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  8月29日(月)・30日(火)・31日(水)は休み
  8.4週は清書
  森リンの点数表示変更
  教育の力(2)
  「伝えたい気持ち」を大切に(たんぽぽ/たま先生)
  音楽は楽しい!(ひまわり/すぎ先生)
 
言葉の森新聞 2005年8月4週号 通算第900号
文責 中根克明(森川林)

8月29日(月)・30日(火)・31日(水)は休み
8月29日(月)・30日(火)・31日(水)は第5週でお休みです。先生からの電話はありません。
8.4週は清書
 毎月第4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙に清書してください。(一度清書したものは、清書しないように注意してください。また、ほかの人の作文を写して清書にすることのないようにしてください)

 清書は、次の月の4週の「山のたより」に掲載されます。
 清書の意義は、次のとおりです。
(1)これまでに書いた作品をよりよいものに仕上げること(小学生の場合は字数を増やす、表現を更に工夫するなど、中学生以上の場合は字数を短くまとめるなど)
(2)他の生徒の清書を読む機会を持つこと(自分の清書を他の生徒に読んでもらう機会を持つこと)
(3)新聞社に投稿する機会を作ること
 このほかに、(4)パソコンで入力する練習をする、(5)他の生徒の前月の清書に対して感想を書く、などに取り組むこともできます。
【注意事項】
◎清書は、黒いペンで書いてください。
(鉛筆だと薄すぎたり、濃すぎたりして、うまく読み取れない場合があります)
◎左上に、バーコードシールをはってください。
◎バーコードシールは、その月のものを、ページ順に、まっすぐにはってください。
◎絵や感想だけの用紙にも、バーコードシールをはってください。
◎1枚の用紙の裏表を同時に使わないでください。
◎独自の用紙を使う場合は、作文用紙と同じサイズにコピーを取り直してください。
(バーコードシールのないものや間違ってはられているものは、印刷日程の関係で翌々月のプリントになりますのでご了承ください)

 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するものがない場合もあります。そのときは、自由な題名で作文を書いて送ってください。
 清書は、2〜5人のグループ(広場のグループ)ごとにプリントして、翌月の4週に、「山のたより」と一緒にお渡しします。この清書は、インターネットの山のたよりでも見ることができます。
 用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。色はプリントには出ません。
 感想文を清書する場合は、最初の「三文抜き書き」や「要約」はカットするか、簡単な説明に変えておく方が作品としてまとまりがよくなります。
 中学生以上の人が清書を新聞社に送る際の字数の目安は、500字程度です。長すぎる場合は、新聞社の方でカットされて掲載されることがあります。字数を縮めるときは、いろいろなところを少しずつ縮めるのではなく、段落単位でまとめて削るようにしていきましょう。第一段落の要約と第三段落の社会実例は削除し、名言や書き出しの結びなどの表現の工夫も削除し、第二段落の体験実例と第四段落の意見だけでまとめるようにするといいと思います。
 清書は、ホームページから送ることもできます。作文をホームページから送るときと同じように送ってください。

 よく書けた清書は、自分で新聞などに投稿してください。二重投稿になる可能性があるので、教室の方からの投稿はしません。(港南台の通学生徒の場合は、教室から投稿します)
 手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を投稿用に、コピーを提出用にしてください。
 パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年
(3)自宅の住所
(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな
(6)学校所在地(町村名までで可)
●朝日小学生新聞の住所
104−8433 東京都中央区築地3−5−4 朝日小学生新聞 「ぼくとわたしの作品」係 御中
●毎日小学生新聞の住所
100−8051 東京都千代田区一ツ橋1−1 毎日小学生新聞 さくひん係 御中
森リンの点数表示変更
 森リンの点数表示を8月17日から新しくしました。
 変更点は下記のとおりです。
(1)文のリズムの計算の仕方を変えました。(これまでの文のリズムの点よりも精度が高くなりました)
(2)字数・強力語彙・重量語彙・素材語彙・文リズムの5つの変数をもとに総合点を計算しています。(ただし字数は1200字が上限)
(3)可能性の点数は、字数による影響を除いた点数としました。
(4)強力語彙・重量語彙・素材語彙・文リズムの各点数は50を平均としました(総合点の平均はこれまでと同じ70点平均)
(5)過強力・過重量・過素材・過字数・異文体による減点の幅を小さくし、減点なしの表示だけで済ます範囲を広げました。

