貝原益軒の教育論は私たちがこれから考える教育の基本になりますが、しかし現代にはまた現代の情勢に合わせて加味するものがあるはずです。それを考えてみます。
大前研一氏は、IT教育や投資教育や語学教育が、これからの教育には必要だと述べています。
しかし、IT教育は、表面的な教育です。むしろ、日本語文字コードのShift_JIS、EUC−JP、UTF−8の並存状態を統一するような工夫をすれば、子供たちは遊びの中でITの世界を自然にマスターしていくはずです。
日本のIT界のいちばんの問題は、文字コードの混乱のために最初の敷居が高くなりすぎ、小中学生が気軽にITの世界に入れないところにあります。
投資教育は、経営学や人生論の一部として行うものであって、投資の世界だけを取り出して教育するほどの重要性はありません。
外国語教育は、確かにこれからの時代の教育に必要な要素です。しかし、今の英語教育のようなやり方ではなく、もっと楽に取り組めるような方法を開発する必要があるように思います。
日本人は、これまで、中国語を漢文として受け入れる文化を作ってきました。この伝統を英語教育にも生かせると思います。
国際化が進む現代社会では、日本人の教育だけではなく在日外国人または移民の教育も重要になってきます。その要になるのは、やはり
外国人にもすぐに取り組めるような日本語教育のノウハウです。
このノウハウができれば、日本は世界に輸出するような日本の教育方法を作ることができます。
また、教育そのものではありませんが、現代の社会では、様々な教育を阻む誘惑があります。その誘惑への防波堤を社会的に作っていくことも、教育の支えになります。
例えばゲーム、テレビ、マスメディアなどは、日常的に接する時間をコントロールする必要があります。
子供たちが、人間どうしの接触のほうがずっと魅力があるということに気がつけば、ゲームやテレビのようなバーチャル的な誘惑はほどほどに楽しむ程度のものになります。
現代の社会では、少子化が進み、同年齢や異年齢の子供たちが直接に接する機会が減っています。子供たちが互いに協力するような機会を作ることも、これからの教育の重要な要素です。
今はスポーツチームなどがその同年齢や異年齢の子供たちの交流の場になっていますが、スポーツチームに参加すると、勝敗にこだわりすぎる傾向がどうしても出てきます。
子供たちが、スポーツもできる、自然とも接することができる、互いに協力もできるという、昔の青年団や少年団のような集まりがこれからの社会には必要になってきます。
これらを実現するための具体的なイメージは、地域の学習塾+αのような形です。「+α」の部分は、しつけ、道徳、礼儀、そして、友達どうしの協力や交流、さらに自然の中での経験や、社会に対する実践や行動という要素です。
歴史の風雪に耐えた貝原益軒の伝統的な教育論を土台に、現代の社会のニーズに対応した新しい教育を作ることが求められているのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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小4の5月の読解問題で質問がありました。
問4
本文は、「おひげのあるさかなでもたべさせてはどうかな。……とうさんヒョウは、ジャングルの川へとんでいきました。めざすのは、もちろん大ナマズ。」となっています。(……は略の部分)
Bの選択肢は、「とうさんヒョウは、ペポネにナマズを食べさせようとした」で○です。
質問は、「本文には『大ナマズ』と書いてあるので、選択肢の『ナマズ』は×ではないか」ということでした。
本文が「大ナマズ」で選択肢が「小ナマズ」だったら×です。また、本文が「ナマズ」で選択肢が「大ナマズ」だったら×です。
しかし、
大ナマズという概念は、ナマズという概念よりも小さいので、本文が大ナマズで選択肢がナマズの場合は○です。
例えば、正方形と長方形は小さい概念で、四角形は大きい概念ですから、本文に「正方形がありました」となっていて、選択肢に「四角形はありましたか」となっていれば○です。
問5
本文は、「ぼくが自分の部屋で模型飛行機の修理をしているとき……お父さんが指さす先には、……ハトが……うずくまっていた。」となっています。(……は略の部分)
