小1や小2の子が音読をすると、読み間違いがたくさんあります。
これを聞いていると、ほぼ百パーセントの人がその間違いを直そうとします。
もちろん、直す間違いもあります。しかし、それは、小学校高学年や中学生になってから、間違えて覚えていることがわかったときのことで、ほとんどの間違いは直す必要のないものです。
低学年の子の間違いは、実力がついていないために間違えているというケースがほとんどです。
例えば、「私の家には、大きな木があります」という文章を読むときに、「私の家に、大きい木があります」と読んでしまうような間違いです。「家には→家に」「大きな→大きい」と2ヶ所も間違いがあります。しかし、これは読む実力がついていないための間違いですから、直す必要はないのです。
直さない方がいいという理由は、子供は自分が予想していないところで間違いを指摘されると、そのあとの勉強がのびのびとできなくなる、ということがあるからです。
小さなことでも注意されると、緊張して読むようになります。そうすると、読むことが苦痛になり長続きしなくなるのです。
たとえ間違って読んでも、いつも褒められていれば気楽に読むことができます。そうして、読んでいるうちに実力がつき正しく読めるようになるのです。
もう少し高度な方法は、子供が自分で間違いを気づくようにさせることです。
子供が文章を読んだあと、今度は親が同じ文章を読んで子供がそれを聞くようにします。その際、親は子供の間違えたところの注意などは一切しません。ただ楽しそうに読んでいくだけです。
そうすると、子供が自然に正しい読み方を理解します。しかし、子供がすぐには理解しないからと言って、親が教えるようなことはしません。
注意やアドバイスは一切せずに、ただ二人で楽しく交互に読んでいくだけです。
「注意すれば下手になり、褒めれば上手になる」というのは、勉強以外にも通用する人生の鉄則のようなものです。
そのように褒められて育った子は、将来社会人になったときに、やはり人を褒めて育てることができるようになるのです。
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息子は小4ですが、いまだに例に挙げられているような読み間違いをします。音読の際、読み間違いを指摘すると、読むペースを文脈がわからないほどの速度に落としたりして、反抗します。もうすぐ5年生なので、間違いを指摘して、読み直させた方が良い時期に入るのではないかと思いますが、どのようなものでしょうか?
また、読み直させる場合の具体的な指摘の仕方、注意すべき点をアドバイスいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。
(息子は読書量もあるほうなので、物語文や簡単な説明文を読むこと自体には、比較的慣れています。)
今は、続けさせることが最優先ですから、正しく読むことは二の次です。
本人が抵抗を感じないように読み間違いを指摘することはできるのですが、それはかなり高度なテクニックが必要です。
ですから、今は、間違えていてもいいから、暗唱や音読を続けさせるということでやっていってください。本人もお母さんもあまり負担がない状態で続けることがいちばん大事です。
アドバイスを有難うございます。
継続することを第一に考え、芽の出る時期を待つことにいたします。
気長にやっていると、忘れたころに、「いつのまにか上手になっていた」ということになると思います。
学年が上がるとだんだん言うことを聞かなくなると思いますが、忍耐強くがんばってください。
小1の息子がなかなか暗唱にとりかかろうとしません。
毎晩お風呂から出て歯磨きをした後、小3の姉は習慣になってきたようで、黙っていてもはじめるのですが、
息子の方には「はーい暗唱の時間だよー」「早くしなさい!」
「こらーッ!!」私もだんだん強い口調で怒ってしまいます。
最終的には読みはじめますが、10回くらいしか読んでいないのに30回読んだーとうそをついたり、だらだらやっているのでとても長い時間がかかります。
「もう少し早口で読んでごらん。」と言うと、今度は猛スピード(聞いていても何を言っているのかまったくわからない、でたらめではないかと思うようなスピード)で読んで反抗します。
’。。間違えて読んでも直さない’以前の問題なのですが、
何かいい方法があれば、アドバイスいただきたいと思います。
