あるお母さんから相談がありました(生徒の保護者ではありません)。
子供に何かを言っても、その子が話を聞いていないようだというのです。学校でも、先生がみんなに言ったことを、その子一人だけ聞いていないようだと言います。しかし、こういうことはだれでも多かれ少なかれ経験のあることです。それほど大した問題ではないと思います。
しかし、見方を変えてみると、話がすぐに理解できないという問題の根は実は深いところにあるのではないかと思いました。
教室で、生徒に一斉に同じような説明することがあります。みんな、先生の目を見て熱心に聞いています。しかし、話が終わるとしばらくして、「それで、何をやるんですか」と聞く子がたまにいます。その子にだけ再度同じ説明して、初めてわかるというような分かり方なのです。
一度だけではわからない、何度か説明するとわかるというのは、最初に聞いた言葉が頭に入っていないということです。
その理由は、注意力が足りないからというようなことではなく、長い文が頭に入りにくいからなのです。
子供たちに課題の長文の説明をしているとき、中学生や高校生に対する説明は、かなり難しくなることがあります。すると先生が、その子のすぐ隣で説明をしているのに、それを聞きながらこっくりと居眠りをしてしまう子がいます。先生の説明が難しく長いので、聞いているうちに眠くなってしまうのです。しかし、そういうときでも、理解力のある子はずっと最後まで興味深く聞いています。
学校でも30人ないし40人の生徒に先生が同じように説明して、何人かは先生の話が一度では理解できないという子がいるはずです。だれでも小学生のころは、先生の話をぼんやりとしか聞いていないことがよくありますから、先生の話を聞き忘れたということはそれほど大きな問題ではありません。
しかし、これがいつも続くとなると、例えば中学受験のテストで設問の意味が読み取れないというような問題につながります。さらに、社会人になれば、社会や周囲の情勢の変化が読み取れないということにもつながってきます。
理解力の根本にあるのは、長い複雑な文を読む力です。現在の社会では、子供たちは短い言葉の多い環境に取り囲まれています。短い言葉とは例えば、「面白い」「つまらない」「ドガーン」「バギューン」「ウグググ」などという言葉です。この短い言葉にビジュアルなアニメが組み合わされた環境に長くいると、脳が長い文を読まないことに慣れてしまうのです。
では、長い文を読む力はどこからつくのかというと、それはまず親子の対話の中からだと思います。子供にとって、両親は自分の生きる命綱のようなものです。子供は、親のしていることを真剣に真似しながら育ちます。特に小学校2、3年生は、自分の生き方のモデルを作る時期ですから、身近な両親や年上の人に自分のモデルを見出そうとします。この時期に親が子供との対話で長い文を話していれば、子供も自然にそういう文を理解する力をつけていきます。逆に、「ドガーン」「バギューン」などというテレビ番組をモデルにして育てば、長い文を理解する力は育ちません。この差は、実はかなり大きいのです。
一般に、学力の差がつくのは、小学5年生あたりからと思われていますが、実は小学2年生ごろから既に、長い文を理解できる子と理解できない子の差が生まれています。この差は生活の中でついた差なので、その後ますます大きく開いていきます。学校や塾には、家庭の生活の中でついた差を埋める力はありません。
そこで、長い文を理解する力をつけるために、家庭での対話と読書が大切になってきます。対話といっても、子供と深い関わりを持ちにくい多忙な父親の場合は、「勉強しているか」「うん」「ちゃんとやれよ」「わかった」というようなものになりがちです。子供の日常生活をよく知らないので、対話を深めるきっかけが見つからないのです。
ここで、言葉の森の作文課題や長文を生かすことができます。父親があらかじめ長文を読んでおき、日曜日などの時間のあるときに、その長文に追加する話をしたり、作文の課題について父親の子供のころの似た例を話したりできるのです。
子供を伸ばす家庭学習とは、問題集をやるような勉強ではなく、親と子が楽しく対話をするような生活です。
そのためには、家庭で普段から10分間の長文暗唱の自習をしておき、日曜日に父親の前で300字の長文暗唱をしてみせるようにするといいでしょう。このような形で話をしていけば、対話は自然に知的になり、長い文で話し合う環境ができます。親子の会話がはずむ家庭であれば、テレビなどは必要ありません。子供が友達との会話をするときにテレビの話題は多少は必要になることもあるでしょうが、それ以外ほとんどの番組は、見なければ見ないで済みます。それよりも、家族の対話の方がずっと魅力あるものになるからです。
