ハナカタバミ
ものとの付き合い方
あああさ
現代技術を特徴づけるのは豊富な工業製品の氾濫であろう。このような技術の持つ問題が、最近しばしば話題になる。とすれば、自然資源を有用な人工物に変換することによって豊かさを達成するという、あたかも自明と考えてきた命題は、多くの矛盾をはらむようになってきたと言わざるを得ない。技術による豊かな社会の実現という視点においては、製品所有は必然的なものではない。製品を所有するかレンタルするかの選択は、現代技術が持つ問題に本質的に影響を与えていく重要な視点である。私は、物の所有にとらわれない生き方をしていきたい。
そのための方法としては、第一に、物を所有するという行為が最大の価値であると考えないことである。私の友人に、あるアーティストの方を熱心に応援している人がいる。彼女は、その界隈に蔓延するある意識に疑問を持っているそうだ。それは、「グッズを買わなければファンではない」という意識らしい。その友人はまだ学生で、お金を稼ぐことが不可能である。また、彼女はあまりグッズに執着しない人間である。そのため、グッズにかける費用は熟考の上で最小限に抑えているということだった。しかし、あまりにも高頻度で先ほどの言葉を耳にしたり、SNSでグッズを大量購入したことを自慢げに投稿している人を見たりするため、我慢ならず腹が立っているという。確かに、グッズを購入することで売り上げに貢献できたり、一体感が感じられたりといったメリットはあるだろう。応援の気持ちがわかりやすく可視化されるため、満足感を得ることも可能だ。しかし、グッズが原因でファンの間に格差意識が生まれていることは確かに問題である。応援の仕方は人によって様々であり、グッズを購入することが全てではないだろう。CDや雑誌ならば購入以外にも、レンタルという手段もある。それが自分にとって本当に必要なものであるか、購入理由が明確で一貫性があるかよく考えることが大切である。
第二に、レンタルを習慣化することだ。私は幼い頃から読書が趣味であり、読書量も人一倍であった。しかし家の面積は限られている。欲しい本をその都度購入していては、いつか家が本で溢れかえってしまう。そのため私は、まずは図書館で本を借り、その中でお気に入りと認定した本のみ母に購入を頼むようになった。現在でも私は変わらずに読書家であるが、その習慣のおかげで私の家が本に埋め尽くされる事態は未だに発生していない。現物を購入することに慣れている人からしたら、レンタルに簡単に乗り換えることは困難であろう。しかし、レンタルは今後を十分に考慮した賢い選択であるため、進んで取り入れていくことが大切である。
確かに、レンタルが可能なものには限りがある。しかし、『限られた人生で、大事なことは、「何をするか」ではなく「何をしないか」である。』という言葉もあるように、私はものの所有のみにこだわらず、レンタルを上手に活用して日々を過ごしていきたいと思う。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。森リン(103) 子供たちの作文(59)
お茶の木
愛が一番
あおそふ
日本では小さい子供と話をするときは大抵、敬語では喋らずに赤ちゃん言葉などで会話をする。海外では、言葉は変えずに声のトーンを高くして話しているように感じられる。どちらも、子供の目線にたっての喋り方だが日本語の方がはるかに発展しているように思われる。
日本人のように子供の目線に合わせた子育ては良い
小さい子供に対して、赤ちゃん言葉を話すことは我が国にとっては今日まで普通にされてきたことである。赤ちゃん言葉は犬は[いぬ]とはいわず「わんわん」など擬態語や擬声語で物事の特徴をとらえて構成されていると私は考察している。日本語は難しいことに聞き手によってその言葉の感じ方は多種多様である。例えば友達を遊びに誘ったときに「ごめん、無理」と返答されたとしよう。用事があって遊べないんだと解釈する人もいれば、相手は私のことが嫌いで断ったと解釈する人もいる。そのような誤解から不安を感じさせないためにも小さい子には赤ちゃん言葉が必要なのである。母と私でデパートに行ったとき、四歳児ぐらいとみられる女の子が泣いていた。母とはぐれたのだろうと一瞬で察知できた。そのときはもちろん赤ちゃん言葉まではいかないが優しい口調で話かけた。安心させるためである。もし、大人とかわす喋り方でしゃべりかけていたとしたら、女の子の不安の解消には繋がらなかっただろう。子育ても同様である。特に自分の意志を泣くことでしか表せない赤ちゃんには子供の目線になることがより大切である。