一般に、上の子が女の子だと手がかからないので、下の男の子も同じように考えがちですが、男の子は2倍ぐらい手をかけないと同じようにはなりません。
特に、低学年のうちは、密着してお母さんのすぐ近くで読むようにして、1回読み終えるたびに、「よく読めたね」「上手、上手」「その調子」「はい、あと○回」「もう一息」「うまくなってきた」「さあ、ラスト○回」などの声かけをしてあげてください。その際、読み間違いなどは直さずに、読み方の注意もせずに、ただ褒めてあげるだけにした方がいいです。
どんなにたどたどしい読み方でも、回数を繰り返すうちに自然にスムーズになっていき、そのうちに見ないでも言えるようになります。そうなると、自分でも、やればできるものなんだという自信がつきます。
わずか10分だと思って(最初はもっと時間がかかるかもしれませんが)、その間は密着して聞いてあげてください。
言われました通りに暗唱を続けております。
やり始めると、どうにか最後までできるのですが、始めるまでの、とりかかりがとても苦労してしまいます。
今日は小3の娘の事でご相談があります。
小1の息子は、30回読み終わるまで、ふざけたりしながら読んでいるし、回数もごまかしているのではないか。。と疑ってしまう程です。とりかかるまでには親の私が試行錯誤なのですが、実は週一回の電話指導の先生の前では、すらすらとできてしまいます。
一方、姉の方はまじめで、黙っていても暗唱を始めるし、じっくりしっかり「できるようになりたい。」と言う気持ちをこめて読んでいます。それなのに、結果、暗唱できていません。
「どうして弟にはできてわたしはできないの?」っと自分でも悩んでいるようなのです。
’暗唱の仕方で大事な事は覚えようとししないで無心になって読むこ’という内容の記事も、娘に読んで聞かせた事もあります。本人も、暗唱しようとするのではなく、単純に30回読むことを心がけています。
読み方は、特につっかえつっかえでなく、普通に読めています。娘に、’できる’と言う自身を付けさせたいのですが、
どのようにしたらいいのか教えて欲しいと思います。。
まず、森川林代表が示されている例から。
>「私の家には、大きな木があります」という文章を読むときに、「私の家に、大きい木があります」と読んでしまうような間違いです。「家には→家に」「大きな→大きい」と2ヶ所も間違いがあります。しかし、これは読む実力がついていないための間違いですから、直す必要はないのです。
専門的には1つ目の間違いは「省略」、二つ目は「代用」と言います。読むことの本質的な目的は、読み手の意味の把握にあります。この場合は、意味が保持されますので「2ヶ所も間違い」があると考えないほうが学習者のためです。「読む実力」ではなく、読みの上達の過程の姿と考えてはどうでしょうか。
音読中、大人が間違いを指摘することは、音読という活動を中断してしまうこともマイナスなのです。意味が崩れてしまうほどの読み間違いをしたときには、短く否定して(たとえば「ん?」と言って)、もう一度自分で本文を振り返らせてはどうでしょうか。
また、音読暗唱がブームですが、目的のない暗唱は子どもにとって苦役に等しいものです。子どもに強制する前に、親が暗唱の手本を示すことができますか? 親子で楽しむことを大切にしないと、国語嫌いになってしまいます。せめて家庭くらい成果を求めず、のびのびと国語に親しませたいものです。
代表は案を示しています。
>注意やアドバイスは一切せずに、ただ二人で楽しく交互に読んでいくだけです。
親子でこのような活動ができたら素晴らしいですね。マンツーマンの音読指導は学校では絶対できません。また、音読が苦手な子どもほど学校と同じような指導が通用しないものです。
小3と小1のお母さんへ
お返事遅れて申し訳ありませんでした。見落としていました。^^;
微妙な質問は、父母の広場や質問の広場などに書いていただいても結構です。そうすると、スレッド状になってわかりやすくなると思うので。
ミスキューさんが言ってくれたように、お母さんが試しにやってみるというのも、一つの手です。そうすると、コツなどもわかりやすく伝えられます。
暗唱のコツは、大声で早口で繰り返すことです。
ゆっくりていねいに上手に読むと覚えられません。意味を理解する読み方になってしまうからです。歌の歌詞を自然に覚えてしまうような感じで読むと早く暗唱できるようになります。
