小学校高学年の子のお母さんから、本を読みすぎることについての質問がありました。
その子は、家でも学校でもいつでも本を読んでいるというのです。学校から帰ってきてもすぐに本を読み始めるそうです。
小学校時代は、勉強よりも読書優先の生活の方が力がつきますから、本が好きだということはよいことです。しかし、このように読みすぎるのは何か不自然な感じがします。そこで、お母さんも相談をしてきたのでしょう。
一般に、読書というものは、人生がうまくいっていないときにするという面があります。毎日の生活が幸せに満ちていれば、本を読む必要性はあまり感じません。
勝海舟も、自伝の中で、自分が初めて本格的に本を読んだのは蟄居(ちっきょ)の時代だったと述べています。
読書は、自分の人生に満足できないものがあり、求めるものがあるからするという面と、その裏返しとして、自分の今の人生から逃避したいからするという面があります。
そこで、その子は、学校生活で友達があまりいないために、その現実から逃がれることを読書に求めているのではないかと思いました。これは、いじめというほどのことではなく、友達と楽しく遊ぶ関係が作りにくいということです。
しかし、そういう子も、成長する中でやがて本当に仲のいい友達ができるはずですから、今友達がいるかいないかということあまり気にする必要はありません。
ただ、本人は心の中で友達と楽しく遊べないことを悩んでいるわけですから、家庭で、その子にとって楽しい人間関係を作ってあげることが大切です。
例えば、家族でどこかに遊びに出かける、家族で何かイベントを企画する、というようなことです。
現在の社会では、KYという言葉に見られるように、他人からどう思われているかということを気にする傾向があります。しかし、
他人の目にはあまりとらわれず、自分らしく生きていけば必ずその自分らしさに共鳴してくれる他人と出会うものだというふうに長い目で考えていけばいいのです。
ただし、友達の関係があまりない子は、やはり人間関係の技術がうまく身についていない面もあります。そこで、家族との遊びの中で、友達と遊ぶときのコツをお父さんやお母さんが先輩の立場から少しずつ教えてあげることです。
子供の問題で大事なことは、一緒にいる家族です。身近に見ている親がいちばんよく事情を把握していて、またいちばん根本的な決断ができます。
この子も、優しく心配してくれるお母さんがいるというだけで、もう問題はほぼ解決していると思いました。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
拝読して、「家の娘とまったく同じ!」と思いました。先生が書かれたアドバイス通りの運びとなり、今は読書好き、国語が得意の中3です。
つい先日のことです。
「あのころは話す友達がいなかったから本ばかり読んでいた」と母に打ち明けてくれました。もっとかかわってあげれば良かったと、少々反省しています。
彼女は今も毎日相当な量の読書をしていますが、中学では、やはり読書好きの親友ができ、毎日充実している様子です。
そうですね。
その時代は苦しかったと思いますが、それがその子の心の豊かさになっていったのだと思います。
若いときは友達がいるかいないかということが大きな問題となりますが、自分らしく生きていれば、自然にそういう友達と出会うようになるのでしょうね。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95) 質問と意見(39)
数年前まで、ペットの犬を飼っていました。ゴールデンレトリバーという大型の犬でしたが15年も長生きしました。
その後しばらく、動物は、小鳥しか飼っていませんでした(と言っても、オカメインコと文鳥とウズラ)。ところが
今度、新たに犬を飼うことにしました。今度は、前よりもちょっと小さいミニチュアシュナウザーです。
そこで、犬のしつけを再確認するために、犬の飼い方の本を十冊近くまとめて読んで研究することにしました。
話は変わりますが、
新しいことを始めるときは、関連する本を十冊読むというのが勉強の基本です。高校生が大学入試に取り組むときも、本人にとって大学入試は初めての経験ですから、入試に関する情報の載っている本をとりあえず十冊は読むといいのです。
ところが、高校生の多くは、塾や予備校や友人などのクチコミの情報に頼りがちです。何かを始めるときは、まず書物を活用することで土台となる知識を作るということをもっと考えていく必要があります。そのためには、家庭で、子供が利用できるアマゾンの購入枠などを決めておくのもいいかもしれません。
