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  連休中の予定
  4.4週は清書
  国語の勉強法(その3)
  ネット作文コンクール(熱作)、作品募集中
  ネガティブシャワーによる心の壁を越える方法(スピカ/かも先生)
  将来の夢(ほたる/ほた先生)
 
言葉の森新聞 2005年4月4週号 通算第884号
文責 中根克明(森川林)

連休中の予定
 教室の休みは、課題フォルダに書いてあるとおりです。
 4月29日(金)30日(土)は休みです。
 5月2日(月)はあります。
 5月3日(火)4日(水)5日(木)は休み宿題です。先生からの電話はありません。
 5月1週の言葉の森新聞と山のたよりは、4月末に発送する予定です。
4.4週は清書
 毎月第4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙に清書してください。(一度清書したものは、清書しないように注意してください。また、ほかの人の作文を写して清書にすることのないようにしてください)

 清書は、次の月の4週の「山のたより」に掲載されます。
 清書の意義は、次のとおりです。
(1)これまでに書いた作品をよりよいものに仕上げること(小学生の場合は字数を増やす、表現を更に工夫するなど、中学生以上の場合は字数を短くまとめるなど)
(2)他の生徒の清書を読む機会を持つこと(自分の清書を他の生徒に読んでもらう機会を持つこと)
(3)新聞社に投稿する機会を作ること
 このほかに、(4)パソコンで入力する練習をする、(5)他の生徒の前月の清書に対して感想を書く、などに取り組むこともできます。
【注意事項】
◎清書は、黒いペンで書いてください。
(鉛筆だと薄すぎたり、濃すぎたりして、うまく読み取れない場合があります)
◎左上に、バーコードシールをはってください。
◎バーコードシールは、その月のものを、ページ順に、まっすぐにはってください。
◎絵や感想だけの用紙にも、バーコードシールをはってください。
◎1枚の用紙の裏表を同時に使わないでください。
◎独自の用紙を使う場合は、作文用紙と同じサイズにコピーを取り直してください。
(バーコードシールのないものや間違ってはられているものは、印刷日程の関係で翌々月のプリントになりますのでご了承ください)

 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するものがない場合もあります。そのときは、自由な題名で作文を書いて送ってください。
 清書は、2〜5人のグループ(広場のグループ)ごとにプリントして、翌月の4週に、「山のたより」と一緒にお渡しします。この清書は、インターネットの山のたよりでも見ることができます。
 用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。色はプリントには出ません。
 感想文を清書する場合は、最初の「三文抜き書き」や「要約」はカットするか、簡単な説明に変えておく方が作品としてまとまりがよくなります。
 中学生以上の人が清書を新聞社に送る際の字数の目安は、500字程度です。長すぎる場合は、新聞社の方でカットされて掲載されることがあります。字数を縮めるときは、いろいろなところを少しずつ縮めるのではなく、段落単位でまとめて削るようにしていきましょう。第一段落の要約と第三段落の社会実例は削除し、名言や書き出しの結びなどの表現の工夫も削除し、第二段落の体験実例と第四段落の意見だけでまとめるようにするといいと思います。
 清書は、ホームページから送ることもできます。作文をホームページから送るときと同じように送ってください。

