どうしたら上手な作文が書けるようになるかということを考える場合、その前提として考えておくことが二つあります。
第一は、上手か下手かということよりも、その作文が価値ある中身を持っているかどうかということが本当は重要だということです。野口英世の母の手紙は下手ですが、読む人を感動させます。
おまイの しせにわ(出世)には みなたまけました
わたくしもよろこんでをりまする
はるになるト みなほカイド(北海道)に いてしまいます
わたしも こころぼそくありまする
ドカはやくきてくだされ
はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
いしょ(一生)のたのみて ありまする
にしさむいてわ おかみ(拝み) ひかしさむいてわおかみ しております
きたさむいてわおかみおります みなみたむいてわおかんておりまする
はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ
これのへんち(返事)ちまちてをりまする ねてもねむられません
(明治45年(1912年)母シカが英世に宛てた手紙より抜粋)
「
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page018.html 」より引用
しかし、では、中身がよければ上手下手はどうでもよいのかといえば、そうではありません。人間は、自信が持てないものには表現を遠慮します。せっかくよい中身を持っていても、それを必要なときに表現するためには、ある程度の自信として「自分はそこそこに文章が書ける」というものが必要なのです。
第二に、では、文章の上手さと何なのでしょうか。実は、日本語の上手さは、英語や中国語などの他の言語と比べて要求されるレベルが高いのではないかと思います。それは、日本語という膠着語の特徴として、微妙なニュアンスが活用語尾の多様さの中にこめられているからです。この微妙なニュアンスの発展したものが顔文字だとも言えます。日本語の顔文字は、英語圏の顔文字よりもはるかに豊富です。
例えば、日本語の顔文字
(^_^) (´∀`)(*゚ー゚) (^○^) (*゚ー゚) (^-^) (・∀・) (^_-)-☆ (∈^▽゚)キラッ☆ (^-^) ( ^ω^)(*゚∀゚)アヒャヒャ (*_*) Σ(゚Д゚;) (゚o゚) キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! (;_;) (ノд`) (ToT) (´;ω;`) (T_T) (ノдT) (/_T) 。・゜・(つД`)・゜・。
(@_@) ( ゚∀。) ( . .) (´・ω・`) (・~・) マターリ(ノ´∀`*)マターリ (#゜皿゜) (#゚Д゚)ゴルァ!! ( #`Д´) m9(^Д^)プギャー!! (^_^; (;´Д`) ( ´ー`)y─┛ (,,゚Д゚)y─┛ m(_ _)m m(__)m ( ´,_ゝ`)プッ (゚c_、゚ )プッ ( ´_つ`) =^.^= (=^ェ^=) (=^. .^=) ミ^・.・^彡 u・ェ・u _l ̄l○、OTL, orz、or2
今度は、英語の顔文字
:-) :) =) :-( )-: :( :/ :| :-D :D :-P :P ;-) (-; ;) B-) 8-) :-O :o XD :/
「
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E6%96%87%E5%AD%97 」より引用
このニュアンスの微妙さは、またアニメの技術にも表れています。欧米のアニメは、表情がほとんど同じです。日本のアニメは、微妙な心の動きや情景を表現する技術を持っています。
よく日本語の語尾で、「である」「であろう」「であるまいか」「であると思われる」「であると言いたい」「でありはしないか」などの微妙な使い分けを見ると、欧米の人は、「どうして『である』と言い切らないのか」という疑問を持つようですが、これは、英語圏には、このような微妙なニュアンスを知覚する語感がないことから来る行き違いなのです。
このため、日本語は推敲にもかなり時間がかかります。「推敲」という言葉の語源である「梨花」を「一枝」にするか「数枝」にするかというレベルよりもはるかに細かい推敲が要求されるのです。
では、そういう文章の上手さは、どのようにして身につくのでしょうか。
第一は、幼児期の読み聞かせや語りかけです。これは、同じようなパターンが繰り返されることが重要で、母親のような同じ人が同じような本を読んだり話しかけたりしていくことが必要です。
第二は、したがって、幼児期の多様すぎるインプットは、かえって幼児の言語感覚の発達を阻害するのではないかということです。例えば、なぜ幼児にテレビを見続けさせるのがいけないかというと、そこで聞き取る言語のニュアンスが多様すぎるからです。同様に、ビデオやCDやDVDなどの教材も、使い方を十分に工夫する必要があります。いちばんよいのは、母親を中心に家族内の固定した少数の人間の言語感覚の中で、幼児期の言語環境を作っていくことです。
