●動画
https://youtu.be/u6zov6SWL5w
子育て中のお父さんやお母さんと話をしていて、ときどき感じるズレは、親の多くが今と今後の数年の成績で子供を見ていることです。
私は、これまで長年いろいろな子供を見てきたので、子供を見るときに、今やこの先数年の子供の成績はあまり気にしません。
というか、ほとんど気にしません。
成績などは、本人がやる気になれば、ぐんぐん伸びるときが来ます。
また、たとえ学校時代の成績が伸びなくても、社会生活を行うのには何も差し支えはありません。
社会人として大事なのは、同僚と仲よくやれて、上の人にも好かれて、下の人からも慕われるような人間になることが基本で、更にその上に、誰に嫌われてもいいから自分の信じたことをやりとげる力を持っていることです(笑)。
そういう片鱗は、子供時代から現れます。
しかし、多くの場合、大人は子供のそういう可能性を見ていません。
見ているのは、子供の苦手分野をどうやってなくそうかということだけのような気がします。
苦手分野を直すのは簡単です。
その苦手分野に取り組む時間を多少増やして、褒めてあげればいいだけです。
しかし、本当は、苦手分野はそのままにしておいても、得意分野というか長所が伸びれば、苦手分野は単にほほえましいエピソードになるだけなのです。
子育ての基本は、三つあるように思います。
第一は、その子のいいところを認めてあげて、長所を伸ばすことです。
第二は。読書の好きな子にすることです。
そして、第三は、他人に対する思いやりを持ち、人助けのできるような子にすることです。
ちょっと困るのは、勉強しか得意なものがないという子です。
しかし、そういう子も、成長の過程で、必ず自分の限界を自覚し、より大きな人間になろうと思うときが来ます。
大事なのは、親がそれを邪魔しないことです。
人間には、誰にも、よりよいものになろうとする復元力が備わっています。
だから、今いろいろな問題があるとしても、その子の10年後、20年後の未来を見て、安心して子育てをしていけばいいのです。
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私も若いときは、人間は子供時代から直線的に成長していくような感じを持っていました。
だから、ある時点でついている差は、そのまま延長するような感覚を持っていました。
しかし、それは全然違うのです。
いい子がずっといい子のまま大人になるかというとそういうことはなく、悪い子がずっと悪い子のまま大人になるかというとそういうこともありません。
この場合の「いい子」「悪い子」というのは、はっきりした定義ではなく世間一般のイメージのようなものです。
人間は変化するということがわかってから、子供を見るときに、その子が成長して社会人になったときの姿を想像して見るようになりました。
すると、どの子もみんな立派に成長した人間になるのです。
今の時点で、どこがいいとか悪いとかいうのは些細なことで、成長の中でそれらはみんな消化されていくのだと思うようになりました。
大事なことは、周囲の大人がそういうことを確信して子供を見ることだと思います。
子供の成長にとって、周囲の大人のちょっとした褒め言葉は意外と重要です。
結局、人間は自分に自信を持つことによって、よりよくなろうとするのです。
だから、どんなときも、この子はダメだなどと思わないことです。
特に、お父さんや、お母さんは。
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●動画:
https://youtu.be/A-n1eH5whv0
今のプログラミング学習は、Scratchのようなビジュアルプログラミングから、JavaScriptのようなコードプログラミングに進んでいきます。
このビジュアルからコードに移るところがひとつの難関と言われています。
また、世間一般でも、コードプログラミングができることが、プログラミング能力があることと考えられています。
しかし、プログラミングの世界は、ノーコードプログラミングに向かって進歩しています。
いずれ、ほとんどがビジュアルなマウスの操作で処理できる、今のScratchのような形に進んでいくと思います。
そのときに必要なのは、プログラミングの言語というよりも、何をどう作りたいのかというビジョンになり、そのビジョンのもとになるのは、思考力と創造力になります。
プログラミング学習の本質は、考える力と創造する力なのです。
しかし、では今のプログラミング言語の学習が無意味になるかというと、そういうことはありません。
確かに、言語は使わなくなる方向に進みます。
しかし、プログラミング学習のような新しいことを学びたいと考え、その新しいことを実践する精神は、ノーコードという新しい世界にも生きてきます。
大事なのは、新しいことを面白いと思い、新しいことに挑戦する精神なのです。
また、ビジュアルプログラミングが進んでも、コードプログラミングは残ります。
その理由は、コードでプログラミングを書く方がずっと能率がよいからです。
それは、マウスの操作をショートカットの操作に置き換えることに似ています。
