●動画:https://youtu.be/7wIlVgbYnOU
森リン大賞は、2020年10月から更新を止めていましたが、2023年3月分から更新を再開します。
これまでの森リン大賞は、森リン点だけを基準にしていましたが、今後は森リン点の上位の作品から、特に内容の優れている1作品を選定するようにします。
小学5年生以上の生徒のみなさんは、森リン大賞の作品を参考に、よりよい作文を書くようにがんばってください。
なお、小学4年生以下の作品は、森リン大賞としては掲載していません。
それは、小学4年生までは、まだ点数で評価するよりも、身近な家族や先生による褒め言葉の方が励みになるからです。
▼森リン大賞のページ
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php
■森リン大賞3月の作品
※作品は3月のものですが、学年は、3月ではなく4月の学年になっています。
●小5の部
おにごっこ最強のハエ
さき
ハエのすばらしさはスピードの調節のみごとさです。ハエは、助走も加速もせず、ある場所に自由にとまり、自由に飛び出すことができます。むだな運動をしないことは、活動のエネルギーを大切にしていることになります。
この話を読んですごいなと思ったのは、ハエが助走もせずに自由に飛ぶことです。なぜすごいと思ったかというと、人間ができないことをあの小さなハエができているからです。
私は、家の中に入ってきたハエがいやでいやでつぶそうと思っていました。
「キャー、ハエだ。ハエ―なあ。」
ハエは速すぎてつぶせません。きたないものを食べるこんな虫が役に立っているのか調べてみました。カにくらべていいことは多くないですが、一応役に立っていることがありました。ひとつ目は、ミツバチの代わりにハエが受粉をしてあげることです。年々ミツバチがへっているのでハエを使ったそうです。でもお金がかかってしまうそうです。二つ目は、ハエの幼虫ウジ虫がいりょうで役に立っていました。大けがをしたり床ずれをしたりして黄色のプニプニの組織(えし組織)ができるけれど、それはいらないそしきなのでとらないと治りません。それをウジ虫に食べてもらって治す方法があるそうです。ちょっといやだけど、このようにハエもいやなところばかりだけでないことがわかり見直しました。でもハエは、やっぱり好きになれないです。
母にハエについて聞いてみました。昔は今よりもハエが多かったそうです。今よりも草地も多く、犬やねこのふんや尿も道路にあるし、畑に肥料として便や尿をまいていたからかもしれないと言っていました。どこの家にもたいていハエを退治する道具があったそうです。たとえば、ハエととり紙といって天井からベタベタするテープをぶらさげてハエをとらえるものがありました。ハエもよくかかるけど、自分のかみの毛もわなにかかってしまったそうです。もうひとつ、ハエたたきといってハエがとまっている時にたたいてつぶすものです。まるでバトミントンのスマッシュのように打つそうです。ハエははやいので命中した時はうれしかったようです。私は、ハエが入ってきたらハエたたきでしとめたいと思いました。
このお話を読んで、私はハエが速いこと、そして役に立っていることを知って驚きました。でもハエはずっときらわれ者だということもわかりました。私も、ハエのように速く動けたらおにごっこでつかまらないのになあと思いました。
●小6の部
好きという調味料
あかのは
「あぁ、しまった!」
鍋の中では、黒く焦げた玉ねぎがぷすぷすと音を立てていた。
四年生の頃、初めての料理にサンドイッチを作った。レシピを見ていて、あまり難しくなさそうだったので、作ってみようと思ったのだ。作ったのは、卵サンドイッチとハムサンドイッチの二種類だ。卵は茹でて殻をむきマヨネーズと混ぜてつぶす。レタスは洗ってちぎり、ハムとチーズを用意する。それらをパンで挟んで、食べやすいサイズに切ったら出来上がりだ。その手順はそこまで難しくなかった。しかし、いざ作るとなると思うように進まず、
「あれ、卵は何分ゆでるんだっけ。あれあれ、ハムは何枚入れるんだっけ――。」
と、あれこれ確認しているうちに、とても長い時間がかかってしまった。参考にしたレシピには「所要時間…約三十分」と表記されていたのに、結局、一時間ほどの時間がかかってしまった。お腹はもうペコペコだ。でも、空腹は最高の調味料、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しかった。家族にも好評だった。特に母は、「朝食を子どもが作ってくれる日が来るなんて。」と、とても感動していた。みんなが喜んでくれて、また作ろうとやる気が出てきた。五年生になり、もう一度サンドイッチを作った。今度は、レシピをしっかり確認し、事前に卵を茹でるなどの準備を終えていたこともあって、手際よく作業を進めることが出来た。実際に表記されている時間通りに全ての工程を終え、食べ始めることが出来た。物事の上達には、慣れることが必要だと思った。
学校の栄養士さんにインタビューをしてみた。料理を作ることとレシピを考えることが好きで栄養士になり、もう何年もこの仕事をしているそうだ。仕事は給食の献立を考えることで、いつも美味しくてバランスの良いメニューにすることを心掛けているという。私は、何を作るかを考えることや、材料がそろっているのか確認をすることに一苦労するのに、栄養士さんは一度に一か月分のメニューを考えていて、その上バランスまで考えていることに驚いた。自分だったら、栄養バランスに気を付け、かつ、飽きないようにするとなると、一日、二日分の献立を考えるのにとても労力を使うだろう。やりがいを感じるのは、空になった食缶を見た時や、「いつも美味しい給食をありがとうございます」と、生徒から声をかけてもらったときだそうだ。嬉しく感じるときが、自分と似ているなと感じた。給食後に栄養士さんに会ったときは、お礼を言うように心がけようと思う。栄養士さんは長い間練習し、試験を受けて栄養士になった。その過程では、きっと失敗したこともたくさんあったけれど、その分たくさんのことを学んできたのだと思う。好きなことを仕事にするには、たくさんの経験と努力が必要だと分かった。
