国語の成績はいいのに、作文がなぜかものたりない、これでは、受験の作文に対応できないのではないか、と思われているお母さんは多いと思います。
これは、実はきわめてよくあることです。
国語の成績がよいのは、読む力があるからです。
本などもよく読んでいるので、読むための語彙はしっかり身につけているのです。
しかし、読むための語彙と書くための語彙は違います。
難しい文章はそれなりに読めても、自分がそのような難しい文章をそれなりに書けるかというと、そういうことはありません。
書く力の土台は読む力ですから、読む力をつけていれば自然に書く力はついてきます。
しかし、それはすぐにつくわけではありません。
自然につくのを待っていては、小6の受験には間に合わないという子の方がずっと多いのです。
これは、能力の問題ではなく、精神年齢の発達の問題なので、受験に間に合わせるためには工夫が必要です。
受験作文にも対応できる書く力をつけるための方法は、四つあります。
第一は、問題集読書です。
入試問題の問題文を読書がわりに読み、そこに書かれている語彙や表現に慣れておくことです。
第二は、長文の音読です。
言葉の森の課題フォルダの長文は説明文が中心です。
受験作文で要求される文章も説明文、意見文です。
小学生は、それまで事実文中心の文章を読み、事実文中心の作文を書いていたことが多いので、説明文、意見文のための語彙にはなじみがありません。
それを、音読の繰り返しによって、自分でも使えるようにしていくのです。
第三は、作文の準備のときに、子供がお母さんに似た話を取材することがあったら、似た話という題材部分の話とともに、その作文の感想となる主題部分の話もしてあげるのです。
子供は特に、主題の部分で使う語彙をあまり持っていません。
だから、小学校低学年は、「とてもたのしかったです」「まったやってみたいです」「こんどはがんばりたいです」などの、どこでも使えるような語彙で結びをまとめてしまうことが多いのです。
高学年の場合は、一般化の主題という大きい感想になりますが、それも、「人源にとってとても大切だということがわかった」などという、やはりどこでも通用するような結びにしてしまうことが多いのです。
子供は、まだ難しい感想を書く力はありませんが、読む力はあります。
だから、お母さんが言った感想の部分の言葉は十分に理解できます。
それを参考にして書くことによって、次第に自分の主題部分の語彙力を身につけていくのです。
受験作文コースの段階に入ったら、この親子の対話は、お父さんとお母さんの協力で更に強化していく必要がありますが、それはまたその時点で説明します。
第四は、これは最近できるようになったことですが、寺オン作文クラスで、ほかの小学6年生の作文の準備を聞くことです。
寺オン作文クラスは、よく書ける生徒が多いので、ほかの人が準備してきた似た例や感想を聞くと、そのときの発想が自分の今後の勉強の参考になります。
そして、自分も同じようによりよい作文を書く準備をしようという気持ちになるのです。
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私は昔、自分が小学6年生のころに書いた作文を読みましたが、すごく幼稚なことを書いていました。
それなりに自分で考えている片鱗はあるのですが、語彙が伴っていないのです。
これは、今の小学6年生の子供たちも、ほぼ同じだと思います。
ただ、みんな、課題に合わせて背伸びをして書いているので、次第にその背伸びが実力になっていくのです。
小学6年生は、優れた感想を書く力はまだありませんが、読む力は十分にあります。
だから、自分の感想がものたりないことはわかっていて、できればもっと格好いいことを書きたいと思っています。
だから、そこで、お母さんに相談するといいのです。「この作文の感想、どう書いたらいいかなあ」と。
そのときに、お母さんは、「そんなの、自分で考えなさい」と言うのではなく、「こういうことも書けるし、こういうことも書けるし」といくつかの案を示してあげるといいのです。
すると、子供は、読む力はありますから、その中で自分にいちばんしっくり来るものを採用して、自分の感想を書きます。
すると、それがその子の語彙力になっていくのです。
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昔は、「生き字引」とか「歩く辞書」とかいう言葉は、人を褒める言葉でした。
しかし、今は、「辞書のような人間にはなるな」と、全く逆のことが言われます。
これからは、従来の勉強のように記憶した知識を再現するような勉強は必要なくなってきます。
スマホを使ってインターネットで調べればすぐにわかることを、テストのために一夜漬けで記憶するということの空しさを、多くの中高生は感じています。
知識を詰め込むようなことは、今後ますます必要なくなってくるのです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