スピードも疲労感の有無も、マウスの操作よりも、キーボードの操作の方がずっと優れているからです。
では、コードプログラミング学習の本質は何かというと、それは数学の世界の公式を覚えて使えるようになることと似ています。
コードプログラミングとは、その言語の多数の関数を覚えて、必要な場所にその関数を使えるようになることです。
しかし、使える関数は、次々に増えて進歩していきます。
だから、プログラミング学習は、数学の学習と同じように、それなりに時間がかかり、常に新しいことを学習していく必要があるものなのです。
言葉の森のプログラミング学習→
https://www.mori7.com/za2021im01/
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言葉の森の作文教室がプログラミングの講座も行っているというのは、決して思いつきで始めたわけではありません。
代表である中根が、プログラミングの面白さも、難しさも、将来の展望も、人一倍理解しているからです。
プログラミングは、従来の国語や算数などの教科と違い、自由度がかなり高いのです。
だから、役に立つということ以上に、まず面白いのです。
その面白さは、創造と工夫の面白さです。
それは、ある意味で、作文の創造と工夫と共通したところがあるのです。
プログラミング学習についての記事をアップしました。
プログラミングは、ちょっと覚えると、そこからいろいろな工夫ができます。
そこで、子供の創造性が発揮できるのです。
だから、プログラミングは面白いのですが、仕事でプログラミングを使うのはまたちょっと違います。
それは、決まりきった複雑な手順を踏まなければならないし、ちょっとしたミスで予想外のバグが出て、それを直すだけで数時間かかるのがざらにあるという世界です。
だから、プログラミングは面白い勉強ですが、それ自体を仕事にするのではなく、自分の好きな仕事でプログラミングを使うというのが理想です。
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動画:
https://youtu.be/hPRE1pvhpXU
私(森川林)は、高校生のときは理系のクラスにいました。
そして、理数の成績は、そこそこいい点数を取っていました。
しかし、今思うと、数学も物理の授業も、問題の解き方がわかるだけで、感動がなかったように思います。
後年、自分でプログラムを作っているときに、数学の知識が必要になり、昔使った高校の数学の教科書を取り出して勉強し直しました。
そのときに、数学というのは、やはり役に立つのだということを実感しました。
意外だったのは、因数分解のいろいろなパターンよりも、根の公式を知っているだけですべて片付くということでした。
因数分解は、結局パズルの練習をしていたようなものだったのです。
また、多数のプロットから近似線を出すというようなことも、高校生のときはぼんやり勉強していただけでしたが、自分で作ってみて、なるほどと納得するところがありました。
しかし、本当は、役に立つ以上に、数学や物理の勉強の持つ感動を、授業の中で知っていれば、勉強はもっと面白くなっていったはすだと思うのです。
今の高校の理数系の勉強は、受験のための勉強になっていて、感動を伝えるような勉強にはなっていません。
社会の勉強なども、特に歴史の教科は、感動のある勉強になるはずですが、そういう学習にはなっていないと思います。
これからの授業は、スタディサプリのようなところから、わかりやすく面白い動画が次々と出てくるでしょうから、先生の仕事はどんどん少なくなっていきます。
その中で、なお残る先生の役割があるとしたら、それは、ひとつは子供の未来を見てあげられること(つまり、どんな子にも可能性があることを確信できること)と、勉強の持つ感動を子供に伝えられることだと思います。
私の尊敬する人の一人である糸川英夫氏も、理科の道を選んだのは、高校の理科の授業に感動したからだということを書いていました。
もちろん、理科でも、国語でも、音楽でも、何でもいいのです。
そういう感動を伝えられる先生に巡り合うことが、学校にいく意味です。
もちろん、それは学校でなくてもいいのです。
人によっては、友達や先輩や会社の上司ということもあるかもしれません。
大事なことは、感動を伝えられるような人に出会うことです。
そして、自分自身も成長して、将来、人に感動を伝えられるような人になることだと思います。
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先生が、勉強の持つ感動を子供に伝えることができるためには、先生自身も勉強をしている必要があります。
勉強をしていない先生は、子供をアメとムチで訓練すれば勉強ができるようになると思いがちです。
子供を動物のように扱えば、子供は動物のように成長します。
子供を人間として扱うことが、勉強を教える前の第一歩なのです。
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