Bの選択肢は、「ぼくは、飛行機を作りかけのまま、窓からハトを見た」で○です。
質問は、「『模型飛行機』は『飛行機』とは違うし、『修理する』は『作る』とは違うから×ではないか」ということでした。
これは微妙なところですが、これも、
「模型飛行機」は「飛行機」という大きい概念の一部と考えて○です。選択肢が「本物の飛行機」となっていたら×ですが、ここは文脈で本物の飛行機ということにはならないからです。
また、「修理する」は「作る」の一部と考えて○としました。「作る」には、「こしらえる」「くみたてる」という意味があるので、本文中にある「水平尾翼を接着している」ことを「作る」と見なしたのです。
しかし、
「作る」には「新たに作り出す」というニュアンスもあるので、質問された方の言うように、「修理する」と「作る」は違うと考えることもできます。
そこで、この問5のBの選択肢は×を選んだ人も正解としました。
国語の読解問題は、このように微妙なところがあります。
これからも、疑問に思われる点がありましたら、ぜひご意見ご質問をお寄せくださるようお願いします。
なお、毎月第4週の読解問題は、小3以上はかなり難度の高い問題になっています。
高校生の問題は、センター試験の現代文の問題と同じぐらいの難しさの問題ということで作成しています。
つまり、本気で解けば満点も可能だが、普通に解くと6割ぐらいという難しさです。
小中学生のみなさんは、点数が低くてもがっかりせずに、正解の理由を考えて力をつけていってください。
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入選清書のページで、下記の生徒の清書が正しく表示されていませんでしたので訂正しました。<(_ _)>(以下、生徒コードで)
○小5……ひろみ、おたら
○中1……おへふ、かまむ、きえか、えふわ
○中2……おきに、かきな
○中3……くはゆ
○高2……おくく
○高3……みずき、あにい
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教育論というと、日本では「エミール」が有名ですが、著者のルソーは実際の教育の経験があったわけではありません。ルソーは、自分の人生経験から、こういう育てられ方をされたくないアンチテーゼとして「エミール」を書きました。だから、これは、教育論というよりも一つの文学です。その文学から実際的な教育の指針を引き出そうとすると、かえって人間の自然に反する面も出てきます。
それに対して、
貝原益軒は、八十歳代というそれまでの長い人生経験の中で十分に咀嚼された実践的な教育論を著しました。それが「和俗童子訓」です。益軒の教育論の根本にある人間観は、自身の経験や多くの見聞に裏付けられたもので、人間の成長の本質を的確にとらえています。
時代は異なりますが、シュタイナーも、人間の本質をとらえた優れた教育論を展開しました。しかし、シュタイナー教育は、手間がかかりすぎる面があります。
益軒の教育論は、誰でもどこでも容易に実践できる教育方法を提案しているという点で、理論的な面だけでなく、政策的な面でも優れた教育論になっています。
この貝原益軒の教育論が、江戸時代から明治時代にかけての日本人の学力の土台を形成しました。当時の日本は、世界でも最高水準の安定した社会と充実した教育を達成していました。
明治時代をリードした勝海舟や福沢諭吉などの青年たちは、西洋から流入した新しい学問を率先して学び取りました。しかし、これらの人々の教養の根底にあったのは、それまでの日本の教育でした。
オランダ語や英語や西洋の学問が明治時代を切り開いたのではなく、日本人のそれまでの蓄積された教養が西洋の学問を使うことを通して新しい時代を切り開いていったのです。
貝原益軒の著書でもうひとつ有名なのが「養生訓」です。この書物は、益軒が84歳のときに、やはりそれまでの長い人生経験の中から、古来の医学の知識を集大成する形で著したものです。この著書も、「和俗童子訓」と同じように、時の試練に耐えたバランスのとれた健康論を提示しています。
「和俗童子訓」は、益軒が晩年になってから著した書物とはいっても、決して昔からあるものをただまとめただけの内容ではありません。当時としては、論議を呼ぶようなさまざまな先鋭的な内容も含んでいました。
