テッポウユリ
読書には、大きく分けて、物語文の読書と説明文(意見文も含む)の読書があります。
物語文の読書のひとつの役割は、感受性を育てることです。
本を読んで感動するとか、本に夢中になるとかいうときの読書が、感受性を育てる読書です。
本の内容に感動するためには、ある程度の長さの本であることが必要です。
子供たちの読書記録を見て少し気になるのは、最近、短い文章を集めた本が多いことです。
「5分後に意外な結末」とか、「10分で読める名作 ○年生」のような本です。
もちろん、こういう本も読んでいいのです。
しかし、読書好きな子は、こういう本を物足りなく感じるはずです。
今の社会風潮で、手軽にあらすじがわかるようなものが求められているので、こういう本が出てくるのだと思います。
子供に薦める物語文の本は、じっくり読めるものにする必要があります。
低学年の生徒が読む本には、絵本と字の多い本があります。
本を読んで感動するという点では、絵の多い本も字の多い本も同じです。
しかし、絵本では、読む力は育ちません。
読む力が育たないと、本を読む楽しさがわかりません。
絵本ばかり読んでいると、絵本の次に続く字の多い本が出てきません。
親の読み聞かせも含めて、低学年のうちから、字の多い本の面白さがわかるようにする必要があります。
字の多い本で、低中学年の子に薦めたいのは、「かいけつゾロリ」のような、面白いがそれなりに文章がしっかりしている本です。
こういう本で字の多い本の面白さに目覚めたあとに、本格的な物語文の本に進んでいくといいのです。
講談社の青い鳥文庫は、漢字にすべてふりがなが振ってあります。
低学年の子でも、ふりがながあれば読み進められます。
ただし、本選びは、内容的に面白いものであることが必要なので、親が中身に必ず目を通しておくことが大切です。
有名な本だから読ませるというのは、あまりよくありません。
本の中には、子供が成長してから読んだほうがいいものもあります。
それを、有名だからという理由で低中学年のうちに読ませると、その本の本当の価値がわからないまま、読み終えたということになります。
こういうことを理解するためには、親自身が本好きであることが必要です。
小学生の間は、絵の多い本よりも字の多い本、短い文章が集まった本よりも長いひとつづきの本ということを基準に本選びをしていくといいと思います。
小学校高学年や中学生以上の生徒の読書については、物語文よりも説明文の本ということが基準になります。
問題集読書で、子供に問題集の問題文を音読させてみると、ほとんどの生徒が、一つの文章で1か所か2か所読み間違いがあります。
なぜ読み間違いがあるかというと、そういう語彙にそれまで接したことがなかったからです。
1か所も読み違いなく問題集の問題文を音読できる生徒は、それだけで国語の力があることがわかります。
そういう生徒は、読解問題の解き方のコツを理解するだけで、すぐに国語の成績が上がります。
読み違いのある生徒は、解き方のコツを理解しても、少し難しい文章になると読み取れなくなります。
この差は、説明文の読書をしているかどうか、又は、問題集読書を毎日しっかりしているかどうかの差です。
説明文を読む力は、国語の力にとどまりません。
日本語の説明や意見という抽象的な語彙を読み取る力は、実は思考力なのです。
川島隆太さんの記事が参考になります。
▽「読書をする子は楽々と平均点を超える」
https://magazine.chichi.co.jp/articles/5698366208/
勉強は、成績を上げますが、頭をよくするわけではありません。
読書は、成績を上げませんが、頭をよくします。
だから、小学生時代に本をよく読んでいる人は、中学生、高校生になるにつれて、国語だけでなく全教科の成績がよくなります。
反対に、小学生時代に本をあまり読まずに勉強ばかりしている人は、しばらくは成績がいいとしても、中学生、高校生になるにつれて、成績が低迷していきます。
現在、オンラインクラスでも行っている読書紹介は、子供たちの読書量を増やす上で大きく役立っています。
友達の読んでいる本を見て、読書の質を高める面もあります。
しかし、本の内容が、まだ不充分だと感じることはよくあります。
そこで、今後、読書紹介としてみんなに紹介するような本は、小学生の場合は、字の多い本、中学生の場合は、説明文の本ということを基準にしたいと思います。
もちろん、読書は、いろいろな本を並行して読むものですから、絵本を読んだり、短い話の集まった本を読んだり、面白い物語を読んだりすることは、いいことです。
しかし、それと並行して、娯楽の読書だけでなく、学問の読書をしていくということを意識していくことが大事なのです。
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東京学芸大学附属国際中(編入試験) I.Hさん
<担当講師より>
とても吸収力のある生徒さんでした。受験コースに取り組んだのは短い期間でしたが、ぐんぐんと書く力をつけていってくれました。引き続き、作文クラスを受講してくださるとのこと。さらなる成長が楽しみです。
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ミニトマト
次のような記事がありました。
「大学進学者の8人に1人が辞めている衝撃の事実。指定校入学者8割、一般入試10割という中退例も…大学側が伏せる不都合な真実とは」
