本日から何回かに分けて、作文と国語に対する質問に答えていきます。
今回は、作文の苦手な子の共通点についてです。
作文の苦手の子といった場合、二つのケースが考えられます。一つは、本人が苦手と思っているケースです。もう一つは本当に苦手なケースです。自分が苦手と思っていることと実際に苦手なこととは、作文では実は一致しないことの方が多いのです。
まず、本人が苦手と思っているケースです。
体験学習で教室に来た生徒に、最初、先生が聞きます。「作文は好き?」。すると、子供又は親の答えは、三通りに分かれます。
第一は、大好きという子です。こういう子は、実は苦手なことが多いのです。なぜ好きだと思っているかというと、学校などでこれまで作文を書く機会があまりなかったので、漠然と作文が好きで得意だと思っている、ということです。
第二は、普通と答える子です。この「普通」と答える生徒は、かなり得意なことが多いのです。つまり、自分の実力がよく分かっているということで、それぐらい書く力があるということだからです。
第三は、苦手という子です。この苦手という子は、大体が普通か得意な子で、実際に苦手なことは、あまりありません。
なぜ普通や苦手と思っている子が得意なことが多いかというと、学校で熱心に作文を教える先生にあたると、苦手な子が増えるという事情があるからです。
これは他の教科でも同じです。これまで教えてきた生徒の作文の中で実際にあったケースです。社会科の熱心な先生に教わって、社会が大嫌いになったという話がありました。同じように、算数が好きで算数の熱心な先生に教わっている子が、算数が嫌いで苦手になるということがありました。
これはどういうことかというと、先生がその教科が好きで熱心であると、つい生徒の欠点が目につくので、その欠点を直してしまおうと思うからです。そのために、子供はその教科が苦手だと思うようになるということです。
作文はこの度合いがほかの教科よりも強く出やすい分野です。ですから、作文を教える場合は、欠点をなるべく指摘しないことが大事です。少なくとも先生と生徒の間に信頼関係ができるまでは、一言も注意をしないというぐらいの決心が必要です。また、先生と生徒の間に信頼関係ができたとしても、二つ褒めて、一つたまたま注意するところが見つかったというような注意の仕方をすることが大切です。
作文はメンタルなもので、子供は自分の全人格をかけて文章書いているというような感じがあります。これは、計算問題や漢字書き取りの勉強とは質が違います。子供は自分の全精神を集中して作文を書きます。先生は、その作文の欠点が目についた場合、その欠点を軽い気持ちで直そうとします。ここに大きなギャップが出てきます。
例えば、こういう例がありました。小学校1年生のよくできる子が体験学習に来ました。先生の説明のとおり作文を書き上げました。とても上手にかけているので、褒めるところばかりで、直すところがほとんどありません。そこで、先生がたくさん褒めたあと、ついでに一言、「実は数字は、縦書きのときは漢字で書く方がいいよ」と言うと、その子は突然泣き出しました。それぐらい作文の指導というのは微妙だということです。
また、次のような例もありました。高校3年生を卒業して浪人になったばかりの生徒が体験学習にきました。大学入試までの1年間の時間があるので、苦手な作文を勉強しようと思って来たということです。普通の教科はよくできますが、作文は、「超」がつくほど苦手で、小学校高学年から中学生高校生まで、学校から作文の宿題が出たときは、実は親が代わりに書いてあげざるを得ないほど苦手だったということです。これは、結局、小学校低学年のころ、作文の欠点を指摘されたというトラウマが残っていたのだと思います。
言葉の森は、「事前の指導」プラス「事後は褒めること中心の評価」という勉強の仕方ですから、1週目からすぐ書けるようになり、親子とも驚いていました。その後、その子はぐんぐん上達して、翌年大学に合格したので卒業しました。
これらの例でもわかるように、小学校低中学年のころの作文の指導というのは、褒めることが非常に大事だということです。
次に、実際に苦手な子の場合です。
苦手な子の原因は、一言でいうと読む量が不足していることです。なぜ読む量が不足しているかというと、生活の時間帯の中で、本を読む時間が取れていないということです。
この理由はいくつかありますが、一つは、スポーツが好きで表で遊んでばかりいるので、家に帰ると食事をしてあとは寝るだけという形で生活している子です。もう一つはテレビやゲームが好きなので、本を読まないという子です。
本を読まない子は、活字が苦手なので、漫画すらも読まないということがあります。こういう子供に対しては、その子のレベルに応じて、つまりどんなにやさしい本でもいいから、一日50ページ以上好きな本を読むという時間を確保していくことが大切です。読む時間を毎日確保できれば、本にはもともと子供を引きつける力がありますから、必ず読書好きなっていきます。これはすべて子供の問題ではなく親の問題で、親が、読書時間を確保してあげられるかどうかということにかかっています。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