さて、犬のしつけの本を読んでいて、十数年前とは、しつけの仕方が少し違っていることに気がつきました。それは、
犬がしてはいけないことをしたときも、叱らずにただ無視をする、例えば、背中を向ける、顔を見せない、という叱り方だけにとどめるという方法が主流になっているのです。
その一方で、褒めるときには、小さなお菓子をやるというような方法が併用されています。この、叱らずに無視するだけ、褒めるときにはお菓子をやる、というしつけを見て、何か違和感を感じました。
もちろんここには、叱ることの行き過ぎに対する反省があります。しごき事件などに見られるように、暴力というものは習慣化し、伝染する傾向があります。ですから、叱るときに、暴力や強制力をできるだけ使わないようにするというのは教育の大原則です。
しかし、「無視」と「お菓子」だけで、果たしていい子は育つのかということを考えました。
「無視」と「お菓子」を別の言葉で言えば、「否」と「是」のコントラストです。「叱る」と「褒める」も明確なコントラストですが、「叱る」よりも弱い「無視する」の場合は、コントラストをつけるために「たくさん褒める」=「お菓子を与える」になっているのではないかと思いました。
しかし、
お菓子で褒めるということを続けていると、結局、お菓子がなければしつけられないことになってしまいます。
犬と人間の理想的な関係は、信頼に基づく関係です。しつけも、えさとテクニックでしつけるのではなく、心の触れ合いの中でしつけることが大切です。お菓子は逆に、心の触れ合いを阻害するような気がしたのです。
イルカの調教も同じだと言われています。イルカは、えさやムチで訓練を受け入れるのではなく、調教師との人間関係に応えようとしてジャンプをしたり輪をくぐったりします。
レベルの高い生き物は、みんなそうなのでしょう。人間ももちろん、
えさをもらえたり、ムチが怖かったりするから行動するのではなく、相手の心意気に感じて行動します。特に、日本人はそうだと思います。そう考えると、日本における犬のしつけは、欧米のようにアメとムチによるしつけではなく、心の触れ合いによるしつけになるべきなのではないかと思いました。
これは、人間の教育にもあてはまります。
今、
教育の分野では、褒めて育てることが万能のように思われていますが、実は、褒めることは、叱ることとセットになって初めて効果があります。
現在、学校では、叱るということに対して大きな制約があります。先生が心をこめて叱るときは、つい手が出てしまうこともあります。しかし、形の上で体罰をしたかどうかだけが問われると、先生は心を込めずに叱るようにしなければなりません。もちろん、それでは、叱ったことになりません。
ですから、子供たちが、学校で心を込めて叱られない分を、家庭でカバーして、明確な褒め方叱り方を子供に伝えていく必要があります。というよりも、本来、家庭はしつけの場であり、学校は勉強の場なのですから、褒めたり叱ったりするのはもともと家庭の役割です。
以上、犬のしつけから考えを始めて、しつけの仕方の本質は、「褒める」と「叱る」のコントラストだと気づき、そのコントラストは、人間の子供の教育に対しても大切ではないかと思い至りました。
その家庭の褒め方叱り方で、大事なことは二つあるように思います。
第一は、
父が叱れば母がカバーする、母が叱れば父がカバーする、という関係です。一人で子育てをする場合は、叱ったあと必ず優しく褒めるということです。例えば、犬のしつけでも、吠えたらすぐ叱る、吠えるのをやめたらすぐ褒めるというコントラストが必要で、しかも最後は必ず褒めるで終わることが大事です。
よくないのは、父と母が一緒になって子供を叱ることです。又は、叱りっぱなしにすることです。
その点、父と母が一緒になって子供を褒めることや、褒めっぱなしにすることは、あまり弊害がありませんが、その場合でも、
褒めている一方で、褒めすぎになることを抑える働きかけが必要です。それは、叱るというよりも、謙虚さを教えるということです。
第二は、
叱るのは人間の道にはずれたときだけで、成績のことでは決して叱らないということです。成績がいいから褒める、成績が悪いから叱るというのは、子供のためを思った褒め方叱り方ではなく、親の単なる感情的な反応の仕方です。成績がよくていちばん嬉しいのは子供です。また、成績が悪くていちばん悔しいのも子供です。親が子供と同じ感情を共有するのはいいのですが、親は子供よりも一歩上の立場に立って、成績がいいときにも悪いときにもその中身を客観的に分析し、今後の方向をアドバイスするようにならなければなりません。
