数年前まで、ペットの犬を飼っていました。ゴールデンレトリバーという大型の犬でしたが15年も長生きしました。
その後しばらく、動物は、小鳥しか飼っていませんでした(と言っても、オカメインコと文鳥とウズラ)。ところが
今度、新たに犬を飼うことにしました。今度は、前よりもちょっと小さいミニチュアシュナウザーです。
そこで、犬のしつけを再確認するために、犬の飼い方の本を十冊近くまとめて読んで研究することにしました。
話は変わりますが、
新しいことを始めるときは、関連する本を十冊読むというのが勉強の基本です。高校生が大学入試に取り組むときも、本人にとって大学入試は初めての経験ですから、入試に関する情報の載っている本をとりあえず十冊は読むといいのです。
ところが、高校生の多くは、塾や予備校や友人などのクチコミの情報に頼りがちです。何かを始めるときは、まず書物を活用することで土台となる知識を作るということをもっと考えていく必要があります。そのためには、家庭で、子供が利用できるアマゾンの購入枠などを決めておくのもいいかもしれません。
さて、犬のしつけの本を読んでいて、十数年前とは、しつけの仕方が少し違っていることに気がつきました。それは、
犬がしてはいけないことをしたときも、叱らずにただ無視をする、例えば、背中を向ける、顔を見せない、という叱り方だけにとどめるという方法が主流になっているのです。
その一方で、褒めるときには、小さなお菓子をやるというような方法が併用されています。この、叱らずに無視するだけ、褒めるときにはお菓子をやる、というしつけを見て、何か違和感を感じました。
もちろんここには、叱ることの行き過ぎに対する反省があります。しごき事件などに見られるように、暴力というものは習慣化し、伝染する傾向があります。ですから、叱るときに、暴力や強制力をできるだけ使わないようにするというのは教育の大原則です。
しかし、「無視」と「お菓子」だけで、果たしていい子は育つのかということを考えました。
「無視」と「お菓子」を別の言葉で言えば、「否」と「是」のコントラストです。「叱る」と「褒める」も明確なコントラストですが、「叱る」よりも弱い「無視する」の場合は、コントラストをつけるために「たくさん褒める」=「お菓子を与える」になっているのではないかと思いました。
しかし、
お菓子で褒めるということを続けていると、結局、お菓子がなければしつけられないことになってしまいます。
犬と人間の理想的な関係は、信頼に基づく関係です。しつけも、えさとテクニックでしつけるのではなく、心の触れ合いの中でしつけることが大切です。お菓子は逆に、心の触れ合いを阻害するような気がしたのです。
イルカの調教も同じだと言われています。イルカは、えさやムチで訓練を受け入れるのではなく、調教師との人間関係に応えようとしてジャンプをしたり輪をくぐったりします。
レベルの高い生き物は、みんなそうなのでしょう。人間ももちろん、
えさをもらえたり、ムチが怖かったりするから行動するのではなく、相手の心意気に感じて行動します。特に、日本人はそうだと思います。そう考えると、日本における犬のしつけは、欧米のようにアメとムチによるしつけではなく、心の触れ合いによるしつけになるべきなのではないかと思いました。
これは、人間の教育にもあてはまります。
今、
教育の分野では、褒めて育てることが万能のように思われていますが、実は、褒めることは、叱ることとセットになって初めて効果があります。
現在、学校では、叱るということに対して大きな制約があります。先生が心をこめて叱るときは、つい手が出てしまうこともあります。しかし、形の上で体罰をしたかどうかだけが問われると、先生は心を込めずに叱るようにしなければなりません。もちろん、それでは、叱ったことになりません。
ですから、子供たちが、学校で心を込めて叱られない分を、家庭でカバーして、明確な褒め方叱り方を子供に伝えていく必要があります。というよりも、本来、家庭はしつけの場であり、学校は勉強の場なのですから、褒めたり叱ったりするのはもともと家庭の役割です。
以上、犬のしつけから考えを始めて、しつけの仕方の本質は、「褒める」と「叱る」のコントラストだと気づき、そのコントラストは、人間の子供の教育に対しても大切ではないかと思い至りました。
その家庭の褒め方叱り方で、大事なことは二つあるように思います。
第一は、
父が叱れば母がカバーする、母が叱れば父がカバーする、という関係です。一人で子育てをする場合は、叱ったあと必ず優しく褒めるということです。例えば、犬のしつけでも、吠えたらすぐ叱る、吠えるのをやめたらすぐ褒めるというコントラストが必要で、しかも最後は必ず褒めるで終わることが大事です。
よくないのは、父と母が一緒になって子供を叱ることです。又は、叱りっぱなしにすることです。
その点、父と母が一緒になって子供を褒めることや、褒めっぱなしにすることは、あまり弊害がありませんが、その場合でも、
褒めている一方で、褒めすぎになることを抑える働きかけが必要です。それは、叱るというよりも、謙虚さを教えるということです。
