オンラインの少人数クラスのいいところは、全員、発表ができることです。
そして、その発表に対して、やはり全員が感想を述べることができることです。
これは、少人数クラスだからできることで、個別指導や一斉指導では、こういう全員参加型の授業というのはできません。
今、アメリカでは、ブレンディッド教育という教育方法が生まれています。
リアルな学校に生徒が集まり、そこで、個々にオンラインの授業を受けるという形の勉強です。
オンラインの授業は個別のメニューとして行えるので、どの生徒も自分の進度に合わせた学習ができます。
すでに日本でもこういう形の授業は行われていると思いますが、今後、このブレンディッド教育的な勉強の仕方が、教育の主流になってくると思います。
先日、言葉の森の港南台教室というリアルな教室で、新しく参加した生徒に、オンラインの作文の授業に参加してもらいました。
横浜の港南台の教室に来て、一緒に勉強する生徒は、東京だったり、大阪だったり、兵庫だったり、シンガポールだったり、ベトナムだったりとさまざまなところから参加しています。しかし、それでお互いに何の違和感もなく、話をして交流ができるのです。
1時間半近くの授業を行ってみて、今後この、通学教室でありながらオンラインで学習するというスタイルが授業の主流になるだろうと思いました。
この場合、通学するのは教室でなくてもいいのです。ある家庭に近所の子が数人集まり、そこで学年別のオンラインの授業を受けるという形であれば、子供は自宅か自宅のすぐ近くで、全国にいる同学年の友達と密度の濃い勉強ができるようになります。
この言葉の森の少人数クラスは、ブレンディッド教育と似ていますが少し違います。
ある意味で、ブレンディッド教育の先に行くものになると思います。
ブレンディッド教育では、みんなが同じ場所に集まり、勉強の内容はオンラインで個別に行うという形です。
言葉の森の少人数クラスで大事にしていることは、全員に発表する機会があり、全員に感想を述べる機会があるようにすることです。だから、どの子も主体的に参加できます。
もちろん、ブレンディッド教育のような個別メニューの勉強をすることもできます。
しかし、それ以上に大事なのは、受け身の勉強をするのではなく、自分から主体的に取り組む勉強を行いそれを発表し、他の生徒と交流することなのです。
しかし逆に、この少人数クラスの教育を、従来の勉強と同じつもりで受けようとすると、かえって中身の乏しい勉強になってしまう可能性があります。
それは、友達の、それぞれに工夫はしていても拙い発表を聞くよりも、優れた専門家の授業を聞いた方がずっと能率よく勉強ができるはずだからです。
だから、授業を受けることに意味があるのではなく、自分が発表するために研究したり実験したりという工夫をすることに意味があるのです。
その勉強の仕方を、具体的に算数数学の例で言えば、従来の勉強は、先生から難しい問題の上手な解き方を教えてもらうことでした。
しかし、発表型の学習の場合は、自分なりに理解できた問題をもとに、自分が似た問題をできるだけ面白く作ることになるのです。
なぜ面白く作る必要があるかというと、少人数クラスには、同年齢の自分の発表を聞いてくれる友達がいるからです。
優れた先生からいい授業を聞くことと、自分が似た問題を作って発表することと、どちらがあとまで残るかといえば、それは大体において、自分が発表した勉強の方です。
そして、今後インターネット学習が広がると、優れた先生というものは、実際の教室にいる先生ではなく、ネットの向こう側にいる少数のタレントのような講師に限られていくのです。
少数のタレント講師による一律の授業を、多数の生徒が、個別メニューの中でとは言っても同じように受け、その理解度を測るためにテストが課せられるとしたら、勉強の能率は上がっても従来の受け身型の勉強とあまり変わりません。
これからの時代に必要なのは、自分から進んで何かを作り出すことですから、聞いて理解する能力以上に、創造的に考えて発表する能力が求められるようになります。
受け身の勉強の終着点は満点を取ることですから、誰がやっても同じ結果になります。しかし、発表する勉強はそれぞれにその個性が表れます。
この個性どうしのぶつかり合いの中で必要になるもう一つ能力がコミュニケーション力です。
コミュニケーション力とは、単に自分の言いたいことを上手に表現する力だけではありません。
相手のいいところを見る力や、困っている相手を助ける力や、又は、批判に対しては正しく反論する力や、逆にみんなを楽しくまとめる力などの総合力です。
そういうコミュニケーション力は、実際に同年齢の子供たちと接する中でしか育ちません。
このコミュニケーション力を、遊びやスポーツや音楽のような非言語的なものだけでなく、作文や学習という言語的、知的なものを中心に行っていことができるのが、オンラインの少人数クラスの学習の特徴です。