例えば、「学を本にして芸を末にする」というような考え方です。当時は、文化が成熟して芸能に対する理解が広まっていた時代です。そのような時代でも
社会の風潮に流されるもことなく、芸術よりもまず学問に専念することがすべての人にとって大切だという原則を明確に主張しました。
また、大家(たいか・豊かな家、尊い家柄)の子であっても、算数を学ぶ必要があるということも述べました。
なぜ算数を学ぶ必要があるかというと、社会の運営には、金銭や数量など数字をコントロールする能力が必要だからだというのです。当時、武士が金銭に関心を持つのは卑しいことだという考えがありました。益軒は、単に道徳論を述べるだけではなく、実際の社会生活を行うために必要な学力は何かということを考えていたのです。
益軒の「和俗童子訓」は、「養生訓」と同じような人間観に立脚しています。その人間観ないし人生観は一言でいうと、「あらかじめ手を打つ」という考え方です。健康法も、病気になってから治すための健康法ではなく、あらかじめ病気にならないように工夫する健康法でした。教育法も、
悪いところができてからそれを直すための教育法ではなく、初めからよくなるような教育をするための教育法でした。
この考え方は、作文指導にもあてはめることができます。子供たちの作文を見ると、低学年では特に、文章に多くの欠点が見られます。しかし、この欠点を直す指導は、実はあまりいい指導ではありません。優れた指導とは、欠点をもともと作らないような指導です。例えば、
低学年のころから、よい文章をたくさん読ませて自然に正しい書き方を身につけさせるというのが一流の指導です。読む勉強をあまりさせないまま、ただ作文を書かせて間違いを指摘して直すというのは、実は二流の指導なのです。
話は変わりますが、これは犬のトイレのしつけとも似ています。失敗を叱って直すのは二流のしつけです。成功だけするような形にして、その成功を褒めて定着させるのが一流のしつけなのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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公立中高一貫校が人気です。この理由は、私立に比べて経済的に楽だということもあります。
しかし、それ以上に、公立中高一貫校が本気でいい教育をしようと考えていることを、多くの人が感じているからではないでしょうか。それは、それぞれの県のトップ高や準トップ高が公立の中高一貫校になっていることにも表れています。また、問題を見ても、よく考えられた良問が多く、いい生徒を集めたいという気合が感じられます。
更に、これまでの私立中学受験で無理な勉強を小学校のうちからすることへの反省も、公立中高一貫校の人気を支えているのではないかと思います。
人間の成長の自然な姿は、小さいころはたっぷり遊び、成長するにつれて勉強するという形です。小学校時代はよく遊び、中学高校大学になるにつれて学問に目覚めていくというのが、本来の成長の姿です。
そのような成長の仕方をした子の方が、将来活躍します。小学校時代から単調な勉強に縛られているようでは、これからは、人間の幅が狭くなります。小さいころは、読書や趣味や家族との対話によって幅広い人間力の土台を作っていくことが大事なのです。
言葉の森では、公立中高一貫校の入試に向けて、作文試験の受験コースを開設しています。これは入試の五ヶ月前から毎週一回の割合で過去問に合わせた作文課題を書く練習をしていくコースです。
しかし、五ヶ月では実は、実力はあまり変わりません。
その生徒が持っている今の実力のままで最もよい作文を書けるように練習していくというのが受験コースの目標です。そして、この目標で、毎年多くの生徒が受験に合格しています。
言葉の森での作文の勉強は、通常次のような形で進みます。
まず、生徒が入会したあと、すぐに上手に書けるようになります。来てすぐに上手になるというのが、言葉の森の指導の一つの特徴です。
しかしそのあと、進歩はなだらかな曲線に入ります。このなだらかな進歩の期間も、先生が見る目からはその子は上達していますが、本人にとってはあまり上達しているように見えない時期です。