第二は、
叱るのは人間の道にはずれたときだけで、成績のことでは決して叱らないということです。成績がいいから褒める、成績が悪いから叱るというのは、子供のためを思った褒め方叱り方ではなく、親の単なる感情的な反応の仕方です。成績がよくていちばん嬉しいのは子供です。また、成績が悪くていちばん悔しいのも子供です。親が子供と同じ感情を共有するのはいいのですが、親は子供よりも一歩上の立場に立って、成績がいいときにも悪いときにもその中身を客観的に分析し、今後の方向をアドバイスするようにならなければなりません。
人間の道というのは、そんなに難しいことではありません。例えば、家庭において、子供が母親や祖父母などに対して悪い言葉遣いをしたような場合です。そういうときは、烈火のごとく叱らなければなりません。しかし、叱っておしまいではないのが家庭のいいところです。叱ったあと、子供が寝る前までの間にひとこと、「さっきはひどく叱ったけど、おまえが心からそんなことを思っているのではないことはよくわかっているよ。お休み」と優しく言ってあげればいいのです。学校ではこういうフォローはできません。
毎日寝起きをともにする家庭だからこそ、根本的に叱ったり褒めたりすることができるのです。
この叱ることが最も大事な年齢は、小学校5、6年生から中学1、2年生にかけてです。このころは、子供が悪いことを覚えてそれを試してみたくなる時期です。
周りにいる大人がこの時期にきちんと叱ることによって、子供の人生はバランスが取れたものになっていくのだと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
言葉の森の作文指導は、どの先生が教えても同じ水準が保てるということを目標としています。これは、インターネットを介して講師の評価や講評が互いに共有できるというところから可能になっています。そのため、急な休講などがあった場合も、他の先生がその生徒のこれまでの勉強の内容を見ながら、同じ流れで指導を行うことができます。
ところが、手書きの作文に直接入れる赤ペンは、生徒のもとにそのまま返却されてしまうので、講師の間での共有ができません。
あるとき、保護者の方から、先生によって赤ペンのつけ方に違いがあるという指摘を受けました。赤ペンの基準は、(1)誤字は、とりあえず必ず直しておく、(2)よいところや面白いところ中心に褒めていく、(3)コメントは、生徒に対する手紙のような形にとどめ、指導の内容とはしない、(4)指導は、講師どうしが共有できる「山のたより」の評価・講評を中心にする、ということにしています。ところが実際には、
赤ペンでたっぷりコメント書く先生と、あっさりとしかコメントを書かない先生の差が大きかったのです。
今回は、この赤ペン添削の理論と方法について考えてみたいと思います。
日本では、低学年の作文指導がよく行われています。こういう国は、世界的にはあまりありません。なぜかというと、日本語は、声に出した言葉がほぼそのまま文字の言葉になるからです。それに対して例えば、英語は、発音とスペルが一致しない言葉が多いので、低学年からの作文指導はできません。
低学年の作文指導は、日本の教育の大きな特徴になっています。
ところが、
この作文指導が、小学校高学年、中学生、高校生になるとあまり行われなくなります。その理由は、赤ペンの添削に時間がかかるからというのがたぶん最も大きな理由です
しかし、それでも赤ペンに効果があるのならいいのですが、実はそうでもないのです。
赤ペンの添削は、子供の作文の場合は特に、病気になったときの対症療法と似ている面があります。あちこちにできているニキビや吹き出物に次々と薬をつけているが、いつまでたっても新たに悪いところが出てくるので治らないという感じなのです。
子供の作文を上達させるということから考えると、この対症療法的な指導ではなく、もっと根本的な指導が大事だということは、多くの先生が漠然と感じています。
ところが、赤ペンがびっしりと書かれていると、何か充実した指導が行われているような感じを受けます。実際、先生が手間をかけるので充実していることは確かですが、それが指導の成果に結びついているかということになると、そうではないのです。
このため、学校などでも、先生は、自分の担当する30人から40人の生徒に対して、みんなにコメントを入れてあげたい、しかし、それでは、時間がかかりすぎて他の指導ができなくなる、というジレンマに置かれています。
かつて教育法制化運動の作文指導法の一つとして、提出された作文には、大きく花丸をつけて返す、というだけの教え方が提案されていたことがありました。これは、赤ペンを入れるのに手間がかかるから何もしないというよりも、ただの花丸だけでもいいので、子供たちに作文を書かせることが大事だという考えから来た指導法です。これは、一つの卓見です。
しかし、