この記事の末尾に紹介する動画の中で話している生徒は、小2から小4までの学年です。
小学校低中学年から、こういう形で、毎週自分の研究してきたことを発表し、読んでいる本を紹介し、ほかの人の発表に対して感想を述べるということを続けていけば、子供たちの思考力とともに、コミュニケーション力も育ちます。
これが発表型の勉強の、ほかでは代替できない利点なのです。
ところで、このように自分からテーマを見つけてオリジナルに研究し発表を行うということができる生徒は、小学生の場合は高学年のそれもかなり優秀な子に限られます。
だから、小学校低中学年の場合は特に、子供たちの研究や発表を手助けしてあげる保護者の役割が必要になります。
現代の社会では、ほとんどの大人は仕事に追われていますから、子供の研究発表に余裕を持って付き合う時間が取れる人は一人もいないと思います。
しかし、子供の成長にとっては、限られた時間ではあっても、この親子の知的な交流がとても大切なのです。
この親子の関わりの中で、子供は、勉強の中身だけでなく、勉強に対する姿勢や、物の見方考え方や、物事が思いどおりに行かなかったときの対処の仕方など、人生をたくましく生きる知恵を学んでいくのです。
▽オンラインクラスの互いの発表に対する感想(小2~小4)
※今、寺オン講師育成講座で募集しているのは、この授業のように、生徒どうしの発表や感想を司会してくれる先生です。
作文講師資格講座の受講が済んでいる方は、ぜひこの寺子屋オンラインの講師育成講座にお申し込みください。
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ほかの人の発表に対して感想を言う場合、小学校低学年の子のほとんどは、隣にいる(ことが多い)お母さんやお父さんに、「ねえ、なんて言う?」などと聞いてから話をします。
そう聞くのは、もちろん真面目な子だからです。
これまで、間違ってはいけないということをしっかり学んできたので、感想のような自由な発言についても間違ったことを言ってはいけないという気持ちが働くからです。
しかし、そういう子もすぐに、お父さんやお母さんに聞かずに自由に自分の思ったことを話すようになります。
些細なことのようにも見えますが、こういう自立心も、机上だけで学べるものではなく、やはり実際の行動を通して学ぶものなのです。
小学校時代の勉強は、基礎的な知識や技能を身につけるだけですから、それほど面白いものではありません。
それを何とかみんなにさせるために、宿題があったり、テストがあったり、賞があったり、罰があったりするのです。
これに対して、友達との遊びやお喋りは、止められてもしようとします。
それは、自分から進んで自由にできることが楽しいからです。
勉強にも、こういう自由で自主的な要素を取り入れていくことができると思います。
では、基礎的な知識や技能の方はどうするかというと、それは、家庭で自学自習をする習慣をつければ、特に長い時間をしたり、難しい問題をしたり、先取りの勉強をしたりする必要なく、普通にできるようになります。
小学校時代、普通にできていれば、中学生や高校生になってから必要を感じたときに、すぐに本格的な勉強ができるようになります。
それまでは、遊びとともに、読書と対話によって考える力をつけていけばよいのです。
そこに、寺子屋オンラインの作文や発表が加われば、更に充実した学力と学ぶ姿勢が育ちます。
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寺子屋オンラインの作文クラスでは、生徒が互いに作文の予習の構想図などを発表します。
今回は、構想図のかわりに、実際の作文を何人かに発表してもらいました。
アップロードした動画は,小5と小4の生徒の作文の発表ですが、自分の体験談のほかに、調べた話や聞いた話を組み合わせて密度の濃い作文になっています。
こういう文章を書くには、文章力だけでなく、思考力や感受性も必要です。
また、こういう作文の発表を聞く人も、自然にその作文から多くのことを学びます。
少人数のよさというのは、全員が発表できることと、聞く人もそれを他人事ではなく、自分の身近な人の経験として読み取ることができるという点にあります。
今後、こういう発表や交流ができる作文のクラスをたくさん作っていきたいと思います。
▽オンラインの作文発表の様子(小4・小5)
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子供たちの作文の発表を見ていると、学年が上がるにつれて語彙が増えるとともに、内容がだんだん個性的になっていることがわかります。
