言葉の森新聞
2005年6月1週号 通算第889号
文責 中根克明(森川林) |
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■6.1週に作文進級テスト |
6.1週に、作文進級テストを行います。課題フォルダの字数・構成・題材・表現・主題の●印が全部できていることが合格の条件になります。(表現の項目などで「たとえ」と「ダジャレ」など二つ以上の項目が指定されている場合はどちらかができていればその項目は◎です)。キーワードと字数が採点の基準ですので、指定された字数以上で必要な項目が全部入る作文を書いていってください。中学生以上の時間制限については、今回は採点の基準にしませんが、できるだけ時間内に書き上げる力をつけていきましょう。 手書きで作文を書く人は、項目ができたところにシールをはっておいてください。 パソコンで作文を書く人は、キーワードを入れておいてください。 パソコンで書く場合、仮送信はしないでください。最初に贈ったものがそのまま評価になります。 小学生の場合は、提出する前に、ご家族の方が字数と項目シールをチェックしてあげてくださるとよいと思います。 小学2年生までの生徒は、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。4月以降に受講を開始した生徒も、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。ただし、いずれの場合も、賞状は出ますので、できるだけ字数と項目ができるように書いていってください。 |
■速読を超えて(森川林/なね先生) |
今年の連休は、たっぷり仕事をしました。 休みになると、うれしくてたまりません。うれしいので、朝もすぐに目が覚めてしまいます。ほとんど子供です。 最初は、連休中に、ドラゴンスピーチという音声入力ソフトを使って、本を書く予定でした。 しかし、その前に、フラッシュという動画がPHPという言語で作ったプログラムから生成できるらしいとわかったので、まずそれに取り組みました。連休の前半三日間は、フラッシュをサーバーにインストールして、いろいろ試してみましたが、日本語の文字化けで大苦戦。日本語は文字コードが何種類もあるので大変です。しかも、その情報が全く不足しています。日本語でプログラムを作るとき、まずぶつかるのがこの文字コードの問題です。この文字コードのために、日本人は欧米人に比べて、コンピュータの勉強の導入部分で10倍ぐらい敷居が高くなります。文字コードの整理は、国家的プロジェクトとして取り組むべき問題です。 さて、何とかフラッシュを動かすことができたので、連休の後半三日間は、フラッシュでグラフを生成することにしました。ここで、いろいろ面倒な計算をしてまた時間がかかりました。 そうこうしているうちに、連休が終わってしまいました。音声入力による執筆はあきらめて(笑)、フラッシュを使って、もう一つ、速読のページを作ることにしました。 速読(スピードリーディング)の力は、学力と比例するということで、速読を授業に取り入れる学習塾や予備校が増えているそうです。 確かに、今の子供たちを見ていると、読書量がかなり少なくなっています。読む量を増やせば、考える力もそれにつれて向上するということは当然言えます。作文力も、読書力と比例しています。書く力を伸ばすためには、読む力をつけることが欠かせません。 ですから、速読というものは、読む量を増やす、情報収集の能率を上げる、右脳を活性化するなどの点では大きな効果があります。言葉の森でも、今後、作文の勉強の前に長文速読の時間を取るようにしていきたいと思っています。 しかし、同時に、速読は、読書のレベルで言えば、「中の上」ぐらいのものです。 その先の「上の下」は、読むものを読まないものを選択する力をつけることです。言葉の森の名言にも、「真の速読とは、不要なものは読まないことである」ありますが、速読力をつけることよりも大事なことは何を読むかを決めることです。 次の「上の中」は、難読力をつけることです。易しい本を速読で多読するよりも、少数の難しい本をじっくり読むことが大切です。この連休に、Rubyという言語を勉強しようと思い本を買いましたが、こういう新しいことを始めるときの読む速度はどうしても遅くなります。