また、小さい声で静かに読むとやはりなかなか覚えられません。自分の耳で聴くということが大事ですから、できるだけ大きい声で読む方が暗唱しやすくなります。
1日目の100字を30回読む段階で、すらすら言えるのが条件です。100字の30回がちょっと不安だという場合は、300字はできません。また300字がほぼ完璧にできていないと900字はできません。
100字の30回で流れるように言えない場合は、回数をもう10回増やしてもいいです。それでもスムーズにできない場合はもう10回増やします。
限られた時間でうまくできない状態をそのままにするよりも、できて自信を持たせる方がいいからです。
3年生の長文はやさしいので、回数を増やせば必ずできます。がんばってやってください。
ありがとうございます。
続けて質問させてください。
”1日目の100字を30回読む段階で、すらすら言える”というのは、’すらすらと暗唱できている’ということですか?
そういえば、小1の息子は何を言っているのかわからないような速さで読んでいるのに、小3の娘は、しっかりとした口調できちんと読んでいます。私は、逆に、ゆっくり丁寧に読んでいる娘が暗唱できなくて、ふざけたようにいい加減に読んでいる息子が暗唱できているのが不思議でした。
良くわかりました。
次の暗唱からは私もいっしょにやってみて、娘に伝えてみようと思います。
すらすら言えるというのは、すらすら暗唱できているということです。
ちなみに、早口で読むというのは、「、」や「。」で区切らないぐらいのスピードで読んでいいということです。暗唱できるようになってからは、普通に読んでもいいのですが。
わかりました。そのようなやり方で暗唱させてみようと思います。
それから、その、まじめで神経質な性格の娘なのですが、
先週、電話指導の先生に、「じゃあ来週もう一度同じところを暗唱してみましょうね。」とやさしく言われたようなのですが、(自分では一生懸命がんばっているつもりなのに、うまく暗唱できなくて)その後の作文指導の電話の最中ずっと泣いていました。(先生は気づかれなかったようでした)
私は、先生に、「~性格的に、、、~来週は来週のところをやらせてください。」とお願いしました。
そして、今週、実は今日今から、10分後、電話指導の時間なのですが、「言葉の森がいやだ」とべそをかいています。
「継続は力なり~」と言って、今のところがんばらせようと思っているのですが、この先、作文が(国語が)嫌いになってしまわないか心配です。。。
勉強のコツは、できるようにさせて褒めることです。
前提になるいちばん大事なことは、できるようにさせることですから、不十分にできない状態では、どういう対応をしても意欲的になることはできません。できないままでは、褒めることも注意することもどちらもほとんど意味がありません。
勉強が苦手になるのも好きになるのも、「できる」と子供が思うことですから、暗唱ができるという状態に早急にさせていくことが必要です。
小学校3、4年生の暗唱は、全く難しくありません。毎日10分やれば絶対にできることです。
たとえ最初のうちは10分でできなくても、15分か20分もやれば例外なくできるようになり、すぐに10分でできるようになります。
週1回の通信指導なので、先生は家庭での毎日10分のチェックはできませんから、ここはお母さんががんばって毎日10分の暗唱をできるようにさせていってください。
大事なのは、絶対に簡単にできるようになるというお母さん自身の確信です。
娘は、毎日欠かさず金土日30回(100字)、月火水木10回(300字)4週目は900字を5回ずつ読んでいます。注意もアドバイスも一切していません。本人は一生懸命です。ただ性格上、、と言いますか、ゆっくり丁寧に読んでしまいます。
私の前ではだいたい暗唱できているのですが、
「結果暗唱できない」といのは、「電話の時、先生の前で暗唱できない」という意味で、緊張してしまうのか止まってしまいます。
「先生に、’もう一度、同じところを来週も~’と言われて悔しくなっちゃったの。。。」
と先週の電話指導の後、目に涙をためていましたが、
「先生に、次回は’次の暗唱’をさせてもらえるようにお願いしたから大丈夫よ。」
と言ったら、「よかった!」と安心して次の100字の暗唱をしはじめました。
このような場合、本当はどちらの方が良かったのでしょうか?