一方で、フランス人のように大人と対等な子育てをするのも良い。
子供の目線に合わせた子育てをしていると依存心の強い子になることが多いように見受けられる。
自分で物事を判断する能力が衰えてしまうというリスクがどうしても生じてくることがあり得る。その要因の一つは戦後、日本人の依存心が高くなっていることである。「少年H」という本を読んで感じたことだが、親や教師は子供に対して殴ったり、叩いたり、廊下でけじめをつけていたと思う。怒る時はおこる、可愛がるときはかわいがるということだ。赤ちゃん言葉も話していた。だが、虫が教室に入ってきたぐらいで騒いだりしなかった。神経は太かったはずだ。最近では、子供強く怒ると将来に悪影響を与えると考える専門家もいるらしく、子供のお尻をたたくなどは虐待に分類されることもあるらしい。悪意をもって子供を叱ることはそれこそ虐待だが、過保護すぎるのも事実である。今の日本の教育は双方のバランスを考えず、子供がまるでご主人様のような扱いだが、子育てには愛する我が子にも強く叱るときも大切である。
確かに日本人のように子供の目線に合わせた子育やフランス人のように大人と対等な子育てもそれぞれが全ての過程において大切である。しかし、一番大切なのは我が子に愛を注ぐことだ。子供は様々なことによくも悪くも影響をうけやすい時期である。影響をよくするのには親の愛は欠かせない。私が産まれてから十三年という長さは長く感じるが、両親にとっては一瞬である。「一期一会」という諺があるとおりその一瞬、一瞬を大切に子育てをしてほしいと全国のお父さんお母さんに思う。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
中2の課題は、複数の意見と総合化の主題です。
複数の意見は、すぐに考えつきますが、その両者の意見を超えるもう一歩上の次元のまとめを考えることが難しい。
「Aという目的もわかる、Bという目的もわかる、しかし、大事なのは目的ではなく、それを実現するための方法Cである」というかたちがひとつ。
もうひとつは、
「Aという方法もよい、Bという方法もよい、しかし、大事なのは方法ではなく、それを何のために行うのかという目的Cである」。
いろいろな組み合わせが考えられるが、要するに、論議の場面の一歩上の次元に行くことが大事という考え方の練習。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子供たちの作文(59) 森リン(103)
●言葉の森のオンライン講座の冬の無料体験学習ができます――すでに体験学習の経験のある方も対象。ただし11~12月限定。
言葉の森のオンライン学習の無料体験学習ができます。
すでに、体験学習を受けたことのある方も対象です。ただし、今回の「冬の体験学習」の期間は11月~12月とさせていただきます。
なお、1か月内に体験学習のできる講座は2講座までとさせていただきます。
言葉の森のオンラインクラスの学習は、生徒どうしの対話と交流があり、先生による個別指導のある対面式のオンライン学習です。
クラスの定員がありますので、冬の体験学習のご希望はお早めにご連絡ください。
●冬の体験学習に参加された方に、暗唱の勉強に役立つ小冊子(全40ページ)と暗唱文集をプレゼント。
11月~12月の冬の無料体験学習に参加された方に、暗唱の勉強に役立つ小冊子(全40ページ)と暗唱文集を差し上げます。
暗唱の学習は、現在、基礎学力で月に1回行っていますが、暗唱文集の中にある説明を読めば、ご家庭でも暗唱の練習を始めることができます。
暗唱力は、語彙力、記憶力、読解力、表現力の基礎であり、学年が上がっても、暗唱力を生かして勉強を能率よく進めることができるようになります。
●言葉の森は、今後 X(Twitter) での情報発信に力を入れます。
言葉の森(中根)は、今後、X(Twitter)での情報発信に力を入れ、日常的に役に立つ情報を発信します。コメントなども自由に受け付けます。
X(Twitter)をごらんになる方は、ぜひフォローをお願いします。
https://twitter.com/kotomori
●X(Twitter)で、自在研究会のコミュニティを立ち上げました。
https://twitter.com/i/communities/1719984843189293246
コミュニティ情報
「塩谷信男さんの「自在力」の方法論を参考に、呼吸と想念の力によって目標を実現します。話題の幅を広げるために、月刊「致知」を参考テキストにします。」
X(Twitter)のアカウントがあれば、どなたでも参加できます。