第三は、しかし、幼児期ですべてが決定するわけではありません。成長してから好きな本にめぐりあって、その文章を味読すると、そこでも言語感覚が身についていきます。
第四は、作文を書く機会を持つことです。作文を書く機会がないと、文章の中身と表現のギャップが自覚できないからです。
第五は、暗唱のように繰り返し読む教材で学習することが役に立ちます。同様に、暗写や毎日の10ページ読書なども効果があります。
作文の上手さは、作文以外の生活の中の言語環境から大きく影響を受けているのです。
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子供に勉強の意欲を持たせる方法には、賞罰、競争、ゲーム化、褒めることなどがあります。しかし、もう一つ見落とされがちなのは、叱ることです。
高い進学実績を上げている小さな塾の中には、塾の宿題をやってこないと厳しく叱るところがあります。そういう塾では必ず成績が上がりますが、厳しいので生徒はあまり増えません。
勉強で厳しく叱るというのは、スポーツで厳しく叱るのよりも難しいのです。賞罰は簡単ですが、叱るには、叱る側にそれなりのエネルギーが必要です。赤の他人を叱るというのは、子供に対してでも、なかなかできないものです。
そう考えると、勉強の基本はやはり、学校や塾ではなく厳しく叱ることのできる家庭にあると考えられます。
大学入試の勉強などでも、力をつける子は、予備校で真面目に授業を聴くだけの勉強の仕方ではなく、必ずその予備校の予習や復習を自宅でしっかりやっています。勉強の中心は、自分ひとりで取り組んでいるときの取り組み方です。
したがって、子供の勉強に親がコミットしていくというのはとても大事です。
よく成績が悪いと、「どこか、よい塾はないか」と考える人がいます。大事なことは、その前にまず親が子供の成績の点数だけではなく、成績の中身を見て分析することです。親が同じ問題を実際に解いてみて、子供の成績を把握することが大事なのです。
塾にすべて丸投げで任せてしまうと、塾で勉強していることに親がタッチできなくなります。そういう形では、肝心の叱る機会も見つけられません。
しかし、叱る勉強には弊害もあります。それは、叱ることが重なると、親もくたびれるし、子供もくたびれることです。また、叱られながら暗い生活をしていると、子供の頭脳の成長にもブレーキがかかります。
そこで大事なことは、叱ることと褒めることを入れ子構造にしておくことです。「だめじゃないか」と叱ったあとに、「本当はよくできると知っているからこそ叱ったんだよ」というふうに、叱ることを部分化するような褒めることを追加していくのです。そして、そのメッセージを確実に子供に伝えることが大事です。
夕方の勉強で叱ったあとでも、寝る前までには必ず笑って褒める、又は、叱ったことを修正するというような対応の仕方が必要になってきます。または、もう少し長期間で、試験前の1週間は叱り続けても、試験が終わったら(結果がどうであれ)褒めるというような入れ子構造にすることです。
スポーツの世界には、「練習で泣いて、試合で笑え」という言葉があります。親が家庭で勉強を見るときも、このスポーツチームのコーチのような目で見ていく必要があるのです。
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これからは、勉強の技術とともに、勉強の意欲を高める工夫も大事になってきます。やる気のない10時間よりも、やる気のある1時間の方が得るものが多いからです。そして、現代の豊かな社会は、昔のようなハングリー精神を動機とすることができないからです。
ただし、現代の子供たちは、賞罰や競争という直接的なもので意欲を強化されがちです。それは、既にどこでも行われているやり方ですが、やりすぎれば弊害を生み出します。例えば、百マス計算のような能率のよい学習方法についても、スピード競争にこだわりすぎれば、もともとの目的とは違う方向に進みます。
そこで、意欲というものの本質を考えることが大事になってきます。意欲の前提となるものは、意欲の支点としての自分の今いる位置を知り、そこからどのように進むことが可能かを知ることです。つまり、意欲の出発点は、「知ること」です。
ある目的に到達することが心から可能だと思えば、行動は自然に始まります。そのように自然に行動できないから、賞罰や競争で強化するという方法が生まれてくるのです。
重力は、質量に比例し距離の二乗に反比例します。1等が百万円で全国に1人という目標と、10メートル先に落ちている百円玉を拾うという目標と、どちらがすぐに行動に結びつくかを考えれば、到達できる可能性というものが大きな意味を持っていることがわかります。
しかし、距離を短くすることは、単純なスモールステップというのではありません。というのは、スモールステップという考え方には、魅力というものが欠けていることが多いからです。大きな魅力のある目的を得るための小さな方法というのが距離を短くするという意味です。