https://news.yahoo.co.jp/articles/27c40b20b97317e8b978a155acc74cd98d6edf57?page=1
私がこの記事を見て思ったのは、そもそも「大学に入ることがゴール」になっていることが問題なのではないかということです。
今の保護者と保護者の両親、つまり子供にとっての父母と祖父母は、過酷な受験競争を経てきた世代です。
父母と祖父母の若いころは、多くの人にとって大学に入ることが勉強のゴールでした。
大学の先は、どこか適当なところに就職すればいいので、何しろいい学校に入っておきさえすれば、あとは何とかなるという考えでよかったのです。
だから、今の子供たちの教育の目標も、多くは、「いい大学に入ること」になっています。
そのために、いい高校に入ること、いい中学に入ること、いい成績を上げることが勉強の目的なのです。
そして、受験勉強のノウハウは、学習塾や予備校によって、現在はかなり完成度が高くなっています。
だから、塾や予備校で先生の教えたとおりのやり方でやれば、成績が上がるという仕組みになっています。
しかし、そのノウハウの基本は、よく出る問題の解法の詰め込みです。
大人の敷いた完成度の高いレールに沿って、ただひたすら時間をかけて詰め込めば、その詰め込み度に応じて成績が上がります。
だから、今の受験勉強は、かつての中国の科挙に似てきています。
科挙に合格した人は、中国全土の最も優秀と言われた人たちです。
合格すれば、本人だけでなく、一族も一生安泰でした。
しかし、その最も優秀な科挙の合格者によって支えられた清朝政府は、西欧の侵略に為すすべもなく屈服しました。
おおまかに言えば、科挙の合格をゴールにした人たちに、国を支える力はなかったのです。
今の受験勉強の勝者も似ています。
小学生のころから、ひたすら受験を目標にした勉強生活を続け、中学、高校と勉強中心の生活を続け、念願の大学にゴールインしたあと、大学から先の目標がなくなってしまう人が多いのです。
それは、実は、大学はゴールではなかったからです。
社会に出て、自分らしい仕事をすることこそが、永続するゴールです。
社会に出て、仕事をし、リーダーになり、自分が理想とする社会を目指して日々努力することがゴールなのです。
その大きいゴールから考えれば、途中の過程は、多少省略してもいいものです。
小学生のときに遊んでばかりいて勉強しなかったなどというのは、将来のゴールにとっては何のマイナスにもなりません。
苦手な科目があるとか、勉強があまり得意でないとか、自分の好きなことばかりしているとかいうのも、何のマイナスでもありません。
大事なことは、マイナスをなくすことではなく、プラスを伸ばすことです。
小学校、中学校、高校と、自分の好きなことをして(勉強も、もちろんしていいのですが)、大学に入った人は、大学では更に自分の好きなことに磨きをかけ、そのまま社会に出ていきます。
社会に出てから活躍することが、本当の目標なのです。
今の子供たちの両親と祖父母の世代は、子供の教育に対する考え方を軌道修正する必要があります。
現在の多くの人の教育観のもとになっているものは、一部は高度経済成長時代の価値観で、もう一部は停滞した安定社会を前提とした価値観です。
しかし、これからは、そういう時代ではありません。
新しい時代は、すべての人に創造性が求められる時代です。
新しい時代の教育の目標は、簡単に言えば、ゴールが大学に入ることではなく、社会に出て社長になることと思えばいいのです
大学の中退者が多いという問題の対策も、中退者を減らすことではなく、大学の先のゴールを作ることこそが本当の対策です。
ところで、自分の好きなことをして社会に出て活躍するというのは、ユーチューバーになったり、タレントになったり、スポーツ選手になったりすることではありません。
それは、今の社会の既成の枠に乗って勝者を目指すだけの生き方です。
他人につけられる順位は、一時的にしか自分の生きる目標になりません。
社会に出てさまざまな生活をしたり仕事をしたりする中で、その経験を通して感じた矛盾を自分らしく解決することが創造性のある新しい仕事の出発点です。
だから、学生時代は、さまざまな本を読み、さまざまな経験をし、自分を高めていくことが目標で、そのさまざまな経験の中に勉強することも入っているということです。
勉強は、いい学校に入るための手段ではなく、自分を向上させるための手段なのです。
私は、言葉の森で勉強する子供たちを、将来どんな大学に入るかということで見ていません。
子供たちがそれぞれ、将来、どんな社長になるかということで見ています。
今、成績がいい子も、成績が悪い子も、それぞれ個性を生かして、自分の得意分野で社会のリーダーになっていけばいいのです。
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ただ、環境を選ぶことは学友や学校生活の質、という意味もありますし、そもそも仕事ができる人って一様に相当タフなので、フォームの決まった受験勉強くらいはこなせているのがボトムラインという気もします。
匿名さん、確かにそのとおりです。
そのボトムラインがゴールになってはならないのです。
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