作文を書くことで個性や創造性が育つというのは、こういうところでも感じられると思います。
1,000人近い会員が、毎週こういう作文を書くのですから、その合計の文字数に比例して、子供たちの個性的なものの見方が生まれているのだと思います。
――敷島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞ真幸くありこそ――柿本人麿(万葉集)
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よくある例ですが、海外、例えばフランスなどで交通事故を起こしたとき、日本人が(自分が特に悪いわけでもないのに)、「すみません」と言ってしまうと、その言質をとられ裁判で不利になるそうです。
しかし、普通の日本人であれば、というよりも、日本文化を身につけている人であれば、事故の責任がどちらにあるかということよりも、相手の気持ちを考えて、とっさに、「すみません」という言葉が出てくるものです。
ところが、日本でも、そうでない人はいるのです。
ときどき感じるのは、「こちらはお客様だぞ」という態度で話してくる人です。
知人に話す場合Gは、それなりのニュアンスというものがあります。それと同じように話せばいいのですが、いかにも相手よりも自分の方が偉いという態度で話すのです。
それで、私は、いけないことですが、ときどき喧嘩をしてしまいます(笑)。
ずっと以前、ふりかえか何かで、早朝に電話をしてほしいと言ってきた海外在住の保護者の方がいました。
私は、それでは講師が負担がかかるので、別の方法を提案しましたが、その人は、「客である生徒と、そちらの先生とでどちらが大事なんですか」などという言い方をしたのです。
それで、私は、「もちろん大事なのは講師の方です」と言ったら、その後何かいろいろ話しましたが、結局そのふりかえはしないことになりました。
これがもし、知人に何かを頼むとしたら、相手に負担をかけるような依頼は自然に遠慮するはずです。
もし頼むとしても、本当に申し訳ないがというニュアンスで話をするはずです。
それが、いかにも当然の権利のように言うところに、日本文化とは異なるものを感じたのです。
これは、子供たちの作文についても言えます。
一方的に相手を批判するような文章は、考えの浅さとともに、相手に対する配慮のなさを表しています。
中学生以上の作文の、「反対意見に対する理解」というのも、この、考えを深めるためと、相手のよいところを理解するための練習です。
書き方は、「確かに、(自分の考えとは違う)こういう考え方にも理解できる点はあるが」という形です。
このように書くことによって、相手の立場に対しても理解を広げていくのです。
欧米の作文指導では、こういう指導はあまりないと思います。
ところで、一応ことわっておきますが、私は喧嘩をしたような相手に対しても、全くその気持ちをあとまで残しません。
人間というものは、いろいろな場面でいろいろなことを言うものですし、常に変化していくものですから、一度や二度のことで良いとか悪いとか決めるものではないからです。三度や四度になっても同じです。
相手はどう思っているかしりませんが、本当はみんないい人で、たまたま場面場面で違う役割を演じることがあるというだけだと思っています。
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多様な文末表現の指導なども、日本的な作文指導のひとつです。
英語では、「○○は△△である」という単純な言い方がほとんどです。
日本語では、主に相手に対する配慮から、「である」だけでなく、「だろう」「と思われる」「かもしれない」「のはずだ」「と言いたい」などさまざまな語尾の変化があります。
これが、日本語が論理的でないひとつの理由とされることがありますが、論理は文章の中身にあるのであって、語尾は単なる配慮です。
欧米の作文指導を一度研究したことがあるのですが、偶然、言葉の森が中学生以上に行っている作文指導とかなり似ていました。。
中1でやっている、意見を書いてその理由を述べるというような構成の仕方です。
しかし、中2でやっている総合家の主題というのはなかったようです。
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遅くなりましたが、1.3週の受業の動画をアップロードしました(小学生の分のみ)
動画を参考に、お父さんやお母さんといろいろ話をしたり実験をしてみたりしれください。
受業の動画作りのうち、作文と理科については、いろいろ面白いことを説明できると思うので、今後、ほかの人にも手伝ってもらう予定です。
理科の話題に関連するyoutube探しなどは結構楽しいと思います。