私は、料理をすることが好きだ。今は始めたころに比べるととても手際よく作業を進められるようになった。今に至るまでに、手をスライサーで間違えて切ってしまったことや、野菜の皮をむきすぎて小さくなってしまったこともあった。しかし、好きこそものの上手なれということわざがあるように、どんどん上達していったと感じている。また、千里の道も一歩からということわざもある。上達するには、日々練習を積み重ね、その物事を好きになることが大切だと分かった。そのように上達できるのは、他人が喜んでくれたり、お礼を言ってもらったりなど、やりがいが感じられるからではないだろうか。つまり、上達には人の役に立っているという気持ちが関係するのだと思う。私はこれからも練習を積み重ねて、料理をもっと上手になって人に喜んでもらいたいと思った。また、別のものごとにおいてもどんどん練習し、その腕を磨いていきたいと思う。
「いただきます。」
途中、失敗してしまったが、終わり良ければすべてよし、美味しいカレーライスが出来上がった。家族はみんなニコニコしながらカレーをほおばっている。
●中1の部
私達が世界から得られた教訓
あえはな
端的に言うと、私たちは、話を文字ーー文字のうちでも、文字に頼らず、声によって伝達される文字ーーと考えられている。昔話は、なんといっても本来語り伝えられてきたものだから、語って聞かせる話に備えていなければならない基本的な条件を満たしている。また昔話は、一般大衆の文字だったから、取り扱うテーマは、普遍的、根源的だし、その表現形式は簡潔で素朴な心の持ち主にも良く分かるようになっている。 話に興味を持つ者にとっては、昔話は絶えずそこに自分を潤しに帰って行かなければならない泉のようなものだと思う。
「自分がされて嫌なことを他人にはしない」皆一回は聞いたことがあると思う。この言葉は、大人であれば当たり前だと思うが、 子供はまだこの事を知らない。例えば保育園で、 友達に石を当てることはよくない。しかし保育園児にとっては自分が楽しければそれでいいと思っている。 ではなぜ大人になったら「自分がされて嫌なことを他人にはしない」ことを当たり前と思えるのか。 その理由の一つに挙げられるのは、近くの大人から学ぶからである。例えば友達と喧嘩してしまったとしよう。そのことを先生に報告しに行く。 そうすると先生は喧嘩を始めた園児を叱る。しかし子供はなぜ自分が怒られたのかわからない 。
だが子供は学んでいくのである。それは自分が教えられなくても人を見て理解することだろう。 そうすることで自分だけが生きている世界ではないということを知る。そして子供達が成長した時、人は誰かが取り乱しても他の人が取り乱さないから世界は平和だと知るのだろう。ただし大人から教育を満足に受けられていない子供達も世界のどこかにはいる。 その子供たちがいつか大人になった時、自分が世界のまんなかだと思う。自分に嫌なことをしてきた国を巻き込み、口で解決せず、 暴力的解決で戦争が始まってしまうと思う。だから私は今の世界の課題の一つに、 自分の国だけではなく他の国の教育をきちんと行う。これが世界平和に繋がることだと考える。
わらしべ長者。これは、ある一人の貧乏人が最初に持っていた物を、物々交換を経ていくにつれて、最後には大金持ちになる話である。 私がわらしべ長者を読んで思ったことは、小さいものでも、努力を重ねてきて一年二年十年かかってもいいから大きく成長する、と教えられたような気がする。私は四年生のとき計算が苦手だったので、家で宿題をする時、苦手な計算は計算機でやってしまっていた。なので五年生になった時に計算が出来なくなってしまうんではないかと考えた。だから努力することにした。まずは自分で掛け算、割り算を必死に覚えた。 そしてそろばんを始めた。そろばんを始めると計算問題が少しぎこちないが解けるようにもなってきた。 五年生になって最初に行った計算問題のテスト。 いつもの私なら六十点、七十点が平均なのだが、 初めて百点を取れた。その時に努力してきた一年間が頭に思い浮かんできた。最初は苦手だったものも習い事を始めコツコツと家でも勉強をしてきた。自分が苦手なところも積極的に行った。六年生にもなると、計算問題は算数の中でも得意になった。計算する楽しさも覚えたと思う。 塵も積もれば山となるということわざがあるように、一日一回でもいいから計算機を使わずに自分の頭の中で計算をし始め、最終的には何も考えずに計算ができるようになっていた。計算以外にも 勉強や運動その他の事も初めから大きなことをするのではなくどれだけ小さくてもいいから毎日続けることが大切だと私は思う。
人間にとって昔話の教訓とは、 幼い子供にもわかるように過去の人物が残した参考書である。 私は努力した人は何年後何十年後でも必ず結果が残ると感じた。
●中2の部
日本人は淡白である(清)
あえてり
日本人は、淡白であり、一般的に騒がしいものは面白くないと感じる。こういう傾向が言語に影響しないはずがない。細かいことは省略してしまう。それがわからぬのは野暮だとして相手にしない。お互いに以心伝心の術に長ずるようになる。結論は相手の想像に委ねて、ありのままをくどくど述べるのは興ざめれる。ことに大昔から確立している和歌や俳句の形式に共通することといえば、言葉のいわゆる論理に背を向けていることである。感覚的に全体を直感で把握する。句の中には、理屈で説明しきれない論理を超える論理があるのだ。私は理屈ではなく直感に訴えようとする日本的なコミュニケーションの取り方は良いと思う。