つまり、わくわくできる目的のために明確な方法があり、その方法を新たな目的とした更に細分化された方法があり、更にまたその方法のためのより具体的な方法があるというような、方法の媒介化によって、最後に実行可能な方法にまで到達するというのが、意欲化の仕組みです。この目的→方法……方法→実行という流れの中で、言葉の森の勉強をこれから作り上げていきたいと思っています。
では、それは、具体的にはどういう形になるでしょうか。
まず、作文を書くということが大きな魅力のある目標にならなければなりません。そのためには、単に定期的に清書を書いて投稿したり発表したりするだけでなく、その発表をよりビジュアルで感動的で芸術的なものにしていく必要があります。上手な作文を書くことがすばらしいことだと実感できるような作品発表会にしていくことが第一に重要なことです。
第二に、そのすばらしい作文を作るための方法を、毎日の暗唱や読書などの自習に結びつけることです。作文を発表するための場所や時間や外観という外的なものを、自習や読書の努力と結びつけるのです。
その自習や読書の努力も、ただ、毎日同じように褒めるのではなく、毎日の小さなシールが3回続いたら大きなシールになり、大きなシールが5回続いたらきらきら光るシールになり、きらきら光るシールが4回続いたら、作品発表の際の作文に豪華な額縁がつく(笑)というような仕組みにします。つまり、大きな目的のために小さな方法があり、その小さな方法のために更に小さな方法があり、その小さな方法の最後の形は実行可能な行動になるという流れです。
この意欲を高める方法を生かしながら、これからの言葉の森の勉強を作っていきたいと思っています。
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私は、付箋読書をするようになってから、読書がはかどるようになりました。
これまでは、読む本に線を引いて読んでいましたが、そういう読み方だと借りてきた本などは読めません。そこで、付箋を貼る読書の方法を考えました。
よく付箋を貼るのが面倒ではないかという人がいますが、線を引くよりもずっと簡単です。また、付箋を作るのが大変ではないかという人がいますが、先日試しに時間を計ってみたら、7分半で720枚の付箋が、のりとはさみで簡単にできました。これなら、購入した付箋と違って、いくら使ってももったいなくありません。
夜寝る前に、読みたい本を5冊ぐらい積んで、付箋読書で並行して読んでいきます。1冊の本について数十ページ読んで、読むのに少し飽きたら別の本に移ります。面白いところに縦に付箋を貼りながら読んでいくので、あとで再読するときに能率が上がります。付箋の貼ってある箇所だけを読んでいけば、十数分もあれば読み直しができるからです。また、読みかけのところには横に階段状に付箋を貼っておくので、どういう経過で読んだか外から一目でわかります。
本の中には、面白い本、つまらない本、難しい本、易しい本などがありますが、読書が進まなくなる原因は、難しい本で読むのが止まってしまうことと、面白い本でもずっと同じ本を読んでいると飽きるということにあります。付箋読書は、これらを解消します。
なぜ付箋読書で本をよく読むようになるかというと、本を読んだ経過が質の面と量の面の両方で外側からわかるからです。つまり、自分が読書をコントロールできる感覚があるので、自然に本を読むようになるのだと思います。
このコントロール感覚を、ほかの勉強にも生かすことができます。その話は、またいつか。
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「メガ・グループの崩壊」(長谷川慶太郎著)を読みました。書名から受ける印象とは違って、中身は長谷川氏の著書に共通する明るいシナリオで書かれています。
デフレ下では世界のインフラ整備が進み、日本の工作機械をはじめとする優れた技術が世界に輸出されるという未来像がこの著書の内容です。
世界では、今、自動車から鉄道へという流れが起き、ベトナムやブラジルの新幹線に見られるようにさまざまな巨大プロジェクトが計画されています。ここに日本の新幹線技術や将来のリニア鉄道技術を輸出すれば、巨大な需要が生まれると同時に、世界の平和と繁栄を更に加速させることになります。
しかし、私は、これは一過性の繁栄だとも思います(もちろん、長期的に見た場合ですが)。やがて巨大なプロジェクトは次々と完成し、大きなインフラ整備はなくなっていきます。また、インフラ整備の巨大プロジェクトは、これまでの自動車産業などとは違い、国内の産業に対する波及効果があまりありません。
すると、世界のインフラ整備の需要で生まれた巨大な生産力は、やがてその需要を軍需に向けるような可能性も持っているのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
過去の日本は、外需に依存して経済を発展させてきました。しかし、単なる消費財の輸出という外需には、もはや限界があります。
例えば、自動車や家電製品の生産は、急速に途上国に追い上げられています。