しかし、読みやすい本をいくらたくさん読んでも、読みにくい本を読むことで得られるものを肩代わりすることはできません。 更にその先の「上の上」は、天地の書を読むことだと思います。二宮尊徳の歌に、「声(おと)もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ」というものがあります。釈迦もキリストも聖徳太子も、それぞれ本を読んだでしょうが、現代のような豊かな読書環境には決して恵まれていませんでした。しかし、彼らが偉大な人間になったのは、書物以上に、天地の書物を読んでいたからでしょう。読書の真の目的は、読書を超えたところにあるのです。 |
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■「書く」ということ(いろは/いた先生) |
先日、新聞に学力テストについての記事がありました。なんでも計算力ではじゃっかんの得点アップが見られたが、記述問題や応用問題では低下が見られるとのこと。この記事を読んで「そうだろうな。」という感想をお持ちの方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか? 選択問題はとてもよくできるのに記述(きじゅつ)問題になるととたんに書けなくなる。そんな子どもが増えているように思います。 テストで10点という高得点が与えられている記述問題でさえ、解答しない子がいます。テストの採点方法は加点式、減点式さまざまですが、一つだけ言えることは「書かなければ0点」ということです。(ちなみにわたしは「書かなければゼロ点」というためだけに「芥川龍之介」を漢字で書く試験でどうしても「芥」がでてこないので、「茶川」と書いたことがあります。もちろんゼロ点です。 余談でした。) そんなことだれもが気づいているのに書けないのです。原因は「書くということに対する抵抗感(ていこうかん)」だと私は思います。きっと見えない壁があるのです。それを壊すためには「書く習慣を身につける」ことが必要です。 先生のお父さんは先生にいつも「お礼状」を書かせました。お中元、お歳暮、親戚からのちょっとした贈り物。いつも「ひろみ、お礼状書いた?」がついてきます。これではうれしさ半減でした。 (T_T) 簡単(かんたん)にお礼状といわれても「ありがとう」だけでは便箋(びんせん)はいっぱいになりません。当然近況報告(きんきょうほうこく)を入れなければならないわけで、ちょっとした作文になっていたのですね。でもこのお陰で「書く」ということに対する抵抗感は少なくなっていたように思います。 みなさんは言葉の森で毎週作文、感想文を書いています。「題名が決められない」と思ったって、「にた話が見つからない」となげいてみたって、提出しなければなりません。でもそのお陰で「書く」ということへの抵抗感はなくなっているのではないでしょうか? 学校で「今日は○○について書いてみましょう」といわれ、はたとみんなの手が止まるとき、一人わくわくしている自分がいませんか? 頭の中でどういうふうに作文を書いていくか構想(こうそう)を練(ね)っている自分もいるでしょう。 「書く」という作業は一日二日で慣(な)れるものではありません。毎週(まいしゅう)の積(つ)み重(かさ)ねが実力(じつりょく)へとつながっていくのです。きっとあなたたちが大きくなったとき、記述(きじゅつ)問題を見て「白紙」で出すということだけはないと思います。そんな日が来ることが今から楽しみにですね。(^-^) |
■メダカを飼ったことがありますか?(雨/ばば先生) |
みなさんはメダカを飼ったことがありますか? 私(ばば)はメダカが大好きで、いつか飼ってみたいと思っていました。メダカを飼っている人は多いし、学校の教室においてある水そうには、たくさんのメダカが泳いでいて、たくさんの卵をうみます。だからメダカを飼うのはかんたんだと思っていました。 去年の春、言葉の森の教室からメダカをいただいて、はじめてメダカを飼いました。お店でメダカ飼育セットのようなものを買って、家でセットし、そのなかにもらってきたメダカたちを入れました。水草もうかべて、エサもあげました。 ところが、次の日、一匹のメダカが水面に浮いていました。