例えば、交通機関が発達したから、もう歩く必要もなくなると言って、足を退化させてしまったとしたら、それは足の退化だけにとどまるのではなく、人間の全体的な生きる力もそこで退化していくはずです。
記憶力も同様です。
知識を記憶する必要がなくなってきたからと言って、記憶力を使わなくなっていくと、それは記憶力の退化にとどまらず、人間の総合的な学力もまた退化していくのです。
典型的な似た例が、論文を自分で書かずに、コピペで済ませてしまう学生です。
手軽にコピーできる時代になったから、自分で考えて書く力はもう必要なくなったのだとは言えません。
たとえ下手でも、自分で書く力をつけておくことが、その人の学力になるのであり、それを成長させることが人間の向上になるからです。
岡潔さんが、「一葉舟」という本の中で、次のように書いていました。
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いまの教育で一番欠けているものとして、目につきますものは、むしろ意志教育です。
意志の教育が欠けるということは、意志を使わさない、ということです。たとえば、以前は習ったものは覚えようというのが原則でした。このごろは記憶しなくてもよいということになっている。ところが記憶しようと思いますと、非常に意志的努力がいるのです。あの意志的努力は重ねていますとある時期──だいたい中学二、三年になれば、精神統一力になるのです。精神統一というのは意志力の現われなのです。
記憶には、二種類ありまして、小学校へはいる一年前から小学校一、二年ごろは非常にある意味で記憶がよい。このころの記憶力は、無努力の記憶です。だから意志的努力はしないのです。その後また小学校五、六年ごろから、第二の記憶力が伸びてきます。この記憶は意志的努力を欠いては覚えられないのです。
クリエーションの働きは、前頭葉で精神統一下において行なわれるので、心を散らしたままするんじゃありません。だから意志教育が欠けておれば、それができんわけです。」
(『一葉舟 (角川ソフィア文庫)』(岡 潔 著)より)
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言葉の森で行っている暗唱も、小学一、二年生の子は、どんなに難しい文章でもすぐに暗唱できるようになります。
だから、この時期は、暗唱の勉強を家庭学習の中に組み入れていくのに最適な時期です。
暗唱の習慣がつくと、語彙力が増え、読む力もつき、将来の書く力も育ちます。
そして、何よりも覚えることが苦にならなくなり、それどころか逆に覚えることが楽しくなってくるのです。
しかし、小学校三、四年生から暗唱を始めると、暗唱を難しく感じる子が多くなります。
それは、覚える力が減退したからではなく、理屈で理解する力が増してきたために、覚えることも理解を媒介にして覚えようとするからです。
その方法のひとつが、語呂合わせです。
語呂合わせは、もちろん元素記号を覚えるような少量の記憶を確実に定着させることにはきわめて有効です。
しかし、長い文章を丸ごと暗唱するには、繰り返し音読して暗唱力を付ける方法しかないのです。
この暗唱力をつけることは、ただの暗唱力にとどまらず、意志力を育て、それが精神統一力と創造力に結びつくことは、岡潔さんの言うとおりだと思います。
今はまだ、教育に携わる人の多くが、この暗唱力の大切さに気づいていません。
入試も含めて、暗唱を評価するような仕組みは、ほとんどどこにもありません。
せいぜい、学校で百人一首大会をするぐらいです。
その百人一首も、カルタ競技のようなわけのわからない方向に進みがちです。
だから、言葉の森が、日本語で書かれた内容的にも表現的にも優れた文章を選んで暗唱文集を作り、暗唱検定を行うようにしたのです。
いつかまた、齋藤孝さんあたりが真似をして、暗唱の本を書くようになると思いますが、大事なことは表面的な暗唱の形ではなく、人間の内面における暗唱の教育的な意味なのです。
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スマホで何でも調べられる時代には、もう覚えることは必要なくなっていきます。
しかし、それは覚える力が必要なくなるということではありません。
覚えることと、覚える力は、別のものです。
覚えることは、生活の分野の話です。それは必要なくなっていいのです。
覚える力は、教育の分野の話です。それは、子供を成長させるためにますます必要になってくるのです。
暗唱は、やったことのある人は、それがとてもいいことだとわかっています。
しかし、やったことのない人は、いくら説明されてもそれがそれほどいいことだとは思いません。
ちょうど、かけ算の九九を、日本人ならほとんどの人がいいことだと思っていても、アメリカ人はいくら説明されてもそれがそれほどいいことだとは思えないのと同じです。
だから、大事なことは、小学1年生の子にまず暗唱をさせてみることです(幼長から小2でもいいです)。
しかし、役に立つものを暗唱させようと思わないことです。
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