だから、言葉の森は、現在、成績も含めた向上心、勇気や思いやりという文化力、そして創造力というものを総合的に育てる教育を目指しています。
それが、作文を中心として子供たちの発表と交流と自学自習位を生かす、森林プロジェクトの寺子屋オンライン教育です。
森林プロジェクトで、日本のこれからの教育についていろいろなことを話し合い、日本によりよい教育を作っていきたいと思います。
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勉強さえできれば、とりあえずほかのことには目をつぶるというお母さんが多いように思います。
昔は、「人様に迷惑さえかけなければ、とりあえずほかのことには」ということだったのです。
この大きな価値観の転換は、主に教育とマスコミによって作られたものですが、そういうものを受け入れる素地が私たち自身にあったのです。
それは、やはり戦争によって、多くの家庭で文化が断絶したからだと思います。
私の父と母も、自分たちはしっかりした戦前からの日本文化の中に生きてきたのに、私たち子供には躾らしいことをほとんどしませんでした。
当時は、みんな生きることに精一杯だったからです。
そして、文化のなくなった荒れ果てた日本に、アメリカ文化という雑草が生い茂ったのです。
これからの教育は、新しい日本文化を育てる教育にしていく必要があると思います。
これからの教育は、学力をつけるだけでなく、文化を取り戻す教育にしていく必要があります。
そして、もうひとつ大事なのは、創造する教育です。
この思考力、創造力、文化力を育てる教育の基盤は家庭になります。
それを寺子屋オンラインの教育で実現していきたいと思っています。
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言葉の森の作文指導は、小学校低中学年では主に表現項目の指導をしています。
例えば、「たとえと会話と感想とことわざを入れて書く」というような指導です。
小学校高学年から中学生、高校生にかけては、主に構成の仕方の指導しています。
例えば、「第一段落には要約と意見を書き、第二段落には理由を書き、第三段落には方法を書く」というような指導です。
これまで学校などで行われている作文指導では、子供たちにテーマを与えて自由に作文を書かせ、そのあと、書かれた文章の添削をするというのが主なやり方でした。
しかし、こういうやり方では作文は上達しません。
上手な子は最初から上手に書き、上手でない子はいくら添削されても上手になる道筋がわからないからです。
そのため、教える側は、子供たちに上達する道筋を示すかわりに、上手な子の作文を見せるというやり方をしてきました。
ところが、上手な子の作文をいくら見せられても、それがほかの子の書く作文の参考になるわけではありません。
かえって上手な子の作文と比較してやる気をなくすのがせいぜいなのです。
作文指導に熱心な先生のいるクラスほど、作文が苦手な子が増えるというのはそういう事情があったからです。
一方、作文の試験をする学校側では、作文の評価は一歩進んだ形をとっています。
それは、言葉の森と同じように、構成の枠を決めて書かせるという形になっているのです。
例えば、段落の数を決め、1番目の段落にはどういうことを書き、2番目の段落にはどういうこと書き、3番目の段落にはどういうことを書くか。そして、どういう言葉を入れるかというようなところまで指定している作文試験もあります。
なぜこのように構成の仕方や表現の項目を指示するかというと、そのことによって作文の評価が客観的に行えるようになるからです。
そして実は、この構成と表現を指示するやり方は、言葉の森が昔からやっていたやり方なのです。
ですから、言葉の森に作文を習いにくると、どんな子でも書き方がすぐに分かり、迷わずに書き出すことができます。
苦手な子も、すぐに書き出すことができ、難しい課題でも、すぐに書き出すことができるというのが、構成と表現を指示する事前指導の特徴です。
だから、上達する道筋もおのずからわかってくるのです。
言葉の森の構成指導と表現指導の特徴は、作文試験の模範解答作りにも表れています。
世間で出されている作文の書き方の参考書はほとんどすべて、模範解答に子供が実際に書いた上手な作文を使っています。
しかし、こういう模範解答をいくら読んでも、子供は作文をどう書いたらいいのかわかりません。
それは、構成の仕方にも、表現の仕方にもルールがなく、ただ偶然上手に書けたものを載せているだけだからです。
これに対して言葉の森で作っている作文の模範解答は、一定の原則をもとにした構成と表現に沿って書かれています。
だから、この模範解答を見れば、どう書いたらいいのかということがわかるのです。
実際に、言葉の森で勉強している生徒は 、作文の構成がしっかりしているという評価をよく受けます。
それは、構成を重視した作文を指導しているからです。
そのために、受験で出される作文とは相性がいいのです。
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作文というものを、漠然と文章で書かれたひとまとまりのものと考えていると、評価も指導もできません。
全体に上手だとか上手でないとかいう、感覚的な印象を言うだけになってしまうからです。
作文は、構成、題材、表現、主題、表記、字数、速度という、それぞれの側面に分析して見る必要があります。
この分析が、作文指導と作文評価の鉄則です。
しかし、分析は方法であって、目的ではありません。
作文の目的は、個性と創造という内容の方にあるからです。
昔、作文指導について書かれた本を読んだところ、「事前に構成を指示して書かせるのは、できたらいいが、それはまず無理だ」ということが書かれていました。
その無理なことをずっとやってきて、今の受験作文にも生かしているのです。
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もし、働かなくてもよい社会が来たら、今、人生で必要だと思われていることの多くが必要ではなくなります。
すると、人間はもっと自由に自分の本当にしたいことをして生きるようになるでしょう。
人類の生産力の総体は、すでにすべての人の生活を養うのに十分になっています。
それが今そうなっていないように見えるのは、豊かさが不要なところに消費されているからです。
しかし、すべての人が、そういうことに気づき始めています。
インターネットの普及は、正しい情報をさらに大きく広げていくでしょう。
私たちが生きているのは、その端境期です。
だから、子供の教育も、今の社会の必要と、将来の社会の理想との両方を考えていく必要があります。
今、「かたい」仕事と思われているものが前提にしている社会は、未来の社会とは正反対にあるものです。
嫌いなことを我慢してやる力よりも、好きなことを楽しくやる力の方が、やがて大事になってきます。
答えのある勉強を人より早くできるようにすることよりも、答えのない世界を楽しく創造する力の方が重要になってきます。
そして、それぞれの人が創造によって作り上げた豊かさをすべての人が共有することによって、未来の社会は更に豊かになっていくのです。
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人間は、先のことを考えられる存在です。
しかし、子供は、先のことは考えません。
子供は、今を生きている存在だからです。
だから、大人がすでに見える未来だけでなく、まだ見えない未来も考えておく必要があるのです。
これまでの社会は、勝ち負けのある社会でした。
だから、人間は負けないことを第一の目的にして生きざるを得なかったのです。
しかし、未来の社会では、勝ち負けはゲームの中で行われるだけになるでしょう。
誰もが思い思いに好きなことをして、そこで得たものを誰もが共有できる社会になります。
それは、人類がすでにそういう豊かさを達成しているからです。
やりすぎ都市伝説の話どんどん実現してくれ
働かない社会実現してくれ
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