まずは気持ちを入れ替えさせて、今日の作文が楽しく書けるように何とか励まし、先生からの電話を待ちました。。
2~3回チラッと暗唱文を覗き込んだりしていましたが、なんとか今回は、先生に褒めていただけたようなので、電話ご指導の後、すぐに作文にとりかかることができました。
長く続けさせたいと思っております。
よろしくお願いいたします。
それはよかったです。
暗唱は、勉強と思わずにスポーツと思ってください。
スポーツには勝ち負けもあって、勝ってうれしいことも負けてくやしいこともあります。しかし、その中で子供はいろいろ経験をして成長していくのだと思います。
しかも、暗唱は練習をしっかりすれば絶対に勝てるスポーツですから、やればできるという自信を子供が持てるようになります。
しばらくは、「大体できる」という水準ではなく、「完璧にできる」という水準まで練習して、自信を持たせるようにするといいと思います。
300字が完璧にできていることが前提になって、最後の900字もスムーズにできます。最初の300字にちょっとでもあいまいなところがあると、結局最後の900字も楽にできるようになります。
ですから、合格扱いにして先に進むのはそれはそれでいいのですが、今度の300字はどんな状態でも一息で言えるぐらいに練習しておいてください。読みなれれば、100字が一息なので、300字は3息が目標です(笑)。
暖かいアドバイスをありがとうございます。
長い目で見守って生きたいと思います。
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今日は、たまたま小1や小2の低学年の子のお母さんから、何件か電話相談を受けました。
相談の内容はさまざまですが、共通しているのは、勉強のさせ方についてです。こういう勉強をさせているがいいか」「どういう勉強をさせたらいいか」という相談です。
小1から小4にかけては、親が手をかければそれだけすぐに成果が出ます。しかし、そこで手をかける分野をわかりやすい勉強の面に絞ってしまうと問題が出てきます。
成績というのは目に付きやすいものなので、成果が上がれば親も子もうれしくなります。しかし、その結果、花を咲かせることに気を取られて、肝心の根を育てることを忘れてしまうことがあるのです。
自分自身の身近な人を思い浮かべてみればわかりますが、魅力のある人というのは、成績や学歴とは関係がありません。リーダーシップがあったり、ユーモアがあったり、勇気があったり、美的なセンスがあったりと、そのよさは人によってそれぞれですが、だれもが、成績という狭い尺度ではなくもっとトータルな人間的魅力を基準にして周りの人を見ています。
しかし、学校の中だけは、現実の社会とはかなりずれた尺度で、成績のよさがほとんどすべてであるかのような価値観になっています。その成績を通して見ると、子供の本当の姿が見えなくなることがあります。
子供の育て方に、ただ一つの基準というものはありません。どの親も試行錯誤をしながら子育てをしています。親が子供をよく見ていれば、その子にとって何が必要で何が不要かということは、自ずからわかってきます。しかし、成績の面から子供を見てしまうと、力の入れ方を勘違いしてしまうことが多いのです。
よくある例が、子供にとって負担の大きすぎる勉強を機械的にさせてしまうことです。もう一つのよくある例が、勉強のことばかりに目を向けて、肝心の躾や情操の面をおろそかにしてしまうことです。
大事なことは、子供にとってのよりよい人生というものを考えていくことです。成績は人生の一部ですが、成績がよければ自動的によい人生になるわけではありません。
よりよい人生の一つの指標は、毎日が幸せだということです。たとえ口には出さなくても、子供が「今日も幸せ」と思いながら眠りにつくような過ごし方を目指していくことが、親がまず最初に子供にしてあげることだと思います。
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公立中高一貫校では、入試問題のほとんどに作文試験があります。作文力を見ることによって、単なる知識の学力ではない、受験生の本当の学力を見るというねらいがあります。
この作文試験の内容は年々高度化しており、現在では複数の文章や資料を見てそこから自分の考えを述べるという小論文的なものになっています。