その理由は第一に、淡白な方が速く伝えられるからだ。日本ではよく、要点だけをまとめて相手に伝える。例えば会議などで残り1分の急いでいる時など、時間、場所と要件だけ伝えることがよくあるだろう。単純な例で言うと、私を含め、最近の若者は驚いている時に、わざわざ「へぇー知らなかった!」や、「え!すごっ!」など言わない。PR Timesの2020年のデータによると、10代の50%以上は略語を日常的に使うらしい。驚きを伝える時は、「ま?」と一文字打てばいいだけだ。そしたら、相手もパッと見るだけで相手の伝えたいことがわかるし効率的だ。相手に同意を示すのにもいちいち時間をかける必要はない。「り」とだけ打てばいいのだ。自分が同意していることが相手側に伝われば打つものは何でもいいのではないだろうか。だから私も普段から少しでも文字を打つ時間を節約できるように極力短い言葉を送っている。毎回物事の詳細を書いていたら、伝える側も、伝えられる側も、疲れる。そもそも、いちいち細かく書かないといけないのであれば、私なんかはめんどくさがって余程のことじゃないと伝えなくなる。その場合は本末転倒だと考えられる。
第二に、短い言葉から想像を広げることで想像力や表現力が豊かになるからだ。文章に直接意味を感じられるような単語がなく、全てが説明されていないと、自分で筆者が何を伝えたかったのかなどを想像することを強いられる。そうすると、重要な単語を汲み取って筆者がなぜ故意にその言葉を使ったのかなど推測して分析する力がつく。それに、筆者の表現を自分なりに理解し、その場面を想像しようとすることによって想像力もつく。そのため、考えさせるように脳に試練を与えることによって、生まれるメリットがあるのだと推測できる。昔、学校で俳句を読んでその俳句の意味を話し合う授業があった。その時は何でこんな訳のわからないことを書いている人たちの詩を話し合わないといけないのか疑問だった。その頃は、「嬉しいと言いたいならそう書けばいいのに」と心の中で思っていた。だが中学生にもなると、学校などで小説を書かないといけなくなった。すると、俳句や和歌の授業で学んだ人間や詩人はどんな気持ちの時どういう言葉を使って表現するのか、が役に立ってきた。今になってようやく、日常での表現の幅を広げられたから有益な授業だったんだと気がついた。つまり、日本的なコミュニケーションには、欠点から生み出される利点があるということだ。
確かに物事を理屈で考えることも必要だ。しかし、「辞書のような人間になることではなく辞書をうまく使えるような人間になることが勉強の目的である。」と言う名言もあるように、言葉は上手に利用すれば相手によく伝わる。このことから事実を述べるだけではなく、巧妙に、効果的に言葉を操れるような人間になれる淡白な日本のコミュニケーションは大事だと判断できる。私はこれからも、相手に速く深く意思を伝えられるように、日本的なコミュニケーションを活用していきたい。
●中3の部
マスクとコロナと日本
たくま
https://www.mori7.com/oka/tegaki/2023/aiyono-0331223932.pdf
今日も朝起き、学校へ向かう。持ち物はハンカチ、ティッシュ、家の鍵、ヘルメット…そしてマスクである。いつの間にか学校ではマスクが「強制化」していた。私がマスク無しで友だちと話していると、うるさい学年主任が私に近寄り、「マスクをしなさい」とやたらと高圧的な態度(いつもだけど)で指図してくる。真なる屈辱だが、将来にバッテンがつけられないようにと仕方なくマスクをするのであった。今思えば、私も卑怯者である。他人にマスクの着用のおかしさを説きながら、結局周りの同調圧力に負けマスクを着用してしまうのである。私は自分の心の弱さを知っている。日本の伝統的な武士の精神になりたいが故に自分の卑劣を憎むのである。マスクはおかしいとこの文で訴えるのは、自らの卑劣からの救済と、私と同じ思いをしている同胞たちを考えたからこそである。
今回のコロナでわかったのは、現代社会というものは作られた虚構であるということである。普遍的な論理に基づいて考えれば、網目の大きいマスクがコロナウイルスを防げるとは非常に考えにくいし、全員が全員マスクをしたとしてもプライベートなどで外す機会があるだろうから、完璧な感染予防など不可能である。ましてや、コロナが出現してから三年を数えようとしているのに、いまだにマスクを徹底などというのだから呆れてしまう。最初から政府は言っていたではないか「義務ではない」と。最初から義務だとは言っておらず、「努力義務」だったり「心がけるよう」など義務と言った表現は使っていない。義務ならば致し方ないが、マスクの着用について個人の自由が守られているのにもかかわらず、様々な場面でのマスク強制は「基本的人権の尊重」を掲げる日本国憲法に違反しているのではないだろうか。少し論点がずれたが言いたいことは、最初からマスク着用に関しては自由が守られており、他人が強制できるようなものではないということだ。私はマスク強制に立ち向かったが、自分の心の弱さ故に、一週間程度でマスクを着けない生活をやめてしまった。申し訳ないと思っている。しかし、中学生にこのような思いをさせるのは少し腹が立つ気もする。なぜならマスクを外している間、周りからの圧力がすごいからだ。先生からは睨まれ、友達からは通常会話をしている途中に「マスクをつけろよ」と言われる。社会の常識から外れている気狂いのように扱われ、心外な思いをしたものだ。
だが今回の件で大いに学んだこともある。周りの奴らは「何も考えていない」ということである。国総出で国民を洗脳しているのだから、仕方ない面もあるが、あまりにも考えていないやつが多すぎる。外でも風呂でもどこでもマスクを外さないやつもいた。どれだけ息が上がってもマスクを外さずに保健室に運ばれたやつもいた。学年合唱の練習もマスクを外さずに行ったし、体育祭もマスクを外さずに行った。中学二年間過ごしてみて、私のアルバムはマスクだらけであった。私も、コロナが流行り始めた当初はマスク着用に関してあまり疑問を呈していなかった。しかし、流石に年数が経過するとおかしいと思うようにもなる。私自身、今までの自分は洗脳されていたんだなと思うようになった。だが、周りを見よ。どれだけ年数が経過しようがマスク着用について疑うこともせず、外での体育でも未だにマスクを付けているではないか。社会を見よ。未だに車内でマスクを着用しているではないか。飲食店でのあほらしいシールドがあるではないか。飲食はマスクの着用を挟んでいるではないか。おかしいと思えないのだろうか。私から見たら狂気の沙汰である。社会一般のものは、カルト宗教にハマっているものを馬鹿にし、「あんなふうにはなりたくないわぁー」なんて言って、自分の立場が上にあることで優越感を得ているらしい。が、今のマスクを着けている社会人共も一緒である。「コロナ」という宗教団体に所属しており、教祖は日本国。国から与えられたマスクを首輪のように常時着用。効果があると言われたワクチンならすぐさま何回でも接種しに行く。ワクチン反対派やマスク反対派の人間を罵り、「自分たちは世間とずれていない」と特有の卑怯さを見せつけ、教祖を疑うこともしない。嗚呼、どうしてこうなってしまったのであろうか。悲しきばかりである。