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東洋経済オンラインの記事に、「『作文下手な日本人』が生まれる歴史的な必然――なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか」が載っているのをたまたま見たので、その感想です。
https://toyokeizai.net/articles/-/259129
ここに書かれていることは、そのとおりです。
かつて、木下是雄氏の「理科系の作文技術」という本がありました。81刷100万部のベストセラーだそうです。
今は、その漫画版も出ています。漫画版の方は、元の本とはかなり印象が違うように思いますから、元の本を読むのがいいと思います。
https://tinyurl.com/yamfplw4
「理科系の作文技術」のような本がよく読まれたということは、日本の作文教育に疑問を感じている人が多かったからだと思います。
特に、批判が多いのが読書感想文です。
読書感想文は、小5以上で、具体的な指導のもとに行えば、とてもいい勉強になります。
それが、言葉の森で行っている読書感想文指導です。
しかし、今の学校教育で行われている読書感想文は、小2ぐらいで宿題として出され、しかもほとんどの場合何の指導もありません。
だから、読書感想文で力がついたとか、楽しく書けたとかいうことがないのです。
読書感想文の宿題に対する批判が幅広くあるにもかかわらず、この宿題が続くのは、そこに教育利権のようなものがあるからです。
読書感想文の宿題は、子供の教育のために出されているのではなく、ノルマとして又は惰性として出されているのです。
言葉の森でも、よく小学校低学年の生徒のお母さんから、読書感想文の宿題が出されているので書き方を教えてほしいという相談が入ることがあります。
小2の生徒にも、感想文の書き方を教えることはできます。そして、しっかり教えれば入選するような読書感想文も書けます。
しかし、それでその子の何らかの学力が伸びるということはありません。
その反対に、面倒なことをやらされたという感覚だけが残り、それがやがて作文嫌いのもとになっていくのです。
以前、やはり小2ぐらいでよく書ける生徒が、宿題として出した読書感想文を先生に褒められ、いろいろ手直しをさせられて、その結果読書感想文コンクールに入賞したことがあります。
その生徒が、小6のころに言った言葉は、「あちこち直されて、自分の文章ではなくなったみたいで、そんなに嬉しくなかった」でした。
言葉の森では、低学年の生徒の保護者から読書感想文の宿題の相談を受けたときは、次のように言っています。
「子供にそんな苦労をさせる必要はないので、お母さんがその宿題を書いてください(笑)。その分、子供には好きな本を読ませてあげてください」
また、コンクールに応募することになった作品の添削を頼まれたときは、直すのは基本的に誤字だけ、表現をもっと工夫したらいいところは、「ここはもう一工夫」と書くだけです。こちらで、いい表現の仕方を教えることはありません。ところが、「もう一工夫」と書くだけで、ほとんどの子はその部分を上手に書き直してくるのです。
さて、もとの「『作文下手な日本人』が生まれる歴史的な必然」に戻ると、その内容は、日本では読書感想文と行事作文がほとんどで、説明文のような論理的な文章の指導がないということです。
これは、日本の作文教育には大体あてはまると思います。
しかし、言葉の森の作文指導は、論説文を書くことを目標にした意見文と説明文と事実文(生活作文)の指導で、その中に小3からの長文を読んでの感想文指導が入ります。
だから、感想文や事実中心の行事作文を書く延長に、説明文、意見文の指導があるという構造になっているのです。
なぜこういうことが可能かというと、それは次のような作文に対する考え方があるからです。
説明文や意見文的な作文を論理的な作文と呼び、行事作文や生活作文的な作文を描写的な作文と呼ぶとすると、この論理的な作文か、描写的な作文かという対比の先にもっと大事なものがあることがわかります。
それが、作文を通して育てる個性、知性、感性という理念です。
説明中心の論理的な作文にしても、事実中心の描写的な作文にしても、共通するのは個性と知性と感性、言い換えれば、創造性と思考力と共感性を育てることが目標なのです。
そして、その重要な鍵となるのが、小学生の場合は特に、作文の準備における保護者との対話です。作文の課題をもとに親子で体験談や感想を話し合うことが、子供たちの個性、知性、感性を育てる重要な要素となっているのです。
この親子の対話のほかに重要なのが、読書と音読です。つまり、書く力をつける以前に読む力をつけることです。