 その結果、次のような影響が出ています。
 文のリズムは、高学年ではあまり差が出ないので、高学年の高得点の人の点数がならされて相対的に低くなりました。(最高でも98点ぐらいに)
 そのかわり、文のリズムは低学年では低くなりがちなので、低学年の低得点の生徒は更に低くなりました。(この変動に伴い、作文小論文検定の12級〜10級までの基準点の調整を行いました)

 今回の変更の重要な点は二つあります。
 一つは、文のリズムの点数の精度を高めたことです。これによって400字程度の短い文章の評価の相関も高くなりました。
 もう一つは、字数による影響のない点数を、可能性の点数として表示するようにしたことです。これによって、例えば600字の文章と1200字の文章を同じ基準で評価することができるようになりました。
教育の力(2)
 教育の大きな役割は、人類の破壊性の克服と創造性の開発にあります。
 創造とは、無から有を作り出すことです。
 もし人類がもっと完全であったら、つまり神のような存在に近かったら、創造性もまた枯渇していたでしょう。満ち足りた者には、創造への意欲もまた欠けているからです。神の定義を万物の創造主のように言う人がいますが、その創造は過去形です。確かに神は万物を創造したかもしれません。しかし、今、神様は昼寝をしています。(笑)なぜかというと、神様はもう完全になってしまったので、創造する気が起きないからです。
 人間は違います。まだどこもかしこも不完全なので、生きることと創造することが不可分なのです。
 人間の不完全さの典型は、科学と言語に見られます。人間は、内燃機関を発明し、揚力を計算し、工業技術を駆使してやっと飛行機を作りました。神はそんな発明など一つも必要とせず、最初から空を飛んでいます(見たことはありませんが)。人間が発明したエンジンは、排気ガスや騒音や事故をもたらします。神には最初からそんな心配はありません。どちらが完全でどちらが不完全かは一目瞭然です。しかし、どちらが創造的でしょうか。間違いなく不完全な人間の科学の方が創造的なのです。
 言語も同様です。人間は何万言もの言葉を費やし、しかも誤解し合って生きています。神は、一言の言葉も使わずに心と心を通い合わせて完璧なコミュニケーションを実現します(したことはありませんが)。どちらが完全でどちらが不完全かはすぐにわかります。しかし、これもどちらが創造的でしょうか。絶えず誤解を生み出しながら、絶えず新しい理解に達しようと試みる人間の方がはるかに創造的だと私は思います。
 よく人間が神のように愛に満ちた存在になることが未来の理想だと説く人がいます。それは一つの魅力的な選択肢です。しかし、人間が今の不完全さゆえの創造性を失うことと引き換えに愛に満ちた存在になるのだとしたら、そのような世界はあまり楽しいものではないでしょう。その愛は、一種の麻薬のようなものです。みんなが穏やかに惰眠をむさぼるような平和と愛が、人間の目指す未来だとは到底思えません。
 人間的な愛は、創造と両立するものです。だから、その愛には怒りも含まれています。しかし、その怒りを他人にぶつけるのではなく、世界の矛盾に向けて発揮するところが単なる動物的なの怒りとは違うところです。
 神の説く愛は、創造とは両立しません。多くの人が創造だと思っているものの本質は、実はカンニングです。もっと穏やかに言えば、既にあるあっちのものをこっちに移しただけの操作を、ほとんどの人は創造だと勘違いしています。だから、神の世界には矛盾もないかわりに進歩もありません(行ったことはありませんが)。
 人間的な創造を支える大きな手段が言語、特に文字言語です。文字言語のない社会に暮らしていたところの人間は今よりももっと善良でした。それは、文字言語を持たない民族の文化を見るとわかります。文字がないころの言語は、人間の実体と言語が深く結びついていたので、嘘ということ自体が不可能に近いものでした。例えば、悲しい顔をしながら「うれしい」と言うことが難しいのと同様です。嘘が可能になったのは、人間の実体と言語が分離される文字言語が登場してからです。紙に書いた「うれしい」という文字は、書いた人が悲しいときもその文字のまま残ります。これが嘘の始まりです。実体に反する概念が独自に存在を主張するようになったのです。
 Y=aX+bなどという数式も広義の言語です。数式を持たないころの人類は、例えば、「3分の2を2分の1で割る」というような簡単なこともできませんでした。「3分の2」や「2分の1」は常にリンゴやミカンなどの物と結びついており、「割る」は常に自分自身の動作と結びついていたからです。実体や動作から概念を分離させ、概念だけを操作するようにできて初めて数学が可能になったのです。しかし、数学の場合は、概念相互に論理的な結びつきがあるので、嘘を単独で発展させていくことはできませんでした。
 これに対して、文字言語はもっと自由でした。それは、どのように荒唐無稽な概念の操作も、少なくとも形の上だけでは自由にできました。実体から遊離した概念は、嘘が可能であるとともに創造も可能でした。フランス革命の当時、「人は生まれながらに平等である」という人権の概念は、ほとんど実体のないものでした。しかし、その実体を伴わない概念が、逆に実体を創造する力を持ったのです。嘘と創造は紙一重だったと言ってよいでしょう。創造を単なる嘘から分けたものは、そこに実行への努力が愛があったということです。
 私たちが文章を書く原点もそこにあります。私たちは、愛と実行に向かって文章を書くのです。それが言語による創造です。その実践はまだ始まっていません。私たちが未来の教育の最も大きな柱の一つとして、これから作っていくものなのです。
「伝えたい気持ち」を大切に(たんぽぽ/たま先生)
 4月に種をまいた「ミニトマト」が今、かわいい黄色の花を咲かせています。実をつけるのが楽しみです。(^^)