人間の道というのは、そんなに難しいことではありません。例えば、家庭において、子供が母親や祖父母などに対して悪い言葉遣いをしたような場合です。そういうときは、烈火のごとく叱らなければなりません。しかし、叱っておしまいではないのが家庭のいいところです。叱ったあと、子供が寝る前までの間にひとこと、「さっきはひどく叱ったけど、おまえが心からそんなことを思っているのではないことはよくわかっているよ。お休み」と優しく言ってあげればいいのです。学校ではこういうフォローはできません。
毎日寝起きをともにする家庭だからこそ、根本的に叱ったり褒めたりすることができるのです。
この叱ることが最も大事な年齢は、小学校5、6年生から中学1、2年生にかけてです。このころは、子供が悪いことを覚えてそれを試してみたくなる時期です。
周りにいる大人がこの時期にきちんと叱ることによって、子供の人生はバランスが取れたものになっていくのだと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。家庭で教える作文(55)
言葉の森の作文指導は、どの先生が教えても同じ水準が保てるということを目標としています。これは、インターネットを介して講師の評価や講評が互いに共有できるというところから可能になっています。そのため、急な休講などがあった場合も、他の先生がその生徒のこれまでの勉強の内容を見ながら、同じ流れで指導を行うことができます。
ところが、手書きの作文に直接入れる赤ペンは、生徒のもとにそのまま返却されてしまうので、講師の間での共有ができません。
あるとき、保護者の方から、先生によって赤ペンのつけ方に違いがあるという指摘を受けました。赤ペンの基準は、(1)誤字は、とりあえず必ず直しておく、(2)よいところや面白いところ中心に褒めていく、(3)コメントは、生徒に対する手紙のような形にとどめ、指導の内容とはしない、(4)指導は、講師どうしが共有できる「山のたより」の評価・講評を中心にする、ということにしています。ところが実際には、
赤ペンでたっぷりコメント書く先生と、あっさりとしかコメントを書かない先生の差が大きかったのです。
今回は、この赤ペン添削の理論と方法について考えてみたいと思います。
日本では、低学年の作文指導がよく行われています。こういう国は、世界的にはあまりありません。なぜかというと、日本語は、声に出した言葉がほぼそのまま文字の言葉になるからです。それに対して例えば、英語は、発音とスペルが一致しない言葉が多いので、低学年からの作文指導はできません。
低学年の作文指導は、日本の教育の大きな特徴になっています。
ところが、
この作文指導が、小学校高学年、中学生、高校生になるとあまり行われなくなります。その理由は、赤ペンの添削に時間がかかるからというのがたぶん最も大きな理由です
しかし、それでも赤ペンに効果があるのならいいのですが、実はそうでもないのです。
赤ペンの添削は、子供の作文の場合は特に、病気になったときの対症療法と似ている面があります。あちこちにできているニキビや吹き出物に次々と薬をつけているが、いつまでたっても新たに悪いところが出てくるので治らないという感じなのです。
子供の作文を上達させるということから考えると、この対症療法的な指導ではなく、もっと根本的な指導が大事だということは、多くの先生が漠然と感じています。
ところが、赤ペンがびっしりと書かれていると、何か充実した指導が行われているような感じを受けます。実際、先生が手間をかけるので充実していることは確かですが、それが指導の成果に結びついているかということになると、そうではないのです。
このため、学校などでも、先生は、自分の担当する30人から40人の生徒に対して、みんなにコメントを入れてあげたい、しかし、それでは、時間がかかりすぎて他の指導ができなくなる、というジレンマに置かれています。
かつて教育法制化運動の作文指導法の一つとして、提出された作文には、大きく花丸をつけて返す、というだけの教え方が提案されていたことがありました。これは、赤ペンを入れるのに手間がかかるから何もしないというよりも、ただの花丸だけでもいいので、子供たちに作文を書かせることが大事だという考えから来た指導法です。これは、一つの卓見です。
しかし、