●高校生の部
能動的な人間
ああるそ
今のままの日本の教育では知識吸収型の、枠にはまった答えしかできない受動的人間になってしまう。だから私は、能動的な人間になるべきだと考える。そのためには、二つの方法が考えられる。
第一に、新たな発想を生み出すことだ。先日、私の学校で私たち一年生に向けて二年生がSDGsに関する課題について一年間考えてきたことを、高校生の自分たちにできることというテーマで発表をする機会があった。その中には室外機が送り出す風で発電をできるような装置について考察したり、医療でAIの導入が進んでいるが人である医者にしかできないことはあるのかを調査したりするなど、どの話にも感嘆させられた。個人的には、靴の履き替えが難しい高齢者の視点から考えた、靴の底の前半分が後ろに折り返せることで室内でも屋外でも1つの靴で事足りるという製品案を作ったグループの発想に最も驚いた。このような授業が学校で展開されるというのは非常に喜ばしいことだ。現在では、課題解決に対する具体的な取り組みの思考が求められている。なぜなら、今までと同じようなことをしても、問題のあふれる現在の社会はより困難な状況に直面することになるからだ。ほんの偶然から生まれた誰も考えないような逆転の発想が、大きく世界を変えることは多々ある。もしかすると、子供のアイデアが採用されることだってあるかもしれない。頭が常識にとらわれてはいけないのだ。
第二の方法としては、学校が生徒に自由にさせてみることだ。私たちに先入観が生まれるのは、日常の中で経験していることを当たり前だと思ってしまうからであり、学校が知識を生徒に詰め込ませている現状も少なからず影響しているだろう。だが、一問一答が得意な人ではなく、現在はゼロから考えていけるような人が求められている。偉人でいえば、一たす一は一ではないかと考えたことで有名なエジソンは、数々の発明に成功し、発明王と呼ばれるまでに成長した。彼の、当たり前だと考えられていることを疑問に思う性格が、様々な好奇心を引き出し、数々の実験、発明へと導いたのではないか。すなわち、物事を決めつける姿勢は新しい発見の可能性の幅を狭めるということだ。よって、学校がその可能性を伸ばすためには、何も知らない状態で頭を使う時間を増やしていかねばならない。自由度が高ければ高いほど、試行錯誤する時間は増えていくだろう。他者の意見も合わせた多種多様な捉え方を学ぶことで思考力を身につけられるはずだ。
確かに、決められたことをこなす能力は大切だ。指示に従えないと周りから信頼を失いかねない。しかし、常識とは、踏襲するものではなく破っていくものだ。時代が変化するにつれ、もちろん、求められる態度や考え方は変化していく。それにもかかわらず常識を維持するというのは効率的ではない。現代では既存の知識をいかに多く暗記できるかということに目が行ってしまうが、知識がない状態でどう対処するかというところに焦点を当てて課題を追い求めて生きていきたい。
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約2年半ぶりに森リン大賞を復活しました。
小学5年生から中学生、高校生の作文は、やはり読み応えがあります。
こういうふうに自分の頭で考える子供たちが、将来の日本の社会を支えていくのだと思います。
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●動画:https://youtu.be/IN4glnaGWRc
ChatGPTを利用すれば、夏休みの宿題の感想文などはいくらでも書けます。
だから、もうそういう無意味な宿題はやめた方がいいのです。
大事なのは、学校の授業の中で作文の指導をすることであって、宿題として作文を書かせることではありません。
授業の中で、先生が教えることが大事なのです。
先日、近くのコンビニに寄ってみたとき、サンデー毎日という週刊誌に、「全国主要2409高校 有名110大学合格者数」が載っているのを見ました。
この取材力は大したものですが、こういう記事に関心を持つのは日本の受験生の保護者だけだろうと思いました。
つまり、国際的にはほとんど意味のない序列が、日本の国内では重大な関心事になっているということです。
しかし、その関心が全国的に共有されているので、その幻想は社会的にそれなりの意味を持っています。
そのときに、ふと、年末の紅白歌合戦やレコード大賞も、今は関心は薄れてきていますが、日本の国内のひとつの幻想として共有されていると思い浮かんだのです。
それを、記事として書くほどのことはないと思いましたが、試しに、ChatGPTで次のようなプロンプトを入れてみました。
次のような構成で4段落1200字程度の文章を書いて。
第一段落は、コンビニで高校別大学合格状況を掲載した週刊誌を見たこと
第二段落は、日本のガラパゴス入試は、このような週刊誌などの情報で受験生に広く共有されていること
第三段落は、年末の紅白歌合戦も、大学入試と同じように、一種の幻想的な価値として国民に広く共有されていること
第四段落は、これからの国際社会では、意味のある価値を求めることが大切だが、日本の国内に限れば、日本独自の幻想的な価値はこれからも長く続くこと
その結果、出力された文章が次のものです。
私は最近、コンビニで高校別大学合格状況を掲載した週刊誌を見ました。入試をあおる記事や、受験生たちの不安を煽る内容が多く掲載されていました。日本の大学入試は、他国に比べて独自のシステムを持っていることがあります。しかし、その一方で、このような週刊誌などの情報が広く共有されているため、入試に関する情報やコラムが多数掲載されるようになりました。
また、年末になると、多くの人々がテレビで紅白歌合戦を見ながら新年を迎えるという光景があります。このような行事は、日本人の文化や価値観に根付いているものであり、多くの人々にとっては大切なものです。大学入試と同じように、一種の幻想的な価値として国民に広く共有されていることが分かります。
しかしながら、これからの国際社会では、意味のある価値を求めることがますます大切になっています。国際的な視野を持つことで、より多くの人々が世界中で活躍できるようになります。しかし、日本の国内に限れば、日本独自の幻想的な価値はこれからも長く続くことでしょう。大学入試や紅白歌合戦といった行事が、日本人の文化や価値観を支え、日本社会を形作っているからです。
そのため、大切なのは、入試や紅白歌合戦をあおることではなく、その背景にある文化や価値観を大切にすることです。また、国際社会においても、日本独自の文化や価値観を理解し、尊重することが大切になってきます。これからも、日本の独自性を大切にしつつ、国際社会においても貢献できるよう、努力を続けていきたいと思います。
それなりに、意味の通った内容になっています。
そこで、Edgeにあたらしく搭載されたImage Creatorで、絵を作成してみました。
Image Creatorは、まだ英語しか受けつけていないようなので、google翻訳で、次の文章を英語化しました。
コンピュータを利用して楽しそうに作文を書いている日本人の小学生の子を2色刷りの漫画風に
英文はこうなりました。
A Japanese elementary school child happily writing an essay using a computer in a two-color cartoon style
その結果、作られた画像のひとつがこういうものです。
単に、「笑顔で作文を書いている日本人の小学生の子を2色刷りの漫画風に」のプロンプトで作成された画像がこれです。
これらを更に発展させれば、四コマ漫画を作ったり、背景に音楽を流したりすることもできます。
もちろん、絵は自分でかいてもいいし、音楽も自分で作ってもいいのです。
そこで、結論は、こういうことです。
私は、昔から、作文の本質は考えることであって、書くことではないと思っていました。
書くというのは単なる作業ですから、時間がかかります。そして、面白くありません。
考えることは、時間が短いことも長いこともありますが、それなりに面白いことです。
だから、作文の勉強は、考えることを中心にしていくといいのです。
書くことは、その考えたことの結果です。
したがって、未来の作文の勉強は、このようになります。
生徒は、構想図を使って、手書きで自分の考えたことを書きます。
考えることは、手で書くことと深く結びついています。
構想図を書きながら考えたあと、それを四行の詩のようなかたちでまとめます。
詩は、散文とは違って、短い文の中にあるリズム感が必要です。
俳句や短歌のような感覚です。
その四行詩をChatGPTに入れて、1200字程度の文章を作ります。
その文章の背景として、Image Creatorで絵を入れます。
ただし、絵をかくのが好きな人は、その絵も自分でかきます。
それらがひとつのセットになっていますが、作品として打ち出すものは四行詩と絵が中心になります。
一目で全体を見ることができるからです。
1200字の文章は、その四行詩と絵の補完説明のような形になります。
その文章をもとに、書いた人が、自分がどういうことを言いたかったかということをYouTubeなどの動画で説明します。
これらがひとつの作文という形になるのです。
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言葉の森を卒業して、社会人になった生徒が、自分の中学生時代の作文を見て、こんなことを言っていました。
「僕は、中学生のころ、すごくよく考えていたんですね。今、こういう文章を書けるかなあ」
これは、誰にでもあてはまります。
言葉の森の作文は、小学4年生までは、事実を中心とした生活作文です。
このころの作文の勉強は、学校で書く作文とあまり変わりません。
変わるとすれば、実例と表現と感想を個性的に書くことです。
ただ書くのではなく、自分らしく書くということが大事な目標になります。
小学5年生からは、課題自体が抽象的になり、感想の部分を、自分個人の感想を超えたより一般的な感想として書くようになります。
例えば、「私の友達」という課題で書く場合、自分にとっての友達という感想でなく、人間にとって友達とは何かという感想として書くのです。
中学生になると、この感想の部分が作文の中心になります。
小学生のころは、実例が先にあり、その実例の感想を書く形でしたが、中学生の作文は、意見が先にあり、その意見の裏付けとして実例を書くという形になります。
それも、ただ実例を書くのでなく、意見の理由として書くとか、意見の方法として書くとかいう構成の仕方が重要になります。
高校生になると、この意見中心の作文の構成の仕方が更に発展し、課題の文章が更に高度になります。
構成の仕方は、理由や方法以外に、原因や対策を考えて書くようになります。
このように、構成を意識して書く作文指導をしているのが、言葉の森の特徴です。
中学生からの意見文は、そのまま大学入試の小論文に応用できます。
言葉の森では、高校生から作文を始める人は、小学6年生の課題からスタートします。
小6の構成の仕方である「複数の実例と一般化の主題」も、大学入試の小論文で十分に使えるからです。
更に、中学1、2、3年生での意見文の書き方を身につければ、どのような小論文の課題にも対応できるようになります。
中学生からの作文の練習は、考える力を必要とします。
作文は、思考力を伸ばすのに最も効果的な学習なのです。
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昔の大学入試は、一般入試がほとんどで、推薦入試というのはあまりありませんでした。
また、推薦入試よりも、一般入試に取り組んだ方が確実な学力がつくという考え方もありました。
入試勉強は、学力の土台を作る上で最も役に立つという考え方は、今でも成り立ちます。
しかし、近年の大学入試の仕組みは、大きく変わっているので、一般入試向けの対策と推薦入試向けの対策は、並行して考えていくいく方がいいようになっています。
日本では、どこの大学を出たかということで、就職の幅が決まります。
いい大学を出れば、就職できる会社の範囲は広くなりますが、そうでない場合は、就職できる会社の範囲は狭くなります。
人気のある大企業は、名前の通った大学の学生しか採用しません。
この日本のガラパゴス的な入試と就職の仕組みは、それなりに安定しているので、しばらくは変わりません。
しかし、今人気のある企業は、今がピークであることが多いので、数十年後には衰退する企業の枠に入ってしまうこともあります。
だから、いい会社に入るかどうかということは、途中の過程であって、最終的な結果とは考えないことです。
大きい会社の長所は、給与だけでなく研修機会や保養施設も充実していることです。
しかし、大きい会社の弱点は、一部の部署の仕事しかしないために全体的な経営の感じがつかめず、いざというときに会社をやめて独立するという展望が持てないことです。
小さな会社の場合は、経理にも商品開発にも営業にもすべてに携わることができるので、自分で会社を興(おこ)すという見通しも持てます。
会社を興す以外に、自分個人の才覚で世に出るという道もありますが、それはかなり不安定です。
自分で動かせる組織を持つことが、最初は苦しくても、長期的には最も安定した仕事の仕方になります。
子供たちの人生の目標の最も大きなものは、どういう仕事をするかということです。
どの大学に入るかということは、その途中の過程であって、ある意味で第二義的なものです。
だから、一般入試にしても、推薦入試にしても、どちらも選択できるような方針で勉強をしていくことがいいのです。
現在はネットワークの環境が充実しているので、人間は、学校に通わなくても十分な勉強をすることができます。
いい学校に入るということは、いい友達ができるという程度の意味しかありません。
しかし、ほとんどの生徒は、周囲に流されて勉強をするので、いい学校に入れば勉強する度合いが多くなるという効果はあります。
ただ、こういうこともすべて本人の自覚次第です。
自分で仕事を興す場合、大事になるのは、個性と情熱があることです。
学力はもちろん必要ですが、ほとんどの学力は、必要に応じてあとから伸ばすことができます。
あとからすぐには伸ばせないが汎用性が高いものは、哲学と数学と歴史とプログラミングと英語になると思いますが、英語は今後のAIの進歩によってカバーできるようになります。
学力は、知識として知っているのではなく、身体化して身につけておく必要があるので、そのためには時間のある学生時代に勉強しておくといいのです。
東洋経済オンラインに、現在の大学入試の特徴がわかる記事が掲載されていました。
「大学入試「激変」40代以上の親が知らない最新事情――偏差値が高くなくても一流大学合格を勝ち取る術」
https://toyokeizai.net/articles/-/661635
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●子供たちの学習は、教わる教育から創造し発表する教育に変わっていく
AIの進展によって、すでに答えのある知識を吸収しそれをテストのときに再現する学力は、重要度の低いものになりました。一般教養はある程度知っていれば十分で、それよりも大事なものは、答えのない問題を発見し、自分の個性を生かして創造し発表する学力です。
これからの子供たちの学力は、創造力と発表力の育成を中心に組み立てていく必要があります。
●5人の少人数クラスで、全員が学習に参加でき個別指導が受けられる
30人から40人の集団一斉指導では、生徒が発言する機会はほとんどありません。受け身で先生の話を聴く時間がほとんどです。しかし、1対1の家庭教師による学習では、他の生徒との対話や交流がありません。5人の少人数クラスでは、全員に発言する場があり、一緒に参加する友達との対話があり、先生の個別指導があります。
●毎週の読書紹介で、読書習慣がつき、読書量が増え、読書の質が高まる
毎週、授業の最初に全員の読書紹介があります。この読書紹介によって、本を読む習慣がつき、読書量が増え、読書のジャンルが広がり、読書の質が高まります。勉強は、その勉強した範囲の成績を上げるだけですが、読書は子供たちの本当の学力を育てます。
●全員に発表する機会があり、人前で自分の考えを述べる発表力がつく
言葉の森では、毎週の授業の最初と最後に、みんなの前で発表をする機会があります。
現在の大学入試では、総合型選抜と呼ばれる推薦入試が過半数になっています。推薦入試で評価される学力は、小論文の力と発表力です。いずれも長期間の蓄積が必要な学力です。
●自宅から、オンライン自習室に参加し、自分のペースで勉強ができる
学習の基本は、家庭での自学自習です。自学自習は、塾に行って教えてもらう勉強よりも密度が濃くなります。しかし、ひとりで行う勉強は、きっかけがつかみにくい面があります。
自宅から参加できるオンラインの自習室は、自学自習の支えになります。
作文
| 作文クラスは幼長から社会人まで、長期間続けられる独自の一貫指導を行っています。小学生のうちから、将来の大学入試小論文や、社会人になってから必要な論説的な文章を書く力をつけることを目標にした作文指導を行います。毎回全員が予習の発表を行い、その場で作文を書き出します。学年は、幼長~高3。大学生、社会人の方も受講できます。 |
総合学力 | 総合学力クラスは、読書・国語・算数・暗唱・発表の総合学力をつけます。小学生の勉強は小5から難しくなるので、その前に、友達と一緒に学ぶ授業で、総合的な学力の土台を作ります。国語、算数は学年先取りの学習ができます。暗唱の勉強ができるのはこの講座だけです。学年は、幼長~小4。 |
国語読解 | 読解検定88点以上を目標に、読解力をつける独自の学習法で学びます。問題集読書の復読と読解検定の解説に取り組むことで誰でも驚くほど読解力が向上します。学年は、小3~高3。小学校低学年の方は、総合学力クラスの国語の授業として受講できます。 |
算数数学
| 1冊の問題集を、できない問題が1問もなくなるまで反復して学習します。小学生は標準問題集で学年先取りを目指します。中学生は発展問題集でやや難しい問題に取り組みます。小3~中3。小学校低学年の方は、総合学力クラスの算数の授業として受講できます |
英語 | 1冊の問題集を5回以上繰り返し読み込む学習をします。小4以上は、英文の音読暗唱を行います。教科書に対応した問題集と、英検5級~2級に対応した英検問題集のどちらも選択できます。学年は小3~中3。 |
創造発表
| 生徒の興味関心を学問に深め、学問を創造的に発表する講座です。取り組む課題は、理科実験・工作・自由研究など自由です。創造発表での学習は、自発的な学習姿勢、創造力、発表力を育てます。学年は小3~中3。小学校低学年の方は、総合学力クラスの発表の授業として受講できます。 |
プログラミング | プログラミングは、社会に出てからも役に立ちます。Scratch、HTML、JavaScript、Pythonを学びます。HTMLは自分のホームページを作ることができす。それぞれの生徒が自分の進度に応じて学習するので、初心者から経験者まで参加できます。学年は小3~中3。総合学力クラスの発表の授業の中でひらがなScratchを発表することもできます。 |
●オンラインクラス一覧表(簡略版)の表の見方
https://www.mori7.com/mori/online_class.php?kid=all
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●5月の受講料から、教科クラスの受講料を6,600円から7,700円に改定
5月の受講料から、国語読解、総合学力、算数数学、英語、プログラミング、創造発表の各教科クラスの受講料を、現行6,600円から7,700円に改定させていただきます。
作文クラスの受講料は、現行8,800円のままです。
諸物価高騰の折、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。
●1週間の平均読書冊数は小学生3冊、中学生1冊。説明文意見文の本を
読書は、学力のもとになる読む力、考える力、感じる力を育てます。1週間の平均読書冊数は小学生3冊、中学生1冊と言われています(学校図書館協議会2022年調査)。物語の本だけでなく、興味の持てる説明文・意見文の本も読んでいきましょう。
●定期的に、作文字数、森リン点数、読検点数のランキング確認を
勉強は目標があると意欲的に取り組めます。字数、森リン点、読検点数のランキングを毎週又は毎月定期的に確認し、年間を通してランキングが上がるように勉強を進めていきましょう。
https://www.mori7.com/as/4463.html
●ニックネームの作成で、自分の場所がすぐわかるように
ランキングの名前の表示は、生徒コードのひらがな、又は、ニックネームになっています。自分のニックネームを4文字以内で決めておくと、ランキングやオンライクラス一覧表で、自分の場所を見つけやすくなります。
https://www.mori7.com/sato/hennkou.php
●作文はその日のうちに書き上げ、その日のうちに提出する習慣を
作文の勉強を長続きさせるコツは、その日のうちに書き上げることです。オンライン少人数クラスでは、全員が一斉に作文を書き始めるので、未提出がほとんどありません。勉強は、毎週コンスタントに続けていくことが大事です。その日のうちに書き上げる習慣を作っていきましょう。
●作文の勉強で大事なのは、家庭での事前の対話と読書
作文力の土台となっているものは、日常の経験と対話と読書です。特に小学生の作文は、家族と対話をすることによって、実例と感想が豊かになります。事前に作文の題材に合わせた似た例を家族で話しておきましょう。
●塾が忙しくなっても、作文は高校生まで続けておくとあとで役立つ
受験のために勉強が忙しくなっても、作文と読書の時間は、短い時間になっても確保しておきましょう。長く続けたことは、必ずあとで生きてきます。作文は、大学生や社会人になっても役に立つ本質的な勉強です。
●中学生の家庭学習の平均は平日1.5時間、土日2.5時間
中学生の勉強の中心は、家庭学習です。1日の平均勉強時間は、平日1.5時間、土日2.5時間と言われています。定期テスト対策は2週間前から始めると安心です。中学生向けの勉強法の本を読み、自分なりの学習計画を立てていきましょう。
●中学生の勉強の教科の重点は数学。1冊の問題集を完璧に
中学生の勉強で、最も差がつく教科は数学と英語です。いずれも、1冊の問題集を5回以上繰り返し、できない問題が1問もなくなるまで取り組めば成績が上がります。毎日の勉強時間を決めて勉強を進めていきましょう。
●創造発表は、新しい未来の勉強――インプットよりもアウトプット
これからの学力はインプットよりもアウトプットです。日本では、インプット中心の入試が続いていますが、世界の標準は、個性や創造力や主体性というアウトプット中心の入試に移行しています。創造発表クラスで、創造力と発表力を育てていきましょう。
●プログラミングは、女子も楽しめる勉強――ホームページの作成も