 よく書けた清書は、自分で新聞などに投稿してください。二重投稿になる可能性があるので、教室の方からの投稿はしません。(港南台の通学生徒の場合は、教室から投稿します)
 手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を投稿用に、コピーを提出用にしてください。
 パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年
(3)自宅の住所
(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな
(6)学校所在地(町村名までで可)
●朝日小学生新聞の住所
104−8433 東京都中央区築地3−5−4 朝日小学生新聞 「ぼくとわたしの作品」係 御中
●毎日小学生新聞の住所
100−8051 東京都千代田区一ツ橋1−1 毎日小学生新聞 さくひん係 御中
国語の勉強法(その3)
 それでは、実際の国語の問題を見てみましょう。
 2004年のセンター試験国語1の評論文の最初の問題です。
 ――略――
 学問とは人が何かについて問い、(他の人から学ぶことを含みつつ)答えを得ようとする活動である。その答えは当然ながら当の何かについての知識の資格で求められ、知識からは、問うた人、それから答えるために考えたり観察したり実験をしてみたりした人の活動は消えさせられている。或る事柄についての知識とは、その事柄の在るがまま、すなわち人がそれを知ろうと知るまいと無関係にそれ自身として在るがままの発見の内容であり、従って、知識をもたらした人は、それを発見した、知ったという関わりの後では、知られた事柄だけを自分とは独立のものとして残して知識の中身からは消え去る、こういう建前がある。そうして、様々な学問の対象とは、それについて知識の獲得が目指される相手であり、知ろうとする人の向こう側に位置する何かである。ところが(A)哲学では事情が違う。
 何かについて問い、答えを得ようとする活動である点で、それは諸学問に通ずる。けれども、哲学では、問う人、答えを得る人が消去されることは決してない。なぜなら、哲学のイトナみにおいて人は必ずや己との関わりにおいて何かを問うからである。そして、それゆえにまた、哲学では、己とはその何かとだけでなく諸々の一切のものと関わって生きている存在である限りで、何かを中心に問いつつ一切を問題にするよう誘われる。対象が限定されないのである。
  ――略――

問2、傍線部(A)「哲学では事情が違う」とあるが、どのように違っているのか。その説明として最も適当なものを、次の1〜6のうちから一つ選べ。
1、一般に学問では対象についての知識を得ることが重要であるが、哲学の場合は、それだけでなく対象へのアプローチの仕方をも人々に説得できることが重要である。
2、一般に学問では知る側の活動を消去して対象についての知識を得ようとするが、哲学の場合は、自分とのかかわりにおいて問いを立てつつ、一切の対象を問題にする。
3、一般に学問では対象と自分とのかかわり方をより望ましい方向へ持っていくために知識が求められるが、哲学の場合は、自分とは独立したあるがままの知識が求められる。
4、一般に学問では特定の対象と自分とのかかわりを知るために考えたり観察したりするが、哲学の場合は、対象を限定せず自分とかかわる一切のものを知るために考えたり観察したりする。
5、一般に学問では知ろうとする人の向こう側に知られるべきものがあると考えるが、哲学の場合は、知ろうとする人が自分自身を知ることを目的として問いを立てる。

