昨日の記事を読まれた読者の方から、「暗唱は、速読力と把握力がつくと思う。読むのに慣れていない子供は速読力が、ある程度慣れている子供は把握力がつくような気がする」との感想をいただきました。
この感想は、確かに合っていると思います。国語の苦手な子に共通する特徴は、読むのがあまり速くないこと、読み方があまり深くないことです。読書や暗唱によって言葉の持つ文化性が豊かになってくると、初めて読む文章でも速く読めるようになります。また、速く読んでも内容を深く味わえるようになります。
さて、昨日の続きで、暗唱の目的を記憶力と考えることから来る問題点を五つ挙げます。
問題点の第一は、記憶を目的としているので、記憶術を使って記憶をしてしまうことがあるということです。記憶術というのは、記憶することがらをイメージ化したり語呂合わせにしたりして自分のよく知っているものに関連づけて覚える技術です。
記憶術を使うということは、真の記憶力を育てることとはむしろ正反対のテクニックになります。幼児期や小学校低学年の時期は、単純な記憶力を育てる時期で、記憶の土台を作っていく時期にあたります。この土台を作る時期に単純な記憶力をつけるのではなく、技術的に工夫した記憶の結果を身につける勉強すると、かえって記憶力の土台を作るという練習がおろそかになるのではないかと思います。
しかし、幼児や小学生は普通、何かをたくさん覚える必要に迫られていません。そういう普通の子に比べると、記憶術で記憶の勉強をする子は、テクニック化されていたとしても、覚えるための練習量が普通の子よりも多くなります。だから、記憶力がつくということです。言い換えれば、記憶術を使っているにもかかわらず、練習量が多いので記憶力がつくということです。
記憶術を使って記憶する勉強は、中学生や高校生になって何かを記憶する必要に迫られてから始めればよいものです。ある記憶術の著者は、高校3年生の夏休みまでに記憶術をマスターすれば、大学入試は間に合うと述べています。つまり、記憶術を使うノウハウは、学年が上がって必要に迫られてからやれば十分なのです。
同様なことは、国語の読解問題の解き方のノウハウについても言えます。受験直前の1、2時間もあれば、解き方のノウハウはすぐに理解できます。むしろそれまでは、読解力の土台を作る時期で、ノウハウやテクニックを身につける時期ではないと考えておく方が勉強が充実します。
先日、通学教室で、高校生の人たち何人かにセンター試験の国語を解いてもらいました。1回目は平均点と同じ60点ぐらいの人が多かったので、そのあと数十分解き方の説明をしました。翌週、別の年度のセンター試験の国語を同じように解いてもらうと、今度はすぐに80点から90点になりました。間違えたところも、なぜ間違えたかがわかるので、もうほとんどの子は満点を取ることも可能だと考えていると思います。
ただし、記憶術のノウハウをマスターするということは、子供の場合でも日常生活に大いに役立ちます。例えば、1から100までの数字を語呂とイメージで覚えるような方法は、単に数字を数字のまま記憶するよりもはるかに効率のよい記憶の仕方になります。ですからこのような方法は、九九と同じように、社会の共有の財産として、将来は学校などで教えていくものになると思います
言葉の森では今後、記憶術のノウハウを、小学校高学年又は中学生あたりから教えていく予定です。しかし、幼児や小学校低学年の時期は、そのようなテクニックは教えずに、むしろ単純な記憶力を育てるということで勉強をすすめていきたいと思っています。
記憶術を使った覚え方は、料理の作り方を教えるのではなく、料理そのものを出してくるような方法です。何かが暗唱できるのはよいことですが、記憶術を使うのであれば、暗唱の結果そのものを目的とするのではなく、暗唱の仕方を覚えることを目的とした方が応用力がつくと思います
問題点の第二は、暗唱の目的が記憶となっているために、教育と文化が混同されがちだということです。これは世間一般の音読の学習でもしばしば見られたことです。
例えば、平家物語や寿限無(じゅげむ)や枕草子を覚えるということは、決して否定されることでありませんが、暗唱というとすぐにそのような古典や有名な文章にこだわるところに問題があります。
現在は、科学の成果が生活のすみずみにまで浸透している時期です。そのような科学の発達を考慮すれば、むしろ子供には、知的な感動のある文章をもっと読ませるべきではないかと思います。ファラデーの「ろうそくの科学」や寺田寅彦の物理学の随筆を読んで科学の面白さに目覚めたという人の話をよく聞きます。現代の子供が覚える文章は、論語や孟子のようなものももちろんいいのですが、やはり現代の文化を反映した文章であるべきです。