参加退出は自由です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森のビジョン(51)
庭に来たヤマバト
●動画:https://youtu.be/AHrDWnqypcU
小学校低学年の方で、「国語力をつけたい」と、国語読解クラスを希望される方がいますが、低学年は、国語読解の勉強をする前にすべきことがたくさんあります。
その一つが読書です。
国語読解クラスで勉強する必要があるのは、読解問題が難しくなる小学校高学年から中学生、高校生にかけてです。
高校生になると、国語読解力は、読解の解き方のコツを理解するだけで大きく変わります。
それは、高校生では、それなりに読む力がついてくるので、あとは解き方のコツが国語力の差になるからです。
しかし、高校生でも、読む力には大きな差があります。
ある程度難しい説明文を読みこなす力がなければ、解き方のコツを理解するだけでは、途中までしか国語の成績は上がりません。
小学校低学年の話に戻ると、まず、字の多い本を読むことが大切です。
オンラインクラスの低学年の読書紹介でも、よく絵本や学習まんがを紹介する子がいます。
絵本や学習まんがは、それなりに面白いものですから、娯楽として読むのはいいのです。
まんがや図鑑や雑誌や子供新聞も、もちろん娯楽として読むのはいいのです。
しかし、それは、読書の中には入らないと決めておくことです。
読書をしていると、読んでいて止まらなくなる本に出合うことがあります。
それが、読書のいちばんの魅力です。
また、同じ本や同じ作者の本を何冊も読むというのも、読書の魅力です。
そういう読み方をする子は、必ず読む力がついてきます。
これと反対の読み方が、読書をひとつのノルマとして薬を飲むように読む読み方です。
世の中には、「小学2年生で読む名作」のような本があります。
読書好きなお母さんやお父さんは、まず、こういう本は子供にすすめないと思います。
名作のあらすじを知ることと、その中身に感動することは、全く別のことだからです。
どういう本を読んだらいいかという資料は、言葉の森の読書記録にあります。
読書記録の学年のところをクリックすると、その学年の子供たちが読んでいる本がずらり並びます。
例えば、小2の子が読んでいる本は、こういう感じです。(11/2現在588件)
https://www.mori7.com/teraon/ds.php?gakunenn=%E5%B0%8F2
ここに表れている読書のレベルの差は、今のその子の成績の差ではなく、その子が小学6年生や中学生になったときの成績の差になります。
しかし、中学生になって本を読まなくなれば、やがて高校生になってその子の成績は下がります。
成績のために本を読むのでありませんが、成績という言葉がわかりやすいので使っています。
本当は、説明文の本を読むことによって、考える力がつくのです。
考える力があれば、数学の難問も、解法を読んで理解することができます。
読む力がないと、解法が理解できません。
だから、読書力は、頭をよくする力でもあるのです。
私は、小学生時代は、勉強よりも読書だと思っています。
本を読む力さえあれば、勉強はやる気になればすぐにできるようになります。
そして、何よりも、本を読む力は社会に出てから生きていく力にもつながるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
たまに、国語力と読書力は関係ないと言う人がいますが、そういう人は、ちゃんとした本を読んでいないのだと思います。
しっかりした説明文の本を読めば、国語力は必ず上がります。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95) 小学校低学年(79)
ホトトギス
●動画:https://youtu.be/G8Ja1xtn31E
中1のみさとさんの作文は、構成の見本のような文章です。(ただし、複数の理由ではなく、複数の実例になっていましたが。)
お母さんに聞いた話のレベルが高いです。
小学校高学年以上の生徒の保護者の方は、子供に似た話を聞かれた場合、子供の考え方のプラスになるような体験談や感想を話してください。
調べた話は、その場で調べると時間がかかって大変ですが、この作文の神仏習合の例のように、中学生以上の人は、できるだけ身近な体験実例を離れた、より大きな社会実例を探していきましょう。
第四段落の意見感想の部分を長く書けるのは、考える力があるからです。
森リン点の思考語彙は、この感想部分の長さによって決まります。