 問題文自体が悪文です。もっと易しく分かりやすく書ける内容を、このように分かりにくい言い回しで書いているので、国語の問題として取り上げられたということです。
 このような文章を問題として出さないと点数の差がつけられないというところに、現在の国語試験の末期的症状があります。
 さて、傍線(A)の「哲学では事情が違う」の内容は、このすぐあとの段落に書かれています。
 五つの選択肢のうち、どれを取っても、それ自体の内容としては間違っているとはっきり言えるものはありません。すべて、問題文との関連で正しいかどうかが決まるということです。
 実際の問題文は、ここに載せた文章の6、7倍あります。普通の高校生でこういう文章を読むと、大体最後の方には意識が朦朧(もうろう)としてきます。設問を見て、問題文を読み直す気力が失せた状態で選択問題を解くので、合っていそうなものに○をつけてしまうのです。
 設問を一つずつ見ていきましょう。
 1は、「哲学の場合、対象へのアプローチの仕方を説得できることが重要」などとどこにも書いていないので×です。
 2は、特に間違っているところはないので保留です。
 3は、「学問は自分とのかかわり方をより望ましい方向へ持っていくために知識を得る」などとどこにも書いていないので×です。むしろ、その反対のことが書かれています。
 4は、「学問は、自分とのかわわりを知るために考える」などとどこにも書いていないので×です。これも、その反対のことが書かれています。
 5は、「哲学は、自分自身を知ることを目的として問いを立てる」などとどこにも書いていないので×です。これは、この設問自体について言えば、合っているとも合っていないとも言えませんが、問題文との関連で当てはまらないということです。
 したがって、正解は、特に間違ったことを言っていない2ということになります。
 国語の選択問題はすべてこのような発想で解いていきます。ですから、難しいことは何もありません。ただし、大量の文章をこのように読みこなしていくためには、まず問題文自体をすらすらと読める力が必要です。そのためにも、問題文を繰り返し読む勉強法が有効なのです。
ネット作文コンクール(熱作)、作品募集中
 日本語作文小論文検定協会では、この4月15日〜5月31日、ホームページでネット作文コンクールを開催します。
 テーマは、父の日母の日にちなんで、「父」又は「母」、又は自由なテーマとします。
 ホームページ上で作文を送信していただき、森リンの点数と学年を勘案して、上位者10名に森リン大賞として図書券5000円をプレゼントします。
 1人何編でも応募できます。一度応募したものを再度修正して応募することもできます。
 朝小・毎小などの外部に発表したものでなければ、普段の作文を送っても結構です。
 言葉の森のみなさんは、ぜひ応募してください。
http://www.mori7.info/conc/
ネガティブシャワーによる心の壁を越える方法(スピカ/かも先生)
 みなさん、こんにちは。お元気ですか。
 さて、1月の学級新聞で「ネガティブシャワーによる心の壁」の話を紹介しました。具体的な例で、「心の壁」ができあがり、「自分はできない」と思い込み、能力はあるのにあきらめてしまう様子をお伝えしたところ、様々な反響をいただきました。保護者の方にはショッキングな内容だったかと思います。しかし、私は、もちろんみなさんにショックを与えたかったのではなく^^;、「心の壁」は、あくまでも心の中にできてしまっただけであって、実際にはそんな壁はないので、どんどん突き進んでいこうという最後に書いたことが言いたかったのですが、では、できてしまった壁をどうしたら越えられるのか、については、確かに不十分だったと思います。^^; 
 そこで今回は、その方法について考えてみたいと思います。
 まず、この前も書いたように、「自分はできない」と思い込んでいるわけですから、つまり「自分はできる」という成功体験を積み重ねていければいいのです。とはいうものの、「成功」を自分に強力に印象づけていくには……。
 ずばり、一番いいのは言葉の森の自習です。(笑)長文音読だけでもいいと思います。うちの小3の娘は音読だけです。(いいのか、言ってしまって^^;)小学校低学年までなら、まずこれが絶対おすすめです。勉強のよい習慣がつき、めきめき見える力がつき、見えない力もいつの間にかついています。子どもは語彙力を高め、理解力を深め、表現したい気持ちを、拙いながら、時には驚くような豊かな表現で言ったり書いたりするようになります。このような表現力や理解力を持つことによって、子どもは落ち着き、何にでも自信を持って取り組めるようになる、という良い循環ができるようです。
 が、問題はそれ以降の年齢の場合です。この方法は、勉強と言っても生活習慣に近いことなので、本当は小学校に上がる前くらいの方がより早く身につきます。字が読めるようになったらすぐ、が理想かもしれません。うちの子は小学校に入ってすぐに始め、2週間で「習慣」になりました。しかし、誰かに似てだらしのない娘は、整理整頓が苦手で、いちいち言わなければ片付けができません。これは、もうすぐ4年生の子に今から改めさせるのは大変難しく、親として、後悔、反省しています。
 だから、自習の習慣をつけずに中学年、高学年……になってしまった人が、今から「さあ、毎日音読をしましょう」というのが、いかに大変なことか、よくわかります。大変だけれど、でも、それは不可能ではありません。年をとるほど時間はかかりますが、習慣は必ず変えられます。この習慣は変えられる、というのを自分自身で納得するために、私は、害のない無意識の習慣を変える実験をしてみました。
 みなさんは、ズボンやスカートをはくとき、また靴下や靴を履くとき、どちらの足から先に入れますか? 右ですか? 左ですか? 大抵、どちらか決まった方からはいているのではないでしょうか。私は左でした。これを意識して右足からにしてみたのです。始めのうちは、うっかり左足から入れて、一人で「あっ、間違えた」などとつぶいやいて履きなおしたりしていましたが(笑)、いつの間にか、自然に右足から入れるようになりました。毎日何回もすることですが、1ヶ月以上はかかりました。でも、習慣になれば、その方が自然で気持ちがよくなります。
 良いことを習慣にするにも、同じくらいか、それ以上の時間がかかります。忍耐が必要です。でも、悪い習慣を良い習慣にすることは本当に大事なことです。そのためにも、「人間は習慣を変えられる」ことを知ることは必要なことだと思います。みなさんも、こんな実験から始めてみませんか? そして、見事習慣を変えることができたら、今度こそ自信を持って、本当に良い習慣をつけましょう。
将来の夢(ほたる/ほた先生)