花丸をつけて返すだけよりも、本当は森リンなどの自動採点ソフトによる評価をつけて返せば、もっと身のある指導ができます。生徒がパソコンで入力したものを、自動採点ソフトで評価して返すという形です。この方法はすでに、アメリカではいくつかの州の公立高校の単位で行われているので、やがて日本でも採用されるようになると思います。
さて、言葉の森以外の作文教室教室では、びっしりと書かれた赤ペン添削というものをセールスポイントにしているところもあります。赤ペンを入れるというのは、一見やりやすい指導のように見えますが、こういう形の指導を続けて1年も経つと、その子に何をどう教えて、その結果どうなったのかということがつかめなくなり、やがて継続した指導をすることができなくなっていきます。
言葉の森では、
作文に対する赤ペンは、指導にとっては付随的なもので、指導の中心は、あくまでも事前に与えられた課題と項目と構成に基づいたアドバイスだと考えています。
赤ペンによる添削を講師の側から考えると、多数の生徒の作文を読んで赤ペンを入れるというのは、実はかなり精神的に疲労する作業です。なぜかというと、短い文章を次々と読むというのは、長い文章をまとめて読むのとは違う難しさがあるからです。ちょうど、加速してすぐに停止する渋滞の道路で車を運転しているような感じの読み方というと感じがわかると思います。長いひとまとまりの文章を読むのに比べて、異なる短いテーマの文章を次々と読むのは、人間の感覚として自然な読み方ではないのです。
また、赤ペンの添削はどうしても直すところに意識が向きがちです。欠点を指摘して直すという見方でものを見ている状態は、これも実は読む人を疲労させます。ですから、言葉の森の赤ペン添削は、誤字をひととおりチェックして直したあとは、基本的に褒めることを中心に書くようにしています。
赤ペンに教育的な意義があるとすると、それは、子供がそれを見て喜ぶという効果です。赤ペンは、子供にとって、先生から個人的な手紙をもらったという感じのメッセージになるからです。
赤ペンは、勉強の指導というよりも、交流、共感、対話、コミュニケーションという意味を持つ手紙のような役割を持っています。
そこで考えたのが、指導と対話を分離することです。
言葉の森の指導は、数ヶ月の大きな方向を指し示して、その方向に沿って毎週小さなチェックを行うようなシステムになっています。
指導法の特徴の一つは項目指導で、もう一つは電話指導です。将来は、インターネットの活用による生徒どうしのコミュニケーションも指導の重要な要素になると思います。
電話で毎週先生が指導するという方法がとれるので、先生が生徒の作文に対して書く講評は、この電話指導のメモとして使う形になります。
講評というと、それ自体が指導と考えられがちですが、そういう要素はあまりありません。ですから、講評を生徒が読まなくても全く問題はありません。先生が電話を通して、その講評の内容を子供にわかるように伝える仕組みになっているからです。
このような特徴を生かしながら、
指導と対話を分離して実現していくという方法を現在考えています。
対話というのは、生徒と先生の人間的な触れ合いです。しかしこの触れ合いを赤ペンを通して行うのでは、指導と対話の境界がはっきりせず、赤ペンを書くのに負担がかかりすぎるようになります。
指導は、必要なことを簡潔に伝えることが大事ですが、対話は、たっぷり時間をかけること自体が重要になるからです。
教育で大事なことは、長続きする教育ですから、教える側にも負担がかからない、しかし教わる側には触れ合いがあるというような工夫をしていくことが必要になります。
シュタイナー教育は、人間の触れ合いを大事にしている優れた教育法ですが、教える側の手間がかかりすぎる面があります。それは、教師が教育のすべてを担うという専門性を持ちすぎているからです。手間がかかるということは、結局、世の中に普及させにくいということです。
昔の日本の子育ては、父親も母親も多忙な生活を送る中で、子供どうしの遊びや地域の行事や家庭の文化がそれぞれ高度な教育力を持っていました。子供は、日本の社会や文化の中で自然に多くのことを学び、親はそれをときどきチェックするというような関係だったのです。
これは、寺子屋のような教育機関でも同じです。先生がすべての生徒に対して専門性を発揮して面倒を見るのではなく、生徒どうしの関係や教育カリキュラムの流れが自然に教育力を発揮していたのです。
福沢諭吉の自伝に、そのあたりの事情が垣間見られるエピソードがあります。諭吉がオランダ語を学んでいたころの塾の様子は、(1)生徒が定期的に先生の前でオランダ語を訳す、(2)その出来具合によって勉強しやすい場所に自分の席を確保することができる、(3)上の生徒が下の生徒を教える、という仕組みになっていたようです。
