小学校1年生になると、学校の勉強が始まります。教科書でいろいろなことを学ぶようになると、勉強が子供の生活の中心になってきます。そこで、家庭でも、学校の授業に合わせたドリルや問題集をやるようになります。
勉強の習慣をつけるということは大事ですが、学力をつけるための最も大事な土台は読書です。日本語を深く読み取る力があって初めて、国語、算数、英語などの勉強が生きてきます。そして、日本語を読み取る力は、国語の問題集よりも読書によって得られるのです。
しかし、読書が大事といっても、子供の持ち時間は限られています。学校の宿題と家庭の読書があって、両方ともやる時間が取れないときは、どうしたらいいのでしょうか。そういうときでも、迷わず読書を優先してください。読書だけは、何があっても、休みの日でも、毎日続ける必要があります。宿題をやる時間が取れないときというのは滅多にないと思いますが、そういうときはお母さんが代わりにやってあげてもいいぐらいです。
では、いつ、どういう形で、どういう本を読んだらいいのでしょうか。
読む時間に関しては、夜ご飯のあと、夜の勉強のあとなどが最適です。読書のあとに用事や勉強が入って読書を切り上げる必要が出てくる時間帯ではなく、その本が面白ければ心ゆくまでじっくり読める時間帯が読書の中心時間になります。また、朝ごはんのあと、学校に行くまでのちょっとした5分か10分の時間ができたときも、その時間で読書をすると決めておくとよいでしょう。
読む本の種類としては、子供が楽しく読める本というのが原則です。子供が自分から進んで読める本であることが第一です。大人から見ると、易しすぎるとか、内容が軽すぎるとか思われるような本が、子供にとってよい本である場合がしばしばあります。しかし、絵のスペースと字のスペースを比べた場合、絵のスペースの方が半分以上ある本は、遊びとして読む分には全くかまいませんが、「読書」とは呼ばないという原則を決めておくとよいと思います。
親が読んでほしいと思うような難しい本を、薬でも飲ませるように読ませると、かえって読書がはかどらないという結果になります。親が読んでほしいと思う本は、読み聞かせで読むようにします。よく、小学1年生になったことをきっかけに読み聞かせをやめてしまう家庭がありますが、読み聞かせは、子供が喜んで聞いているかぎり続けてあげた方がいいのです。
小学校1年生は、勉強でも生活でも、容易に習慣のつく時期です。これが、小学校3年生ぐらいになると、習慣がつけにくくなります。小学校5年生では、新しい習慣をつけることはかなり困難になります。
習慣をつける上で大事なことは、例外を作らないことです。例えば、食後のあとに読書をすると決めていた場合でも、お母さんがくたびれているときは、「はい、読書の時間ね」と子供に言うほどの気合いが入らないことがあります。そういうときでも、できれば理由を明確に述べて、少しの時間、形だけでもやらせるようにすることが大事です。
例えば、食後すぐに、近所のお祭りに行く予定で子供が楽しくてそわそわしている、また、お母さんは仕事でくたびれていて何もする気がしない、というようなときです。そのようなときは、「今日は、楽しいお祭りだから、読書をお休みにしようね」とか「今日は、5ページだけ本を読んで、読書をしたということにしようね」とか言っておけば、例外を作ったことになりません。よくないやり方は、「あとで必ずするのよ」です。「あとで」というのは、うやむやになるのでかえって例外を作る結果になります。そのときにやるか、やらないかのどちらかです。また、やらないと決めた場合でも、しぶしぶ「やらない」と決めるのではなく、前向きに明るく「やらない」と決めるようにしてください。
小学4年生で、ローマ字を習います。すると、パソコン入力ができるようになります。なぜ、かな入力ではなくローマ字入力がいいかというと、ローマ字入力のキー配列を覚えれば、日本語も英語も同じキー配列で打てるようになるからです。
パソコン入力をするときには、ホームポジションを覚える必要があります。「JKL+」のキーに、それぞれ右手の人差し指、中指、薬指、小指を置き、「FDSA」のキーに、それぞれ左手の人差し指、中指、薬指、小指を置きます。右手の人差し指で打つのは、「YUHJNM」の6個です。右手の中指で打つのは、「IK、」の3個です。右手の薬指は、「OL.」の3個です。右手の小指は、「P+・」の3個です。左手の人差し指は、「RTFGVB」の6個です。左手の中指は、「EDC」の3個です。左手の薬指は、「WSX」の3個です。左手の小指は、「QAZ」の3個です。親指はスペースキーを打って漢字の変換をするきに使います。手を崩して打ったり、人差し指だけで打ったりしないようにします。
ホームポジションを覚えておくと、ブランドタッチができます。ブラインドという言葉に抵抗があるということで、タッチタイピングと呼ぶ人もいます。ホームポジションを覚えると、よそ見をしがら、例えばテレビを見ながらでもパソコンを打つことができます。
最初に自己流の打ち方をしてしまい、ホームポジションとタッチタイピングを覚えていないという人はどうしたらいいでしょうか。右手が使えなくなったので、左手で文章を書くというぐらいの決心があれば、タッチタイピングができるようになります。私自身、最初に、かな入力で覚えていたものを途中でローマ字入力に直しました。その後、また全く別のローマ字入力配列を覚え、それが慣れたあと再びもとのローマ字入力に戻りました。入力の仕方を変えているときは、仕事の最中でしたが、まさに右手で書くのをやめて左手で書く、左手で書くのをやめて足で書くというぐらい、入力の能率が低下してストレスがたまりました(笑)。