けれども、一年間ぐらいたつと、本人自身が自分でもうまくなったということを実感してきます。
上手になったことが確実に実感できるのに、一年間かかります。
ただし、これは、熱心に取り組んだ生徒の場合です。熱心というのはどういうことかというと、課題を事前に見て、書くこと自分なりに準備してくることです。それは、書く材料を考えてくることもありますし、家族に似た例を取材してくることもあります。また、暗唱、音読、読書などもそれなりにやっていることが必要です。つまり、熱心といっても、普通に真面目にやっていればいいのです。
しかし、一年間で、自覚できるぐらい上達したとはいっても、根本にある思考力の差はなかなか埋まりません。上手な子と普通の子の実力が短期間で逆転するようなことは、なかなかないのです。
そこで、
作文の勉強は小学校から低学年からスタートした方がいいということになります。
小学校1、2年生から始めると、まず暗唱などの自習の習慣がつきます。そして、1、2年生から始めた習い事は、長続きすることが多いのです。日本の昔からの言い伝えで、
六歳の六ヶ月目ごろから始めた習い事は長く続くといわれています。(六歳の六月六日とも言われています)
低学年のころは、勉強の中身よりも、勉強をスタートすることに意味があります。なぜかというと、その時期にスタートすると、それがその後の生活の習慣になるからです。
生活習慣は、子供だけではなく親も変わります。言葉の森の勉強で生活習慣のどこが変わるかというと、まず子供に毎日の勉強の習慣がつきます。一方、親は、勉強のことでやたらに怒らなくなり、家族の対話を大事にするようになります。
この親子の生活習慣の変化が、実は公立中高一貫校の学力の土台になっているのです。
毎日の積み重ねで育った学力があれば、たとえ受験をしなくても、その後の勉強のしっかりした基礎ができたことになります。
基礎のできた子は、やる気になったときにいつでも力を伸ばすことができます。
低学年の勉強は、一言で言えば、愛情と日本語です。
それ以外の勉強や習い事は、すべておまけのようなものだと考えていくとよいでしょう。いろいろな習い事や勉強をするのは子供の可能性を広げるという点でいいことですが、最優先するのは日本語をしっかり使えるようになることと、愛情のある子供に育てることです。
この「愛情と日本語」を具体的な勉強の形で表すと、作文の勉強を通した毎日の自習と親子の対話ということになるのです。
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読解力とは何でしょうか。よく使われる言葉ですが、意味が漠然としています。
文章を読んで理解することは誰でもできます。しかし、なぜその理解力に差があるのでしょうか。その差は、一つには理解の速さです。もう一つは、理解の深さです。
これらの差が、鋭く表面に出てくるのは主に国語のテストにおいてです。読解力が焦点になるのは、日常生活ではなく、国語のテストの中でなのです。
日常生活の中では、読む力があるかないかということは、あまり表面に出てきません。生活の中では、間違って読み取ったことでも、あとで修正できます。また、問題自体易しいものが多いのが通常の生活です。難しい問題に直面したときでも、わからないときはよくわかる人に聞くことができます。また、多くの場合、自分の専門にだけ詳しければ、大体のことは間に合います。
つまり、読解力はなくても、知識でカバーしたり経験でカバーしたりできるというのが日常の生活です。
ですから、生活の中での学力とは、読解力がそのまま出てくるのではなく、柔軟性とか、他人との協調性とか、持続力などが、その人の総合的な学力として表れてきます。しかし、国語のテストでは、柔軟性や他人との協調性や持続力などは評価に含まれません。そこで、読解力のエッセンスが国語のテストにおいて焦点になってくるのです。
国語のテストということを、入試問題で考えてみます。というのは国語のテストの中には易しい問題もあり、そういうテストでは日本語が普通に理解できればできてしまうものも多いからです。
入試問題は、差をつけるためのテストですから、敢えて何割かができないような問題として作られています。