今後の教育には、生徒どうしの交流と、家庭と講師との連係プレーによる親・子・講師三者の触れ合いという二つのことを考えていく必要があると思っています。
そのための具体策を今考えているところです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
6月10日の日本経済新聞に、「今後の主役、ハイブリッドより電気自動車」という記事が載っていました。
ハイブリッド車、つまりガソリンエンジンと電動モーターを併用する仕組みの車は、トヨタのプリウスに見られるように現在大きな人気を博しています。しかし、アメリカのテスラ・モーターズが発売した電気自動車のように、世界の大きな流れは、ガソリンから電気へと大きく変化しています。
ハイブリッド車は、過渡的なものは消滅するという法則のとおり、将来は自動車の歴史における木炭車と同じものになるでしょう。
自動車が電気自動車中心になると、その構造は、単純化され、自動車のコモディティー化が始まります。
これは、かつてのパソコンがたどった道と同じです。IBMのパソコンは、中国のレノボがそのブランドを引き継ぎました。パソコンはすでに、いくつかの部品を組合わせれば誰でも作れるものになっています。
やがて自動車も、モーターと電池の組合わせで、特別の技術や設備がなくても組み立てられるものになっていきます。
このような大きな変化は、インターネットの世界でも起こっています。しかし、これは、すでにいろいろところで言われているので省略します。
さて、話は大きく変わりますが、現在の世界では、軍事力の中心は核兵器です。しかし、
この核兵器は、かつての武田勝頼の騎馬軍団に相当するようになるのではないでしょうか。
信長の鉄砲隊が登場することによって、それまでの軍事力の概念は大きく変化しました。日本は現在、軍事力の質という点で周辺の諸国よりも後れを取っています。しかし、日本の安全は、従来の軍事力の延長で考えるのではなく、独自の科学技術やシステムを生かした道で考えていくべきです。この大きな方向を目指しているか否かということが、これからの日本の未来を大きく左右するはずです。
単に、
相手も核を持っているからこっちも核をという選択肢しか考えつかないのでは、平和の問題は袋小路に陥ります。
さて、話を元に戻して、ウェブでも今後大きな方向の変化があります。それは、一言で言えば、ファイルからデータベースへという流れです。
すでに10年以上前から、ローカルのパソコンの世界では、様々なアプリケーションがデータベースを中心にして動くという形に変化していました。
一時、年賀状ソフトが人気のあるアプリケーションだった時代がありましたが、年賀状ソフトの限界は、データベースを年賀状ソフト用に構築しなければならなかったことです。
言葉の森によく売り込みに来た顧客管理システムも同じです。顧客管理システムに合わせてデータベースを構築すると、ひとつの会社の中でデータベースが複数作られてしまいます。
これからのアプリケーションは、ある一つのデータベースを中心に、そこからワンストップで情報を引っ張って加工するという形が中心になります。
さらに言えば、ローカルのパソコンにデータベースがあるのではなく、インターネット上にデータベースがあり、その情報を自宅からも外出先からもレジャー先からもアクセスできるということが求められるようになります。
マイクロソフトのモデルであったオフィスソフトのセット販売という時代から、グーグルなどが目指しているウェブ上でのアプリケーション利用の時代に今IT環境は大きく変わろうとしているのです。
インターネットのホームページにこの変化を当てはめてみると、やはりファイルからデータベースへという流れが、当面の最も目立つ変化になります。
これは、このことによって、ブログの役割がこれからますます大きくなってくるということでもあります。
ブログにも、静的なファイルを生成するブログと、データベースから動的なページをそのつど生成するブログがあります。また、動的に生成したファイルを静的なファイルに見せる仕組みのブログもあります。これらは将来、編集のしやすさという点から、多くが動的なページになっていくと思われます。
SEO対策の面からは、今はまだ静的なページの方が検索されやすいという点で有利なようですが、これも将来は検索エンジンの仕組み自体が動的なページ中心に改良されていくと思います。