死んでいました。とてもかなしくて、驚きました。そしてその次の日、またメダカが死んでいました。とうとう全部のメダカが死んでしまいました。 飼い方はまちがっていないはずなのに。くやしくてかなしくて、インターネットでいろいろ調べてみました。そこで分かったのですが、メダカの飼育はとてもむずかしいということです。 それからまたお店でメダカを買ってきて、慎重に準備をして、飼ってみました。やはり何匹かは死んでしまいましたが、残ったメダカが夏に卵を産んでくれました! そして、卵の中から赤ちゃんメダカが出てきました。 それから秋がきて、寒い冬がきました。メダカがいる水そうは外においてあります。秋は台風で大雨がふり、水そうから水があふれ出していましたし、冬は水がこおったり、雪がつもったりしました、水草もかれてしまいました。 それでも時々水そうをのぞくと、アオモでドロドロになった水の中でメダカが泳いでいました。そして、春がすぎて、夏のような暑さのゴールデンウィークのある日、ドロドロの水が入った水そうをのぞいてみました。 こんなところで生きているはずないと思いながら、じっと見ていると、なんとメダカが泳いでいます! うれしくて、びっくりして、飛び上がってしまいました。 さっそくきれいな水にかえました。メダカは去年の夏と同じ、大人メダカ二匹と子供メダカ二匹がいます。暑さで夏だとかんちがいしたのか、さっそく卵も産みました。 一つ驚いたことがあります。メダカが不思議な行動をとるのです。人影を敏感に察知して、メダカは石や砂利にもぐって隠れてしまうのです。最初に飼ったメダカはそんなことはしませんでした。 私が放っておくうちに、メダカ野生にもどったのだと思いました。エサもあげず、水もかえず、放っておいたらメダカが強くなったのです。 自然はふしぎです。そう考えると、自然からずいぶん遠くはなれてしまっている私たちはなんて弱い存在なんだろうと考えてしまいました。 |
■焦らないこと(たいよう/なかひ先生) |
先日先生とうちのチビは近所のMuseum of Natural Historyに行きました。うちのチビは恐竜の骨や化石をみてもチンプンカンプンで(当り前?)、ちょっと期待外れだったのですが、先生本人が楽しんだので良しとしています。中でも面白かったのは宝石の原石コーナーです。金、ダイヤモンド、サファイア、ルビー、トパーズ、トルマリンなどお馴染み(といっても、もちろん全部もってるわけないんだけどネ)の宝石の原石はその大きさに驚いてしまいました。その大きな原石と小さな宝石を見比べながら、色々考え込んでしまいました。大きな原石を磨いて磨いて小さくしていって、最後に金銭価値がでるまで輝きを持たせるということもわかるんだけど、先生はなんとなく、原石でも十分にきれいじゃないと思ってしまったのね。光るモノを秘めているというだけで、無理やりに発光することを強いられていない原石には頑固さが感じられたのです。おしゃれなカットをされているプードル犬よりも、見た目不細工なパグ犬にも愛嬌があるような感じと同じかな。 人間にも当てはめることができそうですね。よく、子供は「宝石の原石だ」といいます。磨けば磨くほど能力を発揮するものだと。確かに、そのとおりです。でも、早くから研磨しすぎてしまって、とある能力しか秀でなかったらどうしよう?もしくは、自分の能力を信じて、頑固に“出し惜しみ”をしてしまったからといって、人生の“金銭価値”は下がるのかしら。違うと思うな。“光る”能力を信じて、自分から発光する時期や条件を虎視眈々と待ち受ける頑固さがあれば、大石蔵助があだ討ちができたように(変な例だなぁ)、ものすごい光を発することができるんじゃないかしら。焦らないこと、これも人生のある場面ある場面で忘れがちだけど、大事な能力なんだよね。宝石の原石を見ながら、ふと思いついたことでした。 |
■言葉の力(はちみつ/おと先生) |