現在、生まれている巨大な消費市場は、中国が担っていますが、その市場の特徴は、日本やアメリカが昔経過した3C市場(カー、クーラー、カラーテレビ)です。しかも、この市場に向けての生産は、安い人件費の消耗戦になりつつあります。そのため、消費財の外需に勝つためには、海外に生産拠点を移さざるを得ず、それは国内の生産の空洞化を生み出します。
しかし、だから、内需の振興という単純な話にはなりません。
民主党政権が今行っている、高校無償化、子ども手当、高速道路無料化などは、過去の内需をもう一度復活させようとするものです。例えて言えば、ファミリーレストランの活況をもう一度現出させたいというような内需です。
そのような内需ではなく、新しい創造的で高度な内需が求められています。そして、それが未来の日本の輸出産業になるという外需にもなっていくのです。
その新しい内需の内容は、人間が、より健康で、知的で、美しく、豊かで、夢があって、楽しく生きるための商品開発です。
しかし、それは、従来の医薬品、塾や習い事、美容、レジャー、娯楽などの発想で担うものではありません。全く新しい技術を開発して、知的で創造的な内需の商品を生み出すことです。
現在、アメリカでは、iPadやkindleのような新しい内需を生み出す商品が開発されています。しかし、日本が生み出す内需は、それらとは少し違うものです。
例えば、江戸時代には、日本刀などの優れた工芸品、剣道などの武道、日本的な食事や衣料の文化、浮世絵などの美術品、茶道や華道などの道の文化が生まれました。これらは、消費財でありながら高度に創造的なものであったので、日本の武道が世界に普及しているように、現在でもひとつの輸出産業として成立する可能性を持っています。
今日では、日本のアニメ技術もそうです。それをアニメ産業のように自然発生的な発展に任せるのではなく、日本の国家戦略として開発していくことが新しい内需の振興なのです。
つまり、古い外需振興、内需振興から脱却して、新しい外需、新しい内需を創造することが、日本がこれから発展していく道です。
では、そのための国家戦略の重点は何なのでしょうか。
江戸時代に高度で創造的な文化が生まれたのは、江戸という人口の集積した都市で、平和と自由が保障されていたからです。
これを現代にあてはめると、平和とは治安をよくし、都会でも家にカギをかけずに安心して外出できるような状態を作り出すことです。自由とは、あらゆる規制を撤廃し、法律や管理を簡素化することです。
平和と自由によって真の豊かさを生み出すというのが、日本の未来の展望になるのです。
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人間の欲求は、いくつかの段階に分かれます。
まず第一は、物理的、生理的な欲求です。動物の場合は主に食べ物ですが、人間の場合はお金や物などの賞と言ってよいでしょう。
第二は、安全の欲求です。これは、人間の社会では罰を避ける欲求ということになるでしょう。
第三は、所属の欲求です。子供は最初、父親や母親という家族に所属する欲求を中心としていますが、やがて同年代の友人のグループに所属する欲求を持つようになっていきます。
第四は、承認の欲求で、これは競争に勝ち仲間から認められる欲求と言ってもよいでしょう。
そして、第五は、向上の欲求で、自分自身を成長させることに喜びを見出す欲求です。
小学校3、4年生までは、子供は親に所属しています。ですから、基本的には親の言うことをよく聞きます。ところが、小学校5年生ごろから、子供は同年代の友人のグループに所属するようになります。
また、小学校5年生から中学2年生ごろは、仲間内の承認の欲求として競争意識が芽生えてきます。ここで、親から自立するための反抗期などが現れてきます。
やがて、中学3年生ごろになると、向上の欲求が育つようになります。他人との競争は利用はするが、それ自体を目的とはしないという見方をするようになってきます。
ここで大事なことは、それぞれの段階を適度に経過していくことです。
例えば、子供が親に所属する小学校1、2年生の時期は、子供は親の言うことを聞くことに喜びを感じています。しかし、この時期に、親が過度に子供を従わせようとすると、子供は大きくなってから、親に反発するようになります。
また、子供が友人に所属する欲求を持つ小学校5年生以降の時期は、子供の生活は友達によって大きく左右されます。ルールを逸脱する友達に所属すれば、ルールを破ることが格好いいと思うようになります。孟母三遷は、この時期のことを言っているのでしょう。
承認のための競争の欲求が中心になる時期は、ちょうど小学校5年生から中学2年生の受験期に相当します。健全な競争は、子供の成長を促しますが、競争意欲を刺激しすぎると、競争を通してしか自分や他人を見ることができないようになります。
順調に実力をつけていった子供は、やがて中学3年生から向上の欲求を持つようになります。このころになると、勉強も、自分自身が成長するからうれしいという感覚を持つようになってきます。