今、SNSとブログは、相互に乗り入れする形で互いにSNS的なブログとプログ的なSNSになりつつあります。しかし、
ウェブ上の表現力の点から見れば、ブログからスタートしたSNS的ブログの方に分があるようです。例えば、mixiとアメブロでは、mixiで自分の日記を公開するよりも、アメブロで公開している日記で他の人とコミュニケーションも図るという形が多くなっていくと思います。
今後、企業のホームページも、ページ自体がブログ化する形で進んでいきます。
ブログ化したホームページの優位性は四つ考えられます。
第一は更新頻度が高いことです。ブログはFTPのような設備がなくても、会社からでも自宅からでも外出先からでもどこからでも必要なときに更新できます。
第二はデータベースから情報を引っ張っているので、個々のページの加工がきわめて容易だということです。
第三は、静的なページではなく、動的なページで常にコミュニケーションが図れるということです。
第四はRSSで記事の更新がすぐに全世界に通知できるという点です
言葉の森では現在、HTMLで作っている静的なページをすべてデータベースから生成する動的なページに作りかえていく予定です。
さて、
この「ファイルらデータベースへ」という流れの本質は、「物から情報へ」という流れです。
このことを、これからの職業にあてはめてみると、次のようなことが言えます。
P・ドラッカーは、企業の寿命は30年ほどだと述べました。人間の生きている時間はそれよりももっと長いという点から考えると、
企業に就職するという時代はすでに終わりつつあり、今後は自分の知識や技能を生かせる職種に就くという形の就職が中心になってきます。
このことはまた、教育の変化についても、大きな示唆を与えています。
それは、ひとことで言うと、
教科書や教科や学部や学校という外側の枠組みに結びついた知識ではなく、その人の生きる中身に結びついた知識がこれから重要になってくるということです。
昔は、ある学部に入ることや、ある学歴を持つことや、ある資格を持つことが、ある職業につくための条件だった時代がありました。特定の企業や組織に就職すれば一生その構成員でいられる時代にはそれでよかったのです。
しかし、これからはそうではありません。どこに放り出されてもひとりで自分を売り込める中身がなければ、変化の大きい社会では生きていけません。
それは、ある意味で多くの可能性を秘めた社会です。これまでは、偏差値に見られるように、特定の勉強の出来不出来で序列化が可能な社会でした。これからは、自分の得意分野を頂点にして、世の中にある無数の勉強を自分なりに組み立てて勝負していく社会です。
勉強をすることは、昔も今もその必要性は変わりませんが、昔のように勉強の側に主体があるのではなく、自分の人生の方に主体がある社会になっていくのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
貝原益軒の教育論は私たちがこれから考える教育の基本になりますが、しかし現代にはまた現代の情勢に合わせて加味するものがあるはずです。それを考えてみます。
大前研一氏は、IT教育や投資教育や語学教育が、これからの教育には必要だと述べています。
しかし、IT教育は、表面的な教育です。むしろ、日本語文字コードのShift_JIS、EUC−JP、UTF−8の並存状態を統一するような工夫をすれば、子供たちは遊びの中でITの世界を自然にマスターしていくはずです。
日本のIT界のいちばんの問題は、文字コードの混乱のために最初の敷居が高くなりすぎ、小中学生が気軽にITの世界に入れないところにあります。
投資教育は、経営学や人生論の一部として行うものであって、投資の世界だけを取り出して教育するほどの重要性はありません。
外国語教育は、確かにこれからの時代の教育に必要な要素です。しかし、今の英語教育のようなやり方ではなく、もっと楽に取り組めるような方法を開発する必要があるように思います。
日本人は、これまで、中国語を漢文として受け入れる文化を作ってきました。この伝統を英語教育にも生かせると思います。
国際化が進む現代社会では、日本人の教育だけではなく在日外国人または移民の教育も重要になってきます。その要になるのは、やはり
外国人にもすぐに取り組めるような日本語教育のノウハウです。
このノウハウができれば、日本は世界に輸出するような日本の教育方法を作ることができます。
また、教育そのものではありませんが、現代の社会では、様々な教育を阻む誘惑があります。その誘惑への防波堤を社会的に作っていくことも、教育の支えになります。