難関中学の受験で多いのが、長い文を読ませる形の問題です。これは、読解力を主に速さの面から評価するテストです。一回読んだだけですぐに頭に入るというような読み方のできる子が、読解力の速度のある子です。そして、この速さは、主にそれまでの読書量に比例しています。
難関大学の入試で多いのが、難しい文章を読ませる形の問題です。高校の入試は、中学と大学のちょうど中間にあり、長い文を読ませる面と難しい文章読ませる面の両方が重なっています。
難しい文章読ませるということについては、二つの難しい文章が考えられます。一つは、見た目の難しい文章、つまり読みにくい文章、いわゆる悪文といわれるものです。もう一つは、本当の難しい文章です。入試問題では多くの場合、見た目の難しい文章と本当に難しい文章が混ざり合った形で問題が出されます。
では、本当に難しい文章とはどういう文章なのでしょうか。それは、一言で言えば、発見や創造のある文章です。
つまり、これまでの読書生活あるいは実生活の中で、接したことのないような新しいものの見方や考え方をその場で理解する力が難しい文章を読み取る力なのです。
ここで、私の個人的な例を挙げます。学生のころ、サルトルの「存在と無」を読みました。哲学のジャンルの本を読んだのはそのサルトルが初めてだったので、中に書かれている用語がなかなか理解できませんでした。「即自存在」「対自存在」「即自かつ対自存在」という概念を理解するのに、図をかいたり別の言葉で言い換えたりしてやっと何とか頭に入りました。その後、この概念がヘーゲルから出ていることを知り、ヘーゲルの「精神現象学」や「大論理学」を読みましたが、このときも新しい概念が次々と出てきてかなり苦労しました。
同じように、さまざまなジャンルの古典と呼ばれる本を読んでいくと、古典というものに共通する本質がだんだんわかってきました。古典とは、その時代にそれまでになかった新しい発見や創造を提案した本だったのです。
これらの本を読んでいくうちに、新しい概念が出てくる難しい文章もだんだん早く読み取れるようになってきました。そして、読解力というものは、決して学校時代の国語のテストで評価されるだけでなく、生涯進歩していくものだということが実感できたのです。
本の中には、単に知識が増えるだけの本と、発見のある本とがあります。また発見のある本の中にも、小さな発見のある本と、大きな発見のある本とがあります。
入試問題で出されるのは、大なり小なり発見のある文章なので、ここで難しい文章、つまり新しい概念を読み取る力があるかないかが問われてきます。
では、難しい文章を読み取るための勉強はどのようにしたらいいのでしょうか。実は入試問題は、そういう文章の宝庫なのです。
問題集に載っている問題文を読むと、それぞれの問題文が小さな発見のある文章であることが多いので、読む力のある子は読んでいて面白さを感じるようです。
高校生が、言葉の森で勉強していて、高校3年生になると急に文章力がついてくるというケースがよくあります。これはなぜかというと、受験勉強で現代文の難しい文章を読むようになるので、難しい文章を読む力がついてきて語彙力と思考力が深まるからです。
難読力をつけるには、入試問題の問題文を読んで理解するということが最も手軽で最も本質的な勉強法です。そして、文章の中で理解できないところがあれば、先生に聞きます。これは必ずしも国語の先生でなくてもいいのです。読解力のある大人であれば、難しい文章をやさしく解説することができます。
この勉強法は、数学や英語の勉強法と同じです。数学や英語でも、わからない問題やわからない文を、問題の解法や文の構造から理解し直すことが学力になります。
国語の入試問題は、読解力を評価することが大きな目的になっていますが、その読解力の評価にも、二つの形があります。
一つは、記述型の問題で評価される読解力です。もう一つは選択式の問題で評価される読解力です。
実はその文章を本当に読む力があるかどうかは、記述型の問題でなければ把握できません。選択式の問題は、選択のテクニックも必要になります。逆にいうと、読む力が低くても、読むテクニックあればある程度正解が得られるというのが選択式の問題の特徴です。ところが採点が大変なので、記述型の問題よりも選択式の問題が多いのです。
