昨日の保護者懇談会で、小学1年生の生徒のお母さんから、将来の勉強の方向について質問がありました。
「今の受験の仕組みだと、どうしても子供に詰め込みの勉強をさせざるをえない。私(そのお母さん)は中学受験を経験をしてそのマイナスの面も感じているから、子供にはそういう勉強をさせたくないとは思っている。しかし、将来はどうなるかは分からない」というものでした。
これは、小学生の子供を持つ多くの人が迷っていることだと思います。
中学受験をするためには、小学校高学年で受験用の詰め込みの勉強をする必要があります。
受験というのは、もともとそういうもので、詰め込みの勉強しなければいい成績は取れないようになっています。
だからこそ、この受験によって基礎的な学力がつくとも言えます。
中学入試の場合の場合、漢字の書き取りの力などが完成します。
しかし、そのために費やす時間は大きすぎるというところに問題があると多くの人が感じているのです。
ところで、今の社会では職業は卒業した大学によって決まるところがあります。
大企業に入るためには、高学歴が必要です。
安定した大企業に入ることが、その後の安定した生活を支える土台となります。
しかし、ここで大きく考えを変えていく必要があるのです。
人生のゴールとして大企業に入るという選択は、今の時点では福利厚生も充実しているし、研修制度も充実しているので、待遇もよくやりがいもある仕事のように見えます。
しかし、大きな安定したところほど、組織が細分化されていて、全体を見るような仕事がしにくいところがあります。
また、大企業といえども、今の技術革新の変化の速さの中では安泰ではいられません。
今すぐどうということはなくても、子供の社会人生活の数十年の間には必ず大きな変化があるはずです。
すると、中学で受験をするか、高校で受験をするか、大学で受験をするかということはむしろ二の次で、将来子供が自分の力で何事かを成し遂げていくための実力をどうつけていくかということが大きな目標になってくるのです。
自分で何かをするためには、学ぶ力はもちろん必要ですが、それ以上に、個性があること、決めたことを続ける力があること、他の人と協力ができること、幸福に生きる力があることなどが重要になってきます。
ですから、受験も、その子を成長させるものとして意味があるかどうかということが大事なのです。
そのためには、塾に丸投げにせずに、家庭で志望校の研究と子供の得意不得意の分析をして、宿題なども取捨選択してやらせるようにすることです。
少なくとも、あまり早い時期から塾漬けにするのではなく、できるだけ短期間で集中的な受験勉強をすることです。
また、受験勉強中にもかかわらず、読書生活は一定の時間を必ず確保しておくことです。
受験は人間にとって大きな勝負の機会ですが、それはこれから数多くある勝負の一つでしかありません。
受験で大きな方向が決められてしまうように思う人もいると思いますが、それよりももっと大きな方向というものが本人の個性と実力と不屈の精神というところで決まってきます。
だから、親は子供にそういう本当の実力と個性と、どんなことにも負けない精神を養うように育てていくことを第一の目標と考えていくといいのです。
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昔は、いい学校に入り、いい会社に入り、いい生活を送ることが教育の目標でした。
しかし、時代の変化が速い今の時代には、そういう構図は崩れつつあります。
今の教育の目標は、どこにいこうが自分で花をさかせられる人間になることです。
受験に突入した人は、それを第一の目標として取り組んでいくことです。
しかし、親は常にその先にある本当の目標を考えておくことです。
長い目で見れば、合否は人生のひとつのエピソードにしかすぎません。
そういう親の姿勢が、子供の教育にもなるのです。
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昨日の保護者懇談会の席で,小学5年生の子のお母さんから次のような相談がありました。
それは、「4年生までのやさしい課題では上手に書いていたのに、5年生になると課題が難しくなってなかなか書けなくなった。特に感想のところが物足りないことしか書けない」という相談です。
これは、どの5年生の子にも当てはまる問題であって、特にその子だけ感想が物足りないのではありません。
言葉の森では、小学6年生で、「一般化の主題」という感想の書き方を練習します。
それは、テーマとなっている事柄を、「人間にとって」、又は「社会にとって」という抽象的な枠組みで捉えて書く感想の書き方です。
ところが、こういう考え方が自然にできる子は、小学6年生の約50パーセントだと言われています。
特に、男の子の大部分は、人間という枠組みで物事を捉えるような年齢にはなっていません。
書く力は、読む力よりも遅れて成長していきます。
ですから、そういう「人間」という枠組みで捉える書き方ができない子でも、「人間」という枠組みで書かれた文章を読んで理解することはできるのです。
理解はできるが、自分で考えて書くことができないというのが読む力と書く力の相違です。
しかし、そういう子供たちも、難しい文章を読むことに慣れてくると、だんだんと自分の力で抽象的な言葉を使った感想を書けるようになります。
それを助けるためにどうしたらよいかというと、第一は、課題の長文を繰り返し音読することです。
第二は、その音読に応じて、お母さんやお父さんが自分の体験談からできるだけ面白い似た話をしてあげて、その対話の中でお父さんお母さんだったら書くような少し抽象的な感想も盛り込むようにするのです。
するとそのうち、子供が作文を書くときに、どんな感想がふさわしいのか聞いてくることが出てきます。
そこで、お父さんやお母さんが、感想として考えられるようないくつかの案を教えてあげると、子供は理解する力はありますから、それを活かして自分で感想を書くようになります。
その感想が先生に褒められることによって、供はますます感想をよりよいものにしようという意識を持つようになります。
子供は成長の途上にありますが、作文として書かれたものはまるで完成した作品のような装いを持っています。
そのために、大人はついその作文の不十分な点を先に見てしまうのですが、大事なことは、成長する途上の子供が書いた成長する途上の作文だという見方で作文を見ることです。
そのために、自分の力だけで作文を書かせるのではなく、お父さんお母さんが手助けをして子供たちの語彙力を増やしていくといいのです。
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学年が上がり、課題が難しくなるたびに、子供たちは一時的に作文が下手になります。
その時期は、小3の感想文、小5の難しい感想文、中1の意見文、高1の抽象的なテーマの意見文です。
それまで上手に書いていた子が、前よりも下手な作文を書くようになるのです。
しかし、子供はうすうす自分がうまく書けなくなったということを気づいています。
だから、お父さんやお母さんは、「前の方が上手だったね」などとは言わずに(笑)、難しい課題に取り組んでいる自体を褒めて上げるといいのです。
子供たちが書いている普段の作文は、作品として見るよりも、作文の練習としてみることです。
だから、第一段落の要約と、第二段落の似た話がうまくつながらなくてもいいのです。
また、書き出しの工夫や、たとえの表現が、文章にうまくなじんでいなくてもいいのです。
ひとまとまりの作品として仕上げるのは清書などの作品を仕上げるときでいいからです。
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