例えばゲーム、テレビ、マスメディアなどは、日常的に接する時間をコントロールする必要があります。
子供たちが、人間どうしの接触のほうがずっと魅力があるということに気がつけば、ゲームやテレビのようなバーチャル的な誘惑はほどほどに楽しむ程度のものになります。
現代の社会では、少子化が進み、同年齢や異年齢の子供たちが直接に接する機会が減っています。子供たちが互いに協力するような機会を作ることも、これからの教育の重要な要素です。
今はスポーツチームなどがその同年齢や異年齢の子供たちの交流の場になっていますが、スポーツチームに参加すると、勝敗にこだわりすぎる傾向がどうしても出てきます。
子供たちが、スポーツもできる、自然とも接することができる、互いに協力もできるという、昔の青年団や少年団のような集まりがこれからの社会には必要になってきます。
これらを実現するための具体的なイメージは、地域の学習塾+αのような形です。「+α」の部分は、しつけ、道徳、礼儀、そして、友達どうしの協力や交流、さらに自然の中での経験や、社会に対する実践や行動という要素です。
歴史の風雪に耐えた貝原益軒の伝統的な教育論を土台に、現代の社会のニーズに対応した新しい教育を作ることが求められているのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
小4の5月の読解問題で質問がありました。
問4
本文は、「おひげのあるさかなでもたべさせてはどうかな。……とうさんヒョウは、ジャングルの川へとんでいきました。めざすのは、もちろん大ナマズ。」となっています。(……は略の部分)
Bの選択肢は、「とうさんヒョウは、ペポネにナマズを食べさせようとした」で○です。
質問は、「本文には『大ナマズ』と書いてあるので、選択肢の『ナマズ』は×ではないか」ということでした。
本文が「大ナマズ」で選択肢が「小ナマズ」だったら×です。また、本文が「ナマズ」で選択肢が「大ナマズ」だったら×です。
しかし、
大ナマズという概念は、ナマズという概念よりも小さいので、本文が大ナマズで選択肢がナマズの場合は○です。
例えば、正方形と長方形は小さい概念で、四角形は大きい概念ですから、本文に「正方形がありました」となっていて、選択肢に「四角形はありましたか」となっていれば○です。
問5
本文は、「ぼくが自分の部屋で模型飛行機の修理をしているとき……お父さんが指さす先には、……ハトが……うずくまっていた。」となっています。(……は略の部分)
Bの選択肢は、「ぼくは、飛行機を作りかけのまま、窓からハトを見た」で○です。
質問は、「『模型飛行機』は『飛行機』とは違うし、『修理する』は『作る』とは違うから×ではないか」ということでした。
これは微妙なところですが、これも、
「模型飛行機」は「飛行機」という大きい概念の一部と考えて○です。選択肢が「本物の飛行機」となっていたら×ですが、ここは文脈で本物の飛行機ということにはならないからです。
また、「修理する」は「作る」の一部と考えて○としました。「作る」には、「こしらえる」「くみたてる」という意味があるので、本文中にある「水平尾翼を接着している」ことを「作る」と見なしたのです。
しかし、
「作る」には「新たに作り出す」というニュアンスもあるので、質問された方の言うように、「修理する」と「作る」は違うと考えることもできます。
そこで、この問5のBの選択肢は×を選んだ人も正解としました。
国語の読解問題は、このように微妙なところがあります。
これからも、疑問に思われる点がありましたら、ぜひご意見ご質問をお寄せくださるようお願いします。
なお、毎月第4週の読解問題は、小3以上はかなり難度の高い問題になっています。
高校生の問題は、センター試験の現代文の問題と同じぐらいの難しさの問題ということで作成しています。
つまり、本気で解けば満点も可能だが、普通に解くと6割ぐらいという難しさです。
小中学生のみなさんは、点数が低くてもがっかりせずに、正解の理由を考えて力をつけていってください。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。質問と意見(39) 生徒父母向け記事(61)
入選清書のページで、下記の生徒の清書が正しく表示されていませんでしたので訂正しました。<(_ _)>(以下、生徒コードで)
○小5……ひろみ、おたら
○中1……おへふ、かまむ、きえか、えふわ
○中2……おきに、かきな