作文の勉強は、書く力をつける意味ももちろんありますが、それ以上に、家庭学習の要にできるという利点があります。
さて、親が子に話すときに大事なことは、その対話の中で、子供を、笑わない、からかわない、けなさない、ということです。親が自分の自慢をするのはいいのですが、その自慢の延長で子供を馬鹿にしないということです。「お父さんのときは、こんなことをしたんだよ。それに比べて今の子供は……」というような話をしそうになったら、「今は今で別のいいところがあるけど……」と方向転換をするといいでしょう。また逆に、子供を褒めるときにも注意することがあります。それは、ほかの子をけなす形で褒めないということです。
学校や塾で行う勉強は、知識中心の表面的な勉強です。本当の知性の土台は、家庭の中で親子の対話のある生活を通して作られていくのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
小学校高学年の生徒から、作文をもっと上手に書くにはどうしたらいいのですか、という質問がファクスで送られてきました。一緒に送られてきた作文を見ると、それなりに上手に書けています。しかし、もっと上手にするにはどうしたらいいのかということをその子に話しました。
今日は、多くの皆さんに関心のある「上手な作文を書くにはどうしたらいいか」ということについて説明したいと思います。
まず、上手な作文と一口に言いますが、実は、上手な作文の定義ははっきりしていません。しかし、上手な作文と感じられるものは実際にあります。それをどのように考えていたらいいのでしょうか。
その定義に入る前に、まず、文章書くということの社会的、歴史的な意義を説明したいと思います。
文章の役割というものは、書き手と読み手の関係によって四つの歴史的な段階があります。
┃受け手
┃多┃少
━━━━╋━╋━
与え手多┃3┃4
━╋━╋━
少┃2┃1
書き手も少なく読み手も少なかった時代には、役に立つ文章ということが文章を書くことの意義でした。
しかし、歴史的には、「役に立つ文章」以前の時代もありました。書き手も読み手も、ともにきわめて少なかった時代です。例えば、ギリシア時代では、プラトンはあまり本を読まなかったそうです。読むに値するような本そのものが少なかったからでしょう。プラトンの師であるソクラテスは、もっぱら弁証法という対話によって思索を深めました。ソクラテスが木の陰でじっと立って何事かを考えているというような光景がよく見られたそうです。当時は、文章を書くということがあまり一般的ではなかったので、考えを深めるためには、他人とディスカッションをするという方法が中心だったのです。
ところがその後、ペンや紙が発明され文章を書く手段が普及することによって、弁証法による対話の代わりに、文章を書くことによる自己との対話が可能になりました。つまり、書くということの本質は、最初は自己との対話だったのです。
しかし、その後、読み手が増え、更に書き手が増え、更に書き手がもっと増えるというような歴史の発展の中で、次第に書く意義が変化してきました。それぞれの時代に対応する文章の意義は、読み手が少ない=役に立つ、読み手が多い=わかりやすい、読み手がもっと多い=面白い、書き手の方が読み手よりも多い=その人らしい、となります。しかし、もともとの文章を書く本質は、自己との対話だったということです。
この文章の社会的意義と、上手な文章を書くということとは、別の次元の価値になっています。
例えば、悪文だが役に立つ文章、悪文だが面白い文章、悪文だがその人らしい文章、というものがあります。これと似た例として、悪筆だがその人らしい文字というようなものがあるのと同様です。
上手な文章を書くことよりも、むしろ役に立つ、面白い、その人らしい文章を書くことの方が、文章の本質的な価値になります。しかし、これらの本質的な価値は、文章が上手に書けるという自分なりの自信がないと表に出しにくいのです。よく、話をすると面白いが、書いた文章を見るとあまり面白くないという人がいます。シンデレラの本質は、美しい心でしたが、シンデレラは衣装がなければ舞踏会に行くことができませんでした。つまり、価値ある内容を表に出しやすくするために、上手な文章を書くという意義があるのです。
ここで、上手に書くことの大切さに話がつながりました。
しかし、スポーツなどにおいて、試合の勝敗とそのチームの実力との間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があるように、文章の上手さについても、上手さと実力の間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があります。