だから、言葉の森では、ただ作文を書いて添削するだけの作文指導ではなく、作文を書く以前の準備、親子の対話、読書、長文の音読と暗唱に力を入れているのです。
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「理科系の作文技術」をamazonで見ると、「よく一緒に購入されている商品」として、「まんがでわかる 理科系の作文技術」と「【新版】日本語の作文技術」が出ていました。しかし、これらはあまりおすすめしません。
おすすめするのは、「原稿の書き方」(尾川 正二 講談社現代新書)ですが、中古しかありませんでした。
https://tinyurl.com/y9pmw72w
小学生の作文で、「数字や名前がわかるように書く」というのは、作文の評価の上ではあまり受けません。
そういう作文を書いて学校で褒められる子というのはまずいないと思います。
しかし、数字や名前をしっかり書く子は、中学生以降になるとかえって説明文を上手に書けるようになるのです。
例えば、「ぼくは、○○に行くために、○時○分に、○番線から「○○」という電車に乗り、途中、○○、○○、○○という駅を通って、○時○分に○○に着きました」というような文章を書く子です(笑)。
こういう子が、中学生、高校生になり、立派な説明文を書くようになるのです。もちろん、味のある説明文をです。
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2月に出版される「小学生のための読解・作文力がしっかり身につく本」(かんき出版)の最後の校正をしていました。
自分の書いた文章ですが、作文試験問題の解答例と解説を読むと、さすがに参考になることが書かれていると思いました。
ここに載っている解説を読むだけでも、かなり作文小論文のレベルが上がると思います。
例えば、その一部を引用すると、
(いいのかなあ。笑)
====
入試の作文課題には、学問や勉強に対する姿勢が課題として出されることがよくあります。
学問や勉強のあり方が課題となる場合、意見はその課題に基本的に賛同する立場で書きます。反論する形よりも、賛同する形の方が意見が深まることが多いからです。
展開部分は、その意見の裏付けとなると自分の体験実例を書くという形になります。
学問や勉強に関する体験実例には、学校や学習塾で行った勉強の話よりも、自分が自主的に取り組んだ勉強的なものにする方がより深みのある実例になります。
自分から進んで何かを学んだとか、何かに取り組んだという実例は、その場ですぐに思い出すことが難しいので、あらかじめ自分自身の過去の経験から使えそうなエピソードを思い出して整理しておきます。
学問や勉強に関する作文のまとめ方は、「学問とは人間にとって……」「勉強とは人間にとって……」という形になることが多くなります。
この結びの一般化の主題はそれほど多くの種類はないので、自分なりにいくつかの意見を考えておくと、どういう課題が与えられたときでもうまくまとめることができるようになります。
====
説明ばかりの文章でややわかりにくいかもしれませんが、ここに書いてあることを理解するだけで、文章のレベルがかなり違ってきます。(具体的なことは、解答例として書いてあります。)
例えばどういうことかというと、「勉強することの大切さ」とか「学ぶことの意義」とかいう課題が出された場合、自分の体験実例として、算数をがんばったとか、英語をがんばったとかいう普通の勉強の話を書いてしまうと、誰も同じような作文になって感動が薄れるということです。
ここは、夏休みの自由研究でセミの羽化を観察したとか、カブトムシを幼虫から育てたとかいう、学校の教科の勉強には入らないが、自分が自主的に行った話を入れていくといいのです。すると、そこに個性と感動が入るので、作文の内容が一段階レベルアップします。
同じ意見なら、実例に感動や個性のある文章の方がその意見に説得力が出るからです。
ところが、こういう話をその場ですぐに思い出すということはまずできません。だから、普段の作文練習の中で、自分らしい実例を見つける練習をしていくということなのです。
作文には、正解のようなものはありませんが、そのかわりちょっとしたコツのようなものはたくさんあります。
もうひとつの例として、例えば、志望理由書などにしても、ほとんどの生徒は普通に志望した理由を書きます。
しかし、それでは、誰が書いても同じような文章になってしまいます。
志望理由書は、あたりさわりないことを書くものではなく、自分をアピールするために書くものです。
すると、大事なのは理由ではなく、理由の裏付けとなる実績というところになるのです。
この志望理由書の書き方も、この本で解答例と解説を載せています。