言葉の森の長文選定の基準は、三つあります。勇気、知性、愛のある文章です、そしてさらに言えば、笑いのある文章、現代日本語で書かれた文章です。単に古い文章や有名な文章だからいいというのではないというのが言葉の森の文章選定の哲学です。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
これから、3回にわたって、言葉の森の暗唱と、言葉の森以外の他の教室で行われている暗唱との違いを述べます。その3回目の最後に出てくる話ですが、重要なことですので一つだけ先に書いておきます。
言葉の森では、暗唱の方法として、毎日10分間100字の文章を音読し、1週間で300字を暗唱できるようにするという方法をとっています。同時に、この暗唱の仕方では難しいと感じる人も多いため、速聴のページで長文を聴いて覚える方法もとれるようにしています。
しかし、長文の速聴で覚えるという方法は、暗唱で挫折する子供を増やさないための便宜的な方法です。暗唱で本当に力をつけるためには、速聴で覚えるよりも、音読で覚える方がいいのです。その理由はあとで述べますが、今、暗唱に取り組んでいる人は、できるだけ音読による暗唱を優先し、音読が難しい場合にかぎって速聴で覚えるようにしていってください。
さて、言葉の森の暗唱と他の教室の暗唱との違いを述べます。
違いを明らかにする必要上、どうしても他の教室の方法を批判するような調子になってしまいますが、決してそういう意図はありません。むしろ、暗唱のような勉強を積極的に取り組んでいる教室の例は、多くの点で参考にしています。
最初に、言葉の森の暗唱の意義を説明します。
言葉の森の暗唱の目的は、読解力と表現力をつけることです。暗唱の意義は、同じ文章を反復して覚えることによって、より深い理解に到達するというところにあります。同様に、同じ文章を反復して身につけることによって、より高度な表現力も育ちます。なぜかというと、暗唱によって、語彙がもともと持つ文化性が豊かになるからです。
文化性というのは、その語彙が持つ意味を含めた多様なニュアンスのことと考えてください。イメージとしては、水素原子が1本の手を持ち、酸素原子が2本の手を持ち、H2Oという分子として結合するというときの原子の持つ手足を文化性と考えるといいでしょう。
語彙の持つ文化性の手足の数は、人によって違います。ある一つの語彙、例えばニワトリという言葉から、子供はニワトリのイメージを持つだけでしょう。ニワトリという語彙の持つニュアンスはそれほど多くないのです。しかし、大人は、ニワトリという言葉から「鶏口となるもむしろ牛後となるなかれ」などという意味も連想するかもしれません。更に、「にわにわにわにわとりがいる」というような言葉も知っているかもしれません。これが、言葉の持つ文化性の豊かさの違いです。
語彙の乏しい人は、語彙から伸びている文化性の手足の数が少ないので、他の語彙との関連を作りにくくなります。それが理解力や表現力の限界になります。合意が持つニュアンスの手足を増やしていくことが、その語彙を使ってより深く理解することや、より高度に表現することにつながっていきます。
これを図式的に説明します。まず、海面を語彙の文化性がゼロメートルの地点とします。理解を海の底の状態とすると、海底には深さによる凹凸があります。語彙の持つ文化性の低い人は、浅い海底までししか到達できません。ですから、同じ文章を読んでも、浅い理解にとどまるということです。これが読解力の差として表れてきます。
また表現に関していうと、表現は山の高さのようなものと考えるとよいでしょう。語彙の持つ文化性の高い人は、表現の山の頂上近くまで登ることができます。それに対して語彙の持つ文化性の低い人は、山のふもとまでしか登れないということです。
理解も表現も、どちらもその人自身の持つ語彙の文化性に応じて、深いところへ行ったり高いところへ行ったりしているので、本人はそのことに不便を感じるわけではありません。しかし、より深く潜っている人や、より高く登っている人と比較して、自分もそこまで行きたいと思ったときに、その不足が問題になってくるということです。
言葉の森では、暗唱の意義を語彙の持つ文化性を豊かにすることと考えているので、暗唱の勉強を、幼児や小学校低学年の間だけの勉強とはしていません。むしろ中学生や高校生になって、より難しいジャンルの文章を書く必要が出てきたときに、そのレベルに合わせた暗唱が必要になると考えています。ですから、暗唱を、中学生、高校生まで継続する勉強として取り組んでいるのです。