○中3……くはゆ
○高2……おくく
○高3……みずき、あにい
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。生徒父母連絡(78)
教育論というと、日本では「エミール」が有名ですが、著者のルソーは実際の教育の経験があったわけではありません。ルソーは、自分の人生経験から、こういう育てられ方をされたくないアンチテーゼとして「エミール」を書きました。だから、これは、教育論というよりも一つの文学です。その文学から実際的な教育の指針を引き出そうとすると、かえって人間の自然に反する面も出てきます。
それに対して、
貝原益軒は、八十歳代というそれまでの長い人生経験の中で十分に咀嚼された実践的な教育論を著しました。それが「和俗童子訓」です。益軒の教育論の根本にある人間観は、自身の経験や多くの見聞に裏付けられたもので、人間の成長の本質を的確にとらえています。
時代は異なりますが、シュタイナーも、人間の本質をとらえた優れた教育論を展開しました。しかし、シュタイナー教育は、手間がかかりすぎる面があります。
益軒の教育論は、誰でもどこでも容易に実践できる教育方法を提案しているという点で、理論的な面だけでなく、政策的な面でも優れた教育論になっています。
この貝原益軒の教育論が、江戸時代から明治時代にかけての日本人の学力の土台を形成しました。当時の日本は、世界でも最高水準の安定した社会と充実した教育を達成していました。
明治時代をリードした勝海舟や福沢諭吉などの青年たちは、西洋から流入した新しい学問を率先して学び取りました。しかし、これらの人々の教養の根底にあったのは、それまでの日本の教育でした。
オランダ語や英語や西洋の学問が明治時代を切り開いたのではなく、日本人のそれまでの蓄積された教養が西洋の学問を使うことを通して新しい時代を切り開いていったのです。
貝原益軒の著書でもうひとつ有名なのが「養生訓」です。この書物は、益軒が84歳のときに、やはりそれまでの長い人生経験の中から、古来の医学の知識を集大成する形で著したものです。この著書も、「和俗童子訓」と同じように、時の試練に耐えたバランスのとれた健康論を提示しています。
「和俗童子訓」は、益軒が晩年になってから著した書物とはいっても、決して昔からあるものをただまとめただけの内容ではありません。当時としては、論議を呼ぶようなさまざまな先鋭的な内容も含んでいました。
例えば、「学を本にして芸を末にする」というような考え方です。当時は、文化が成熟して芸能に対する理解が広まっていた時代です。そのような時代でも
社会の風潮に流されるもことなく、芸術よりもまず学問に専念することがすべての人にとって大切だという原則を明確に主張しました。
また、大家(たいか・豊かな家、尊い家柄)の子であっても、算数を学ぶ必要があるということも述べました。
なぜ算数を学ぶ必要があるかというと、社会の運営には、金銭や数量など数字をコントロールする能力が必要だからだというのです。当時、武士が金銭に関心を持つのは卑しいことだという考えがありました。益軒は、単に道徳論を述べるだけではなく、実際の社会生活を行うために必要な学力は何かということを考えていたのです。
益軒の「和俗童子訓」は、「養生訓」と同じような人間観に立脚しています。その人間観ないし人生観は一言でいうと、「あらかじめ手を打つ」という考え方です。健康法も、病気になってから治すための健康法ではなく、あらかじめ病気にならないように工夫する健康法でした。教育法も、
悪いところができてからそれを直すための教育法ではなく、初めからよくなるような教育をするための教育法でした。
この考え方は、作文指導にもあてはめることができます。子供たちの作文を見ると、低学年では特に、文章に多くの欠点が見られます。しかし、この欠点を直す指導は、実はあまりいい指導ではありません。優れた指導とは、欠点をもともと作らないような指導です。例えば、
低学年のころから、よい文章をたくさん読ませて自然に正しい書き方を身につけさせるというのが一流の指導です。読む勉強をあまりさせないまま、ただ作文を書かせて間違いを指摘して直すというのは、実は二流の指導なのです。
話は変わりますが、これは犬のトイレのしつけとも似ています。失敗を叱って直すのは二流のしつけです。成功だけするような形にして、その成功を褒めて定着させるのが一流のしつけなのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)