国語の家庭学習というと、すぐに漢字の書き取りのようなことを連想する人がいますが、漢字力は、国語力のごく一部です。国語力の本質は読解力で、その読解力は、もって生まれたものではなく、学習によって身につくものです。
しかし、読解力の本質を知らないと、問題集を解くような勉強で読解力がつくと思ってしまいます。
ただ問題を解いて解説を聞くような勉強では、読解力はつきません。塾に行っても国語の成績が上がらないとよく言われるのは、塾では問題を解かせる形の勉強になりがちだからです。
では、音読や暗唱がいいかというと、音読や暗唱そのものの意義もありますが、それ以上に大事なのが、何を音読し暗唱するかということです。
昔からある有名な文章、例えば「平家物語」や「日本国憲法」を読めばいいというのではなく、発見や創造のある文章を読むところに読解力と思考力を深めるポイントがあります。昔からある有名な文章を読む意義は、文化に接するという文化的意義であって、読解力を高めるという教育的意義とは別のものだと分けて考える必要があります。
音読と黙読の違いは、音読の方が反復しやすく定着度を高めやすいが、黙読の方が早く楽にできるという点にあります。
問題集の問題文を毎日読む勉強をする場合、音読ではくたびれるので黙読でいいのですが、勉強の自覚がまだ不十分な年齢の間は、黙読では読み方が形骸化します。多少苦しくても、音読で読み続けた方が中身のある勉強になります。
要約という勉強法も国語の力をつけるためには有効ですが、要約をチェックする人がいないと勉強が進まないという欠点があります。
いい勉強法とは、教材や先生の制約がなく、本人の力で進めていけるものです。
要約よりも、文章を音読し暗唱し、その暗唱した文章を筆写するという勉強を基本にした方が勉強の能率が上がります。
また、要約も何を要約するかという要約の対象選びが最も重要です。
よく「天声人語」の要約ということが言われますが、「天声人語」では文章が内容的に易しすぎます。難読という点でものたりなさがあるのです。やはりいちばんいいのは、発見と創造のある入試問題の問題文です。
ただし、入試問題を作成する人自身も、読解力の本質を知らないことが多いので、ただ読みにくいだけの悪文を問題文としていることもあります。入試問題の文章ならどれでもいいのではなく、ある程度大人が文章を選択してあげる必要があります。
以上まとめて言うと、読解力には二種類あり、一つは速さの読解力、もう一つは深さの読解力です。
速さの読解力は多読によって身につくので、読書量を増やしていく必要があります。
深さの読解力は難読によって身につくので、入試問題集や難しい本を理解できるまで読むというような勉強が必要になります。
これらの本質を押さえた上で、読解力をつける勉強をしていってください。
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上手な作文の一つの重要な要素として、題材の値打ちというものがあります。
題材の値打ちということを、言葉の森では個性、挑戦、感動、共感、ユーモアに分けて考えています
帰国子女の入試では、課題のスタイルがどこでもかなり似ています。その課題は、海外での体験を通して学んだことを書くというものです。これは帰国子女の入試に限らず、志望理由などを書かせる課題でも似た傾向があります。
ここで、題材としての体験の値打ちということが出てきます。以下、題材の値打ちということを六つに分けて説明していきます。
第一は個性です。ある帰国子女の生徒は、海外での体験として、初めて海外の学校に行ったとき先生や友達が優しくしてくれてうれしかったと書きました。しかし、これは、自分の体験ではなく、優しくしてくれた先生や友達の体験です。自分らしさがあまり出ていないので、このような体験では文章が弱くなります。
個性というのは、自分の体験を書いていくということです。海外の学校で、自分が新しい友達を作るために何か工夫をしたというようなことが書いてある方がその子の個性が出てきます。
第二は挑戦です。カナダにホームステイに行ったとか、ハワイでイルカと泳いだとか、北海道で激流の川下りをしたとかいうような作文の題材は、値打ちがありそうな気がします。しかし、本人にとっては初めての挑戦であっても、だれかにつれられて行ったのであれば、あまり挑戦のある体験にはなりません。