ところが、言葉の森以外の他の教室の多くは、暗唱の意味を単に記憶力を育てるということで考えていると思います。ここから問題点が五つ出てきます。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
作文教室というものは、始めるだけならだれでもすぐに始めることができます。難しいのは、何年も継続して指導できるシステムです。また、得意な子と苦手な子がいた場合、それぞれに対応した教え方をするノウハウです。
しかし、だれでもすぐにできるということから、インターネットにいろいろな作文教室が登場するようになり、「作文」で検索しても、言葉の森のホームページががなかなか出て来ないようになってしまいました。SEO対策が遅れていたために、今ではヤフーでは、かなり後ろのページに言葉の森が出てきます。グーグルはまだ上の方ですが、それでもコンテンツの質と量から言うと、言葉の森の位置は正しく評価されているとは言えません。
作文と小論文の指導に関しては、言葉の森は、たぶんどこよりもわかりやすくかつ高度な指導をしていると思います。
そこで、これから、SEO対策やホームページ作りをしっかり行い、言葉の森が、ヤフーやグーグルの上位に表示されるようにしていきたいと思います。
もちろん、ライバルが多いことは歓迎しますが、理論と実践で優れたところが検索の上位に表示されることが大事だと思うからです。
さて、ここからが本論です。ここまでの説明は、本論に入る前の状況と経過の話でした。
今後の作文教育がどういう方向に進むかということで考えると、二つの大きな流れがあると思います。
第一は、受験で作文の試験を課すところが増えるという方向です。しかし、この受験の作文という方向は、今のままでは、将来行き詰まってくると思います。なぜかというと、作文試験は採点が非常に大変だからです。現在でも、就職試験のエントリーシートで時間制限なしで書かれた文章は、どの人も同じようにレベルの高い文章になるので、採点はかなり難しくなっています。
受験での作文を生かしていくためには、言葉の森が開発した小論文自動採点ソフト「森リン」による作文検定など、新しい評価の仕組みを導入することが必要になると思います。
第二の方向は、本物の教育を目指す気持ちが作文教育を広げるという方向です。しかし、この本物の教育を目指す方向も、今のままでは、先細りになると思います。なぜかというと、作文は成果の見えにくい勉強だからです。考える力がついたとか、書くことが好きになったとかいうことは、比較するものがないと漠然とした成果としか感じられません。
そこで、作文の勉強を作文文化として発展させることがこれから必要になってくると思います。
文化として評価される仕組みとはどういうことかというと、例えば、日本では万葉集という文化がありました。その万葉集によって、広範な大衆が短歌を作るという文化ができ、そのすそ野に様々な派生文化が成立しました。
オリンピックでも同じです。競技を評価をする文化的な仕組みがあるので、そのすそ野にいろいろなサービスや産業が広がっています。例えば、カーリングという競技です。もしこの競技がオリンピックなどで文化として認められていなければ、人間が氷の上にタイヤを滑らせるという競技自体にそれほど夢中になるとは思えません。
作文文化をはじめ、社会のさまざまな分野で新しい文化が登場してくるというのが、将来の知識産業社会の風景になっていくと思います。
作文を書くことが作文文化として成立するためには、作文の本質が何かということが重要になってきます。これは、作文試験を評価する際も同様です。そうでないと、作文は、ただ誤字がないとか、速く長く書けるとか、表現が上手だとか、面白い内容だとかいう、評価の定義が低いか感覚的なものかになってしまうからです。
では、作文の本質は何かというと、その一つは創造と発見です。創造と発見という価値を基準にして、将来、作文のコンクールというものが行われていけば、作文教育のレベルは大きく向上します。この創造発見という核心の周辺を、表現の美しさや題材の面白さなどがカバーしていくというのが作文の評価のスタイルになると思います。
作文の本質のもう一つは思考力です。物を考える力としての作文、つまり哲学としての作文というものが作文のもう一つの方向です。この思考力を育てる作文は、他の様々な学問分野と組み合わさって、未来の教育の主要な教科の一つになっていくだろうと思います。
以上、まとめて言うと次のようになります。
第一は、思考力と創造性を育てる作文を作文の評価の中心とすることです。
第二は、その評価の土台を客観的な作文検定で支えていくということです。
第三は、作文文化を発展させることによって質の高い永続性のある作文教育を目指していくということです。
以上が、これからの作文教育の方向になると思います。