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公立中高一貫校が作文試験を課すようになってから、作文力をつけるという本がいくつか出ていましたが、これらを読んでも受験生は、あまり書き方がわかるようにはならないと思います。
それはなぜかというと、解答例に、実際の生徒が書いたよく書けた文章というものが使われているからです。
よく書けたのは、指導によってよく書けたのではなく、その生徒の実力としてたまたまよく書けたのですから、ほかの人が読んでも参考になりません。つまり、実例がよかったとか、いい表現が入ったとかいうことで、よく書けたことになっているからです。
また、課題の解説の多くは、その課題に対する心構えや準備のようなことが書かれていることが多く、どう書いたらいいかということまでは書かれていません。
それは、たぶん子供たちの作文を実際に指導した経験のあまりない人が書いているからだと思います。
作文指導における誤解でかなり多いのが、上手に書けた子の作文を見せて、ほかの子を上手にさせようとすることです。
他人のよく書けた作文を見せるだけで、それで上手に書けるようになる子はまずいません。
それどころか、かえって自信をなくし、作文嫌いになるだけです。
だから、お母さんやお父さんも、決して、ほかの子の上手な作文を見せて、「こんなふうに書けたらいいね」などとは言わないことです。
いつも自分の子供の作文のいいところを見て褒めてあげることなのです。
どこがいいところかというと、それは指導項目で先生が指導しているところです。
作文の上達のためには、こういう地道な積み重ねが大事なのです。
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今の試験は、基本的に記憶力の試験です。考える問題もあると言う人がいるかもしれませんが、考える問題というのも、結局は考え方や解き方を記憶して知っている者だけが時間内に解けるという試験です。
だから、記憶力のあるなしが試験勉強に大きく影響します。
もちろん、記憶力の試験だとはいっても、単純に特定の知識を覚えているかどうかを見るような試験ではありません。
複数の解き方を記憶して、更にその解き方の組み合わせ方を記憶するというようなより複雑な試験です。
しかし、基本は記憶力の試験なのです。
その記憶力を高める勉強として最も効果のあるのが暗唱です。
小学校低学年から暗唱の練習をしていると、文章のリズム感がついてきたり、難しい語彙を読み取る力がついてきたり、毎日一定の時間(10分程度ですが)勉強する習慣がついてきたりと、いろいろな効果があります。
それらの効果の中でも、特に重要なのが、覚えることが苦にならなくなるということです。
試験の準備などで覚えることが多いと、普通、ほとんどの子は嫌がるものですが、暗唱に慣れている子は、それを特に負担だとは思いません。むしろ、覚えることが楽しいという感じになることも多いのです。
それは、読んだことがすぐに頭に入るという脳の仕組みになっているからだと思います。
日本では、江戸時代まで四書五経の素読の教育が行われていました。
明治、大正時代以降も、家庭によっては、湯川秀樹氏の家のように六歳からの素読の教育が行なわれていました。
しかし、戦後の教育の中で、素読や暗唱は、理解する勉強の妨げになるとして排除されてしまったのです。
そのために、かえって日本の子供たちの総体的な学力が低下しました。
理解する勉強には、落ちこぼれになる子がいます。
しかし、素読の勉強には、落ちこぼれになる子はいません。
誰でもそれぞれに自分のできることができ、しかも、中には極めて高いレベルまで進む子もいるのです。
今の大人は、すべて戦後の理解を先行させる教育の中で育ってきたので、音読を繰り返すとか、何かを記憶するとかいう勉強を一段低いもののように見る傾向があります。
しかし、九九の暗唱が日本人の計算力の基礎となっているように、低学年からの暗唱の勉強は実は学力全体のきわめて広範囲な土台となっているのです。
言葉の森の暗唱長文集は、ホームページのリンクにあります。
どなたでもごらんになれます。
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音読や暗唱を、理解する勉強に比べて一段低いもののように感じる人が多いと思いますが、それは戦後教育の影響です。
音読や暗唱は、それ自体が目的なのではなく、考える力を伸ばすための土台です。
この土台作りを始めるいちばんの時期が、小学1、2年生です。
音読や暗唱のような簡単に見えるものほど続けるのが難しい面があります。
これを続けやすくするために行っているのが、百字ずずつの暗唱法、暗唱検定という目標、寺子屋オンラインでの暗唱チェックなどです。