言葉の森では、もともと大学入試や企業の入社試験に対応した作文指導を行ってきた経緯があるので、中高一貫校の作文入試に対しても豊富なノウハウがあります。
今後の入試は、中高一貫校にかぎらず、高校入試でも大学入試でもますます文章力の重要さが増してきます。しかし、作文力というものは、知識の量で左右される教科に比べて、身につけるのにきわめて多くの時間がかかります。
言葉の森では、子供たちが将来社会人になったときに役立つ文章力を育てるために、小学校低学年のころから、大学入試の小論文にも対応できる長期的な展望で作文指導を行っています。
小学校低学年から、中学生、高校生、更には大学生や社会人の作文指導までの一貫したカリキュラムを持っているのが言葉の森の作文指導の特徴です。
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言葉の森では、これまでの長い作文指導の経験から、作文そのものを教えるよりも、作文力の土台となる読む力を育てることが重要だと考えてきました。
そのため、発足当初から音読や読書の自習を進めてきましたが、音読や読書は、継続してできる子とできない子の差があり、必ずしも全員の読む力を育てる方法となってはいませんでした。
そこで、言葉の森では、これまでの音読を発展させた独自の暗唱法を開発しました。現在、暗唱用紙を使った毎日10分の暗唱で、だれでも楽に1ヶ月で900字の文章を暗唱できるようになっています。
暗唱の効果は、単に読む力、書く力を育てることにとどまりません。暗唱力をつけることによって、思考力、発想力が伸び、学習力そのものが育つという効果もあることがわかってきています。
文章を暗唱するという方法は、ただ文章を音読するという方法に比べて達成感のある勉強法です。一見、音読の方が簡単にできるように思われがちですが、暗唱の方法さえわかれば子供たちは音読よりも暗唱の勉強の方を好みます。
小学校低中学年の時期から暗唱の学習に取り組むことは、作文の書き方を身につけるだけでなく、ものの見方や考え方を育てる上で大きな効果があるのです。
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数学や英語は、勉強をしなければ成績の上がらない教科です。聖徳太子や空海がタイムマシンで現代に急に現れて、中学の数学や英語のテストを受けたとしたらまず0点です。勉強をすればできるが、勉強をしなければできないというのが普通の教科の特徴です。
しかし、国語はそうではありません。全然勉強をしない人でも、国語ではある程度の点数を取ることができます。
ここで、多くの人は、だから国語はそっちに置いておいて、まず英語や数学などの差のつく勉強に取り組もうと思うのです。しかし、英語や数学における0点と100点の差よりも大きいのが、国語における80点と100点の差です。国語力の差は小さいように見えても、ほとんど埋まらない差なのです。
そのような国語力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。
まず、国語を勉強だと考えずに、生活だと考えることが必要です。
国語力のある子の生活の特徴は、読書と対話があることです。
読書のある生活をするために第一に大事なことは、読書を妨げる要因となるテレビやゲームの時間をコントロールすることです。これは簡単なように見えますが、実はかなり難しいことです。なぜかというと、子供の生活時間をコントロールするためには、かならず親の生活習慣の改善が必要になるからです。
生活習慣の改善は、子供の学年の自乗に比例して難しくなります。だから大事なことは、小学校低学年のうちに、テレビとゲームについてのルールを決めておくことです。テレビを見させない、ゲームをやらせないというのはコントロールではなく単なる禁止です。禁止したものは、学年が上がると逆にコントロールできなくなります。
テレビやゲームが生まれたときからあるという状態は、人類が経験してまだ日の浅いものなので、コントロールする文化がまだ成立していません。だから、個々の家庭で工夫して行く必要があるのです。