挑戦というのは、敢えて自分が何かをしたということです。例えば、止められたのに行ったとか、みんなと違うところに行ったとかいうようなことが挑戦の体験になります。結果として人と違うことをしたということではなく、ささやかであっても動機として挑戦したという姿勢があればいいのです。
第三が感動です。これは、必ずしも自分自身の体験でなくても、感動の実例となることがあります。心の洗われるエピソードというのがそれです。自分が心から感動したということが書いてあると、その感動が読み手にも伝わります。
例えば、「盲導犬が電車の中でフンをしてしまった。犬も盲人も途方にくれていたところ、乗客の一人がさっと寄ってそのフンを片付けてくれが。私にはとてもできることではないので感動した」。こういう話が書いてあると、本人の体験ではありませんが、その感動は読み手にも伝わります
第四が共感です。共感というのは、人間なら誰でもしてしまうよくある失敗というようなことです。例えば、「電車の中で席を譲ろうとして何度か声をかけようとしたが、恥ずかしくてできなかった」というような例です。このようなことは、小中学生なら誰でも経験したことがあります。また大人でも、そういう子供時代の気持ちはよくわかります。このような例が書いてあると、そこに読み手が共感をします。
しかし、失敗した話や悲しかっただけの話は、文章が暗くなることもあります。共感の中にも前向きの考え方が盛り込まれている必要があります。
第五はユーモアです。しかしユーモアは、受験の場合には不要です。それに受験のときにユーモアのある実例を書こうという余裕はあまりありません。
第六は、本人の体験ではありませんが、ハロー効果というものです。ここで両親が登場します。
お父さんやお母さんの挑戦体験や感動体験が子供の作文中に書かれていると、読み手はそこにその子のよい面を感じ取ります。ひとつには、そういう家族の会話が成り立っていることに対する評価です。もう一つには、父母の生き方が子供の生き方にもつながっているだろうという漠然としたプラスの感覚です。
言葉の森では、作文の入試の準備として、毎週の課題を両親が読み、子供に似た例を話してあげることを勧めています。お父さんやお母さんが話した子供時代の似た例は、受験で使えることも使えないこともあります。しかし、これは子供の人生に必ず大きな影響を与えます。
私の母は昔、何かの折によく「天知る、地知る、人が知る」ということを言っていました。また、「人間はみんな、天照大神の子供なんだから」(それは違うだろ(笑))ということもよく言っていました。子供時代に親から聞いたことは、その後の人生のバックボーンになっていくような気がします。
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なぜコンクールの入選を目指すかというと、第一に、入選によって作文に自信がつくからです。
特に小学校の3、4年生のころはコンクールに入選したり褒められたりすると、それが一生のいい思い出につながります。
これに対して、小学校2年生以下では、コンクールなどに入選するということの価値がまだよくわかりません。また、小学校5年生以上では、恥ずかしさの方が先に立ち無邪気に喜べないようになってきます。しかしもちろん大きな賞であれば、恥ずかしさよりも喜びの方が大きくなります。
入選を目指す意味の第二は、力のある子は腕試しをする場を欲しているからです。作文や感想文を書く機会は、子供たちの日常ではあまり多くありません。文章を書くことが好きな子は、自分の書いた文章を発表する場を求めています。大人であれば、発表の場としてブログのようなものがありますが、子供にとってはいろいろなコンクールに応募することが発表の場になります。
作文でも感想文でも、大事なのものは、その文章の材料となる部分です。言葉の森では、この材料のことを題材や実例という言葉で呼んでいます。テーマに合ったぴったりの材料があれば、作文や感想文の八割はうまくいったと思っていいでしょう。では、その実例にどのようなものがよいかというと、それは、個性のある実例、挑戦の感じられる実例、感動のある実例、共感のある実例、などです。(これは、また別の機会に述べます)