そのためには、日常生活の中で、親子で話をすること、説明文の本を読むことが大切です。
作文は、単に書く技術ではなく、それまでの知識や経験が総合された勉強です。
作文の力をつけるためには、豊富な体験、親子の対話、説明文の読書が必要です。
タイトルと最後のひとことの「カレーうどん」が、笑えます。
私たちの個性~カレーうどん~
みさと
日本人と呼ばれる私たちに求められている進化はなんだろうか。これまで私たちの祖先は、沢山の様々な文明を開花させてきた。現在世界で多く活躍している割合が高い欧米の方は、進化の過程の中で世界の中心に立ち始めた人たちを祖先に持っている方だ。ついこの間、G7サミットが広島で行われた。ここで驚くべき内容は、日本がG7、主要7か国に入っているという事だ。戦争後の高度経済成長期があったとはいえ、元から日本人の感性が素晴らしいものであり、戦争という悲劇から終結したみんなの力によってここまで成長できたのだと考える。昔から紛争が起こり、たくさんの命が重なっているこの地で生きる私たち1人1人には大きな課題が課されている。
島国の日本からすると、他の地からくるものは珍しい。例えば会社などのロゴをかっこよくしたいと思ったら、英語の崩し字?のようなものをよく使う。外来語をいれるとなんだかかっこよくなるように感じるものだ。これは憧れもあるのだろうか。
母にこの題材についてのインタビューをしてみた。すると、「単に憧れだけで外来語を使っているわけではないのでは?」と言った。昔の話になるが、平安時代などでは、公的な文章は中国語、つまりは漢文だった。日本独自の文字、かな文字は、女性の使う言葉だとされ、親しい人との会話などの、内向きな用途に使うという風になっていた。最近の若い世代の言葉も、「伝わればいい」という意識のもと、変化に抵抗がないのではという意見である。逆に言えば、だから英語が苦手な人が多いのでは?ということなのである。それはすなわち、コミュニケーションを大事にしているということでもあるのだ。
先ほどの続きになるが、日本人というのは、チャレンジ精神が知らぬ間に身についているという風にも言えるだろう。強要されなくても、まず取り入れてみる、という日本人特有のアイデンティティ、つまりは柔軟さがあるだろうということだ。そして「みんなそうだろう」と思っているから、外国の人が「それは文化盗用だ!」と言ったときに、盗用されたと言われている張本人でも「え、そうなん?」と思ってしまう。
それは、日本の宗教、神仏習合にも言えることである。神仏習合は、日本のアニミズムの考え方から生まれた神道と、中国から来た仏教が混ざった、これこそ日本特有の宗教である。実際は風土に合わせたら変わったというだけなのだが、あくまで神道だけではなく、「神仏習合」になったのだ。年末には除夜の鐘をうちに寺へ行き、正月には神社に行って手をあわせる。
みんな大好きカレーうどんもそうだ。カレーという外国の文化と、うどん・出汁という日本の文化を合わせて、オリジナルの文化を創り出した。私たち日本人は、知らず知らずのうちにそのような意識が芽生えているのではないだろうか。
このように、日本という国に住む私たちは、これまで先祖たちが作ってきてくれた文化・文明、そして気付かないうちに身につく「意識」を続けていくべきである。それが、自分なりに消化してから、物事を取り入れることなのである。文化という大きな観点で見ると、風土に合うように変化を重ねているということ。これは、それぞれの国・地域の文化すべてに応用されることだが、それをたくさん応用しているのが日本人だ。島国に生まれ、島国に育つ。島の外の世界から入ってくるものは、もちろん数えきれないほどたくさんある。また、島の外の世界に憧れを持っているのも事実だ。完全にまねするのではなく、身内で一番「伝わる」ことを意識する。その分「海外進出」の可能性は低くなるかもしれないが、私たちには素晴らしい感性があるではないか。これは私たちの個性だ。カレーうどん。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子供たちの作文(59) 森リン(103)
センリョウ
プレゼントを工夫する喜びが伝わってくる作文です。
実例の豊富な作文は、小学校時代にしか書けません。
これからも、楽しい作文を書いていってください。
結びのプレゼントについての感想は、高学年らしく書けています。
「人にとってプレゼントは、あげる人も、もらう人も、わくわくさせるものだ。あげる人にとっては、何をあげようかなと考える時間がわくわくするし、もらう人は、包みを開ける時、わくわくする。」