対話のある生活をするために大事なことは、親が対話好きになることです。対話といっても子供が小中学生のうちは、親子の対話というよりも、親どうしの対話が中心になります。そのときの話題が、子供の関心のあるものであればなおいいと思います。
理想的な対話の習慣は次のようなものです。
まず、子供が千字程度の文章(以下、長文と呼ぶ)を音読したり暗唱したりします。夕食などで家族がそろったら、子供が家族みんなの前で音読や暗唱をします。そのときは周囲の温かい目が必要ですから、お父さんは必ず「おお、難しい文章をよく読んでいるね」などと言わなければなりません。間違っても、「もっとこういうふうに読んだらいい」などという勉強的なアドバイスはしないことです。
子供が長文を読んだあと、その長文の内容が自然に話題になって食事が盛り上がります。その際、お父さんとお母さんが、自分はこう思うとか、昔はこうだったということを自分の言葉で話します。ときどき子供が話に参加しますが、基本になるのは親どうしの対話です。つまり、親が話を楽しんでいるのを子供が聞いているという形の対話なのです。
家庭によっては、親どうしの対話が難しいという環境もあると思います。その場合は、親がひとりで子供にいろいろな話を聞かせてあげるという形になります。小学校の低中学年のころは、子供は喜んで親の話を聞きます。この時期に対話の習慣を作っておけば、子供が高学年になっても同じように対話のある習慣を維持していくことができます。
食事のときの対話をするための一つの前提条件は、食事中はテレビを消しておくということです。これも、子供が小学校低中学年のうちは簡単にできますが、学年が上がるほどいったんできた生活習慣を変えることは難しくなります。
では、そういう読書や対話の習慣がないままに成長してしまった子供の国語力をつけるためにはどうしたらいいのでしょうか。
実は、国語力をつけるためのより即効的な勉強法もあります。それは、国語力として要求される国語の問題に出てくるような文章を徹底して読みなれることです。もう一つは、国語の記述式の問題の解答として要求される文章を丸ごと暗唱してしまうことです。
しかし、このような勉強法は、あくまでもその場しのぎのものです。これで国語の成績が上がって合格できたとしても、その国語力は内容の伴っていないものなのであとが続きません。やはり、読書と対話によって中身のある国語力をつけていくことがいちばん大事なのです。
国語力は、国語の成績としても表れますが、もっとはっきりとした形で作文力として表れます。作文を見ると、その子の実力がわかるというのはそのためです。
では、作文力をつけるためにはどうしたらいいのでしょうか。指導の仕方以前に何よりも大事なことは、まず作文を書く機会を確保することです。学校では、先生の負担が大きいために作文の指導まではなかなか手が回りません。これも、家庭の中で書く機会を増やしておくというのがいちばんいい方法です。
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日本時間の1月2日に、アルゼンチンから体験学習を申し込まれた方のご住所が入っていません。
お申し込み時に記載のあったメールアドレスに言葉の森からメールを差し上げていますが、まだごらんいただいていないようです。
ご連絡くださるようお願い申し上げます。
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学校での作文の勉強は、小学校低学年のころは盛んですが、学年が上がり中学生や高校生になると次第に少なくなり、やがてほとんど作文指導のようなものはなくなっていきます。
これは、作文の指導がきわめて負担の大きいもので、現在の教育体制では中高生が学校で日常的に作文の勉強をすることはほぼ不可能だからです。
しかし、作文力こそ真の実力で、中学高校生の作文指導はもっと充実させる必要があると考えている人はかなりいます。
大学入試でも、採点する期間に比較的余裕がある国立大学では記述式の問題が多く、東大をはじめとする多くの国立大学の国語の試験は作文力の試験と言ってもいいものです。
東大の合格率が高いことで知られる開成中の国語の入試問題も、ほとんどが記述式の問題で、その内容も文章中から抜き書きするようなものではなく、自分なりに考えたことを書くという高度なものとなっています。