「天職」は、ある

 春。進学などで、進路を考える季節ですね。みなさんは、何をするのが好きですか。大人になったら、何になりたいですか。

 思えば私は、「将来の夢」がない子供でした。「大きくなったら、何になりたいの?」と聞かれても、「わからない。」とかなんとか、適当に答えていたような気がします。勉強はどれもそこそこできましたが、どれが特別好きというわけでもありません。そのまま中学、高校と進み、なんとなく数学と理科ができるから、という理由で理系コースに進みました。理系ができる方が、文系より「すごーい。」とか言ってもらえたからかもしれません。
 そのままなんとなく大学に行って、「食いっぱぐれがないだろうから」なんとなく薬剤師の資格を取りましたが、どうもやっていることが楽しくありません。それでもなお「そんなもんかな」と就職もしましたが、25歳の時、とうとう、「これで本当にいいんだろうか。」と真剣に悩み始めました(遅いって)。
 この時ようやく、「私が好きな事って、何だろう。」と考えたのです。この時だけは、本当に真面目に考えました。考えて、考えて、25年分の人生をさかのぼっていったところ、小学校6年生のころの私にたどりつきました。「本を読んだり、文を書いたりするのが好きだったなあ。」「ノートにお話と絵を描いて、自分の絵本を作っていたっけ。」「そうだ、やっぱり、本に関係のある仕事をしたい。できれば、本を作ってみたい。」そして、四国の田舎から一念発起、東京の出版社の中途採用試験を受けに、飛行機で出掛けたのでした。
 それから東京で出版社に勤め、自分の作った本が本屋さんに並ぶのも見ました。嬉しかった。仕事は面白く、大変だと思ったことはありません。そして、今は断言できます。「天職は、ある」と。今も、その出版の仕事と、そしてこの作文講師の仕事が、私の天職だと思っています。

「好きなこと」は宝物

 「えー、歌手になりたいけど、なれないしー」「小説家になってみたいけど、私じゃ無理だと思う」。みんな、そんなふうに考えていないかな。でも、今はいいんです。「歌手になりたい」「小説家になりたい」と、言ってしまいましょう。「歌が好き」その気持ちを、いつまでも忘れないこと。それが大切です。歌手になれなくても、カラオケ教室の先生になら、なれるかもしれない。「本が好き」なら、図書館の司書(職員)や、本屋さんの店員さんにはなれるかもしれない。道は、一つではありません。そして、それは、「好きなこと」を追求する中で、少しずつ見えてくるもの。私だって、ほんの数年前までは、「作文の先生」なんて職業があることすら、知りませんでしたから。
 「求めよ、さらば与えられん」。聖書にもそうあります。必要なのは、ただ一つ、「情熱」だけです。どうか、今、小さい頃の純粋な、打算のない「好き」の気持ちを、大切にして下さいね。
 
 それから、どんなことにも、「遅すぎる」ということはありません。先日、ニュースで、80歳で外国人相手の観光案内のボランティアをしているお年寄りが紹介されていました。そのおじいさんは、なんと70歳から、英語を勉強し始めたそうです。それに比べれば、みなさんはまだまだ、何度でも失敗できますよね。ファイト!です。

 
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