 先日、わが家にブラジルの男性が2名、遊びにきてくれました。私の中にあるブラジルのイメージといえば、「サッカー、サンバ、リオのカーニバル」ぐらいのもので、ブラジルの人はみんな陽気でダンスが大好きなんだろうと、勝手に思い込んでいました(笑)。しかしわが家のお客様は、お二人ともとても奥ゆかしく、紳士的な方でした。当たり前のことなのですが、やはり人それぞれなんですね。

 ブラジルで話される言語は「ポルトガル語」です。「英語は世界の共通語」などと言われますが、英語を話す人の割合はせいぜい全世界の25%程度で、英語が通じない人のほうが多いのです。(実際お二人には、英語はまったく通じませんでした。)
 私もお客様を迎えるまでに、少しでもポルトガル語ができるようになりたくて努力はしたものの、結局は会話ができるレベルには程遠く、お客様の方が日本語を話してくれました。(残念!!)
 日本に来られてまだ数ヶ月なので、通じない言葉もたくさんありましたが、さほど気にならず、一緒にゲームをしたり、折り紙をしたり、料理の手伝いをしてもらったりと、とても楽しい時間を過ごすことができました。

 帰り際に一人の方が、私に言ってくれた言葉です。
「ブラジル、ドウロ、ハバ、オオキイ、ニッポン、ドア、タナカサン」。

 文字だけ見ても、きっと何のことだかわからないでしょう? 当然です。でも、私にはよくわかりました。
 「ブラジルと日本は離れていて、遠いけれど、(彼の)うちのドアを開ければ、すぐタナカさんがいる。いつでも会えるんだよ」。
 
 彼はゼスチャーを交えながら、何度も何度も繰り返し言ってくれました。彼の知っている日本語すべてを使って、気持ちを伝えようとしてくれたのです。たった数時間を一緒に過ごしただけなのに、心が通い合ったことを感じ、本当に嬉しく思いました。