こういう大きい感想を書けるのが、小学校高学年の作文力です。
人をワクワクさせるプレゼント
あかさほ
私があげたプレゼントのリボンをほどこうとしている。私は、よろこんでくれるかなと胸がどきどきする。早く中を見てほしいけれど、どんな反応をするか、不安でもある。
毎年クリスマスには、祖父母やいとこと集まってパーティーをする。それぞれにプレゼントの交換をするが、手作りのものやちょっとしたものを贈ることになっている。一、二か月前くらいから、だれに何をあげたら良いかな、これが良いかな、と考えて、ワクワクする。この前会って話したことを思い出したり、電話で聞いたりして、相手が喜びそうなものを一生懸命に考える。良いアイディアが浮かぶと、とてもわくわくする。私が去年、いとこの二人にもらったのは、好きなキャラクターのねこのししゅうが入ったランチョンマットだ。手作りのランチョンマットに、同じとしのいとこの柊君が下絵を描いて、そのお姉ちゃんの風優ちゃんがししゅうをしてくれたそうだ。祖母からは、毛糸で編んだ、十センチメートルくらいの、私に似ている小さな女の子のお人形をもらった。かわいいお洋服やくつ、ぼうしまで着ていた。本体の人形はもちろん、お洋服まで全て手作りだったそうだ。私が柊君にあげたのは、自分の部屋のドアノブにかけておく、名前の入ったドアプレートだ。本体はフェルトでできていて、アイロンビーズで彼の好きなマインクラフトというゲームの剣などのアイテムを作った。それを、母が縫い付けて、名前をししゅうした。柊君が、
「これ、すごく良いね。」
と、予想以上に喜んでくれて、びっくりしたくらいだった。柊君は、同じ十一歳だけれど好きな、ものや遊びがちがうので、プレゼントを選ぶのに家族の中でも一番苦労する。マインクラフトというゲームが好きなことは分かっても、そのゲームのキャラクターが好きかは分からない。そう考えると、そのキャラクターのグッズをあげて喜んでくれるか、心配になる。それに、あげようとしているものに似たなグッズをすでに持っているかも知れない。このように、次々と問題点が出てくるので、プレゼント選びが難しいのだ。祖父母には、私がデザインした似顔絵をししゅうした布のお守りをあげた。とても喜んでくれて、祖父はすぐにかばんにつけて、祖母はいつも見られるように冷蔵庫につるしている。本当に喜んでくれると、時間をかけてプレゼントを考え、作ったり、選んだりして良かったと思う。それに、プレゼントの包みが開くまで、喜んでくれるかドキドキするから、とても安心する。完成品ではない手作りのものをもらっても、味があるし、心がこもっている感じでとても嬉しく感じる。それに、手作りだからこそ、相手が一生懸命に作ってくれたのかなと、想像するから、より嬉しさが増す。風優ちゃんの大好物なので、祖父母は誕生日のプレゼントに2キロのもち米をプレゼントしていた。(笑)この時みたいに、家族だからこそ渡せる、嬉しいプレゼントがあるから、家族でのプレゼント交換は楽しいなと感じた。
今年の六月の後半に、日光に修学旅行へ行った。お小遣いを持って行って、お土産を買っても良いことになっていた。父と母、祖父母にお土産を買って帰りたかった。好きなものなら喜んでくれると考えた。父はチョコレートが好きなので、おいしそうだった小さいチョコレートケーキを選んだ。母は、甘いものならなんでも好きなので、自分も好きなチーズケーキにした。祖父母はあんこが好きなので和菓子を買いたかった。でも、ぴったりとしたものがなかった。だから、母と同じチーズケーキにした。父と母、祖父母にお土産をわたしたら、とても喜んでくれた。自分も、だれかにプレゼントをもらったかのように、心が躍るみたいだった。仲良しのりんちゃんは、お父さんとお母さんにおはし、弟にりゅうが刀をもったかっこいいキーホルダーを選んでいた。みんなうれしそうに楽しそうに、お土産を選んでいた。みんなにとってもお土産やプレゼントを選ぶことは、楽しい、わくわくするものなのだろう。
人にとってプレゼントは、あげる人も、もらう人も、わくわくさせるものだ。あげる人にとっては、何をあげようかなと考える時間がわくわくするし、もらう人は、包みを開ける時、わくわくする。
今年のクリスマスには何を贈ろうかなと、楽しみにしている。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
小6のころは、お父さんやお母さんへの取材も自然にできるので、題材の豊富な作文が書ける。
しかし、中学生になると、ほとんどの子は突然親子の話をしなくなる(笑)。
もったいないけど、仕方ない。
せめて、小6のときに、たっぷり題材の豊富な作文を書こう。