知識の勉強は、時間をかければだれでもある程度のところまでは成績を上げることができます。また、数ヶ月の集中学習で一挙に成績を上げるということもできます。現に、上手な家庭教師につくと短期間の集中的な取り組みで英語や数学の成績は大きく上がります。
しかし、作文力については短期間で成績を上げることはまずできません。それは、作文力がさまざまな学力の集大成のような面を持っているからです。
しかし、このことは逆に言えば、作文力があれば、ほかの教科の勉強はいつからでも取り組めるということです。国語や作文の得意な生徒は、受験期間中でも国語や作文の勉強をわざわざする必要がありません。いったん実力がつけば、国語力や作文力はほとんど下がることがないからです。
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文章力は、客観的な評価がしにくいもので、採点者によって評価に差があることが当然と考えられてきました。
このため、作文指導は、教える側にとっては負担が大きく、教わる側の生徒にとっては学習の目標のつかめない、勉強しにくい教科となっていました。
言葉の森では、長年の作文指導の蓄積をもとに、文章力を自動的に採点するソフト「森リン」を開発しました。現在、米国では、やはり小論文の自動採点ソフトが中学の作文指導や高校の卒業試験などに使われています。森リンは、日本語の作文小論文を自動採点するソフトとしてこれから多くの教育機関で使われていくと思われます。
言葉の森の作文評価は、人間の手による評価を中心としつつ、この自動採点ソフト森リンの評価を併用して子供たちに客観的な目標を持たせるところに特徴があります。
毎月1回、言葉の森のほとんどの生徒が自分の作文をパソコンで入力し、この森リンによる評価を出します。ここで上位に載った作品は、文章力の点で優れていることはもちろんですが、内容的にも優れたものが多く、生徒の学習の励みとなっています。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
特に、中学生や高校生は、学校で作文小論文の勉強をする機会がほとんどないの、自分の書いた文章がどれぐらいの実力かを見るのに森リンによる評価は大きな役割を果たしています。
作文指導を、自動採点ソフトのような客観的な指標にもとづいて行っている教室は、全国でも言葉の森だけです。
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『旅』に目的地があるように、人生のさまざまな場面で『目標設定』は重要不可欠な要素と言えるでしょう。
皆さんは、今まで何度となく「目標を持ちなさい。」と言われた経験があると思います。また、「目標は設定したのだけれど、なかなか一歩を踏み出せなかった。」という人もいるのではないでしょうか。『目標設定』とは、実は一つ間違えるとモチベーションを下げてしまったり、失敗の体験がセルフイマジネーションを傷つけてしまったりする場合もあるほど、設定には注意を要するものです。
4月12日のNHK「おはよう日本」の番組内で、今月1日に行われた、がん研有明病院主催の「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」が取り上げられていました。その内容は、ベートーベンの交響曲第九番合唱付きを、がんと宣告された患者さんに呼びかけ、がん治療と向き合いながら約80人の参加者が、1年をかけて練習して見事な歌声を披露したという内容です。5年前、私も大腸がんの摘出手術を上記病院でおこなったので、参加された患者さんの気持ちは大変良く理解できました。
さて、ここで正しい目標設定の重要なポイントを見いだすことができます。最も注意すべきことは、「頑張れば手が届く」=「努力により達成可能な最大値」に目標を設定することです。高すぎても、低すぎても目標としては適切とは言えないのです。そのためには、次の3つが必要条件になることをおさえておきましょう。
① 魅力のある目標であること
② 可能性がある目標であること
③ 具体的な目標であること
その上で、達成する期限を定めておきましょう。
上記のポイントを踏まえ、「がん患者さんが歌う春の第九コンサート」を見てください。