花丸をつけて返すだけよりも、本当は森リンなどの自動採点ソフトによる評価をつけて返せば、もっと身のある指導ができます。生徒がパソコンで入力したものを、自動採点ソフトで評価して返すという形です。この方法はすでに、アメリカではいくつかの州の公立高校の単位で行われているので、やがて日本でも採用されるようになると思います。
さて、言葉の森以外の作文教室教室では、びっしりと書かれた赤ペン添削というものをセールスポイントにしているところもあります。赤ペンを入れるというのは、一見やりやすい指導のように見えますが、こういう形の指導を続けて1年も経つと、その子に何をどう教えて、その結果どうなったのかということがつかめなくなり、やがて継続した指導をすることができなくなっていきます。
言葉の森では、
作文に対する赤ペンは、指導にとっては付随的なもので、指導の中心は、あくまでも事前に与えられた課題と項目と構成に基づいたアドバイスだと考えています。
赤ペンによる添削を講師の側から考えると、多数の生徒の作文を読んで赤ペンを入れるというのは、実はかなり精神的に疲労する作業です。なぜかというと、短い文章を次々と読むというのは、長い文章をまとめて読むのとは違う難しさがあるからです。ちょうど、加速してすぐに停止する渋滞の道路で車を運転しているような感じの読み方というと感じがわかると思います。長いひとまとまりの文章を読むのに比べて、異なる短いテーマの文章を次々と読むのは、人間の感覚として自然な読み方ではないのです。
また、赤ペンの添削はどうしても直すところに意識が向きがちです。欠点を指摘して直すという見方でものを見ている状態は、これも実は読む人を疲労させます。ですから、言葉の森の赤ペン添削は、誤字をひととおりチェックして直したあとは、基本的に褒めることを中心に書くようにしています。
赤ペンに教育的な意義があるとすると、それは、子供がそれを見て喜ぶという効果です。赤ペンは、子供にとって、先生から個人的な手紙をもらったという感じのメッセージになるからです。
赤ペンは、勉強の指導というよりも、交流、共感、対話、コミュニケーションという意味を持つ手紙のような役割を持っています。
そこで考えたのが、指導と対話を分離することです。
言葉の森の指導は、数ヶ月の大きな方向を指し示して、その方向に沿って毎週小さなチェックを行うようなシステムになっています。
指導法の特徴の一つは項目指導で、もう一つは電話指導です。将来は、インターネットの活用による生徒どうしのコミュニケーションも指導の重要な要素になると思います。
電話で毎週先生が指導するという方法がとれるので、先生が生徒の作文に対して書く講評は、この電話指導のメモとして使う形になります。
講評というと、それ自体が指導と考えられがちですが、そういう要素はあまりありません。ですから、講評を生徒が読まなくても全く問題はありません。先生が電話を通して、その講評の内容を子供にわかるように伝える仕組みになっているからです。
このような特徴を生かしながら、
指導と対話を分離して実現していくという方法を現在考えています。
対話というのは、生徒と先生の人間的な触れ合いです。しかしこの触れ合いを赤ペンを通して行うのでは、指導と対話の境界がはっきりせず、赤ペンを書くのに負担がかかりすぎるようになります。
指導は、必要なことを簡潔に伝えることが大事ですが、対話は、たっぷり時間をかけること自体が重要になるからです。
教育で大事なことは、長続きする教育ですから、教える側にも負担がかからない、しかし教わる側には触れ合いがあるというような工夫をしていくことが必要になります。
シュタイナー教育は、人間の触れ合いを大事にしている優れた教育法ですが、教える側の手間がかかりすぎる面があります。それは、教師が教育のすべてを担うという専門性を持ちすぎているからです。手間がかかるということは、結局、世の中に普及させにくいということです。
昔の日本の子育ては、父親も母親も多忙な生活を送る中で、子供どうしの遊びや地域の行事や家庭の文化がそれぞれ高度な教育力を持っていました。子供は、日本の社会や文化の中で自然に多くのことを学び、親はそれをときどきチェックするというような関係だったのです。
これは、寺子屋のような教育機関でも同じです。先生がすべての生徒に対して専門性を発揮して面倒を見るのではなく、生徒どうしの関係や教育カリキュラムの流れが自然に教育力を発揮していたのです。
福沢諭吉の自伝に、そのあたりの事情が垣間見られるエピソードがあります。諭吉がオランダ語を学んでいたころの塾の様子は、(1)生徒が定期的に先生の前でオランダ語を訳す、(2)その出来具合によって勉強しやすい場所に自分の席を確保することができる、(3)上の生徒が下の生徒を教える、という仕組みになっていたようです。
今後の教育には、生徒どうしの交流と、家庭と講師との連係プレーによる親・子・講師三者の触れ合いという二つのことを考えていく必要があると思っています。
そのための具体策を今考えているところです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)