中学生になると、それまで小学生のうちは、お父さんやお母さんにいろいろ面白い体験談を取材していた子が、急に親子の話をしなくなることがあります。
しかし、そういう場合でも、お父さんやお母さんは、子供の作文の課題の長文を読んで、似た話の準備をしていいてください。
大事なことは、さりげなくお父さんお母さん自身の生身の体験談を話してあげることです。
それが、作文の中に生かされなくても問題ありません。
親が子に、人生や社会についての微妙な話をしてあげる時間があることが大切なのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。森リン(103) 子供たちの作文(59)
セイタカアワダチソウ
●動画:https://youtu.be/rJDVy54I40c
不登校の問題は、個人差があるので、一般論として論じることが難しい面があります。
ただ、私自身(森川林)も学校に行きたくなかったことはあるので、自分の体験をもとにしながら、どのように対処していったらいいのかということを話したいと思います。
小学校4、5、6年生のころのことです。
私は、普通の小学生で、周りに悪い子はたくさんいましたが、それで、何か問題があったということではありません。
当時は、学校に行くのが当然という社会でしたし、私のうちは、真面目な家庭でしたから、学校に行かないという選択肢は思いつきもしませんでした。
いじめっ子も何人かいましたが、それは戦うということで対応していたので、特に問題はありませんでした。
学校に行きたくない日は、よくありました。
しかし、当時同じクラスに、なおこちゃんというかわいい女の子がいたので、その子に会うために自分は学校に行くのだと言い聞かせて、学校に通っていた記憶があります。
学校の何が嫌だったかというと、硬い椅子に座って人の話をじっと聞いている時間が何時間もあるというのが、苦痛だったのです。
だから、テストのときはほっとしました。
テストは、自分が主体的に行動できる時間だったからです。
つまり、学校が退屈だったのは、受け身でいる時間が長く、しかもそれが強制されているというところだったのだと思います。
ひるがえって考えてみると、言葉の森のオンライン少人数クラスの子供たちは、みんなよく喋ります。
クラスの定員が5人以内なので、誰もが十分に発表の機会があるからです。
しかし、学校では、まずそういうことはありません。
自分の言いたいことを授業中に突然発言したら、先生から注意されるのが普通です。
主体的に行動できないことが、退屈の最大の原因です。
だから、学校が退屈なのは、学校システムの問題なのです。
言葉の森のように、オンラインで全国の子供が5人以内で同じ教科を学ぶという教育をすれば、全員が主体的に参加できる授業になるので、学校の退屈さはなくなります。
小学生時代の勉強は、いつでも取り戻せます。
また、友達関係もいつでも作ることができます。
ただ大事なのは、読書については取り戻すことが難しいので、学校に行かない間でも家庭で読書機会を作っておく必要があるということです。
今は、YouTubeなどなどで時間を取られやすくなっているので、小学校低中学年のうちは、インターネットは禁止、小学校高学年からは、本人の自覚を促し、ネットの時間をコントロールしながら読書の時間を確保するのが大事になると思います。
さらに重要なことは、学校に行かない状態であっても、きちんとした生活だけは維持するということです。
例えば、朝決まった時間に起きるとか、朝のうちに決まった仕事をするとか、朝の決まった時間に勉強を始めるとかいう生活習慣です。
この朝のスタートが1日の雰囲気を決めるので、朝の時間帯をどのように過ごすかということが大事になります。
その場合、言葉の森のオンラインの午前中のクラスは、朝のスタートを始める。きっかけになると思います。
午前中の時間帯は、まだ希望者が少ないので、クラス数は限られていますが、希望する生徒がいれば、平日の朝7時、8時、9時ぐらいの時間はすぐに担当できます。
生活のルールを維持することと、読書の時間を確保するということが、学校に行かない子供の一番の対策で、そのための方法を家庭で確立していく必要があります。
現在の不登校の生徒の増加具合を見ると、いずれ学校教育の行き詰まりが、明らかになってきます。
そして、オンラインの少人数クラスによる教育が広がって行くと思います。
それまでは、家庭で、生活のルールと読書習慣を維持することを中心に子供を育てていくといいと思います。
▽参考記事