全てが当てはまっており、この成功が患者さんのさらなる生きる喜びにつながりました。
36期生の皆さん、行動を起こすのは自分自身です。本当に達成したいと思う目標をしっかりと考えて立て、一歩踏み出しましょう。そして、着実に歩んでください。皆さんの充実した高校生活を期待しています。
この本の紹介で「サイズ」と「時間」という一見何の交わりもなさそうな単語が、実は密接に関係していると書かれていた。サイズが違うと俊敏さが異なり、寿命も等しくならない。しかし、一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー数は、サイズによらず一定である。よって、生理的・感覚的な時間はいかなる生物においても等しいというのだ。私はその著者の主張に強い疑問を抱いた。我々人間が感じている時間は唯一絶対不変のものだと信じて疑わなかったからである。また1学期で学習した生物の知識を活かせばより深く、正確に内容を理解できると感じた。以上のようなことがきっかけとなり、この評論を選択した。
科学的な根拠を用いて論理的に生物の仕組みを導いていたこの本から、次のようなことを学んだ。まず時間は体重の1/4乗や体長の3/4乗に比例するということだ。また心臓が一回打つエネルギー量と一生の間の総エネルギー量は、体重に依存することなく一定である。よって、短命な命は激しく燃え尽きるといえる。これは、生物は各々のサイズに応じて、異なる時間の単位すなわち生理的な時間が存在することを意味している。我々には物理的な時間だけが絶対だという思い込みがあるが、それはいわば、人間だけの決めごとである。物理的な時間ではネズミはゾウよりずっと短命だ。ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近く生きる。しかしもし心臓の鼓動を寿命の基準として考えるなら、ゾウもネズミも全く同じだけ生きて死を迎えることになる。物理的な寿命が短いといったって、一生を生き残った感覚はネズミもゾウも同じなのだ。
そして島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は巨大化するという、島の法則がある。これは人の事象に当てはまりそうである。具体的には強靭な大思想が育ってきた大陸と、庶民のスケールが大きい日本という島国だ。
サイズを考えることは人を相対化して眺める効果がある。私たちの常識を当てはめて解釈してきたのが、これまでの科学や哲学であった。物理や科学はヒトなりの自然の解釈であり、また哲学は人間の頭の中を覗くばかりだから、当然相対化することはできない。しかし、生物学によって初めてヒトという生き物が自然の一部として扱われるようになった。そして結局は物理的な時間はヒトのエゴイズムであり、ヒトや他の生物の理解を妨げる可能性があると学んだ。
関東人の私が言うのもなんですが豊中や吹田に長年住んでいる人間がよもや堺市の場所も分からないという事は教養レベル云々の話を差し引いても普通は考えられないように思います。しかしその人の居住地が府の中心から北に結構離れている若い人なら、例えば難波などに遊びに行く途中の街の地名というだけで頭によく入っている場合もあろうかと思える一方 そこから更に遠ざかって行く方面の事は案外知らなかったりするのではないかと思いました。それが他府県から越して来たような人ならなおの事に私には思えます。
しかしこれが逆に関空をよく使う人間であれば堺市の場所がどこか知らないはずはないでしょう。関空はあくまで例えですが、自分が関わらない場所についての知識はたとえ同じ府県内の事であってもなんとなくボンヤリしてしまう事はあるのではないでしょうか。
蛇足ですが、堺市の「サカイ」という音から「境」「県境」を無意識に想像している人も地理のイメージがボンヤリしている人の中にはいたりしませんか。これは私が全然知識の無い関東の人間だったからなのかもしれませんが、自分が大阪に進学でやって来た当初本当に堺市のことを「境の市」だと頭の中でイメージしていた事がありました。
貴校で学びながら明確にしていきたいと思います。
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