昨日の記事を読まれた読者の方から、「暗唱は、速読力と把握力がつくと思う。読むのに慣れていない子供は速読力が、ある程度慣れている子供は把握力がつくような気がする」との感想をいただきました。
この感想は、確かに合っていると思います。国語の苦手な子に共通する特徴は、読むのがあまり速くないこと、読み方があまり深くないことです。読書や暗唱によって言葉の持つ文化性が豊かになってくると、初めて読む文章でも速く読めるようになります。また、速く読んでも内容を深く味わえるようになります。
さて、昨日の続きで、暗唱の目的を記憶力と考えることから来る問題点を五つ挙げます。
問題点の第一は、記憶を目的としているので、記憶術を使って記憶をしてしまうことがあるということです。記憶術というのは、記憶することがらをイメージ化したり語呂合わせにしたりして自分のよく知っているものに関連づけて覚える技術です。
記憶術を使うということは、真の記憶力を育てることとはむしろ正反対のテクニックになります。幼児期や小学校低学年の時期は、単純な記憶力を育てる時期で、記憶の土台を作っていく時期にあたります。この土台を作る時期に単純な記憶力をつけるのではなく、技術的に工夫した記憶の結果を身につける勉強すると、かえって記憶力の土台を作るという練習がおろそかになるのではないかと思います。
しかし、幼児や小学生は普通、何かをたくさん覚える必要に迫られていません。そういう普通の子に比べると、記憶術で記憶の勉強をする子は、テクニック化されていたとしても、覚えるための練習量が普通の子よりも多くなります。だから、記憶力がつくということです。言い換えれば、記憶術を使っているにもかかわらず、練習量が多いので記憶力がつくということです。
記憶術を使って記憶する勉強は、中学生や高校生になって何かを記憶する必要に迫られてから始めればよいものです。ある記憶術の著者は、高校3年生の夏休みまでに記憶術をマスターすれば、大学入試は間に合うと述べています。つまり、記憶術を使うノウハウは、学年が上がって必要に迫られてからやれば十分なのです。
同様なことは、国語の読解問題の解き方のノウハウについても言えます。受験直前の1、2時間もあれば、解き方のノウハウはすぐに理解できます。むしろそれまでは、読解力の土台を作る時期で、ノウハウやテクニックを身につける時期ではないと考えておく方が勉強が充実します。
先日、通学教室で、高校生の人たち何人かにセンター試験の国語を解いてもらいました。1回目は平均点と同じ60点ぐらいの人が多かったので、そのあと数十分解き方の説明をしました。翌週、別の年度のセンター試験の国語を同じように解いてもらうと、今度はすぐに80点から90点になりました。間違えたところも、なぜ間違えたかがわかるので、もうほとんどの子は満点を取ることも可能だと考えていると思います。
ただし、記憶術のノウハウをマスターするということは、子供の場合でも日常生活に大いに役立ちます。例えば、1から100までの数字を語呂とイメージで覚えるような方法は、単に数字を数字のまま記憶するよりもはるかに効率のよい記憶の仕方になります。ですからこのような方法は、九九と同じように、社会の共有の財産として、将来は学校などで教えていくものになると思います
言葉の森では今後、記憶術のノウハウを、小学校高学年又は中学生あたりから教えていく予定です。しかし、幼児や小学校低学年の時期は、そのようなテクニックは教えずに、むしろ単純な記憶力を育てるということで勉強をすすめていきたいと思っています。
記憶術を使った覚え方は、料理の作り方を教えるのではなく、料理そのものを出してくるような方法です。何かが暗唱できるのはよいことですが、記憶術を使うのであれば、暗唱の結果そのものを目的とするのではなく、暗唱の仕方を覚えることを目的とした方が応用力がつくと思います
問題点の第二は、暗唱の目的が記憶となっているために、教育と文化が混同されがちだということです。これは世間一般の音読の学習でもしばしば見られたことです。
例えば、平家物語や寿限無(じゅげむ)や枕草子を覚えるということは、決して否定されることでありませんが、暗唱というとすぐにそのような古典や有名な文章にこだわるところに問題があります。
現在は、科学の成果が生活のすみずみにまで浸透している時期です。そのような科学の発達を考慮すれば、むしろ子供には、知的な感動のある文章をもっと読ませるべきではないかと思います。ファラデーの「ろうそくの科学」や寺田寅彦の物理学の随筆を読んで科学の面白さに目覚めたという人の話をよく聞きます。現代の子供が覚える文章は、論語や孟子のようなものももちろんいいのですが、やはり現代の文化を反映した文章であるべきです。
言葉の森の長文選定の基準は、三つあります。勇気、知性、愛のある文章です、そしてさらに言えば、笑いのある文章、現代日本語で書かれた文章です。単に古い文章や有名な文章だからいいというのではないというのが言葉の森の文章選定の哲学です。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)