ゴールデンウィークはみなさんそれぞれに家族と充実した休日をすごすことができたようですね。楽しい話をたくさん聞くことができました。旅行をして見聞を広めたり、いっしょに遊んだり、スポーツしたり、普段あまり時間が取れないお父さん、お母さんともゆっくりコミュニケーションをとることができたようですね。 私は家でブログというインターネットの日記、口コミサイトの作成などに挑戦しました。関心のある記事があるとコメントを書いたりして、インターネットで交流をするのですが、すぐに反応がある反面、慎重になります。そんな中、偶然人に薦められ、あるコピーライターの本を読みました。その中に「インターネットでも、感情をもっと伝え、人のココロを動かすのは、コトバなのである。」「コトバの力が、インターネットでも有効なのは、おそらく間違いない。」という文がありました。 ITの技術が飛躍的に進歩し、映像や音楽もネットですぐに配信という時代になっても、紙でなくディスプレイになっても言葉や文章で自分の考えや感動を表すということは変わらない、むしろ電子的なツールによってもっと盛んになっているような気がします。 そもそも人は文章を書く、自分を語るということ、知ってもらいたい、伝えたいということを欲しているのだと思います。作文は本来楽しい作業なのではないかと思うのです。ブログを毎日更新するのは大変です。しかし、毎日でも少しずつ書いていると、あまり負担無く書けるようになるみたいなのです。日記もひとことでも書き慣れていく方が続けやすい気がします。 みなさんに「読む、書く習慣を持ちましょう。」というような声がけをしながら、自分自身で実感した連休でした。 人のココロを動かす文章、言葉とはどんなものなんでしょうか。うまいなぁ、ひかれるなぁという文や言葉に出会ったとき、ただまねるのではなく、なぜひかれるのかを考えることで自分の言葉が生まれてくるのだそうです。そう思って世の中にあふれる言葉に触れると、心のどこかにひっかかる言葉や文が見つかりますよ。 |
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■「学びあうことにひたりきる世界」(きりこ/こに先生) |
昨年は、野球界にとって球界再編問題、史上初のストライキ、オリックス・近鉄の合併など暗い話題が多かったですね。史上初のプロ野球ストライキにまで突入した野球界は、今年、新しいことにどんどん挑戦しながら、前進しています。 今現在、セ・パ交流戦という新しい取り組みの真っ只中です。「戦う選手会長」といわれ、日本のプロ野球の為に悪戦苦闘(あくせんくとう)した古田選手は、先日、2000本安打を達成しました。 「悩む肉体改造男」といえば、清原和博選手ですが、500本塁打を達成しました。彼らの偉業をたたえ、相手チームのファンも選手もスタッフも総立ちで、賛辞の拍手をいつまでもいつまでも送っていました。 スポーツは、勝負の世界なのに、どうしてそういう気持ちになれるのでしょうか。勝敗の前に、「学びあう」という精神が存在しているからだと思います。「学びあうことにひたりきる世界」とは、国語教育研究家の大村はま先生が最期に残した言葉として有名です。これは、勉強やスポーツに限られたことではなく、わたしたちの毎日の生活すべてにいえることだと思います。昨日の自分より、今日の自分が好き。昨日の私より、少し成長した今日の私。そういう意識が必要ですし、人間には、生まれたときからそういう力がついているそうです。 以下に大村はま先生の詩をのせます。「優劣」を「勝敗」に置き換えれば、わかりやすくなるかもしれません。 優劣のかなたに 大村 はま 優か 劣か そんなことが 話題になる そんなすきまのない つきつめた 持てるものを 持たせられたものを 出し切り 生かし切っている そんな姿こそ 優か劣か 自分はいわゆるできる子なのか できない子なのか そんなことを 教師も子どもも しばし忘れている 思うすきまもなく 学びひたり 教えひたっている そんな世界を 見つめてきた 一心に 学びひたり 教えひたる それは 優劣のかなた ほんとうに 持っているものを生かし、 授かっているものに目覚め 打ち込んで学ぶ 優劣を論じあい 気にしあう世界ではない 優劣を忘れて 持っているものを出し切っている できるできないを 気にしすぎていて 持っているものが 出し切れていないのではないか 授かっているものが 生かし切れていないのではないか 成績をつけなければ 合格者をきめなければ それはそれだけの世界 それがのり越えられず 教師も子どもも 優劣のなかで あえいでいる 学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで |