ノイバラ(城ヶ島で)
鉄緑会の記事を見ました。
「鉄緑会に中学生から通うと…」東大受験塾の驚異の学習スピードに「中学生がやる量じゃない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9477b9e10eb6c74d2783743553e05661ae7a0970
====引用ここから====
平山さんによると、数学では中1の間に三平方の定理や二次関数など中学3年生までの範囲を終え、中2で高次方程式など高校の数学I・A~数学IIの範囲、中3で三角関数や微分積分、ベクトルなど数学II・Bの範囲を学習する。
……
宿題の量も膨大だ。平山さんによれば、中学の時の宿題は以下のようなものだった。
● 膨大な宿題
【数学】
・例題の解き直し+問題集×20~30問
・中2は幾何、中3は数Ⅰの復習で4~5問程度のプリントが課される
【英語】
・15問程度の文法問題、10問程度の和文英訳
・長文問題×1~3題
・英検準2級程度の単語×50~100語
・条件英作文 1題程度
・英作文の表現、構成問題10題程度
・リスニング問題10問程度
・英文10個と50語程度のパッセージを丸暗記して、授業中のテストで暗唱できるようにする
小林さんは「多くない!?中学生がやる課題じゃないよね。ウチの塾で高校生に1週間に出すよりも多いかも」と驚きを隠さない。
====引用ここまで====
この記事から3つのことがわかります。
第一は、成績は、勉強の量に比例するということです。
第二は、勉強の量が多くても、こなせる人とこなせない人がいるということです。
第三は、今の日本の受験は、知識の詰め込みの度合いで受験生を評価しているということです。
第一の勉強の量に関して言うと、成績のいい子は長い時間勉強しています。
成績の悪い子は、勉強の時間が少ないです。
勉強の時間が長くても、密度の薄い子はいます。
しかし、成績は勉強時間に比例すると言っていいと思います。
第二の勉強の量をこなせる人とこなせいない人がいることについてです。
勉強ができるのに、勉強時間が短いという人がいます。
それは、頭がいいからです。
矢追(やおい)さんは、お母さんから、「家で勉強してはいけない。勉強は学校でやっているので十分だ」と言われて育ったそうです。
それで、仕方なく、学校に行くまでの道のりで勉強をしたそうです。
しかし、教科書は一度読めば全部頭に入るので、成績はよかったということです。
「新装版 ヤオイズム あなたは本当に生きているか」
https://www.amazon.co.jp/dp/4896344545/
この勉強力の差は何かというと、記憶力の差です。
一度読んで頭に入る人と、何度も繰り返し読まなければ頭に入らない人がいます。
勉強の基本は、繰り返しですが、繰り返しの回数が少なくてもすぐに頭に入る人がいるのです。
このように頭をよくする勉強の方法は、
第一は暗唱です。
第二は難読です。
第三は挑戦です。
シュリーマンは、何度も暗唱の練習をしているうちに、やがて数十ページの文章であれば数回読んだだけで全文の暗唱ができるようになりました。
この暗唱力で、18か国語をつかえるようになりました。
暗唱力を生かした例は、ほかにもあります。
本多静六、塙保己一、湯川秀樹などは、幼少期から暗唱の練習をしていました。
「新版 本多静六自伝 体験八十五年」
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学力の差で最も大きいものは読解力の差です。
難しい本を読める人と、読めない人とでは、理解の速さが違います。
国語の勉強は、学年が上がるにつれて難しい説明文を読み取る力になってきます。
この難読力は、そのまま小論文の力になります。
難しい文章を読める人は、問題文をざっと見ただけで、「ああ、そういうことね」と理解しますが、難しい文章を読めない人は、問題文を逐一読まなければ理解できせん。
しかし、その理解も、自分がわかったところが中心なので、主題からはずれていることあるのです。
この難読力の基礎になるものは、幼児期の読み聞かせと、小学校時代の読書量です。
そして、その小学校時代の読書量の土台の上に、中学生、高校生、大学生の難読力が積み重なるのです。
だから、子供たちの勉強の基本は、暗唱と読書と遊びを含めたさまざまな体験です。
勉強は、やれば誰でもできるようになるので、勉強の量よりも、まず毎日の勉強の習慣をつけておくことだけです。
勉強は、やれば誰でもできるようになります。
勉強で差がつくのは、勉強の時間と頭のよさが違うからです。
この場合の頭のよさは、記憶力と難読力です。
だから、子供たちの教育で大事なことは、幼少期からの暗唱と読書に力をいれていくことです。
そして、中学生や高校生になったら、難読に力を入れていくことです。
さて、ここまでが、今の時代の話です。
大事なのは、その先です。
これからの時代は、勉強力以上に、個性力が重要になってきます。
高度成長経済時代には、誰もが学歴というメジャーな一本道で競争をしていました。
そのときにも、競争には勝ち負けがありましたが、社会全体が成長していたので、誰もが努力に応じて成果を得ることができました。
オリンピックで金メダルを取るほどではないが、そこそこに上手なので、コーチになって仕事をするという道がありました。
ノーベル賞を取るほどのことはできないが、勉強はそこそこにできるので、先生になって仕事をするという道も同じです。
つまり、社会全体が上げ潮だったので、1番手だけでなく、2番手も3番手も、ずっと遅れたn番手も、それなりの成果を受け取ることができたのです。
しかし、今の日本の社会は引き潮が続いています。
引き潮のときに成果を上げることのできるのは1番だけで、2番以降は、成果を受け取れなくなります。
この時代には、10番から9番をめざそうとか、9番から8番をめざそうとかするよりも、10番でも9番でも8番でもいいので、そこで自分の個性を伸ばし、その個性の分野で新しい1番になることです。
私は、これからの日本には、さまざまな新しい分野の1番が出てくると思っています。
ミニトマト
詩人の工藤直子さんが、「
まるごと好きです」という自伝的な本の中で次のようなことを書いていました。
勉強かスポーツかで何かをしているときに、ある先生が、「がんばるためには、自分よりひとつ上の人を目標にして、その人に勝つようにするといい」とアドバイスをしてくれたそうです。
そのとき、工藤直子さんは、話はわかるけれど、全然ピンと来なかったと思ったそうです。
私も、その気持ちはわかります。
競争して相手に勝つということが、実感としてよくわからないのです。
もし、そういう競争の場面があり、相手がすごくがんばっているなら、勝ちは相手に譲ってもいいとさえ思います。
そんなに勝ちたかったら、勝ってもいいよ、という感じです。
自分自身の大学入試のときも、合格はしましたが、そのために落ちた人がいるのはかわいそうだなあというのが最初に思ったことでした。
そのことを、入試結果の報告のときに、ふと担任の先生に言うと、怒られました(笑)。
競い合うことによって上達するということは確かにあります。
しかし、「葉隠」には、次のようなことが書かれています。
最初は、自分はまだだめだと思う。これは役に立たない。
次に、人に勝つようになり、自分は強いという気持ちになる。これは役に立つ。
しかし、更にその先に、勝ち負けを超えた無限の道があることがわかるようになる。
世の中の多くの人は、人に「勝つ」ことができて、社会の「役に立つ」ことができるところまでを目標にしています。
しかし、それは、まだ途中の段階です。
その先に、勝ち負けを超えた無限の精進の世界があるのです。
面白い記事を見ました。
▽「通信簿」を廃止した小学校が問うテストの点数付けや運動会の勝ち負けの意味
「負ける悔しさを味わわせてほしい」「競争も大事だ」という保護者の声に愕然
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75591
====引用ここから====
(通信簿を廃止した校長先生の話)
「企業ではプレゼンして負けたらそれでお終いです」と勝つことの重要性を主張する保護者の声もいただきましたが、私が言いたいのは、一緒に働いているチームのメンバーは仲間だということです。そこでは、蹴落とし合いやランク付けはしない方がいい。得意なところを活かし合いながら助け合った方がいい。
====引用ここまで====
言葉の森の指導方針は次のとおりです。
1.国語、数学、英語について、テストの点数はつける。しかし、100点が取れるまで解き直す。
どうしても100点を取れないときは、先生が解法を説明する。
2.学期に1回の通信簿のようなものは出さないが、先生が、その生徒について気づいたことがあれば個別れんらく板で保護者に連絡をする。
3.成績はオープンでもいいと思います。
大事なのは、他人との比較ではなく、自分自身の向上だからです。
そして、「競争から協力へ」の先にあるのが、「協力から創造へ」の世界です。
その話はまたいつか。