ぴったりの実例があれば、次は、構成です。全体の流れを明確に指示しておくと、子供たちは楽に作文を書き出します。物事を構成的に考える力は、小学校5年生以降に徐々に育っていくものですから。小学校4年生のころまでは、親や先生がある程度の方向づけをしてあげる必要があります。方向づけをする指導の仕方で、どんな苦手な子でも言葉の森に来ると作文を書くことができるのです。
題材と構成のあとは、表現と主題です。しかし、入選する作文や感想文で、表現力はあまり重要ではありません。大事なことは、読みやすく書かれているか、無駄な重複がないかという程度です。そして更にその上に、切れ味のいい表現が一言入っていれば、作文の全体の印象は大きく向上します。
切れ味のいい表現とは、個性的なたとえや自分で作った名言のことです。名言とは、「○○はAでなくBである」というような形で書ける発見や創造のある見方や考え方です。この切れ味のいい表現は、作文感想文の全体の主題につながります。
このあたりの説明は、やや複雑に感じられるかもしれませんが、それは、この切れ味のいい表現というものが文章のセンスのようなものと幾分関係しているからです。
さて、コンクールの入選を目指すことは意味あることですが、入選するよりも大事なことは決して子供に無理をさせないということです。例えば、親や先生が子供にいい表現を教えてそれを書かせるような形で作文を書いた場合、その作文が評価されても子供は喜びません。
したがって、言葉の森では、コンクールに出す作文の添削を頼まれることがありますが、表現には一切手を加えません。
では、大人の役割は何かというと、それは四つあります。以下は、主に小学生ぐらいの子に対するアドバイスですが、基本的な考え方は、中学生や高校生にもあてはまります。
第一は、こういう流れで書いたらいいという構成の方向をアドバイスしてあげることです。全体の構成は、子供の力ではなかなかできないからです。構成がはっきりしていれば、子供は自分の力でその中身を書いていくことができます。
第二は、実例に対して協力してあげるということです。テーマに合わせた経験ができるように協力する、又は、その子の面白い経験を思い出させるように協力するということです。
第三は、不要なところを削るということです。作文の中には、書かなくてもいい無駄なところや、同じようなことが書かれている重複したところが必ずあります。それは、大人でも同じですが、本人にはなかなかわかりません。第三者が作文を見て、要らないと思われるところを削ってあげると密度の濃い文章になります。これは、大人の表現を押しつけることではないので、子供を傷つけることにはなりません。
第四に、いちばん大事なことは、もう少しいい表現をしてほしいというようなところに対するアドバイスです。これは、大人が、こういう書き方をしたらいいと答えを教えるのでありません。
言葉の森では、よく感想文コンクールに提出する作品のアドバイスを頼まれることがありますが、そのとき、もう一言いい表現がほしいという部分には、「ここはもう一工夫」と書いておきます。すると、必ず本人が自分の力でもっといい書き方をしていきます。もし本人がそれ以上いい書き方にできないとすれば、それはそれでいいという立場です。入選することも大事ですが、それ以上に大事なことは、子供が自分の力で入選することだからです。
以上、入選するような作文や感想文の書き方をまとめて言うと、書く前に全体の構成を指示してあげる、つまらない実例になっているところはもっと面白い実例を書くように注文する、無駄なところはカットしてあげる、切れ味のよさが求められところについては「もう一工夫」と言ってあげる、ということになります。
夏休みにはいろいろな作文コンクールがあります。言葉の森のホームページにある作文・感想文の書き方を参考に、皆さんもぜひコンクールに挑戦してください。
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ぼくもやってみたいです
やってみてねー。ヽ(`▽´)/
大きな賞を取りたいですね!
内閣総理大臣賞取った事ありますっ!
ゆんさん、すごいね!
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