プログラミングは、誰にとっても必要な技術になります。プログラミングクラスでは、Scratchというビジュアルプログラミングから始めて、HTML、JavaScript、Pythonと学習を進めます。発表と交流を中心に、自分のペースで学習できる少人数クラスのプログラミング学習です。
●これからの勉強は少人数クラスでの交流と個別指導
これからの学力で大事になるのは、知識を吸収して再現する学力ではなく、自分から創造し発表し他の人と対話をする学力です。
オンライン少人数クラスでは、全員に発表の機会があり、先生による個別指導の時間があります。だから、主体的な学習ができるのです。
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●動画:https://youtu.be/txkv0qX8PWw
私(森川林)が、40年ほど前に、作文教室を始めたときに思ったのは、「国語の勉強を教えるような教室にはしない」ということでした。
そういうことは、誰でもやれることだと思ったからです。
しかし、あとで、そうではないことがわかりました。
国語を教える教室というのは、ほとんどなかったし今もないからです。
国語教室以上に、作文教室というのは、当時どこにもありませんでした。
だから、言葉の森が日本で初めての作文教室でした。
始めたばかりの作文教室の生徒は、どの子も優秀な子ばかりでした。
勉強には余裕があるから、新しい面白いことをしてみたいという子供たちが多かったからです。
言葉の森は、作文の勉強を教える教室ではなく、作文を通して創造力や思考力を育てる教室としてスタートしたのです。
今、そういう当初の理念に戻って考えると、これからの教育は、教える教育ではなく創造する教育でなければならないと、改めて思い直しました。
これまでは、言葉の森も、勉強を上手に教えることに目を向けていましたが、上手に教えることは、今後ChatGPTによってカバーされるようになります。
国語も、算数数学も、英語も、ChatGPTが、それぞれの生徒に応じた的確なアドバイスをしてくれるようになるのです。
個人指導という言葉は、集団指導に対する新しい概念として広がっていましたが、その個人指導も、今後は時代遅れになります。
ところで、ChatGPTには、すぐに後続の大規模言語モデルの仕組みが次々に出てくるはずですから、以下、ChatGPTではなくより広範なAIという言葉で呼びます。
AIの発達によってなくなる職業には、今後、教師の仕事も入ります。
答えのあることを教えるというのは、しかも、その子の理解度に応じて気長に教えるというのは、AIの最も得意とすることだからです。
未来の子供たちは、自宅で、AIに教えてもらいながら、小中高の学年に必要な基礎学力を学ぶようになります。
これまでの学校で残るものは、友達との交流、先生との対話になります。
勉強の中身は、人間が教えるよりもずっと的確にAIが教えてくれるようになるからです。
そのときの学習の形態は、オンラインの少人数クラスになるというのが、私の予測です。
30人の集団指導でもなく、マンツーマンの個人指導でもなく、4~5人の同レベルの少人数のクラスで発表と対話と交流を行うことが学校の役割になるのです。
では、そのときの学校での教育の中身は何になるかというと、それは吸収と再現の対極にある学習、つまり創造と発表です。
これからのオンライン少人数クラスの学習の中心は、作文、プログラミング、創造発表など、少人数の創造と発表と対話と交流のあるものになっていきます。
そして、国語、算数数学、英語などの教科の学習も、やはり発表と対話が中心になっていくのです。
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●動画:https://youtu.be/84kq0RtwPGw
日本ディープラーニング協会の講演で、東大大学院の松尾豊教授が、「大規模言語モデルを自ら開発するには、数百億円もあれば同じようなものが作れる」と述べていました。
同じものを作るだけなら、もっと安くつくれるそうです。
中国では、すでに独自にChatGPTと同じようなシステムを開発しています。
それは、中国の国内だけの情報に限定したデータベースにするためです。
ChatGPTのデータベースのほとんどは、英語圏の情報だと言われています。
日本が、日本独自のデータベースを加味して、日本人が使える日本版ChatGPTを開発する必要があります。
アメリカでは、ニューヨーク教育局が学校におけるChatGPTを禁止しました。
日本でも、教育に携わる人の多くは、同じことを考えると思います。
夏休みの宿題の読書感想文などは、ChatGPTでいくらでも作ってもらえるからです。
しかし、問題は、ChatGPTにあるのではなく、ChatGPTで代替できるような教育をこれまで行ってきたことにあります。
これからの教育は、ChatGPTの利用を制限する教育ではなく、ChatGPTを活用する教育になる必要があります。
国語、算数数学、英語などの教科の勉強は、ChatGPTが個人の家庭教師がわりになります。
先生が教える教育は、いずれ姿を消します。
作文、プログラミング、創造発表の学習は、ChatGPTが生かせる分野です。
創造的な学習を支えるツールとして、ChatGPTが活用できるからです。
春期講習の創造発表クラスで、今年はディスカッションの講座を設けました。
参加した中学生たちは、難しいテーマにも関わらず、それぞれ独自の意見を述べていました。
ChatGPTは、こういうディスカッションの司会役としても、又は、もうひとりの参加者としても使えるようになります。
人間が行うのは、知っている知識を披露することではなく、問題を発見し、新しい創造を生み出すことです。
こういう将来の展望を考え、日本も早急にChatGPTと同じシステムを独自に開発する必要があると思います。
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