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あるブログで、サイババスクールの話を読みました。そこでは、単なる知識や技能を教えるだけでなく、もちろんそれも大切なことですが、人間が生きる根本の哲学と実践を教えているような学校でした。
シュタイナースクールにしても、モンテッソーリ教育にしても、このようなある理想に根ざした教育を行っているところは。世界に数多くあります。
しかし、いくら数多くあるといっても、そこに来られる人はほんのわずかです。
それは、場所の制約があることと、多くの場合費用の制約があるという理由からです。もちろん、そのような学校の中には無料のところもありますが、それはその地域や団体からの援助によって成り立つ無料ですから、本質的な無料ということではありません。
現在の教育の問題は、教える中身はそれぞれに豊かなものがあるのにもかかわらず、それを広げる方法ががないというところにあります。
しかし、ここで未来の展望として考えられることがあります。
それは、例えば複数の人工衛星によって世界中どこでもインターネットが利用可能になり(すでにそういう計画が進んでいると思いますが)、子供たちが数万円のクロームブックのような端末さえ持っていれば(アイパッドでももちろんいいのですが)、地球全体で質の高い教育が可能になるということです。
現在も、すでにMOOKなどの試みによって世界中を対象とする教育は可能になっていますが、学校という先生や生徒との触れ合いのある教育機会はまだほとんど達成できていません。
しかし、それは学校という形でなくてもいいのです。大事なことは、人間どうしの交流があることです。
学校という組織は、もちろん大きな影響力を持ちますが、多くの人にとって、学校で特によい教育を受けたという実感はないと思います。
その代わり、人間形成において影響を受けたのは、両親や兄弟や祖父母、そしてテレビや本の文化、さまざまな友人たち、そして学校も含めた多くの集団や組織でした。
中でも両親による影響は、子供の人間形成の上で大きな影響を持っていたと思います。
こう考えると、子供たちがそれぞれの家庭で、又は地域のある家庭に集まって、インターネットによるオンラインで、さまざまな地域の子供たちと先生が多様な勉強に取り組むというのが、未来の教育の姿になってくるのではないかと思います。
このようなシステムができれば、世界中の子供たちが場所や費用の制約のない良質な教育が受けられるようになります。
このときの先生の役割は、教えることよりも子供たちを育てることになりますから、今のような教育資格を持った人に限定されるのではなく、志のある多数の人によって担われて行くようになります。
先生の役割が、教えるから育てるへ、ティーチングからコーチングへと変わるのは、インターネットで提供される優れた教材が教育の中身になるので、その中身を先生が教えるということがなくなるからです。
この結果、ネットワークを利用した教育は、場所代も建物代も人件費もほとんどかからなくなり、世界中の子供たちに文字どおり制約のない教育を提供できるようになります。
費用がほとんどかからないとはいっても、お金のやりとりがなければ運営は回りませんが、それはブロックチェーンでカバーできるようになるので、運営のための大きな組織が必要になるわけではありません。
クロームブックのような端末は、現在日本では4万円程度ですから、量産すれば1万円ほどで生産できるのではないかと思います。
インターネットの接続が無料になるとすれば、世界中で数十億人の子供たちすべてにその端末をプレゼントしたとしても、計算は省略しますが大した金額ではありません。
このような教育のモデルを日本にあてはめると、オンラインで行う寺子屋教育のようなものになると思います。
この教育モデルを作るために、言葉の森では、寺子屋オンラインと、森林プロジェクトによる講師育成講座を進めているのです。
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言葉の森が今さまざまな新しい企画を考えているのは、未来の教育モデルを作るためです。
モデルとともに大事になるのは、そこに盛り込むキラーアプリケーションとしての教育の中身ですが、その中身には、30年以上の独自開発の歴史を持つ作文教育があります。
今、まだ不足しているのは、時間とお金だけなのです。
インターネットとブロックチェーンの時代には、物ではなく事が物事を左右します。(何かややいこしいが)
事というのは、ビジョンとモデルのことです。
モデルという型ができることによって、中身が育っていくのです。
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