不登校過去最多「日本の教育」はすでに崩壊していると言える訳 大人の同調圧力が子どもを追い詰めている
https://news.yahoo.co.jp/articles/9adf36a88043b3baa7bb7a3672b0aae0c0c3997d
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
不登校の根本原因は、学校の授業が退屈なこと。
だから、授業が退屈でない仕組みを作ればいい。
生徒一人ひとりが主体的に参加できる教育をすることが大事で、それはもうすでにできている。
まさに今朝小学生5年生の息子が学校をさぼり、理由をきくと、学校めんどくさい。10分で済む説明を30分するから面倒。つまらない。と言っていました。
まみまさん、ありがとうございます。
つまらないときは、ノーとか教科書に落書きを書いているといいと思います。
私は、ずっとそうしていました。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。不登校(0)
キンモクセイ
●動画:https://youtu.be/fcoU-5tgbf0
昔、言葉の森が通学教室をやっていたころ、子供たちの中に、「書くことがない」とか「書けない」とか言う子がたまにいました。
そういう子に共通するのは、本を読んでいないことでした。
ちょうど、お腹がすいているので、動く力が出ないという関係に似ています。
逆に、本を読んでいる子は、自然に書きたいことが次々と出てきます。
作文の上手な子に共通するのは、読んでいる本のリズム感が作文に出てくるということでした。
熱中して、本を読んでいると、その本の文体が、子供の書く作文の中に自然に出てくるのです。だから、書きやすくなります。
しかし、現在、人気のある本は、ビジュアルが優先されているのか、文章が少なくなっています。
文章は付け足しで、図や絵を見せるような形になっている本が増えています。
そういう本ばかりを読んでいると、知識はつくけれども、文章は書けないというようになってきます。
文章が書けなくても、日常生活は十分にやっていけます。
話をするだけなら、作文は書けなくても、誰でも同じように達者に話をすることができます。
しかし、話だけはうまくできるが、書く力がないということでは、リーダーの役を果たすことはできません。
みんなに説得力のある話をしたり、新しい提案をしたりするというのは、書く力がないとできないからです。
書く力とは、考える力と考えをまとめる力だからです。
これからは、みんながリーダーになる時代です。
だから、誰もが文章を読めるし、書けるという力を持つことが大切なのです。
従来の作文の指導法は、赤ペン添削が中心でした。
赤ペン添削というのは、対症療法的な勉強の教え方です。
大事なことは、根本原因から作文力をつけることであって、書いたあとの作文の誤字を直すことではありません。
では、なぜ対症療法の赤ペン添削が作文指導の中心になったかというと、それは、これまでの作文指導には、事前指導という方法がなかったからです。
事前指導を行うためには、子供の事前の準備、親の事前の協力、項目指導という方法、少人数クラス、個別指導の時間というものが必要です。
ところが、通常の学校教育や通信教育では、子供たちに一斉に作文を書かせて、あとで先生が一人ひとりに赤ペン添削をするという方法しか取れません。
だから、赤ペン添削は、先生が大変なわりに、それで力をつける子がほとんどいなかったのです。
これからの作文指導で最も大切なのは、読む力をつけることです。
作文を直すのではなくて、読む力をつけることによって、作文を自然に上手にしていくという指導法が求められています。
言葉の森では、毎週、子供たちに読書記録をつけるようにしています。
https://www.mori7.com/teraon/ds.php
(10/25現在5323件)
読書記録によって、子供たちの本を読む習慣がつくばかりでなく、互いにレベルの高い本を読むようになっています。
この読書記録をさらに充実させていきたいと思っています。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
作文の勉強というと、赤ペン添削というのが普通でした。
しかし、それは、対症療法です。
大事なことは、根本原因を見ることです。
作文の根本は、読書です。
読む力をつけることが、作文力をつけるいちばんの要因なのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文の書き方(108) 読書(95)