 言葉とは、気持ちを伝えるための道具であって、その道具がうまく使いこなせないことは問題ではない。気持ちを伝えるのに尻込みする必要などないのだ。自分の言葉で、思いのままを表現することが大切なんだ…と、そのとき強く感じました。そして彼の言葉はどんな流暢な日本語よりも、確かに私の心に届きました。

 うまく話そう、うまく書こうとすると、かえって何も出てこなくなるという経験はありませんか? 
 作文を書くときには、「いつ」「どこで」「何をした」という最低限の説明はもちろん必要ですが、いちばん大切なのは、自分が「何を感じたか」を伝えることです。
 自分の気持ちや、考え方、感じたことは自分にしか書けないのですから、少々文章がめちゃくちゃだなあと思っても気にせず、どんどん表に出しましょう!(笑) 上手・下手の問題ではないのです。みなさんの心の中にあるものは、どれもが『宝物』なのですから・・・。

音楽は楽しい!(ひまわり/すぎ先生)
 昔からずっとあこがれだったフルートを、六月から習い始めました。楽器も買ってしまったので、もうあとには引けません。(笑)まだまだ思うように音も出ませんが、いつかはあこがれの曲にちょうせんしたいと思っています。

 ところで、私が習い始めた教室は、『大人のための……』と題されているとおり、社会人になってから初めて楽器を手にする人がたくさんいます。先日、その発表会があり、習い始めたばかりの私は当然まだ出られませんでしたが、見学をさせてもらいました。
 大人になってから、わざわざお金と時間を使って練習にはげんでいる皆さんですから、それぞれ思い入れがあって、技術的にはまだまだでも、熱い思いで演奏されているのがよく伝わってきました。
 中でも印象に残ったのは、モーツァルトの『トルコ行進曲』をピアノで演奏したおばあさんでした。(おばあさんとお呼びするのは失礼かもしれませんが、70歳をとっくにこえた女性でしたので、分かりやすくイメージしていただくために。)順番が来て、紹介されたとき、直前に演奏が終わった方に、「あなた、私の前にこんな上手に演奏しちゃって。困るわよ。」と笑いをとっていました。なかなかジョークもさえていらっしゃいます。
 いざ演奏が始まりました。『タリラリラン♪ ……えっと、タリラリ…ラン♪』数小節ごとに止まっては、指を確認しながらまた続けています。とても音楽とは呼べないかもしれません。『タ、タ、タン。……タンタン…タン。♪』
 びっくりするぐらいたどたどしいおばあさんの演奏。どうなるのだろう……。会場の人たちのようすを見ると、手や足で拍子をとって、おばあさんを応援しています。今にも止まりそう……。しかし楽しそうなおばあさんの演奏を聞きながら、私は、なぜか涙が出るほど感動していました。この曲は、ピアノ好きな方ならたいてい弾いたことがあるほど、有名な曲。小学生でも、完璧に弾ける人はたくさんいるでしょう。そんな誰でも知っている曲を、発表会でたどたどしく演奏するなんて、今までの私には考えられませんでした。
 演奏を通して、おばあさんにたくさんのことを教えられたような気がします。一つは、「音楽は楽しいものだ」ということ。当たり前のようですが、いつの間にか完璧にできることがすべてだと思い、楽しさを忘れてしまうというのは、だれもがおちいりやすいことです。これは音楽以外にも言えることでしょう。
 もう一つは、「いくつになっても、新しいことを学べる」ということです。私の想像ですが、おばあさんは音楽が大好きなのに、今まで習う機会がなかったのではないでしょうか。その年齢になっても、あきらめず、「今から始めてみよう!」と思ったチャレンジ精神に、心から感服しました。年をとればとるほど、新しいことを始めるのは難しくなりますが、おばあさんは私にもたくさんの勇気をくださったような気がしました。
 音楽に限らず、学ぶことに遅すぎるということはありませんし、学ぶことは本来楽しいことなのですね。おばあさんの演奏から教わったこと心にとめて、フルートの練習にはげみたいと思います。まだまだまともな曲の演奏にはほど遠いレベルですが。(笑)
 
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