普通のパソコンは20万円ぐらいすると思いますが、ネットブックは4万から5万です。パソコンで必須な機能は、インターネットができることと、テキスト入力ができることなので、ネットブックで十分です。テキスト入力をするために、言葉の森では、テラパッドというフリーのエディタを使っています。
子供にインターネットを使わせたくないという家庭は、KING JIMのポメラ(1万7千円)というデジタルメモと呼ばれるものも使えます。文庫本ぐらいのサイズですが、キーボードが広がるので入力しやすい機械です。
パソコンで入力するようになったら、マウスはなるべく使わずに、ショートカットキーを覚えた方が能率がよくなります。よく使うのは、下記のショートカットです。
○Alt(オルトキー)+F→S(上書き保存)
○Alt+E→A(すべて選択)
○Alt+T→W(文字数カウント)
○Alt+E→C(コピー。Ctr+Cでもできる)
○Alt+E→P(貼り付け。Ctr+Vでもできる)
特に、Alt+F→Sで、書いている途中、ときどき上書き保存をしておくことが大事です。
インターネットで原稿を送るときは、書いたものをいったん保存してから、その文書の画面をコピーして、インターネットのフォームの入力画面に貼り付けて送るようにします。入力画面に直接書き込むようにすると、間違ってESC(エスケープキー)を押したときなどに、書いたものがすべて消えてしまいます。
ホームページのフォームで移動するときも、できるだけマウスは使わずに、タブで移動するようにします。送信ボタンを押す場合も、マウスとクリックではなく、タブとエンターキーで押すようにすると能率がよくなります。エンターキーは、送信のボタンのところではなく、テキスト入力欄で押すこともできます。画面を戻るときも、マウスで戻るよりも、バックスペースキーを押して戻る方が楽です。
言葉の森の通学教室では、早い子は小学3年生から、普通の子は小学5年生からパソコン入力で作文を書いています。最初は、1時間でやっと100字か200字です。しかし、すぐに慣れてきます。
パソコンで書くことによって文章を書く能率は向上しますが、書くことの中には、書きながら考えるという要素もあります。この考える要素を取り上げたものが構成図です。構成図は、手書きで書きながら考えるために使います。パソコン入力をする場合は、構成図であらかじめ考えを深めておくことが大切です。
パソコンの入力の仕方は、将来どうなるでしょうか。筆記用具も、筆→万年筆→鉛筆→ボールペン→シャーペンと変化してきました。パソコン入力の仕方も、今のキーボード入力だけでなく、手書き文字認識や音声入力が発達してくると思います。書くことと考えることが一致するのが手書きの利点ですから、理想は、手書き認識の精度が上がり、くせ字や速記も認識できるようになることです。しかし、それは当分無理でしょう。そこで、今いちばん可能性があると考えているのが、書くことに特化した音声入力の書き方です。
言葉の森の通学の中学生以上は、音声入力をしています。考えることは構成図でたっぷり行い、書くことは音声入力ですばやく行います。私の感覚として、1200字程度の文章を書く場合の疲労度を考えると、パソコン入力は手書きの2分の1ぐらいで済みます。構成図+音声入力は、更にパソコンの直接入力の2分の1ぐらいです。テキスト化の部分を他の人に依頼するとなれば、更にその2分の1になるでしょう。しかし、単に入力のスピードアップを図るのではなく、入力の質そのものを変えてしまう方法もあります。それは、1200字の文章を書く代わりに、同じ内容を四行詩で書くことです。ただし、これは意見中心の文章の場合です。また、構成図+音声入力という方法は、慣れるまでは、パソコンに直接書くよりも時間がかかります。
さて、ここでSF的な話になりますが、将来、テレパシーによる通信ができるようになったら言葉はどうなるでしょうか。思いうかべた概念が伝わるのであれば、日本人と外国人が互いの国の言葉を知らなくても意思疎通できるようになります。しかし、問題は、テレパシーでは、ダジャレは通じないということです。ダジャレの面白さは、言語の不完全さに依拠しています。
例えば、「上ばきが飛んできた。うわー、バキッ」という文の擬音語の「バキッ」という表現は、文化として感じられる面白さです。文化というものは、身体に蓄積された歴史です。「バキッ」という擬音語で表される状態を何度か経験することによって、この言葉の実感が身につきます。決して、辞書的に身につけているわけではありません。実感があるから、「思わず」笑いが出るのであって、実感を伴わなければ、「笑うべきだ」ということはわかりますが、「思わず」笑うということにはなりません。
同じように、言語には不完全さがあるので、「真っ赤な白」「まぶしいほどの暗闇」「巨大な微生物」「猛スピードのナメクジ」などという矛盾した表現が成り立ちます。この不完全さによる矛盾という性質が、実は言語の持つ創造性であり、人間の持つ創造性の源なのです。