文章を書く実力は大きく分けると、字数力、語彙力、思考力、実例力などになります。このうちの字数力というものは表面的な実力のように見えますが、実は意外と重要で、その生徒の実力がどのくらいあるかということは、どのくらいの字数が楽に書けるかということと関連しています。字数には、書くことに対する慣れと豊富な話題が必要です。一方、語彙力、思考力、実例力は、広い意味での考える力です。この、文章を書きなれていることと、考える力のあることが、文章の実力を支える要因になっています。
さて、このあたりから、受験にも使える上手な作文の書き方になっていきます。以下の内容は、簡単にエッセンスだけ書いていますが、本当はかなり密度の濃い話です。
文章の上手さというものを言葉の森では四つに分けて考えています。
それは、構成、題材、表現、主題という四つの分類です。これらのほかに、表記というものもありますが、これは、書き方を間違えていない、あるいは読みにくくないということですので、上手さの要因というよりも、文章を書く上での前提のようなものです。
さて、第一は構成です。構成は文章全体の流れです。説明文や意見文の場合は、わかりやすい流れということになりますが、事実中心の文章では、伏線のようなものも構成に入ります。読んでいる途中で伏線が発見されると快感を感じるという心理が人間にはあります。「あそこでこうだったから、ここでこうなったのだ」ということが自分なりわかると、発見の喜びがあるのです。これは、説明文でも同じで、書き出しの文章と途中のキーワードと結びの文章が対応していると、読み手はその文章に居心地のよさを感じます。
第二位は題材です。この題材の面白さは、個性、挑戦、感動、共感、ユーモアなどと分けて考えることができます。コンクールに入選する作文には、この題材のよさが欠かせません。しかし、題材は実力よりも、どちらかと言えば偶然に左右されるものです。この点から見ても、実力と上手さは必ずしも一致しないということがわかります。
第三は表現です。この表現という分野が、文章の上手さという点で最も微妙な説明を要するところです。人間は、いい表現に出合うと、気持ちのよさを感じます。それは例えば詩的な文書に対して感じる快感と同じようなものです。言葉の森では、光る表現ということで、名言を自分で作ったりことわざを加工したりするという指導をしています。この光る表現が入ると、それだけで、文章の印象が何割か上手になります。
表現の分野では、もう一つ、もっと大事で微妙なことがあります。それは、多様な語彙が使われているということです。これは文章自動採点ソフトの森リンでかなりの程度正確に評価することができます。上手でない文章は、全体に単調な語彙しか使われていません。この語彙の単調さは、読書経験の少なさと結びついています。本をたくさん読んでいる子は、作文に使える語彙が自然に豊富になります。読んで理解できる語彙と、書くときに使える語彙は、その量がかなり違います。書く語彙は、読む語彙よりもずっと少ないのが普通です。
言葉の森では、小学校5年生から常体で書くという練習をしていますが、これは、小学校の5年生あたりから、教科書に載っている文章で常体の割合の方が多くなるからです。一般に、敬体の文章よりも常体の文章の方が、説明的な文章であったり、大人向けの文章であったりすることが多い傾向があります。子供たちの作文を見て、最初から何も指示しないのに常体で書いてくるという子は、それだけで難しい本をよく読んでいて語彙が豊富だということがわかります。小学校低中学年で既に常体で書くような子は、一般にかなり本好きな子です。ところが、普通は、大学生になっても、常体ではなく敬体で書く人の方がずっと多いのです。
第四が主題です。主題とは、読み手にとって価値ある意見や立場が書いてあるるかどうかということです。文章に書かれている意見に読み手が共感すると、その文章が上手に感じられます。逆にいうと、自分の考え方や感じ方と相反する文章は、上手には感じられません。説明文や意見文では、主題はその文章の立場や意見などになりますが、事実文では、主題はその文章の背後にあるトーンのようなものになります。上手に書いてあるが何か暗いものがあるという文章と、同じ上手さで何か明るいものが感じられるという文章とでは、普通は、自然に明るさが感じられる文章の方が上手に感じられるということです。
さて、ここまで説明すると、作文を上手に書くコツがわかったと思います。それは、言葉の森で勉強することはもちろんですが、その土台として、たくさんの本を読み、たくさんの挑戦的な経験をしていくということです。
そして、その上手さを土台にして、真に価値ある文章を書くことを作文の勉強の目的にしていってください。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)