子供の教育に実際に携わっていない人は、子供というものは、競争や報酬や強制で簡単に動くものだと考えがちです。しかし、子供も含めて人間は、それぞれの年齢に応じた欲求にしたがって初めて意欲的に動くものなのです。
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子供たちは、今の勉強が将来何かに役立つという実感をあまり持てずに勉強しています。そこで、進学することが勉強の当面の目的になりますが、自分の将来の自活したわくわくする人生が目的になって勉強しているわけではないので、意欲はなかなか持続しません。
意欲を持てない勉強においては、テストや競争によって刺激をするような教え方が中心になります。
競争で煽られてする勉強でも、その勉強の勝者にはそれなりの道が開けています。いい学校に入り、いい友達に恵まれれば、勉強を通しての友達との交流が一つの喜びになり、それが勉強することの面白さにつながっていきます。
しかし、この場合でも、その勉強の動機が、創造のための勉強ではなく、勝敗のための勉強になっているという弱点は残ります。
一方、悪い学校に入れば、もともと勉強に失望することの多かった子供は、勉強から脱線することが友達の話題の中心になります。敢えて勉強から遠ざかるようなスパイラルに陥るのです。
ここに、日本の教育の大きな危機があると思います。
この問題を解決する方法は、一つには、学力の低い生徒には、今よりももっと多くの先生がつく形で指導をするということです。生徒の集団的なエネルギーよりも、先生の集団的なエネルギーの方が強いという状態を作っていく必要があります。
もう一つには、学力の低い学校と高い学校の生徒間交流を行うことです。学力の高い低いに関わらず、今の若者の総体が未来の日本の社会を作っていくのだという自覚を持つためです。
その場合の中心になる授業は、共通の日本語力を土台にした発表と交流の勉強という意味で作文になると思います。自分なりに考えたり調べたりしたことを、文集という形で発表し合う勉強が、日本の教育を立て直す要になると思います。
教育とは、個々の子供を育てること以上に、未来の社会を作っていくことです。そのためには、今の大人が、教育システムを、競争原理とは異なる新しい原理で作り直していく必要があるのです。
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「やっぱりおまえはバカじゃない」(吉野敬介著 小学館文庫)を読みました。著者の吉野氏は、中学、高校と暴走族で、勉強とは縁のない生活をしていました。
そんな吉野氏が大学受験を決心したのが、受験の4ヶ月前で、当時の成績は、英語、国語、日本史の偏差値の合計が80、つまり1教科平均25ぐらいだったそうです。
しかし、その4ヶ月間、吉野氏は文字どおり朝から晩まで勉強し、英語の勉強は間に合わなかったものの、国語(現代文、古文、漢文)と日本史では、かなり力をつけ、直前の模試では国語は偏差値86以上という状態になりました。そして、国学院大学をはじめ、立教大、明治大、法政大とたてつづけに合格したのです。
この本を読んで、三つの点で考えるところがありました。
第一に、現代文の勉強は、やはり読むことに尽きるということです。吉野氏は、入試問題に出てくるような本や社説を読むことによって、現代文の力をつけました。読む力さえつけば、解き方のテクニックなどはすぐに身につくということです。
第二に、吉野氏の力の源泉が、4ヶ月のがんばりだけではなく、小学校時代までの読書にあったのではないかということです。吉野氏は、小学校時代は、本をよく読んでいたので、国語の成績だけは勉強をしないでもよかったと書いています。
勉強には、いざというときのがんばりが大事ですが、その土台となる知力を育てているものは読書です。もし、吉野氏に読書力がなく、ただ計算や漢字が得意なだけだったら、この短期間のがんばりはできなかったと思います。
第三は、現在の学校には、吉野氏のように、中学、高校と勉強をしていない生徒がかなりいるのではないかということです。これは、個人の問題ではなく、日本の国家の問題だと思います。
学校はそれなりにそういう子供たちの教育に力を入れていると思いますが、基本的には点数をつけて評価する機関です。塾や予備校も、良心的に指導をしていると思いますが、やはり基本的に点数をつける機関です。と考えると、これはやはり家庭の問題なのです。
家庭で勉強する習慣のある子とない子の差が、実は勉強力の決定的な差になっています。ですから、これからの勉強は、教室で先生が行うものではなく、家庭で親が責任を持って子供の自主学習を見守る、その方法を公的な機関がアドバイスをするようなものになっていくと思います。
全国学力テストで高得点をとった秋田県では、学校と家庭が子供の教育について連携しているという特徴があります。
これからの教育は、学校でも塾でもなく、また単純に家庭でもなく、家庭での学習を「新しい学校」が支えるというようなものになっていくと思います。
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